百詩篇第2巻64番


原文

Seicher1 de faim, de soif2 gent Geneuoise3
Espoir prochain viendra au defaillir,
Sur point4 tremblant sera loy5 Gebenoise6.
Classe7 au grand port8 ne se peult acuilir9.

異文

(1) Seicher : seicher 1627
(2) de faim, de soif : de faim, de foif 1589Rg, de faim, soif 1600, de faim 1611B
(3) Geneuoise : Geneboise 1644 1653 1665
(4) point : pont 1590Ro
(5) loy : Loy 1672
(6) Gebenoise : Geneuoise 1588-89 1611B 1981EB, Geneboise 1644 1650Ri 1653 1665
(7) Classe : Casse 1665
(8) port : Port 1672
(9) acuilir 1555 1630 Ma 1840 : acuillir 1557U 1568 1590Ro 1772Ri, acueillir 1557B 1589PV 1597 1605 1611A 1628 1649Xa 1650Ri, accueillir 1588-89 1600 1610 1611B 1644 1649Ca 1650Le 1653 1665 1668 1672 1716 1981EB, acuiller 1627

校訂

 ピエール・ブランダムールは3行目の tremblant を tremblante と校訂している。名詞の性との一致を考えれば、確かにその方が妥当である。
 4行目 acuilir をブランダムールは何の注記もせずに acueillir に直している。現代式には accueillir の方が正しいが、いずれにしてもこの修正も特に異論はないであろう。

日本語訳

ジュネーヴの人々は飢えと渇きで干からびるだろう。
近くの希望は消えてしまうだろう。
すぐさまゲベンナの宗教が震えるだろう。
艦隊は大きな港で受け入れられない。

訳について

 3行目 sur point は「即座に、すぐに」(immédiatement) を意味する成句*1
 Gebenoise はセヴェンヌのラテン語名ゲベンナ (Gebenna) をフランス語式に形容詞化したものと見なされている。この読み方は19世紀のアナトール・ル・ペルチエ以来、ピエール・ブランダムールリチャード・シーバースまで学識ある論者の間では立場を問わず定説化している。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「ジェノバは飢えとかわきで干あがり」*2は不適切。genevois(e) は「ジュネーヴの」であり、「ジェノヴァの」を意味するのは génois(e) である。ただ、ジャン=ポール・クレベールによると、フロワサールの年代記をはじめ、中世から16世紀ごろにはこの2つの単語に混同が見られたらしいので、それ自体は単純に誤りとは言い切れない。
 しかしながら、大乗訳ではヘンリー・C・ロバーツの解釈文中でも「ジェノバ」と出ているので (原書では Geneva)、この場合は単なる誤りであろうと思われる。
 2行目「かれらが気絶するときに希望は近づき」は誤訳であるロバーツの英訳を転訳したことによって、かなり本来の意味合いから遠ざかっている。この場合、近づいた希望が駄目になる意味であろうということは、ピエール・ブランダムール高田勇伊藤進ピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースらが一致している。
 3行目「憎むべき法が動揺する地点にあらわれ」も誤訳。sur point や Gebenoise の訳し方は上で説明した通り。
 4行目「隊は港に近よれなくなるだろう」は、港に付いている grand が訳に反映されていない。

 山根訳については、ほぼ問題はない。もっとも、3行目 「セベーナの法はまさに崩壊寸前にいたり」*3で、セベーナがセヴェンヌの古称であると注記されているが、セヴェンヌの古称はケベンナ (Cebenna) およびゲベンナ (Gebenna) である。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは、ラテン語で Gebennna はジュネーヴのことを指し、ゆえに詩の全体がジュネーヴに関わるものであるとコメントした*4。しかし、実際にはジュネーヴのラテン語名はゲネウァ (Geneva) もしくはゲナウァ (Genava) であり、ゲベンナではない。

 その後、20世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードの著書には載っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)アンドレ・ラモンは、1930年代の国際連盟の苦境と解釈していた*5

 エリカ・チータムはルイ14世によるナントの勅令廃止(1685年)を受けて、セヴェンヌ地方のプロテスタントたちが蜂起したことと解釈した*6。もっとも、この解釈はエドガー・レオニが一案として示していた解釈の盗用である。レオニの解釈の盗用はジョン・ホーグもやっていた*7。なお、チータムの著書の日本語版でセヴェンヌがスイスの地方名とされているのは明らかに誤り。
 ナントの勅令廃止とする解釈はセルジュ・ユタンも展開していた。彼の場合は氾濫よりも、フランスから大量のプロテスタント系亡命者が出たことに力点を置いていた。

同時代的な視点

 エドガー・レオニは、セヴェンヌの宗教をプロテスタントと理解し、カルヴァン自身はセヴェンヌ出身ではなかったが、カルヴァン派の重鎮であるテオドール・ド・ベーズがセヴェンヌ地方ヴェズレーの出身であったことや、そのベーズは匿名のノストラダムス批判作品の作者とする説があることなどを指摘していた*8
 もっとも、ベーズと結びつける説については高田勇伊藤進は強弁としていた。

 ピエール・ブランダムールは、セヴェンヌの宗教について、カタリ派、アルビジョワ派、16世紀当時のセヴェンヌに見られた宗教改革に好意的な動きの3つの可能性を挙げていた*9

 ピーター・ラメジャラーはノストラダムスがカトリックの立場から、スイスやフランス南東部の宗教改革派が破綻するという見通しを述べたものとした。4行目については、プロテスタントであった英国が、ボルドーないしラ・ロッシェルに艦隊を派遣し、プロテスタント勢力の支援に当たろうとする見通しと理解した*10


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最終更新:2014年09月08日 21:40

*1 Brind'Amour [1996]

*2 大乗 [1975] p.87。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 山根 [1988] p.100。以下、この詩の引用は同じページから。

*4 Garencieres [1672]

*5 Fontbrune (1938)[1939] p.157, Lamont [1943] p.150

*6 Cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]

*7 Hogue (1997)[1999]

*8 Leoni [1961]

*9 Brind'Amour [1996], 高田・伊藤 [1999]

*10 Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]