原文
Sous vn la paix par tout sera
1 clamée
2,
Mais
3 non
4 long temps
5 pille6 & rebellion,
Par
7 refus ville
8, terre
9, & mer
10 entamée
11,
Morts
12 & captifz
13 le tiers
14 d'un milion
15.
異文
(1) par tout sera : par tourt sera 1557B, par tour sera 1597Br, sera par tout 1656ECLa
(2) clamée : clameé 1555A, clemence 1649Xa 1672Ga, calmée 1650Le 1668
(3) Mais : Mains 1606PR 1716PR
(4) non : mon 1557B
(5) long temps : lon temps 1627Di 1627Ma, longtemps 1665Ba, long-temps 1667Wi 1716PRb
(6) pille : pillé 1557U 1557B 1568 1590Ro 1591BR 1597Br 1606PR 1607PR 1610Po 1716PR 1772Ri
(7) Par : par 1649Xa
(8) ville : Ville 1672Ga
(9) terre : Terre 1672Ga
(10) mer : Mer 1672Ga
(11) entamée : entamé 1656ECLb, entamnée 1716PRb
(12) Morts : Mort 1605sn 1611A 1611B 1628dR 1649Xa 1653AB 1665Ba 1981EB
(13) captifs : Captifs 1656ECLb
(14) tiers : liers 1672Ga
(15) milion : Million 1672Ga
(注記1)1611Abは該当ページが脱漏しているので、上の1611Aには含まない。なお、1611Aaと1611Acは4行目 Mort & の tと&の辺りに妙な印刷の歪みがある。
(注記2)1656ECL では2箇所に登場しているが、若干異なっている。p.141の異文を1656ECLa、p.384の異文を1656ECLbとして示している。
日本語訳
一人の下で平和が全土に宣言されるだろう。
しかし、長続きせず、掠奪と叛乱が。
拒絶によって都市は海と陸から襲われる。
死者と捕虜は百万人の三分の一。
訳について
3行目については都市、海、陸が並列的になっているが、
ピエール・ブランダムールの釈義を参考に言葉を補った。海と陸を経路と見なす読み方は、
リチャード・シーバースや
ジャン=ポール・クレベールも採用している。 entaméeの性・数からすれば、原則的にはその読み方の方が適切である (ただし、都市、海、陸の三者を受けている場合であっても、そうした変則的な活用がありえたことは仏文学者らも認めているため、絶対にありえないというわけではない)。
既存の訳についてコメントしておく。
大乗訳について。
1行目 「平和はすべて寛容のもとになりたつ」は、clamee (現代語の proclamée に同じ) が clemence になっている底本に従ったことを差し引いても、par tout (現代語の partout に同じ。「至る所で、あちこちで」) が適切に訳されていないなど、問題が多い。
2行目 「だが少しのあいだ 略奪と陰謀があるだろう」の前半、確かにそう訳せなくもない。しかし、普通は1行目の否定として(平和の期間が)長くない、と理解するのが普通であり、ブランダムール、ラメジャラー、クレベール、シーバースはいずれもそう読んでいる。
3行目 「町 陸 海は拒否することによって襲撃され」は可能な訳。
山根訳は3行目 「拒んだゆえに町も陸も海も傷つけられよう」が上述のように可能であることも含め、特に問題はない。
信奉者側の見解
ジャン=エメ・ド・シャヴィニーは、1559年のカトー=カンブレジ条約によってフランスとスペインの間に平和が打ち立てられたものの、1562年からフランスはユグノー戦争を経験することになったことと解釈した。
1656年の解釈書も同様の解釈を展開した。
1691年ルーアン版『予言集』に掲載された「当代の一知識人」の解釈では、同時代のフランス王ルイ14世が打ち立てた平和が短期間で、数々の戦いで30万人に及ぶ死者・捕虜が出たことと解釈した。
マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)はナポレオン3世の治世と解釈した。ナポレオン3世は「帝政、それは平和である」とあまねく宣言したが、クリミア戦争、メキシコ遠征など、むしろ対外戦争を繰り返し、その終焉である普仏戦争においてはスダンで12万4千人、
メスで17万9千人の計30万3千人の捕虜を生み出した。この敗戦によってパリで蜂起が起きて帝政は崩壊したが、パリは領土割譲を渋って抗戦を選択した。しかし、結局は更なる犠牲の上で領土割譲を飲まざるを得なかったのである。
この解釈は
ロルフ・ボズウェル、
エリカ・チータムが踏襲した。チータムはブリタニカ百科事典に普仏戦争の死傷者約30万とあることを引き合いに出している。
ヘンリー・C・ロバーツは日本軍による真珠湾攻撃によって、アメリカが第二次世界大戦に参戦し、35万人の死傷者を出したことと解釈した。
ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌは1980年の時点では、1980年代に起こると想定していた第三次世界大戦の前触れに位置づけていたが、晩年に当たる2006年の著書では一切触れなかった。
藤島啓章は1990年代に起こる第三次世界大戦を終わらせる英雄が、独裁者となって恐怖政治を敷くことになる予言と解釈していた。
加治木義博は1991年の時点では湾岸戦争の予言としていたが、1993年になると 「すぐ近く」 に迫っている世界の激変の予言という、かなり曖昧な解釈になった。
同時代的な視点
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最終更新:2018年11月04日 22:24