百詩篇第3巻65番


原文

Quand le sepulcre1 du grand Romain trouué2,
Le iour apres sera esleu pontife3,
Du senat4 gueres5 il ne sera prouué6
Empoisonné7 son sang au sacré8 scyphe9.

異文

(1) sepulcre : Sepulchre 1672
(2) trouué : troué 1557B, treuué 1627
(3) pontife 1555 1557U 1557B 1589PV 1627 1649Ca 1650Le 1650Ri 1668 1840 : Pontife T.A.Eds.
(4) senat 1555 1557U 1557B 1589PV 1627 1649Ca 1650Le 1650Ri 1668 1840 : Senat T.A.Eds.
(5) gueres : guieres 1557U 1557B 1589PV, guerres 1588Rf 1650Le 1668 1716, guiere 1627 , guerre 1644 1650Ri 1653 1665
(6) prouué : treuué 1627, preuué 1668P
(7) Empoisonné : Empoissonné 1627, Emprisonné 1649Ca 1650Le 1668, Empoisonne 1840
(8) sacré : saeré 1611B, Sacre 1672
(9) scyphe : Scyphe 1588-89 1672

(注記)1630Maは比較できず

日本語訳

偉大なローマ人の墳墓が発見される時、
その次の日に教皇が選ばれるだろう。
彼は元老院からはほとんど賛同されないだろう。
聖杯で彼の血は毒される。

訳について

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「ローマ人の墓がみつかったとき」*1は、grand が訳に反映されていない。
 2行目 「つぎの日に教皇がえらばれたあと」は、 le jour apres の部分が「次の日」を意味するので、「~あと」というのは重出だろう。
 3行目 「元老院から彼は認められないだろう」は gueres (ほとんど~ない) が訳に反映されていない。

 山根訳について。
 3行目 「彼は元老院に承認されないだろう」*2には、上の大乗訳と同じ問題点がある。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは、そのまま古代ローマの著名人の墓所の発見と、ローマ教皇の選出・毒殺の予言とした*3
 その後、20世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードの著書には載っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)は、未来に現れる偉大な教皇の先祖の墓が発見されることと、その翌日に選出される教皇の受難を描いたものとした*4。未来の教皇の受難とする点はロルフ・ボズウェルも同じである*5

 エリカ・チータムは選出されて間もなく急逝したヨハネ・パウロ1世と、彼を継いだヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件と解釈した*6

 セルジュ・ユタンは1978年には漠然とした解釈しか展開していなかったが、その年にヨハネ・パウロ1世が急逝すると、1981年版では、彼のことではないかとする解釈を追記した*7

同時代的な視点

 エヴリット・ブライラーピエール・ブランダムールは、教皇マルケルス2世 (在位1555年4月10日 - 30日) の短い在位を想起させることを指摘した*8。マルケルスは人間的にも立派な人物とされ、教会改革にも意欲的だったために、当時の人々は毒殺の可能性を疑ったのである*9
 ただし、ブライラー、ブランダムール、そしてその見解を踏襲した高田勇伊藤進らが認めるように、この詩が『予言集』初版 (1555年5月4日) に収録されていたことからすれば、実際にマルケルスがモデルであったと考えるのは難しい。

 信奉者的には、ノストラダムスがマルケルスの急死を予見していたということになりかねないが、そのように決め付けるわけにもいかない。ブランダムールは、16世紀初頭からでも、政敵暗殺用の毒を誤飲して死んだという噂が付きまとったアレクサンデル6世 (在位1492年 - 1503年)、その跡を継いだものの急死したピウス3世 (在位1503年9月22日 - 10月18日)、3人の枢機卿から毒を盛られそうになったレオ10世 (在位1513年 - 1521年) など、急死や毒の噂と結びついた教皇を複数挙げた。
 高田・伊藤も、マルケルスの一件とのある程度の符合は、「いつでも十分にありうる」「幸運な一致」としていた*10

 ロジェ・プレヴォは、バンディーニの 『カエサル・アウグストゥスのオベリスクについて』(Dell'obelisco di Cesare Augusto, 1549年) に、1521年のこととして、当時発見されたオベリスクの碑文にカエサル・アウグストゥスと結び付けられるものがあったという話が出ていることを元に、その年に没したレオ10世をモデルと見なした。ブランダムールが指摘した毒殺未遂だけでなく、レオ10世はその死に際しても毒のせいで聖杯に吐血したという噂が出ていたという。また、その聖杯はコンクラーヴェの際に票を集めるのに使ったものであり、彼は著名人たちからは不人気であったという*11
 この読み方はピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースらが踏襲した。

 プレヴォは詳しい読みを披露していないため、特に2行目との対応関係がやや不明瞭である (2行目の教皇と後半の「彼」が同一なのだとしたら、1521年に選出されたわけではないレオ10世に当てはまらない)。
 むしろ豪奢な生活で散財しまくったレオ10世の後を継ぎ、財政再建のために緊縮策を採ったことでローマ市民から嫌われ、1年半ほどで病没した際には市民から大歓迎されたというハドリアヌス6世(在位1522年1月9日 - 1523年9月14日)*12 にも一定程度当てはまるように思われる。

 ジャン=ポール・クレベールはウィクトル3世 (在位1086年 - 1087年) を類例の一つとして挙げている。ウィクトルはかなり古い時期の教皇だが、ノストラダムスと同時代のピエール・ボエスチュオーの著書 『驚倒すべき歴史』 では、次のように紹介されている。

「ウィクトル3世は高齢ではなく毒によって死んだ。その毒は、彼がミサを祝している間に聖杯に仕込まれたものであった」*13

 いずれにしても「翌日」が字義通りに史実と対応するかは不鮮明であり、むしろ複数の歴史的事件を題材にアレンジを加え、高田・伊藤が指摘したように、当時としては十分に起こりうる状況を描いたに過ぎないのかもしれない。


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