百詩篇第5巻75番


原文

Montera hault sur le bien plus à dextre,
Demourra 1 assis sur la pierre quarree 2 :
Vers le midy 3 posé 4 à la 5 senestre 6 ,
Baston tortu 7 en main, bouche serree 8 .

異文

(1) Demourra : Demeurera 1590Ro 1627 1630Ma 1644 1653, Demourera 1597 1610 1611B 1650Ri 1650Le 1665 1668 1716
(2) quarree : carrée 1650Le 1668 1672, carree 1649Ca
(3) midy : Midy 1605 1611 1628 1644 1649Xa 1653 1665
(4) posé : pose 1588-89
(5) la : sa 1600 1610 1630Ma 1644 1649Ca 1650Le 1665 1668 1716 1840
(6) senestre : fenestre 1588-89 1611 1649Ca 1665
(7) tortu : tourtu 1627 1630Ma 1716
(8) serree : ferree 1588-89

校訂

 1行目の bien (善、財) は lieu (場所) の誤植と見なされている。ジョルジュ・デュメジルが提案し、ロジェ・プレヴォブリューノ・プテ=ジラールジャン=ポール・クレベールリチャード・シーバースらも踏襲している。

日本語訳

その場所で、より右に向かって高く登るだろう。
方形の石に座ったままでいるだろう。
南面し、左に置かれる。
手には曲がった杖、口は閉じられる。

訳について

 1行目は bien を lieu と見なす校訂に従って訳している。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「山高く よきものがより高く」 *1 は誤訳。le bien を採用して訳すにしても、dextre (右側、右手) が(2つ目の)「高く」と訳されている根拠が不明 (元になったはずのヘンリー・C・ロバーツの英訳では、the right となっている)。
 3行目 「南に向けて左手を置き」は誤訳。ロバーツは仏語原文のつづり字記号をすべて省いて印刷しているために分かりづらいが、posé は受動態である。

 山根訳について。
 1行目 「彼はみずからの富よりも高く 右手を越えて昇るだろう」 *2 は、le bien を採用した訳としては許容範囲内と思われる。
 3行目 「南の方 窓際に位置し」は、senestre (左側、左手) が fenestre (窓) となっている異文を採用すれば成立する訳だが、文脈上の適切性は疑問。

信奉者側の見解

 19世紀末まででこの詩にコメントを付けたのは、テオフィル・ド・ガランシエール(1672年) とアナトール・ル・ペルチエ(1867年) のみのようである。
 もっとも、ガランシエールのコメントは、「この詩について私が無知であると認める」 という一言だけである *3
 ル・ペルチエは前後の詩篇とあわせ、将来現れる偉大な教皇に関する詩と解釈していた *4 。偉大な教皇の予言とする解釈は、マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)も採っていた *5

 ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)はフランス革命期の国民公会に関する詩篇とした *6
 エリカ・チータム(1973年)は、4行目の杖を司教が持つものとする以外には目ぼしいコメントをしなかったが、その日本語版では、国民公会ではないかとする (おそらく日本語版監修者らによる) 解釈が追加された *7

 セルジュ・ユタン(1978年)は、未来に現れる大君主の予言としていた *8

 ネッド・ハリー(1999年)は、のちにフランスで権力を掌握するリシュリューが、1607年に司教になったことと解釈した *9

同時代的な視点

 ジョルジュ・デュメジルがティトゥス・リウィウスの 『ローマ建国史』 との類似性を指摘し、ピエール・ブランダムールジャン=ポール・クレベールも同じ見解を採った *10百詩篇第5巻6番とこの詩は、ヌマ・ポンピリウスの話がモデルになっているとされる。

「ヌマは招かれると、ロームルスが市〔ウルプス〕建設の際、鳥占いに基づいて王権を得たと同様、自分自身についても神がみに諮ることを命じた。そして、後に名誉のため共同体の終身祭司職にされた鳥占い役の先導で砦〔アルクス〕へ登り、南面して岩に坐った。
 彼の左側に、頭を覆い隠した鳥占い役が、節のない曲がった杖、人びとのいうリトゥウスを右手に携え、座を占めた。次いで、市〔ウルプス〕と領域を見はるかし、神がみに祈りを捧げ、東から西まで方位を定め、「南の方〔かた〕は右、北の方〔かた〕は左」と唱えた。」(鈴木一州・訳) *11

 ロジェ・プレヴォはむしろ同時代にモデルを求め、1536年に神聖ローマ皇帝カール5世がローマで挙行した入市式の描写とした。この入市式は1520年のアーヘン、1529年のボローニャでそれぞれ行われた戴冠式の再演といえるもので、それらにはヌマ・ポンピリウスを含む古代の伝説的王者の模倣が含まれていたのである *12



【画像】 鈴木一州訳 『ローマ建国史(上)』


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