詩百篇第9巻76番


原文

Auec le noir Rapax1 & sanguinaire2,
Yssu du peaultre3 de l'inhumain Neron,
Emmy deux fleuues4 main gauche militaire5,
Sera murtry6 par Ioyne7 chaulueron8.

異文

(1) Rapax : rapax 1653AB 1665Ba 1720To
(2) sanguinaire : sanguina ire 1568X, sanguine 1572Cr
(3) peaultre : peaulter 1627Di
(4) fleuues : fleuuues[sic.] 1627Di, Fleuves 1672Ga
(5) militaire : militante 1627Di, Militaire 1672Ga
(6) murtry 1568 1649Ca 1772Ri : meurtry T.A.Eds.
(7) Ioyne : Ioye 1650Mo, loyne 1653AB 1665Ba 1720To 1840, Joyn 1672Ga
(8) chaulueron : chauueron 1590Ro, Chaulueron 1627Di 1672Ga

(注記)1672Gaは原文を Joyn とする一方、英訳では Joyne と綴っている。


校訂

 Rapax が固有名詞のように大文字で書き始められることが妥当かどうか、議論の余地がある。後述の「訳について」を参照。

日本語訳

貪欲で血塗られた黒き者とともに、
非人間的なネロの藁布団から生まれた者。
二つの川の間、軍隊の左翼(にて)
(ある者が) 若き禿頭に殺されるだろう。

訳について

 1行目 Rapax はラテン語で形容詞としては 「強欲な、強奪する」、名詞としては 「強盗、盗人」の意味*1。この場合は noir と Rapax のどちらが名詞で、どちらが形容詞なのかはっきりしないが、前半律の区切りで考えれば、noir が名詞となるだろう。
 実際、エドガー・レオニピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースらはそのように理解している。なお、レオニは noir をアナグラムして roi (王)を導いているが、現在では支持されない。
 仮に Rapax が大文字で書かれていることを尊重し、それを名詞と見なすなら 「血塗られた黒き強盗とともに」 となるだろう。なお、エヴリット・ブライラーは並列的にも読めるように訳を提示している。その場合、「黒き者、貪欲な者、血塗られた者とともに」 となるか。

 3行目後半の直訳は「軍隊の(または好戦的な)左手」。
 これを、「(陣形を展開した)軍隊の左翼側」 と理解するのは、エヴリット・ブライラーピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースらの読みに従ったものである。

 4行目は主語が省略されている。
 ブライラー、ラメジャラー、シーバースらはいずれも He を補っているが、後述する解釈からすれば、その He を前半で述べられている人物と同一視することはできない。
 当「大事典」で 「ある者が」 と補ったのはそのためである。ただ、3行目後半を主語にとって「好戦的な左手が若い禿頭に殺されるだろう」 と訳すことも可能である。

 4行目後半「若き禿頭」 が最大の鍵で、Ioyne は普通 「若い(者)」の意味。
 chaulveron は chauve (形容詞または名詞で「禿げた(人)」) に接尾辞 -eron が付いたものと理解できる。
 -eron は現代ならば名詞に付く場合は指小辞(小さな、または親しみなどを示す)、形容詞に付く場合は軽蔑などの意味を示す。
 そのニュアンスも込めて訳せば 「つるっぱげ」「ハゲ茶瓶」 などの訳語も検討されるが、16世紀当時のニュアンスが不明であることや、深い意味もなく脚韻を整えるために付けられた接尾辞の可能性があることなども考慮し、単なる「禿頭」と訳した。
 実際、ラメジャラーやシーバースの英訳は baldy や bald one など、chauve とあまり区別しているようには見えない。

 このジョワヌ・ショーヴロン (Joyne Chaulveron) をジャン・カルヴァン (Jean Calvin) の言葉遊びと見なす論者には、ブライラーやラメジャラーのように英訳自体を「彼はジャン・カルヴァンに殺されるだろう」のようにしている者もいる。
 それは一定の説得力を持つと考えるが、2003年にはそれのみだったラメジャラーが、2010年には若い禿頭と両論併記にしていることや、シーバースは「若い禿頭」(Young bald one)と訳していることなどを踏まえ、ひとまずはそのまま訳しておいた。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「黒く どん欲で 血の平和に近く」*2は誤訳だろう。これは元になったはずのヘンリー・C・ロバーツの英訳 With the black and rapacious near a bloody peace*3自体に問題がある。テオフィル・ド・ガランシエールの英訳はより簡潔に With the Black and bloody Rapax で*4、Rapax には ravenous one と注記されていたので、ロバーツがなぜあんな改悪をしたのか意味不明である。おそらく、rapax を rapacious と訳す一方、pax (平和) の意味が込められていると解釈して二重に訳したのではないかと思われるが、支持すべき理由は全くない。
 2行目「非人間的ネロのかくれ家からおりてきて」もロバーツの英訳のほぼ直訳だが、peautreを「隠れ家」と訳せるかどうか、若干の疑問がある(ガランシエールの英訳は現代英語にない paultry で、hide という訳はロバーツが独自に当てたもの)。
 4行目「彼はジョン カルバロンによって殺害される」は、上述の通り個人名と読める可能性はあるので、構文理解上は許容されるが、ロバーツが示している綴りは Joyn Caulveron で、これを 「ジョン・カルバロン」 とはあまり読まないのではないだろうか。

 山根訳について。
 1行目 「血に飢えた貧欲な王(あるいは黒人)とともに」*5の「王」は上述の通り、アナグラムの結果導かれるものなので、不適切だろう。
 2行目「奴は人非人ネロの淫売宿から生まれた男」は、peautreの直接的な訳として「淫売宿」を導けないだろう。ただし、後述する反キリスト論が土台になっているのだとしたら、意訳として許容される可能性はある。
 3行目「二つの川にはさまれ 左手には軍隊」は後半が誤訳だろう。展開した軍隊の左翼と、左手側に軍隊があるというのでは、部分的に意味合いが重なるにしても、誤解を招く。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は前半2行に描かれている人物が、2つの川の間で Joyne Caulveron なる人物に殺される予言とした*6

 その後、20世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードの著書には載っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は近未来において、ナチス・ドイツ軍がローヌ川とソーヌ川の合流点 (=リヨン) の交戦で敗北することと解釈していた*7
 ロルフ・ボズウェル(1943年)も、ネロとヒトラーを重ね合わせた予言と解釈した*8
 アンドレ・ラモン(1943年)は近未来にフランスで王政復古を果たすアンリ5世が、ムッソリーニとファシスタ党を潰滅させることと解釈した*9

 ジェイムズ・レイヴァー(1952年)は、1814年にナポレオンが退位したことと解釈した*10。この解釈は、のちにネッド・ハリーが踏襲した*11

 エリカ・チータムは1973年の著書では一言もコメントせず、1989年の著書でも「この詩は解釈できない」とコメントしただけだったが*12彼女の著書の日本語版では、ウガンダの独裁者アミンについての予言とする(おそらく日本語版監修者らによる)解釈が掲載されていた*13

 ヴライク・イオネスク(1976年)は Ioyne を Joy と né の合成語と解釈し、「ユピテルの生まれの者」と理解した。彼はユピテルをアメリカ合衆国の隠喩と解釈しており、ここではフランクリン・ルーズベルトのこととした。ネロはナチズムの隠喩で、ゆえにこの詩はノルマンディ上陸以降の連合国側の攻勢を予言したものと解釈した*14

 セルジュ・ユタン(1978年)はたった一言「ヒトラー」とだけ注記した*15。のちのボードワン・ボンセルジャンの補訂でも、最後の2語を不明としつつも、ヒトラーを強く想起させる詩篇とされている*16

 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)は1944年にシュタウフェンベルクによって企てられたヒトラー暗殺未遂事件を含む、ヒトラー関連の予言と解釈した*17

同時代的な視点

 エヴリット・ブライラーは、プロヴァンス語では Joyne は Jaume などとともにフランス名の Jean に対応すると解釈し、最後の2語をジャン・カルヴァンと読んだ。そして、この詩は1553年に起こった、カルヴァンによる神学者ミシェル・セルヴェの火刑と解釈した*18

 ただ、Joyneは普通は「若い(者)」の意味だし、プロヴァンス語の Jaume は(ノストラダムスの父のジョームのフランス名がジャックであるように)ヤコブに対応するもので、LTDFにもそう書かれている。
 LTDFでジャン(ヨハネ)に対応するとされる人名は Jan, Jouan, Juan, Jouon などである。

 むしろカルヴァンと結びつける場合でも、無理に直接的にジャンを導こうとせずに、単に言葉遊びと理解すればよいのではないだろうか。なお、カルヴァンの本名はコーヴァン (Chauvin, Cauvin) といい、これをラテン語化して再フランス語化したのがカルヴァンである*19。Chauvin と Chaulveron なら、十分に言葉遊びの範疇といえるだろう。

 ピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースもカルヴァンによるセルヴェの火刑と解釈している。彼らはカルヴァンの根拠地(そしてセルヴェの処刑地)であるジュネーヴが、ローヌ川とアルヴ川の間に位置することを指摘している。

 また、ラメジャラーは前半2行が反キリストの描写であり、カルヴァンが当時カトリックから反キリストと見なされていたことと関連付けている。

 反面、軍の左翼については誰もコメントしていない。当「大事典」として解釈の候補を挙げておこう。
 一つ目は、カトリックの総本山ローマから見る場合である。ローマがプロテスタントの根拠地と向き合った場合、カルヴァン派(ジュネーヴ)は向かって左、ルター派(ドイツ諸邦)が向かって右となる。これを基準にジュネーヴを表したと解釈できる。
 二つ目は、それを4行目の主語として「好戦的な左手がジャン・カルヴァンに殺されるだろう」と読む場合である。この場合、それは三位一体説にさえ疑いの目を向けたことでカトリック・プロテスタント両陣営から敵視されたセルヴェを喩えたものとなる。
 いずれも、強引という謗りを免れえない解釈ではあるが、参考情報として掲げておく。


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詩百篇第9巻
最終更新:2020年03月18日 23:02

*1 『羅和辞典』

*2 大乗 [1975] p.277。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 p.303

*4 Garencieres [1672]

*5 山根 [1988] p.307。以下、この詩の引用は同じページから。

*6 Garencieres [1672]

*7 Fontbrune (1938)[1939] p.183

*8 Boswell [1943] pp.238-242

*9 Lamont [1943] p.271

*10 Laver (1942)[1952] p.185 / レイヴァー [1999] p.297

*11 Halley [1999] p.113

*12 Cheetham [1973], Chhetham (1989)[1990]

*13 チータム [1988]

*14 Ionescu [1976] pp.555-557

*15 Hutin [1978]

*16 Hutin (2002)[2003]

*17 Fontbrune (1980)[1982], Fontbrune [2006] p.364

*18 LeVert [1979]

*19 岩波西洋人名事典