百詩篇第5巻38番


原文

Ce grand1 monarque2 qu’au3 mort succedera
Donnera vie illicite & lubrique4:
Par nonchalance à tous5 concedera6,
Qu’a7 la parfin fauldra la loy8 Salique9.

異文

(1) grand : garnd 1605
(2) monarque : Monarque 1594JF(p.232) 1605 1611 1620PD 1628 1644 1649Xa 1981EB 1653 1665 1716 1840
(3) qu’au : qu’an 1588Rf
(4) illicite & lubrique : illicite lubrique 1600 1610 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 1716 1840
(5) tous : nous 1588-89
(6) concedera : concidera 1653 1665
(7) Qu’a 1557U 1610 1620PD 1649Ca 1650Le 1668 1716 : Qu’à T.A.Eds. (sauf : Qua 1672)
(8) loy : Loy 1620PD
(9) Salique : salique 1588-89

校訂

 4行目 Qu’a は当然 Qu’à になっているべき。

日本語訳

かの大君主、その死を受け継ぐであろう者が
法に背く淫奔な生活をもたらすだろう。
不精ゆえに全員を認知するだろうから、
しまいにはサリカ法典が必要になるだろう。

訳について

 1行目は 「大君主の死を受け継ぐ者が」 という意味にも、「(先代の)死を受け継いだ大君主が」 という意味にも読める。ジャン=ポール・クレベールは後者を採っており、直訳としてはそちらの方が自然なように思われるが、que は中期フランス語では qui や ce qui の意味にも使われた*1ということにも考慮すれば、前者の読みも成立する。エドガー・レオニピーター・ラメジャラーは前者である。文脈からすれば、名君のあとに暗愚な君主という図式で読むほうが自然であると思われるので、当「大事典」としても前者を支持するが、訳文は前者にも後者にも読めるように配慮した。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「大君主が大物に勝ち」*2は誤訳。ヘンリー・C・ロバーツの英訳 The great monarch that shall succeed to the great one*3に照らしてもおかしいし、そもそもロバーツの英訳自体、mort (死、死者) を great one と訳すのは若干意訳しすぎだろう。
 3行目「不注意に彼はすべてをあたえ」も不適切だろう。à tous は「すべてを」ではなく「全員に」の意味。ピーター・ラメジャラーの英訳で to all になっているのはもちろん、ロバーツの英訳でさえ to all になっている。
 4行目「その結果 混乱におちいり サリカ法は失敗するだろう」は誤訳。faudra は falloir (~が必要である)の活用形で、faillir (欠ける、しくじる) とは別の語。ただし、語源的に同じであるし、ジャン=ポール・クレベールはこの詩について falloir を第一義としつつも、疑問符付きで faillir の可能性も示してはいるので、この部分は誤訳と断定しきれない。しかし、「混乱におちいり」という語は原文にないどころか、ロバーツの英訳にさえない。ロバーツの英訳の in conclusion を 「その結果」 と訳しつつ、confusion と見間違えて二重に訳したのだろうか。

 山根訳について。
 3行目「怠慢によりいっさいを放棄せざるを得なくなり」*4は、原文を「すべての者に(自分が持っているあらゆるものを)譲渡する」と読めば、意訳として許容されるのかもしれない。

信奉者側の見解

 ジャン=エメ・ド・シャヴィニー(1594年)は、アンリ3世が出したボーリュー王令(1576年5月)と解釈した*5。この王令はプロテスタント側に大幅に譲歩し、礼拝の自由を完全承認したほか、各高等法院に「新旧両派合同法廷」を設置することなどを認めるものであり、この王令を以って第五次ユグノー戦争は終息した*6

 匿名の解釈書『1555年に出版されたミシェル・ノストラダムス師の百詩篇集に関する小論あるいは注釈』(1620年)は、アンリ4世とその愛人で1599年に没した la D. de B. (明記されていないが、la Duchesse de Beaufort の称号を有していたガブリエル・デストレのことだろう) についてと解釈した *7

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、「これは前の詩と関係があり、それゆえに云々 (therefore &c.)」と、ごく簡略なコメントをつけただけだった。

 フランシス・ジロー(1839年)は、スペイン王フェルナンド7世 (在位1808年および1814年 - 1833年) と解釈した*8。フェルナンドはナポレオン1世によって一度は退位させられたが、後に復位し、反動政治を推し進めた。さらに、サリカ法典の男子のみに継承権を認める規定を廃して、娘イサベル (イサベル2世、在位1833年 - 1868年) を後継としたことから、フェルナンドの弟ドン・カルロスおよびその支持者がカルリスタ戦争 (1833年 - 1839年) を引き起こした。

 アナトール・ル・ペルチエ(1867年)は太陽王ルイ14世の跡を継ぎ、奔放な生活を繰り広げたルイ15世についてと解釈した*9。この解釈はチャールズ・ウォードアンドレ・ラモンロルフ・ボズウェルジェイムズ・レイヴァーエリカ・チータムセルジュ・ユタンクルト・アルガイヤージョン・ホーグネッド・ハリーらが踏襲している*10

 異説として、マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は、ナポレオン3世の政治的な死(退位)を受けて成立したフランス第三共和政(1870年 - 1939年)についてと解釈していた*11。ただ、この解釈は、息子のジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌにすら引き継がれなかった (息子の方は1980年のベストセラーでも、晩年の著書でもこの詩を扱わなかった)。

同時代的な視点

 サリカ法典とは、サリ系フランク族に由来する慣習法で、その条項の中でも相続に関する項目が、フランス王位継承権の根拠法として持ち出され続けた。その要諦は男子のみに相続権を認めるというものである。ノストラダムスの生きていた16世紀に限っても、周辺国では女王は珍しいものではなかった。スコットランド女王メアリー・スチュアート、イングランド女王エリザベス1世、ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレといった具合である。しかし、フランスではサリカ法典の存在ゆえに、長い王政の歴史を有していながら、一度として女王を戴くことがなかったのである。
 ピーター・ラメジャラーは、この王位継承に関する何らかの事件の描写だろうとしているが、モデルとなる出来事は特定していない。

 ルイ・シュロッセ(未作成)は、フランソワ1世の跡を継いだアンリ2世が、愛人ディアーヌ・ド・ポワチエに入れ込んでいたことなどをモデルにしたものではないかと推測した*12
 ただし、ノストラダムスはほぼ同時期にアンリ2世に対する過剰なまでの賛辞を含んだ献辞を暦書で公表していたため、さすがにアンリ2世を皮肉ったと見るのは難しいのではないだろうか。


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  • ル・ペルティエのルイ15世とする解釈を支持する。サリカ法典はポンパドゥール夫人を表すとともに、 ノストラダムスの時代の敵対国のイングランド女王エリザベス1世を暗に示しているのは明白。 -- とある信奉者 (2020-05-03 09:33:37)
最終更新:2020年05月03日 09:33

*1 DMF

*2 大乗 [1975] p.158。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 Roberts (1947)[1949] p.157

*4 山根 [1988] p.190。以下、この詩の引用は同じページから。

*5 Chavigny [1594] p.232

*6 柴田・樺山・福井『フランス史2』p.134

*7 Petit discours..., pp.18-19

*8 Girault [1839] p.37

*9 Le Pelletier [1867a] p.132

*10 Ward [1891] pp.164-165, Lamont [1943] p.93, Boswell [1943] pp.128-129, Laver [1952] p.115, Cheetham [1973], Hutin [1978], Allgeier [1989], Hogue (1997)[1999], Halley [1999] p.73

*11 Fontbrune (1938)[1939] p.128, Fontbrune [1975] p.138

*12 Schlosser [1985] p.154