セザール・ノストラダムスの超時空最終預言

 『 セザール・ノストラダムスの超時空最終預言 』は、1992年に徳間書店から刊行された浅利幸彦の著書。上・下2巻が同時に発売された。


【画像】 上巻のカバー

内容

上巻
  • まえがき
  • プロローグ
  • 1章 元史1人類はスペース・コロニーの陰謀で一度滅んだ
  • 2章 元史2宇宙へ脱出した人類がタイム・マシンを開発した
  • 3章 前史 破壊以前の地球に悪魔的宇宙人が戻ってくる

下巻
  • 4章 今史 人類は来史へ飛躍できず悪魔帝国が完成する
  • 5章 来史 天使的宇宙人の勝利と神の地上天国の実現!
  • 6章 空中掲挙と最期 〔原文ママ〕 の審判に漏れた半豚人の運命……
  • 7章 神はすべてを計画し仕組んでから人類になった……
  • 終章 セザールとイスラエル

 浅利の基本的なストーリーと、それに対する当「大事典」の見解は、人物記事(浅利幸彦)の方にまとめてあるので、そちらを参照のこと。

コメント

 浅利幸彦の記事に書いたことと重複する論点は割愛する。

象徴・隠喩について

 浅利は、数多くの詩篇を解釈し、自身の思い描くストーリーを詳細に描き出している。その際に「象徴」「隠喩」といった言葉によって、表面的な語義とは全く異なる解釈を展開する。
 たとえば、「ヴェネツィア」は有翼獅子を象徴としており、黙示録の十字と半分一致するからという理由で1999年のグランド・クロスのこととされる *1 。さらに「アドリア海」もヴェネツィアのことで、だからグランド・クロスである *2 。「トリエステ」はヴェネツィアに近い都市なので同じくグランド・クロスのことである *3 。「グリフィン」も半鷲半獅子だからグランド・クロスである *4百詩篇第8巻29番に出てくる「四つの柱」(実は誤訳)は、四つの星座を表しているからグランド・クロスである *5 。「十字架」はもちろんグランド・クロスである *6 ・・・。
 さらに彼の言い分に拠れば、「リヨン」は獅子と綴りがほぼ同じだから反キリスト=悪魔的宇宙人のことである。「マルセイユ」も綴りにマルスが入っているので反キリストである。「ローヌ川」はリヨンやマルセイユを通るので反キリストである *7 。「ジュネーヴ」はネゲヴのアナグラムになるから反キリストである *8 。「土星」も反キリスト、「火星」も反キリスト、「月」も「しし座」も「かに座」もすべて反キリストである *9 ・・・。

 「隠喩」という言葉は、いつからこじつけを意味する婉曲表現になったのだろうか。

 要するに、具体的な地名などが多く出てくるノストラダムスの詩篇は、1999年の天使的宇宙人による救済に関わるストーリーしか描写されていないという彼の主張 (彼が言うところの「全四行詩一事件解釈」 *10 )には、そのままでは都合が悪いわけだ。そのため、とにかく原詩に登場する多彩な地名の数々を、彼のストーリーに出てくるいくつかのキーワードに無理やりにでも収斂させていく必要があるため、こうした解釈が生まれたのだろう。

 むろん、解釈は水掛け論になりがちだから、こうした解釈が絶対にありえないと断言することはできない。しかし、こうした呆れるほどの単純化は、ノストラダムス本人を侮辱しているように思われてならない。

全四行詩一事件解釈

 すべての詩篇が同一の事件、すなわち1999年の人類の救済へと収斂していくとする概念は、浅利が自説の大きな独自性と主張している要素である。浅利は従来の各詩篇ごとの解釈を批判して、こう豪語する。

  • 「ジグソーパズルの断片だけを調べていて、その断片が何の絵だかを考えていたようなものである。その断片が全体のどの部分にあたるのか、どことつながっているのかは考えようとしなかった。言葉同士をつなげていけば、自然とパズルは組み立てられていくのに」 *11

 しかし、浅利が採り上げている詩篇には、偽作の疑いがきわめて濃厚な百詩篇第8巻の番外詩だとか *12 、偽作であることがほぼ確定している六行詩集 *13 などまで使われている (偽作と断言しきらないのは万一の可能性があるからというだけで、これらを本物と見なしうる論拠など、今のところ一つも存在しない)。「自然と」「組み立てられていく」パズルに場違いなニセモノが混じっていても気づかないというのは、彼が思い描いたパズルの全体像が正解ではないことを示唆しているだろう。

神の正体

 浅利は、神と人類は本来同一の存在であり、人類の魂はすべて、神から分かれたものだとして、従来の神学をこう批判する。

  • 「この神と人類の分離、神と人間をもともとから、そして最後まで別々の存在であると考えることこそ人類最大の誤解だった」 *14

 誤解しているのは浅利の方である。神に対する彼の理解は、古代に異端として排斥されたグノーシス主義の二番煎じに過ぎず、本人が言うような誰も思いつかなかった発想などではない。
 グノーシス(「認識」「覚知」)主義はグループによって多種多様だが、かなり大まかに要約すると、その基本思想には、上界の至高者と人類を本質的に同一とし、にもかかわらず人類は至高者よりも一段劣る中間界の創造神のもとでそれを忘れ、下界において創造神を至高の存在と誤認し、不完全な世界で支配されているという認識がある。ゆえに、グノーシス主義は、正しい導き手として遣わされた「子」によって真実を「認識」した人々の魂が再び上界へと帰り、至高者と同一になる (その時に中間界と下界は解体される) という発想につながった *15

 グノーシス主義は、初期キリスト教の異端論争に際しては、無視することのできない存在である。
 浅利は従来の神学を最初から否定してかかっているために、どのような思想と論争を繰り広げて今のようなキリスト教が生まれたのかについて、おそらく知ろうともしなかったのだろう。その結果、上記のような的外れな夜郎自大を披露する羽目になってしまったのではないだろうか。

セザール

 書名にもなっている浅利=最終解読者セザールとする仮説についてだが、そもそも「セザール」を最終解読者のコードネームとする発想自体に問題がある(最終解読者としてのセザール・ノストラダムス参照)。

 仮に「セザール=最終解読者」という仮説を受容するにしても、浅利が自らをセザールとしている根拠は、ノストラダムスの遺言補足書の日付(1566年6月30日)の6を9に引っくり返してアナグラムすると、浅利の誕生日(1956年9月30日)が導けるとか、遺言書と遺言補足書の日付の差分(13日間)が、浅利のフルネームをアルファベットで綴った時の文字数と一致するとかという、強引極まりないものである。前者についても、後者についても、浅利一人ではなく、いくらでも該当者が出てきてしまう。
 たとえば、明石家さんま、北野武なども13字になるし、当「大事典」管理者もそうである(姓名がともに3、4音節程度になる日本人名の場合、当てはまるのは珍しくない)。

 日付の問題にしてもそうである。セザールへの手紙、アンリ2世への手紙などにも日付はいくつも登場するが、それらメジャーなものに該当せず(そもそもノストラダムスの遺言書本体にさえ合致せず)、短い付け足しに過ぎない遺言補足書に合致するというのは不自然極まりない。ノストラダムスの生涯には様々な日付が登場しているのだから、片っ端から拾っていけば、どれか一つにこじつけることくらいはできるだろう。これはそれだけの話に過ぎないように思われる。
 1999年の救済が『予言集』の唯一最大のテーマだというのなら、そこで人々を導く最終解読者の姿は、多くの詩篇で大々的に描かれていてもよさそうなものである。それなのに、実際にノストラダムスとの結びつきとして登場するのがこうした細かい数字遊びだけというのは、単に百詩篇集本体では、ヴライク・イオネスク百詩篇第9巻1番に合致すると主張した)、池田邦吉 (誕生日の2月6日が百詩篇第8巻49番に出てくる)、セルジュ・ユタン (ユタンの名前と同じ綴りが百詩篇第8巻86番に登場する)らがこじつけたような例を見出せなかっただけではないのかという疑念を禁じえない。

 Asari をアナグラムすればイスラエル (厳密には「イスラ」の部分) やシリアになるといった主張も出てくるが、それらも同様である。聖書に一体どれだけの固有名詞が登場するのかを考えれば、数音節程度の単語が強引なアナグラムの結果たまたま一致したくらいで騒ぐのは無意味である。
 イスラエルやシリアは別格だ、というかもしれないが、たとえばアナグラムしてもイスラエルにはならないが、アブラハムやモーセになる人、あるいはベツレヘムやナザレなどになるという人がいる場合を想定すれば、そうした格付けの不毛さが理解できるだろう。


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