百詩篇第2巻35番


原文

Dans deux logis1 de nuit le feu2 prendra,
Plusieurs dedans estoufés3 & rostis4.
Pres de deux fleuues5 pour seur il6 auiendra
Sol, l'Arq7, & Caper8 tous seront amortis.

異文

(1) logis : Logis 1672
(2) feu : fen 1610 1716
(3) estoufés 1555 1557U 1568B 1590Ro 1840 : estouffés 1557B, estoufées 1568A, estouffez 1568C 1568I 1589Me 1589PV 1605 1611B 1628 1644 1649Xa 1649Ca 1650Le 1653 1656ECL 1665 1668 1772Ri 1981EB, estouffer 1588Rf 1589Rg, estoffez 1597 1600 1610 1716, ostouffez 1611A, estoufez 1594JF 1627 1630Ma 1650Ri 1672
(4) rostis : roustis 1594JF
(5) fleuues : fluues 1594JF, Fleuves 1672
(6) seur il 1555 1557U 1588-89 1589PV 1649Ca 1650Le 1668 1672 1840 : seul il T.A.Eds. (sauf : le seur 1594JF)
(7) l'Arq : l'Ard 1588-89, Arc 1594JF, l'Arc 1589PV 1649Ca 1650Le 1656ECL 1668 1672
(8) & Caper : Caper. 1594JF, Caper 1668P

校訂

 ピエール・ブランダムールは4行目の l'Arq, & Caper を当初 l'Arq, & Capre と校訂し、のちに l'Arq. & Capr. と校訂した。これらは意味上および韻律上の要請だろう。

日本語訳

二軒の宿屋で夜に火がつくだろう。
中にいた多くが窒息させられ、焼かれる。
それは確かに二つの川の近くで生じるであろう。
太陽(が)、人馬宮と磨羯宮(にある間)、すべてが滅ぼされるだろう。

訳について

 2行目 plusieurs は例によって 「いくらかの」 から 「多くの」 まで、指し示す幅が広い。ピエール・ブランダムールはそのまま plusieurs と釈義していて、よく分からない。高田勇伊藤進訳では「数人」となっている。ピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースの英訳では、いずれも many が当てられている。ジャン=ポール・クレベールの釈義では(居住者の)la plupart (大部分)となっている。
 4行目の「すべて」という被災規模との整合性から「多く」を採ったが、よく言われるグルネット通りの火災(後述)がモデルなのだとしたら、「数人」でも整合するだろう。

 4行目前半の言葉の補い方はピエール・ブランダムールの釈義、ピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースらの英訳を踏まえた。こうした読み方はジャン=エメ・ド・シャヴィニーや1656年の注釈書の著者も行なっていた。
 同じ行の amorti は amortir (生気を失わせる、衰えさせる)の過去分詞だが、中期フランス語の amortir には anéantir (根絶させる、全滅させる)の意味もあった*1

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「二つの家が夜間火につつまれ」*2は可能な訳。logis は普通の住居も宿屋も指す単語である。
 3行目「二つの川の近くで確かなことが起こり」は誤訳。pour seur (pour sûr) は「確かに」の意味。つまり、前半に描写された火災が「確かに」起こると述べている。
 4行目「太陽 弓 白花菜 すべてが苦しむだろう」は、Caper に「白花菜」と当てるのが不適切だろう。植物のケイパーか何かを想定したものだろうか。しかし、これは Capricornus の変形・省略形と解釈するのが普通である。大乗訳の場合、解釈にも「牡羊座(白花菜)」という誤訳がある。星座と結びつくことが認識できていたのなら、白花菜などという訳が不適切だと気づけたであろうし、そもそも星座は「牡羊座」ではなく「山羊座」である。ヘンリー・C・ロバーツの原書では、きちんと山羊座(磨羯宮)になっている。

 山根訳について。
 4行目 「太陽 射手座 山羊座がすべて光を失うとき」*3は、可能な訳。ただし、天体 (太陽) と星座 (射手座、山羊座) を並列的に扱うのは、不自然ではないだろうか。

信奉者側の見解

 ジャン=エメ・ド・シャヴィニー(1594年)は、この詩を過去と未来の2つの事件の描写と解釈し、過去については、ギヨーム・パラダンの著書に出てくる銀頭亭(Teste d'Argent) の火災(後述)と結びつけた。未来の事件については、具体的なことを述べなかった*4
 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)も銀頭亭の火災と解釈したが、彼はそれをパラダンの第3巻22章から紹介しつつ、「約90年前に成就した」出来事と解釈していた*5
 この通りならば、火災は1582年頃ということになるが、その解釈を紹介したエドガー・レオニ(1961年)の注釈を誤読したらしいエリカ・チータムは「1600年ごろに生きていた全ての注釈者」が1582年(「頃」はつかない)のリヨンの火災と解釈していたと主張した*6。この解釈はさらにエスカレートし、のちには「1600年頃より後に執筆した全ての注釈者」の解釈にされてしまった*7。すぐ後に見るように、そのような事実はない。

 シャヴィニー、ガランシエール以外で19世紀までに解釈していたのは、1656年の解釈書のみである。
 ただし、そこではリヨンパリなどの2つの川に挟まれた都市で、ある一人の人物のせいで火事が起こる (この解釈書では3行目が pour seul 「一人のせいで」 となっているため、こういう読みが出てくる) という漠然とした解釈しか示されていなかった*8

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は、2つの宿屋をパリジュネーヴ、2つの川をセーヌ川(ソーヌではない)とローヌ川と解釈し、ごく近い未来のフランスや国際連盟の情勢と解釈した*9
 アンドレ・ラモン(1943年)も似たような解釈を展開したが、都市名などについては限定せず、近未来にフランスで王政復古が起こる時の情勢と解釈した*10

 ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)はかなり漠然とした解釈したつけていなかったが、その孫であるロバート・ローレンスらの補訂(1994年)では、1992年のロサンゼルス暴動 (黒人青年に過剰な暴力を加えた白人警官が無罪となったことをきっかけに、多数の商店が放火され、2000人以上の死傷者を出した) と解釈された*11

 セルジュ・ユタン(1978年)は1792年の八月十日事件でのチュイルリーの炎上と解釈した*12。4行目の星位と時期が明らかに整合しないが、説明は一切ない。

 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)は、近未来に当時の教皇ヨハネ=パウロ2世がリヨンを訪れる時の情景と解釈した(フォンブリュヌはリヨンでヨハネ=パウロ2世が暗殺されると解釈しており、この詩はその直前に位置づけられていた)*13。晩年の著作にこの詩の解釈はない。

同時代的な視点

 シャヴィニーの解釈は現代の実証主義的な研究者たちからも支持されている。
 ただし、ギヨーム・パラダンの 『リヨン史覚書』 で描写されている銀頭亭の火災は1500年11月のことであり、ガランシエールが主張したような1582年頃の事件ではなかった (そもそも『リヨン史覚書』は1573年に書かれており、1582年の事件など記録できるはずがない)。
 この事件は、リヨンの大市のために宿泊していた「数人の商人たち」(des Marchands) が、グルネット通りにあった銀頭亭の火災によって死亡したというものである。詩に描写されているような2軒の火災ではないなど、詩の描写とは若干整合しない要素もあるが、ピエール・ブランダムールロジェ・プレヴォピーター・ラメジャラーブリューノ・プテ=ジラールリチャード・シーバースらは、(留保をつけてか、無条件かの差はあれど)いずれもこの火災をモデルにしたものと解釈している*14
 パラダンの著書はノストラダムスの死後に刊行されており、ノストラダムスが、自身の生まれる前に起こっていた銀頭亭の火災をどの程度正確に把握できていたのかには疑問も残る。実際の事件と詩の描写のズレは、そうした伝聞の不正確さなどに起因するのかもしれない。

 他方で、ジャン=ポール・クレベールのように、銀頭亭の火事に一言も触れていない論者もいる。クレベールのコメントを引用しておこう。「当時、家々の火災は非常にありふれたものだったので、せいぜいがカナール(瓦版)にお似合いのこの三面記事の、場所も時も特定するのは不可能である」*15
 この指摘もまた十分に説得力があるのは確かである。実際のところ、人馬宮から磨羯宮の時期(11月下旬から1月中旬)にはリヨンの大市の期間が含まれており、多くの人々で賑わった。そのような時期に火災が起これば、普段以上の惨事になるであろうことは容易に推察できるところであり、仮に舞台をリヨンに限定できるとしても、あえて銀頭亭を直接的なモデルとせずとも、描写することは可能だっただろう。事件と詩の描写とのズレは、まさにこの詩が、特定の事件をモデルとしていない彼の想定にすぎなかった可能性を示すものとも解釈できる。


※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
最終更新:2014年12月11日 22:07

*1 DMF

*2 大乗 [1975] p.80。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 山根 [1988] p.90

*4 Chavigny [1594] pp.38, 40

*5 Garencieres [1672]

*6 Cheetham [1973]

*7 Cheetham (1989)[1990]

*8 Eclaircissement..., pp.149,448

*9 Fontbrune (1938)[1939] p.188, Fontbrune [1975] p.195

*10 Lamont [1943] p.285

*11 Roberst (1947)[1949], Roberts (1947)[1994]

*12 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]

*13 Fontbrune (1980)[1982]

*14 Brind'Amour [1993] p.269, Brind'Amour [1996], Prévost [1999] p.150, Lemesurier [2003], Petey-Girard [2003], Sieburth [2012]

*15 Clévert [2003] p.259