原文
Le diuin
1 verbe
2 sera du ciel
3 frapé
4,
Qui ne pourra proceder plus auant
5.
Du
reserant6 le secret estoupé
Qu'on marchera par dessus & deuant
7.
異文
(1) diuin : di uin 1653, Divin 1672
(2) verbe : Verbe 1649Xa 1665 1672
(3) ciel : Ciel 1605 1649Xa 1653 1665
(4) frapé : rappé 1605
(5) auant : arriere 1588(*)-89(*)
(6) Du reserant : Du reserrant 1588-89 1590Ro 1605 1611 1628 1649Xa, Du reseruant 1597 1600 1610 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 1716, Dur eseruant 1627, Du resserrant 1672 1981EB
(7) deuant : derriere 1588(*)-89(*)
- (注記)1588-89では3-4-1-2行目の順で百詩篇第3巻49番としても収録されている。(*)をつけたものはそちらの異文である。
日本語訳
みことばが空から打たれ、
そこから先のことができなくなるだろう。
啓示するそれの秘密は隠蔽され、
人々はその上を前へと行進するだろう。
訳について
1行目 Le divin verbe の直訳は 「神の言葉」。現代語では le Verbe も le verbe divin も共に「
み言葉」と訳されるので、それに準じた。ただ、ノストラダムス作品には le Verbe も登場するので、それとの差異を分かりやすくするために、あえて「神の言葉」と訳すのはひとつの判断として許容されるだろう。
3行目 estoupé は estouper の過去分詞で、現代語なら étouper (割れ目や穴などを詰め物でふさぐ) と同じだが、中期フランス語ではより広く 「ふさぐ、遮断する」(boucher, fermer) の意味で使われた。
reserant は
reserer (暴露する、啓示する)の現在分詞で、定冠詞をつけて名詞的に使われている。「啓示するもの」 の意味ではあり、そう訳す方が自然ではあるのだが、定冠詞を踏まえて 「啓示するそれ」 と訳した。「啓示するものの~」と訳してしまうと、この場合、「けれども」 と同じ意味の 「-ものの」 と誤解される恐れがあると判断しての小細工であり、それ以上の意味はない。
既存の訳についてコメントしておく。
大乗訳について。
1行目 「神のことばが天から響き」は誤訳。frapper (打つ) が受動態になっていることからいっても、無理があるだろう。
3行目「無口の人の秘密は閉じられ」 の 「無口の人」 も誤訳。これは元になった
ヘンリー・C・ロバーツの英訳のほぼ直訳だが、
resererの意味からするとむしろ正反対だろう。
4行目「人々はそのまえにふみにじられるだろう」も誤訳。ロバーツが tread (歩いていく、踏みつける) を使っていることに影響されたのだろうが、ロバーツはきちんと能動態にしており、受動態で訳される理由が不明。
山根訳について。
2行目 「ゆえに彼はそれ以上進めなくなろう」は、「彼」 を補うことが微妙。元になった
エリカ・チータムの英訳でも he が使われているが、これは彼女が「神の声」 を宗教的人物の比喩と理解していたためである。その辺りの補足説明がないと、1行目の「神の声」と2行目の「彼」が同一であると伝わりにくいのではなかろうか。
3行目「秘密は啓示とともに隠されるから」は少々不適切。reserant は現在分詞で、「秘密を reserer する(存在)」の意味であるから(実際、
ピエール・ブランダムールの釈義や
ピーター・ラメジャラーの英訳はそうなっている)、秘密と啓示を並列的に示すのはおかしい。
信奉者側の見解
マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は、
1999年の詩のほんの少し前に位置づけていた。解釈が漠然としすぎていて分かりづらいが、章見出しと対応させる限りでは、反キリストとの戦争に関わる詩篇の一つとして、ローマ教皇庁の失墜を描いた詩の一つと見なしていたようである。
ロルフ・ボズウェル(1943年)も、1999年の詩の少し前に置いているが、対訳のみで解釈はついていない。
エリカ・チータムは1973年の時点ではかなり漠然とした解釈しかつけていなかったが、のちの著書ではノストラダムスの墓についてと解釈した。
川尻徹(1987年)は、1行目を天に響く銃声と読み替えて、ケネディ暗殺と解釈した。
ジョセフ・サビノはかなり強引な読み替えを踏まえたうえで、自身の偽作説 (ノストラダムス予言集の真の著者は宇宙人で、ノストラダムスはそれを書き写しただけとする奇説) の裏づけに用いている。
同時代的な視点
ピエール・ブランダムールは、この場合の「みことば」を聖体の祝日(聖体祭)と結びつけた。聖体の祝日は化体説に基づく祝祭で、聖体 (秘跡によってイエス・キリストの血と肉体に本質が変化したパンとワイン) を崇敬するものであり、関連して聖体行列などが挙行される。
それが天から打たれるとは、落雷を伴う悪天候によって、屋外での祭典が行えなくなることだろうという。実際、移動祝日である聖体祭が行われる時期(6月ごろ)には悪天候に見舞われることは珍しくなく、ブランダムールは当時の例として、1549年6月20日を挙げている。ブールジュのジャン・グロモー (Jehan Glaumeau) の日記によると、その日はブールジュのサン=テチエンヌ大聖堂から聖体行列が出発する予定だったが、激しい雷雨に見舞われたせいで、大聖堂内での祭事に切り替えられたという。
後半は意味不明なようにも見えるが、ブランダムールによると、そうした悪天候による中止は (ノストラダムスの理解では) 未来に対する凶兆として何らかの軍事行動を戒めるものであったにも関わらず、そのような凶兆は揉み消され、軍事行動が実行に移されることを言ったものではないかという。
ピーター・ラメジャラーも、(ブランダムールの読み方を細部まで支持しているわけではないが)同時代の宗教的行列が落雷に邪魔されることの描写とする点では一致している。
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最終更新:2015年01月13日 22:52