百詩篇第3巻38番


原文

La gent1 Gauloise & nation2 estrange
Outre les monts3, morts prins4 & profligés5:
Au mois6 contraire7 & proche de vendange8
Par les9 seigneurs10 en accord redigés.

異文

(1) gent : gens 1600, Gent 1656ECLb 1772Ri, gente 1981EB
(2) nation : Nation 1672
(3) monts : Monts 1656ECLa 1672, Mons 1656ECLb
(4) prins : prit 1656ECLb
(5) profligés : profugez 1597 1600 1610 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 1716
(6) mois : moins 1591BR 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1716 1981EB
(7) contraire : contrarie 1668
(8) vendange : Vendange 1656ECLb
(9) Par les : Paules 1600, Pat les 1653
(10) seigneurs 1555 1557U 1557B 1568A 1589PV 1590Ro 1590SJ : Seigneurs T.A.Eds.

(注記1)1588-89 は百詩篇第1巻44番に差し替えられており、収録されていない。
(注記2)1656ECLはp.133とp.314で微妙な差がある。前者の異文を1656ECLa、後者を1656ECLbとしている。

日本語訳

ガリアの民と異民族は、
山々を越えて、死んだり、囚われたり、打ち倒される。
葡萄収穫期に近い対蹠の月に、
領主たちによって合意へと導かれる。

訳について

 3行目「対蹠の月」(le mois contraire / opposite) は、12か月を時計の文字盤のように円く並べた時に、任意の月の正反対に位置する月のことである*1。つまり、任意の月から見て、半年後を指すことになる。だから、3行目の大意は 「(1、2行目に描かれた戦いの)半年後はブドウ収穫期に近い時期にあたっており、その頃に」 という意味である。直訳に拘らないなら、いっそ 「半年後の葡萄収穫期のころに」 とでも意訳してしまう方が分かりやすいかもしれない。
 なお、この「対蹠の月」という表現は予兆詩第126番をはじめ、ノストラダムスの暦書の中で度々使われている表現でもある*2

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 2行目 「山々を越え とらえられ 死ぬだろう」*3は、profligésが訳に反映されていない。
 3行目「かれらに対して その月のうちに ブドーのとれるころ」は元になったヘンリー・C・ロバーツの英訳のある程度忠実な転訳だが、文章として意味不明。「かれらに対して」は、ロバーツの英訳が contrary to them としていることに影響されたものだろうが、上で述べたように contraire は mois に係って熟語を形成しているので、不適切な意訳である。

 山根訳について。
 3行目 「異なる月 収穫の時ちかく」*4は間違いとはいえないにしても、不十分ではないだろうか。「異なる月」については、この訳語では、ある月の反対側の月というニュアンスは伝わらない。もちろん、当「大事典」の「対蹠の月」でも伝わりづらさは五十歩百歩かもしれないが、「異なる月」では原文以上に漠然としすぎているように感じられる。また、vendange は収穫一般ではなくブドウの収穫に限定された単語なので、葡萄は訳語の中に入れたほうが好ましいだろう。

信奉者側の見解

 匿名の解釈書『1555年に出版されたミシェル・ノストラダムス師の百詩篇集に関する小論あるいは注釈』(1620年)は、ユグノー戦争末期に当たる1587年の戦いでのフランス人兵士やドイツ人傭兵たちを描いたものと解釈した *5

 1656年の解釈書では、1557年9月23日にローマ教皇とスペインの間で結ばれた講和条約についてと解釈した*6。当時ローマ教皇領はスペイン軍の侵略に脅かされており、フランス軍が教皇の救援とイタリアへの野心から、イタリアでスペインと争っていた。この講和条約はそのフランス軍がサン=カンタンの大敗をきっかけにイタリアからの撤兵を行なった後に結ばれたものである。
 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)はこの解釈を踏襲した*7
 その後、20世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードの著書には載っていない。
 しかし、前出の1656年の解釈書で展開された解釈は、懐疑派のエドガー・レオニ(1961年)の著書でも紹介されることになるため、エリカ・チータム(1973年)も踏襲していた*8。なお、チータムは後の著書ではそれに加えて、第二次世界大戦の予言である可能性も示した*9

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は、解釈時点から見てごく近い未来に起こるドイツ軍のフランス侵攻のことであろうと解釈した*10
 アンドレ・ラモン(1943年)は1930年代のスペイン内戦と解釈した*11

 ロルフ・ボズウェル(1943年)は普仏戦争(1870年 - 1871年)と解釈した*12

 セルジュ・ユタン(1978年)はフランス革命期から第一帝政期にかけてのフランスの対外遠征についてと解釈した*13

 ジョン・ホーグ(1997年)は、1559年のカトー=カンブレジ条約についてと解釈した*14

同時代的な視点

 1行目がフランス軍と他国軍が戦っているのか、フランス軍とその外国人傭兵について言ったものかという見解の相違はあるにせよ、春に戦いで大きな犠牲が出て、半年後に講和が結ばれることになるという点では、ピエール・ブランダムールピーター・ラメジャラージャン=ポール・クレベールの見解は一致しているが、具体的なモデルの特定に成功した論者はいないようである*15

 ラメジャラーは2003年の時点では『ミラビリス・リベル』に収められた予言が下敷きになっているのではないかという可能性にも触れていたのだが、2010年になると「出典未特定」とだけ述べるようになった。

 ノストラダムスがこの詩を書いた当時はイタリア戦争末期で、フランスはイタリア諸邦、サヴォワ、イギリス、スペイン、神聖ローマ帝国などとしばしば争っていた。特にスペインとの争いではピレネー山脈が、イタリア諸邦やサヴォワとの争いではアルプス山脈が関わってくるので、フランスとどことの争いかを明記しなければ、当たったとしても驚くには値しない情景描写にも思われる。


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最終更新:2015年02月02日 04:33

*1 cf. Brind'Amour [1996]

*2 Brind'Amour [1996]

*3 大乗 [1975] p.106。以下、この詩の引用は同じページから。

*4 山根 [1988] p.127。以下、この詩の引用は同じページから。

*5 Petit discours..., p.8

*6 Eclaircissement..., p.314

*7 Garencieres [1672]

*8 Cheetham [1973]

*9 Cheetham (1989)[1990]

*10 Fontbrune (1938)[1939] p.179, Fontbrune [1975] p.196

*11 Lamont [1943] p.164

*12 Boswell [1943] p.148

*13 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]

*14 Hogue 81997)[1999]

*15 Brind'Amour [1996], Lemesurier [2003], Clébert [2003]