原文
L'enfant1 naistra à deux dents2 à la gorge3
Pierres4 en Tuscie5 par pluie6 tomberont:
Peu7 d'ans8 apres ne sera bled9, ne orge10,
Pour11 saouler12 ceux qui de faim failliront13.
異文
(1) L'enfant : L'Enfant 1668P 1672
(2) dents : dent 1590SJ
(3) à la gorge 1555 1840 : en la gorge T.A.Eds. (sauf : dans la gorge 1627)
(4) Pierres : Pierre 1590SJ 1649Ca 1650Le 1668, Purres 1672
(5) Tuscie : Tulcie 1590SJ 1649Ca 1650Le 1668
(6) pluie : pluy 1591BR 1605 1611 1628 1649Xa
(7) Peu : peu 1672
(8) d'ans : dans 1605 1628 1649Xa 1653 1665
(9) bled : Bled 1672
(10) ne orge 1555 1557U 1557B 1589PV 1590SJ 1649Ca 1650Le 1668 1840 : ny orge T.A.Eds. (sauf : ny Orge 1672)
(11) Pour : pour 1672
(12) saouler : souler 1772Ri
(13) failliront : falliront 1590Ro 1627, failleront 1605 1628 1649Xa 1672
(注記)1588-89なし、1630Ma欠落
日本語訳
喉に二本の歯を持つ子供が生まれるだろう。
トゥスキアでは石つぶてが雨の代わりに降るだろう。
ほんのわずかな年の後、ないだろう、
飢えで衰えた人々を飽食させるための小麦も大麦も。
訳について
2行目「石つぶて」の原語は pierres で、複数形になっていることを多少とも表現するために単なる「石」とはしなかった。
3行目の直訳は「ほんのわずかな年の後、小麦も大麦もないだろう」だが、4行目の係り方をわかりやすくするために、あえて「小麦も大麦も」は4行目に回した。
既存の訳についてコメントしておく。
大乗訳について。
1行目 「子供が口に二本の歯を生じ」は誤訳。gorge を「口」と意訳するのは構わないだろうが、naistra (naîtra) は 「生まれるだろう」 の意味で、「生み出すだろう」 の意味ではない。
2行目 「トスカニーで石を雨のようにふらせるだろう」 も微妙。トゥスキアをトスカニーとするのは(イタリア地名を英語読みするのには目をつぶるとして)許容範囲内だが、構文理解がおかしい。1行目との繋がりからすると、主語は「子供が」とならざるをえないが、tomberont の活用形からすると不自然 (特に、大乗訳の底本となった
ロバーツ本は Pierre と、石が単数形になっているので、なおさら不自然)。
4行目「食べるものがなくなり みなが飢えで気力もなくなるだろう」も、大まかな意訳としては許容されるかもしれないが、細部に問題がある。saouler は「飽食させる、充足させる」などの意味だが、そのニュアンスが含まれていない。なお、ロバーツ本では saouler が faouller と誤植されており、意味不明である。
山根訳は特に問題がない。2行目 「トスカナに石の雨が降るだろう」にしても、トゥスキアをトスカナと意訳するのは許容範囲だろう。
信奉者側の見解
その
マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は、パリが崩壊する近未来の大戦 (彼は Tuscie は Tulcie になっている底本を採用しており、
アナグラムによって
Luteciを導いている) のときに、生まれつき歯をそなえている
反キリストが誕生することを予言したものと解釈した。
後の改訂版でも基本線は同じだが、Tolcie は Tuscie のことで
トスカーナであると直されている(ただし、パリ壊滅という解釈は残っている)。
息子の
ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)も反キリスト誕生という解釈を引き継いだ。ただし、晩年の著書では触れられなくなった。
ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)は、トスカーナの爆撃と驚異(歯のある子供)の誕生の後に世界的な飢饉が起こることと解釈した。
エリカ・チータム(1973年)は、ルイ14世が生まれつき歯が生えていたというエピソードを引き合いに出し、彼の時代の地方的な飢饉についての予言かもしれないとした。なお、ルイ14世についての情報は
エドガー・レオニが指摘していたので、それを流用したものだろう。
セルジュ・ユタンは1978年の時点では、前半2行をロシア革命の隠喩ではないかとし、ソ連成立までの内戦や飢餓についての予言とした。しかし、1981年版では、近未来の反キリスト誕生も予言されているとした。
ボードワン・ボンセルジャンの補訂(2002年)では、未来の反キリスト誕生と飢餓に関する予言とされ、ロシア革命云々は削られた。
同時代的な視点
ピエール・ブランダムールは、歯のある赤子の誕生という「驚異」が、古代ローマ時代から言及されていたことを指摘し、ユリウス・オブセクエンスや大プリニウスの言及例を挙げている。ブランダムールはこれを飢餓の予兆と見なしており、実際、ノストラダムスの『予言集』では、第2巻7番、第3巻42番、第12巻4番のいずれでも飢餓の到来と結び付けられている。
石の雨も、空からの異常降下物(いわゆるファフロツキーズ)の一種として認識されていたものであるが、
百詩篇第2巻18番とともに、
ピーター・ラメジャラーは雹を伴う嵐の可能性を指摘している。
ジャン=ポール・クレベールは流星雨の可能性を示しているが、それが果たして16世紀に「火・光」ではなく「石」と認識されたかは少々疑問である。
いずれにしても、
高田勇・
伊藤進が指摘するように、前半の驚異が後半の飢餓の予兆となっているという構成は疑いのないところで、その意味ではガランシエールやギノーの解釈は妥当なものだったといえる。ポイントは、それが実際に未来に起こると考えるか、16世紀のよくある言説の投影と見るかということであろう。
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最終更新:2015年06月03日 22:08