百詩篇第8巻88番


原文

Dans la1 Sardeigne vn noble Roy2 viendra,
Que3 ne tiendra que trois ans le royaume4,
Plusieurs couleurs5 auec soy conioindra,
Luy mesmes6 apres soin7 someil8 marrit scome9.

異文

(1) la : le 1600 1610 1650Ri 1716
(2) Roy : roy 1590Ro
(3) Que 1568A 1568B 1568I 1590Ro : Qui 1568C & T.A.Eds.
(4) royaume : Royaume 1605 1603Mo 1611 1628 1644 1649Ca 1649Xa 1650Le 1650Ri 1653 1665 1668 1672 1712Guy 1716 1772Ri 1840 1981EB
(5) couleurs : colleurs 1568A 1653 1665, coulleurs 1568I, coleurs 1590Ro
(6) Luy mesmes : Luy mesme 1568C 1591BR 1597 1600 1603Mo 1605 1610 1611 1627 1628 1630Ma 1649Ca 1649Xa 1650Le 1650Ri 1653 1665 1668A 1672 1716 1772Ri 1840 1981EB, Luy-mesme 1644 1668P 1712Guy
(7) soin : sein 1716
(8) someil : somme il 1603Mo
(9) marrit scome : marri scome 1627 1653 1665 1712Guy, Matrirscome 1672

校訂

 2行目 Que は初出の1568年版の時点で揺れがあるように、Qui の方が適切である。ただし、中期フランス語においては qui の代わりに que が使われることもあったので*1、誤りとはいえない。

日本語訳

サルデーニャに高貴な王者が来るだろう。
その者は三年しか王国を保てないだろう。
多くの色が彼と結びつくだろう。
彼自身は憂慮の後、安眠が嘲りに悩まされる。

訳について

 4行目以外はそれほど難しい要素はない。その4行目 marrit について、エドガー・レオニマリニー・ローズは古フランス語 marrir の活用形(レオニは三人称の現在形、ローズは過去分詞)と見なしている。DALFにも「道に迷わせる」(égarer)、「嘆かせる」(affliger)、「悲しませる、苛立たせる」(chagriner)、「怒らせる、気分を害させる」(fâcher)などの意味の marir / marrir は載っている。
 同じ行の scome はラテン語の scomma (嘲り、皮肉)の変形(フランス語化)と理解されている。アナトール・ル・ペルチエの指摘以来、ほぼ異論がない(これ以前にもバルタザール・ギノーがギリシア語に基づいて同様の意味を導いたことはあった)。
 ピーター・ラメジャラーは4行目の apres 以降を apres son sommeil matrimonial (彼の結婚のまどろみの後で)と読み替えている。もっとも、リチャード・シーバースは上に挙げた伝統的な読みに近く、ラメジャラーの読み替えを支持していない。韻を考慮しても marrit scome が matrimonial の変形や誤記と見なすのは無理があるのではないだろうか。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 3行目 「彼は多くの色で結び」*2は不適切であろう。この行の主語は「多くの色」であり、avec soy (彼とともに)とあるのだから、大乗訳では細かいニュアンスがかなり違うように思われる。
 4行目「あとになって注意をおこたり 後悔がやってくる」は誤訳だが、底本の異文(上の「異文」欄にある matriscome を採用している)が意味不明なので、訳しようがなかったであろうという事情には、いささか同情の余地がある。

 山根訳はおおむね問題はないものと思われる。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、サルデーニャがナポリ王をかねていたスペインの領土であることを指摘し、最初の3行は幾分理解できるが、最後の行は意味不明とした*3。彼は marrit scome をわざわざ matrirscome と改変しているが、英訳の方でもそのままで、どのような意味なのか一切注記していない。
 バルタザール・ギノー(1712年)は、ほとんどそのまま敷衍するような説明しかつけていなかった*4

 解釈を転回させたのがアナトール・ル・ペルチエ(1867年)である。彼は、サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世(在位1796年 - 1802年)と解釈した*5。カルロ・エマヌエーレはサヴォワ公爵家の由緒正しい家柄であったが、第一共和政フランス軍(ル・ペルチエは3行目の plusieurs couleurs を三色旗と解釈した)に押される形で領土を失い、1798年にサルデーニャ島へとやってきた(サルデーニャ王国はサルデーニャ島とピエモンテにまたがっていたが、首都は後者のトリノにあった)。しかし、フランス軍が更に攻勢を強め、1802年にピエモンテを奪ったことから、カルロ・エマヌエーレは弟のヴィットーリオ・エマヌエーレ1世に譲位した。カルロ・エマヌエーレはその後、1819年にローマで失意と屈辱のうちに没したのである。


 セルジュ・ユタン(1978年)はサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を中心とするイタリア統一の動きと解釈した。ボードワン・ボンセルジャンの補訂(2002年)では、サルデーニャ王国の成立(1720年)とする解釈に差し替えられた*7

同時代的な視点

 ピーター・ラメジャラーは、1323年から1326年のアラゴン王によるサルデーニャ征服がモデルになっていると解釈した*8。この解釈はリチャード・シーバースも踏襲している*9

 サルデーニャの支配権は古来めまぐるしく揺れ動いていたので、仮に上記事例がモデルでなかったとしても、過去のいずれかの事件を漠然としたモデルに使い、将来の政変を想定したとしても特におかしなことではなかったように思われる。


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