原文
Lous
1 gros
2 de Mende,de Roudés
3 & Milhau
4
Cahours
5 , Limoges, Castres
6 malo sepmano
De nuech
7 l’
intrado 8 , de Bourdeaux
9 vn
cailhau 10
Par Perigort
11 au toc
12 de la campano
13 .
異文
(1) Lous 1555 1594JF 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 1840 : Deux T.A.Eds. (sauf : Doux 1772Ri)
(2) gros : Gros 1772Ri
(3) de Roudés : de Rodés 1557B, de Roudez 1588-89, de Rodes 1589PV, & de Roudes 1611B 1981EB, de roudés 1653 1665, de Rhodes 1649Ca 1650Le 1668, de Rhodez 1594JF 1672, & de Roudés 1605 1611A 1628 1649Xa
(4) & Milhau : Milhau 1588-89, & Milhan 1627, & Milhaut 1605 1649Xa, & Millaud 1672
(5) Cahours : Cahors 1557B 1588-89 1589PV 1594JF 1649Ca 1650Le 1668 1672, Caors 1590Ro
(6) Castres : Castre 1605 1649Xa 1672, Gastres 1653 1665
(7) De nuech : De nueh 1557B 1589PV, Denuech 1981EB
(8) l’intrado : lintrado 1716
(9) Bourdeaux : Bordeaux 1557B 1589Rg 1589Me 1589PV 1594JF 1649Ca 1650Le 1668
(10) vn cailhau : vncailhau 1557U 1557B 1568 1589PV 1590Ro 1649Ca 1840, vncail hau 1588-89, vn calihau 1627 1630Ma 1644 1650Ri, vn calibau 1653 1665, an cailhau 1672
(11) Perigort : perigort 1589Rg 1589Me, Perigord 1594JF, Perigot 1716
(12) toc : roc 1588Rf 1650Le
(13) campano : compagno 1588Rf 1589Rg, campagno 1589Me, Campano 1649Ca 1650Le 1668 1672
(注記)1594JF p.222, p.234 では Perigord だが、p.238 では初出と同じく Perigort と表記されている。
校訂
日本語訳
訳について
実証主義的な論者たちの前半の読み方については、それほど大きな差はない。
山根訳(後述)の解説では「記されている地名も、かなり仮装をほどこしているらしく、正式にどの地方かはよくわからない(南西フランスのものか?)」などと大げさに書かれているが、当時 o と ou が交換可能であったことを考慮すれば、Bourdeaux は Bordeaux 、Cahours は Cahors と何も変わらないし、Mende, Limoges, Castres は現代語でもそのままである。Perigort と Périgord は綴りの揺れの範囲内だし、やや離れているように見える Milhau と Millau、Roudés と Rodez にしても、 Milhau や Roudés (Rodés)はそれらの都市のプロヴァンス語表記にすぎない。仮装云々などというのは見当違いのミスリードと言わざるをえない。
なお、日本語として自然につながるように、上の訳では2行分まとめて訳した上で2つに区切ったため、それぞれの行に厳密に対応しているわけではない。あえて無理に各行に対応させると「有力者たち ― マンド、ロデーズ、ミヨー / カオール、リモージュ、カストルの ― (にとっては)、悪い一週間」 とでもする他ないだろう。
既存の訳についてコメントしておく。
大乗訳 について。
1行目「メンデスにある二つの大きな町 ロードとミラード」は固有名詞の読みがひどいことを棚上げするとしても、明らかに誤訳。冒頭の Lous が Deux になっている底本に従ったとしても、ロデーズの直前に de がある以上、前半と後半を並列的に捉えるべきではない。
3・4行目「入口がボルドーから鐘を鳴らしながら/ペリゴートを通って」は、un cailhau が完全に無視されている。
山根訳 について。
1行目「マンドと ロデおよびミローとの二つの大きなもの」は、大乗訳と同じく底本の不適切さの影響はあるが、その底本に基づく訳としては許容されるだろう。
3行目「夜には入場 ボルドーから侮辱」は不適切だろう。「侮辱」という訳語はかつてはともかく現代では見られない (
cailhau を参照)。
信奉者側の見解
ジャン=エメ・ド・シャヴィニー (1594年)は、いずれもユグノー戦争期のフランス情勢と解釈し、詩句をばらばらの時期に当てはめ、1574年8月、1577年1月、1579年12月の出来事が組み合わさっていると見た。
これ以降は、基本的に全訳本の類でしか言及されてこなかった詩だが、以下に見るように、全訳本の著者たちにも、ほとんど何も解釈していないに等しい者たちがいる。
テオフィル・ド・ガランシエール (1672年)は時期を明記していないものの、挙げられている諸都市による「王国の徴税吏」(the Collectors of the Kings taxes)に対する戦いの描写と解釈した。
ヘンリー・C・ロバーツ (1947年)はこの解釈を踏襲した。
エリカ・チータム (1973年)、
セルジュ・ユタン (1978年)はフランス南西部が舞台になっていることを推測しつつも、どのような出来事に関する予言なのかは特定しなかった。
同時代的な視点
ロジェ・プレヴォ は国王軍のボルドー入りは夜のことではなかったし、反塩税一揆がモデルとするのは不適切として、1562年のフランス南西部の情勢をモデルと見なした。しかし、この詩の初出は1555年のことなので、プレヴォの推定はいささか強引なものと判断せざるをえない。
この詩は、少なくともフランス中部から南西部における何らかの騒乱を下敷きにしたものと考えられる。反塩税一揆は細部で合致しないとしても有力なモデルではあろうし、ノストラダムスにとっては、鎮圧から10年もたっていないその一揆の再発などを警戒する気持ちがあったとしても、とりたてて不自然はないように思われる。そうした警戒心に基づく描写ならば、過去の歴史的事件と全てが一致しなかったとしても不思議ではないだろう。
【画像】 関連地図(ペリゴール地方は中心都市ペリグーで代用)
※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
最終更新:2015年08月28日 22:59