百詩篇第3巻57番


原文

Sept foys changer verrés1 gent2 Britannique
Taintz3 en sang4 en deux cent5 nonante an6:
Franche7 non point par apui Germanique8.
Aries9 doute10 son pole11 Bastarnan12.

異文

(1) changer verrés : changer verres 1590Ro, verrez changer 1656ECL 1712Guy
(2) gent : gens 1557U 1568A 1588-89 1590Ro 1591BR 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1672 1716, Gent 1668P 1712Guy 1715DD
(3) Taintz : Taintes 1644 1650Ri, Tainte 1650Le 1715DD, Traintes 1653 1665
(4) sang : Sang 1715DD
(5) cent 1555 1557U 1840 : cens T.A.Eds.
(6) an : ans 1557B 1656ECLb 1665 1712Guy 1715DD
(7) Franche : France 1589Me 1605 1628 1649Xa 1649Ca 1650Le 1656ECL 1668 1672 1712Guy, France ?[sic.] 1715DD
(8) Germanique : germanique 1981EB
(9) Aries : Ariez 1649Ca 1650Le 1668, D'Aries 1715DD
(10) doute : double 1656ECL 1672 1712Guy 1715DD
(11) pole : Pole 1588Rf 1589Rg 1653 1656ECLb 1665 1715DD, Polle 1589Me, Pope 1672(英訳はPole)
(12) Bastarnan : bastarnan 1605 1611 1628 1649Xa 1981EB, Basharnin 1715DD

(注記1)1630Ma は比較できず。
(注記2)1656ECL は2箇所(pp.117, 176)に登場する。2箇所に共通する異文を 1656ECL, p.176のみに見られる異文を 1656ECLb とした。

校訂

 ピエール・ブランダムールは2行目の Taintz を Tainte と校訂している。ブリューノ・プテ=ジラールリチャード・シーバースはそれを踏襲している。
 他方、一部の版に見られ、信奉者的解釈で好まれる3行目の Franche を France とする校訂は、ブランダムール、プテ=ジラール、シーバースのほか、エドガー・レオニエヴリット・ブライラーマリニー・ローズピーター・ラメジャラージャン=ポール・クレベールの誰からも支持されていない。

日本語訳

汝らはブリタニアの人々が七回変わるのを見るだろう。
― それは二百九十年にわたる血塗られたもので、
自由では全くなく、ゲルマニアの支援によるところの変化である。―
白羊宮はバスタルニアの緯度を危惧している。

訳について

 2行目と3行目は1行目の「変わること」を修飾している。それぞれの行に対応させる関係上、挿入的に訳した。
 3行目 Franche についてはエドガー・レオニピエール・ブランダムール高田勇伊藤進ピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースはいずれも「自由」の意味に捉えている。エヴリット・ブライラーはフランシュ・コンテ地方と解釈していた。
 4行目 Bastarnan は「バスタルニアの」(de Bastarnie)の意味。ブランダムールをはじめ、実証主義的論者に異論は見られない。バスタルニアの語義は後述の「同時代的な視点」節を参照のこと。
 pole は普通は「極」「軸」などの意味であるが、latitude と釈義したブランダムールおよびそれを踏襲して「緯度」と訳出した高田勇伊藤進に従った。シーバースの英訳で使われているのは clime (気候帯による地域)で、似たようなものである。

 既存の訳についてもコメントしておく。
 大乗訳3行目「フランスでなくドイツ人にささえられ」*1は、Franche が France になっている底本に基づいていることによる。
 同4行目「同盟国はバスターナンの柱を二倍にする」は、二倍が double という異文によるものとしても、「同盟国」はどう見ても誤訳。Aries を Allies と取り違えたものではないだろうか。

 山根訳はおおむね問題はない。ただし、4行目「牡羊座はポーランドの保護領を怖れる」*2エリカ・チータムの英訳を忠実に訳したものだが、解釈をまじえすぎで不適切。

信奉者側の見解

 290年という分かりやすい区分と、英仏独という主要国が登場することから、17世紀以来、多様に解釈されてきた詩である。

 1656年の解釈書では、「諸外国、異教徒、不満分子の努力にもかかわらず、フランス王国の栄光が持続する」と題して、実に10ページを超える解釈が展開されている*3
 その解釈では、290年はこの詩が書かれた1555年頃から数え、1845年までにイングランドが7回にわたり、宗教や政体を変化させることを示しているとされ、1656年までにすでに4回変化したとしている。すなわち、メアリー1世(在位1553年 - 1558年。カトリック)、エリザベス1世(在位1558年 - 1603年。国教会)、ジェイムズ1世(在位1603年 - 1625年)が開いたスチュアート朝、ピューリタン革命を経ての護国卿クロムウェル(在任1653年 - 1658年)の4回である。
 3行目前半は Franche を France とした上で「フランスには何もない」と解し、フランスはイングランドのような政変や宗教の変化はなく、同じ期間は栄光に浴することを描写しており、3行目後半はドイツにあった神聖ローマ帝国の皇帝の座をも手中におさめることになると解釈した。4行目は同じ290年間に関する占星術的な説明だという。

 ジャック・ド・ジャン(1672年)、テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)、バルタザール・ギノー(1712年)も、ほぼこの解釈を踏襲している(ギノーに至っては1656年の解釈書を一部引用している)*4
 また、1691年ルーアン版『予言集』に掲載された「当代の一知識人」の解釈も、この線に沿っている*5。この「当代の一知識人」はジャック・ド・ジャンという説もあるので、ド・ジャンと同じ解釈であることにはことさら驚くまでもないのかもしれない。なお、この1691年の解釈では、7回の変化のうち6回までが成就したとされている。すなわち5回目が王政復古で、6回目が名誉革命である。

 D.D.(1715年)は、自著の最後にこの詩を採り上げ、7度の変化を1649年の共和政樹立から起算した。すなわち、ピューリタン革命による共和政樹立(1649年)、チャールズ2世による王政復古(1660年)、その弟のジェイムズ2世の即位(1685年)、名誉革命(1689年)、アン女王治世下でのホイッグ党とトーリー党の対立(1711年)、そしてハノーヴァー朝の成立(1714年)までで6度の変化を経験しており、7度目が1649年から起算して290年後、すなわち1939年に訪れるまではハノーヴァー朝は安泰であり、そのあと最後の審判が起こると解釈した*6
 17世紀から18世紀の目まぐるしい政変が続いていたイギリスにあって、ハノーヴァー朝が200年以上の安泰を築くというのは、あからさまに成立直後のハノーヴァー朝に迎合的な解釈だったといえるが、実際のハノーヴァー朝は、サックス=コーバーグ=ゴーサ、ウィンザーと家名を変えつつも現在まで存続している(現在のエリザベス2世はウィンザー朝とされるが、ハノーヴァー朝から連続している)。ゆえに、D.D.の解釈は(おそらく彼の期待を良いほうに裏切る形で)外れたことになる。

 アナトール・ル・ペルチエ(1867年)は290年間を1501年から1791年と解釈した。その期間の7度の変化とはすなわち、ヘンリー8世がローマ・カトリックと袂を分かったこと(1532年)、メアリー1世がカトリックに回帰したこと(1553年)、エリザベス1世がカトリックからイギリス国教会に戻したこと(1558年)、ピューリタン革命による共和政樹立(1649年)、王政復古(1660年)、名誉革命(1688 - 89年)、ハノーヴァー朝の成立(1714年)で7度となる*7
 この解釈はジェイムズ・レイヴァー(1952年)が踏襲した*8

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は、フランドル戦争(帰属戦争)(1667年)、オランダ戦争(フォンブリュヌは1771年としているが1671年の誤りか。フランスの宣戦は1672年)、アウクスブルク同盟戦争(1688年)、ユトレヒト条約後の英仏同盟(1716年)、ジョージ王戦争(1744年)、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)という、英仏が関わった6度を想定し、7度目を未来としていた*9。後の改訂版では、1667年から290年として1957年という期限も登場した*10
 息子のジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)はこれを一部修正し、1628年のラ・ロッシェル攻囲から起算すべきとした。ジャン=シャルルによる「7度」の解釈は、ラ・ロッシェル攻囲、クロムウェル時代の仏英同盟(1657年)、フランドル戦争、対オランダの仏英同盟(1670年)、アウクスブルク同盟戦争、対スペインの英仏蘭三国同盟(1717年)、ジョージ王戦争、第一次世界大戦となっており、290年間は1628年から1918年を指すとした*11

 アンドレ・ラモン(1943年)は1649年から290年後として、第二次世界大戦勃発に結びつけ、従来、星位と結び付けられることが多かった4行目をポーランド情勢と解釈した*12。1649年から290年後という予測は、クルト・アルガイヤーによると、C. L. ロークが1921年に次の世界大戦と結びつける形で示していたという。アルガイヤーはそれを支持しており*13モーリス・シャトラン(未作成)も同様の説を採った*14

 ロルフ・ボズウェル(1943年)は290年後は航海法(1651年)から起算して1941年とした。他方で、7度の変化はエリザベス1世の死によるスチュアート朝の成立(1603年)からウィンザー朝のエリザベス王女(1926年生。のちのエリザベス2世)という「エリザベスからエリザベスへ」と理解した*15

 ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)は、イギリスが血塗られた変化を多く蒙るのに対して、フランスは安定するという、かつてのガランシエールの解釈を大幅に縮約したような解釈しかつけていなかった*16。しかし、後の娘婿夫婦らによる改訂では、1555年から1845年までの290年間にあった7度の変化、すなわちエリザベス1世によるイギリス国教会への回帰(1558年)、スチュアート朝の成立(1663年とあるが1603年の誤り)、ピューリタン革命による共和政(1649年)、王政復古(1660年)、名誉革命(1688年)、ハノーヴァー朝の成立(1714年)、選挙法改正(1832年)を指すと解釈された*17

 それと似た区分を採っているのがヴライク・イオネスク(1987年)で、彼はプロテスタントを弾圧したメアリー1世、カトリックおよびメアリー・スチュアート派の弾圧したエリザベス1世、在位中にスコットランドやアイルランドの反乱に手を焼き、清教徒革命を招き自ら命を落としたチャールズ1世、ロンドンでのペスト流行や大火に見舞われて多くの犠牲を出し、またカトリックの大弾圧もしたチャールズ2世、名誉革命を招いたジェイムズ2世、ハノーヴァー朝を開きジャコバイト戦争を鎮めたジョージ1世、在位中に選挙法改正があったウィリアム4世の7人の治世と解釈し、290年はイギリス国教会がイギリスの国教となった1540年から起算すべきとした。
 4行目をポーランド情勢と解釈し、290年の下限となる1830年ころには、ポーランドでも独立運動が活発化したことと解釈した*18
 この解釈は竹本忠雄(2011年)が踏襲した*19

 エリカ・チータム(1973年)は先行する論者の説を中途半端に取り込んだのか、1603年のスチュアート朝成立を起点(starting point)として1939年までとしている(1939年を終点とするには始点は1649年の共和政樹立でなければ計算が合わない)。
 チータムは、スチュアート朝成立、共和政樹立、王政復古、名誉革命、アン女王によるスチュアート朝復古(restoration)、ハノーヴァー朝の成立、第二次世界大戦勃発で7度とカウントしている*20。なお、名誉革命の共同統治者のうち、メアリー2世はスチュアート家出身なので同王朝は断絶しておらず、チータムの表現は不自然に思える。
 その著書の日本語版(1988年)では解釈が差し替えられており、連合王国成立の1707年から起算して290年とされている。そして、その終点である1997年にイギリス王室が終わると解釈されていた*21
 しかし、チータム自身は後の著書(1989年)でも当初の「7度」を堅持しており、ポーランド情勢と結び付けた4行目を説得的に理解するには1939年を終点とするタイムラインしかないと主張していたので*22、日本語版の解釈は日本語版の監修者らによるものと思われる。

 セルジュ・ユタン(1978年)は具体的に時期を限定しない曖昧な解釈しかしていなかった*23

同時代的な視点

 バスタルニアとは古代のバスタルナエ人の居住地を表す地名で、ピエール・ブランダムールはこれを現在のチェコとスロバキアに含まれるヴィスワ川水源とドナウ川河口の間と位置づけていた*24
 かつてエドガー・レオニは現在のポーランド南部からウクライナにかけての地域としていた。

 ブランダムールによると、プトレマイオスによる区分では白羊宮の支配地域がガリア、ブリタニア、ゲルマニア、バスタルニアとされており、ノストラダムスと同時代の占星術師レオヴィッツも同様の区分を採用していたという*25
 ノストラダムスの個人的な手紙の分析から、彼がレオヴィッツを参照していたことは確定している。
 ブランダムールは白羊宮の支配地域とされるそれら4地域が北緯48度から52度とほぼ同じ緯度であることを指摘している。

 ロジェ・プレヴォは4行目について、白羊宮に属するイングランド(ブリタニア)、フランス(ガリア)、神聖ローマ帝国(ゲルマニア)が中央ヨーロッパに懸念を抱く、つまりオスマン帝国の侵攻に対して警戒しているという意味に理解しており*26ピーター・ラメジャラーもこの見解を支持している。

 ブランダムールは290年をイングランドの下院創設の1265年から約290年後のメアリー1世即位(1553年)までと解釈した*27。ただし、7度を具体的に指摘することはなかった。

 プレヴォもほぼ同じ期間を提示しているが、彼は「7度」について非業の死を遂げた人物、
  • シモン・ド・モンフォール(下院創設に功があったが1265年に敗死)
  • エドワード2世(廃位の上で死去)
  • リチャード2世(捕らえられて譲位させられたプランタジネット朝最後の王)
  • ヘンリー6世(ランカスター朝最後の王で獄死)
  • エドワード5世(王位を簒奪された上で刑死)
  • リチャード3世(ヨーク朝最後の王で戦死)
  • ジェーン・グレイ(1553年に9日間で廃位されたイングランド女王で、翌年刑死)
の7人と関連付けた*28
 ラメジャラーはこれを支持し、リチャード・シーバースの解釈でもプレヴォの説として、その説のみが紹介されている*29

 ジャン=ポール・クレベールはむしろ執筆当時から未来に向けた見通しだったのではないかと想定している。

 高田勇伊藤進も指摘するように、「ノストラダムスの時代には、イングランドはきわめて不安定な国のひとつであった」*30
 実際、フランス王国は、ノストラダムスの時代までにカペー朝(987年 - 1328年)、ヴァロワ朝(1328年 - )の2王朝しか存在しなかった。
(ヴァロワ朝はヴァロワ=オルレアン朝などに細分化されることがあるが、いずれの交替でも継承戦争などは起こっていない)
 それに対し、イングランドはプランタジネット朝(1154年 - 1399年)、ランカスター朝(1399年 - 1461年、1470年 - 1471年)、ヨーク朝(1461年 - 1485年)、チューダー朝(1485年 - )と頻繁に交替し、しかもその交替がしばしば争いに繋がっていた。
 特にジェーン・グレイの9日間での廃位は、同時代の事件としてノストラダムスにも強い印象を与えたことだろう。
 ゆえに、過去をモデルにしたとしても十分に説得的だし、過去からの類推でイングランド王朝は未来も同じく不安定になると想定したとしても、特段の不思議はないだろう。


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  • 予言はエリザベス1世のチューダー朝(1558-1603)からハノーバー家(1714‐1901)で後の1917年にウィンザー家に改名した現在の英国王朝までに、7回が王朝が変わっていること、そして第二次世界大戦が勃発した1939年の290年前は英国王チャールズ一世が処刑された事を予言している。 -- とある信奉者 (2015-09-25 22:17:26)
最終更新:2022年02月13日 00:24

*1 大乗 [1975] p.111

*2 山根 [1988] p.132

*3 Eclaircissement..., pp.176-186

*4 Jant [1672] Explication des predictions..., pp.9-12 ; Garencieres [1672] ; Guynaud [1712] pp.204-212

*5 p.192

*6 D.D. [1715] pp.108-112

*7 Le Pelletier [1867a] pp.135-138

*8 Laver (1942)[1952] p.123

*9 Fontbrune (1938)[1939] p.258

*10 Fontbrune (1938)[1975] p.265

*11 Fontbrune (1980)[1982], Fontbrune [2006] p.331

*12 Lamont [1943] p.200

*13 アルガイヤー [1985] pp.34-37

*14 シャトラン [1998] pp.65-66

*15 Boswell [1943] pp.75-77

*16 Roberts (1947)[1949]

*17 Roberts (1947)[1994]

*18 Ionescu [1987] pp.68-73

*19 竹本 [2011] p.511

*20 Cheetham [1973]

*21 チータム [1988]

*22 Cheetham (1989)[1990]

*23 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]

*24 Brind'Amour [1996] pp.408-409, 高田・伊藤 [1999] p.257

*25 Brind'Amour [1993] p.274

*26 Prévost [1999] p.101

*27 Brind'Amour [1996]

*28 Prévost [1999] p.101

*29 Lemesurier [2010], Sieburth [2012]

*30 高田・伊藤 [1999] p.257