詩百篇第1巻18番


原文

Par la discorde negligence1 Gauloyse2
Sera3 passaige a4 Mahommet ouuert5:
De sang6 trempé7 la terre & mer8 Senoyse9
Le port10 Phocen de11 voiles12 & nefs13 couuert.

異文

(1) negligence : neglicence 1590Ro, Negligence 1606PR 1607PR 1610Po 1627Di 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1716PR, et négligence 1800AD
(2) Gauloyse : Ganloise 1668P, gauloise 1800AD
(3) Sera : Fera 1800AD
(4) a 1555 1672Ga 1840 : à T.A.Eds.
(5) ouuert : onuert 1611A
(6) sang : Sang 1800AD
(7) trempé : tremblé 1627Di 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba, trempez 1656ECL 1667Wi 1668, trempée 1800AD
(8) terre & mer : Terre & Mer 1672Ga
(9) Senoyse : senoise 1800AD
(10) port : Port 1656ECLb 1672Ga 1772Ri
(11) Phocen de : phocen de 1588-89 1612Me, Pocende 1627Di, Fhocen de 1716PRb, phocéen de 1800AD
(12) voiles : voille 1611B, Voiles 1672Ga
(13) nefs : nerfs 1597Br 1605sn 1606PR 1607PR 1610Po 1628dR 1627Ma 1644Hu 1649Xa 1650Ri 1653AB 1716PR(a c), nerf 1627Di 1665Ba, Nefs 1672Ga, nerfe 1716PRb

(注記)1656ECL は2箇所(pp.119, 207)に掲載されているが、それぞれで些細な違いがある。そこで順に1656ECLa, 1656ECLb とした(ただし、前者に固有な異文は無し)。

校訂

 2行目の a Mahommet は à Mahommet となっているべき。この点、異論は全くない。

日本語訳

ガリア人の不和と怠慢のせいで、
ムハンマドに道が開かれるだろう。
シエーナの陸と海は血に染まり、
フォカエア人の港は帆と船に覆われる。

訳について

 構文理解上も単語の面でも難しい点はほとんどない。
 唯一の例外が Senoise である。これは一般にシエーナの形容詞形 Siennois(e) の綴りの揺れと受け止められており、エヴリット・ブライラーピエール・ブランダムールブリューノ・プテ=ジラールリチャード・シーバースなどは一切説明なしに「シエーナの」としている*1。ほか、ピーター・ラメジャラーも同様の読みである。
 ただし、エドガー・レオニはシエーナとしつつも若干の留保をつけていた。マリニー・ローズはフランス南部のセーヌ(現在のラ・セーヌ=シュル=メール La Seyne-sur-Mer)の可能性を挙げていた。セーヌはトゥーロン(未作成)近郊の港町であり、「フォカエア人の港」がほぼ確実にマルセイユを指すことを考慮に入れるなら、地理的関連性は確かにシエーナよりも遥かに密接になる。ただし、「セーヌの」を意味する形容詞は Seynois(e) らしい*2。なお、ラ・セーヌと見なす読み方は、当「大事典」で確認している範囲内では、マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)が最初に提示している。
 ジャン=ポール・クレベールは Genoise (ジェノヴァの)の誤記と見なす一方、不確かであるとして、ブランダムールの読みも併記していた。クレベールの校訂は根拠が示されていないが、シエーナが内陸の都市であり、「陸と海」とするには不自然である点を踏まえたのではないかと思われる。
 当「大事典」はひとまず多数説である「シエーナ」を採用した。後述する1656年の注釈書で言及されている「シエーナ低地帯」(Maremmes de Sienne)という呼称が一般的だったのなら、ティレニア海沿岸の低地帯にシエーナの名を冠することも不自然とはいえない。ただし、シエーナが港町でないことや、後述するように実証主義的にはマルセイユからトゥーロンの沿岸部の出来事がモデルになっている可能性が指摘されていることからすれば、ラ・セーヌ=シュル=メールの可能性も十分にありうるものと思われる。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 2行目 「小道がマホメットに開かれ」*3は成立する訳だが、passage は小道に限定されない。次の行との兼ね合いから言っても、「小道」では矮小化のきらいがある。
 3行目「イタリアの国土も海も 血に染まり」は、シエーナをイタリア全体の代喩と理解すれば成り立つが、そもそも上述の通り、イタリアの地名という保証もないのだから、解釈を交えすぎにも思える。
 4行目「マルセイユの港は 舟でいっぱいになるだろう」は、voile (帆)が訳に反映されていないという細かな問題点はあるものの、意訳の範囲内だろう。フォアエア人の港がマルセイユを指すことは広く合意されている。

 山根訳について。
 2行目 「モハメット教徒に好機会が与えられよう」*4は意訳しすぎだが、「ムハンマドに道が開かれる」というのはおおむねそういう意味だろう。もっとも、ムハンマド (Mahommet) の名を「マホメット」とするのならまだしも、わざわざ「モハメット」とする必然性がよく分からない。

信奉者側の見解

 1656年の解釈書では、1555年6月と7月にオスマン帝国の艦隊がティレニア海沿岸のシエーナ低地帯(Maremmes de Sienne)を荒らしたのに続いて、フランス南岸を荒らしたことと解釈された*5
 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)はその解釈をほとんど踏襲しているが、なぜか年を1559年としている*6

 匿名の解釈書『暴かれた未来』(1800年)では、時期を明記しない形で、フランスの不和と怠慢のせいで、マルセイユへとトルコ艦隊がやってくるような自体になることと、シエーナの領土で戦闘があることと解釈した*7

 ほとんどそのまま敷衍したような解釈という点ではマックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)も大差はない。ただし、彼の場合、当初は Senoise を北イタリアと結び付けていたのに対し、後の改訂版でトゥーロン近郊のラ・セーヌ=シュル=メールと結び付けていることが目を引く*8
 アンドレ・ラモン(1943年)も、未来のイスラーム勢力の南仏への侵攻と解釈していた。ただし、senoise はシエーナと理解し、イタリア全体の代喩と見なしていた*9
 マックスの解釈をほぼそのまま踏襲したのが息子のジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌで、1980年のベストセラーでは、ごく近い未来に起こる大戦の一場面として、 Senoise を「ラ・セーヌ=シュル=メールの」と理解し、イスラーム勢力によるフランス南部の受難を描いたものとした*10。1980年代に世界大戦が起こるという彼のシナリオは外れたが、彼は晩年の著作(2006年、2009年)においても、近未来にそのようなことが起こると繰り返し唱えていた*11

 エリカ・チータム(1973年)は第二次世界大戦時に、イタリア軍に北アフリカを掌握されてしまったフランスの不手際に関する予言と解釈した*12

 セルジュ・ユタン(1978年)はフランスがアルジェリアを手放し、北アフリカの植民地を失ったことと解釈した*13

 ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)はかなり漠然とした解釈しかつけていなかったが、娘リーらの改訂版(1982年)では、1970年代末から1980年代初頭のイラン革命やイスラエルによるイラク核関連施設空爆と結び付けられた*14

同時代的な視点

 ジャン=ポール・クレベールがここでの Mahommet をメフメト2世のことではないかとするなどの例外もあるが、ルイ・シュロッセ(未作成)ピエール・ブランダムールロジェ・プレヴォ高田勇伊藤進ブリューノ・プテ=ジラールピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースらはいずれも1530年代から1550年代のフランスとオスマン帝国の同盟関係、なかんずく1543年冬の共同作戦と結び付けている*15
 1543年冬、国王フランソワ1世は神聖ローマ帝国側であったニース攻略のため、オスマン帝国に支援を要請し、長期戦の中でイタリアとスペインの分断のためにもオスマン帝国がトゥーロンやマルセイユで越冬することを認めたのである。

 ノストラダムスはここで明らかにフランス沿岸でのオスマン艦隊停泊を歓迎していない。
 オスマン帝国に融和的な政策を採ることが後の侵略に繋がると警戒していたのかもしれないし、2003年の時点でラメジャラーが指摘していたように、編者不明の予言書『ミラビリス・リベル』(1520年代)に描かれていたイスラーム勢力のヨーロッパ侵攻のモチーフと重ね合わせていたのかもしれない。



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詩百篇第1巻
最終更新:2018年06月24日 20:59

*1 LeVert [1979], Brind'Amour [1996], Sieburth [2012]

*2 ウィキペディアフランス語版による。細かい地名のため、手許の辞典類では確認できない。

*3 大乗 [1975] p.49。以下、この詩の引用は同じページから。

*4 山根 [1988] p.43 。以下、この詩の引用は同じページから。

*5 Eclaircissement..., 1656, pp.207-210

*6 Garencieres [1672]

*7 L'Avenir..., p.51

*8 Fontbrune (1938)[1939] p.38, Fontbrune (1938)[1975] pp.41-42

*9 Lamont [1943] p.348

*10 Fontbrune (1980)[1982]

*11 Fontbrune [2006] p.476, Fontbrune [2009] p.93

*12 Cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]

*13 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]

*14 Roberts (1947)[1949], Roberts (1947)[1982]

*15 Schlosser [1986] p.142, Brind'Amour [1996], Prévost [1999] p.183, 高田・伊藤 [1999], Petey-Girard [2003], Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010], Sieburth [2012]