百詩篇第5巻84番


原文

Naistra du1 goulphre2 & cité3 immesuree,
Nay4 de parents5 obscurs & tenebreux:
Qui6 la7 puissance du grand roy8 reueree9,
Vouldra destruire par Rouan10 & Eureux.

異文

(1) du : d’vn 1644 1650Ri 1653 1665
(2) goulphre : gouffre 1557B 1588-89 1620PD, Gouphre 1672
(3) & cité : cité 1981EB, & Cité 1672
(4) Nay : N’ay 1627 1716
(5) parents : parans 1627
(6) Qui : Quand 1649Ca 1650Le 1668
(7) la : sa 1600, ia 1610, ja 1716, à 1627 1630Ma, a 1644 1650Ri 1653 1665 1840
(8) roy 1557U 1557B 1568 1590Ro 1605 1628 : Roy T.A.Eds.
(9) reueree : teuerée 1665
(10) Rouan : Rouen 1588-89 1589PV 1590SJ 1620PD 1649Xa 1672, Roüan 1568I 1591BR 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1644 1650Ri 1716 1772Ri 1981EB, Rouën 1627 1630Ma, Roüen 1653 1665 1668P 1840

日本語訳

湾と測りしれない都市から生まれるだろう、
暗く陰鬱な両親を出自とする者が。
その者は、大王の畏敬される権力を
ルーアンエヴルーを経て破壊することを望むだろう。

訳について

 1行目 goulphre は「湾」と「深淵」の両方に訳せるが、「都市」と親和的なのは「湾」なのでそう訳した。ジャン=ポール・クレベールピーター・ラメジャラーは「湾」で、リチャード・シーバースは「深淵」で訳している。なお、都市を形容する immesuree (測りしれない、測りきれない)がやや意味を取りづらいため、goulphre を形容していると見て「測りしれない深淵と都市から」とでも訳してみたいところだが、活用形から考えれば、それは考えがたく、実証主義的諸論者にもそのような読みは見られない。
 2行目 obscurs & tenebreux は中期フランス語にしばしば見られた同義語を重ねる用法で、ひとまとめにして訳しても差し支えないのだが、あえて重ねて訳した。
 4行目 par は多様に訳しうる。手段と解すれば「~で、~によって」で、経由と解すれば「~を通って」の意味にもなる。中期フランス語の par は dans や à などの意味もあったので*1、場所「~(の中)で、~にて」と訳すこともできる。
 ピーター・ラメジャラーは through と英訳し*2リチャード・シーバースは at と英訳している*3ジャン=ポール・クレベールは à と釈義している*4

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 2行目 「両親の生まれも不鮮明で暗く」*5は不適切。nay de (né de) は中期フランス語でも 「~の生まれ」を意味するので*6、両親の出自を述べたものではないだろう。親の出自を述べたものだとしたら、親が複数形なのに対し、 nay (né) が単数であることも不自然といえる。
 3・4行目「だれかルアンとウレックスによって/大王の破壊をするためにあたりを歩く」も誤訳。例によって固有名詞の読みを棚上げするとしても、関係代名詞 Qui を疑問代名詞として訳しているのがまずおかしい(そもそもロバーツ本では Quand が採用されているので、原文と訳文がちぐはぐである。これはロバーツの英訳の時点でそうであった。ロバーツは原文を改変しておきながら、訳文はテオフィル・ド・ガランシエールの英訳をほぼ丸写ししている)。また、 puissance (力、権力)も reverée (敬われた、畏れられた) も訳に反映されていない。さらに、voudra は英語で言えば will(shall) want であって、「あたりを歩く」という意味はない。これはロバーツ/ガランシエールの英訳で go about が使われていたためだろうが、この場合のそれは「取り掛かる」の意味で訳したものではないかと思われるので、転訳による誤訳と見るべきだろう。

 山根訳について。
 1行目 「深淵と広大無辺の市から生まれ」*7はありうる訳。goulphre は gouffre の綴りの揺れであり、「湾」と「深淵」の両方の意味があった。
 3・4行目「彼は崇められし大いなる王をルーアンとエヴルーから/滅ぼさんと欲するだろう」は誤訳。大乗訳同様 puissance が訳に反映されていない。

信奉者側の見解

 匿名の解釈書『1555年に出版されたミシェル・ノストラダムス師の百詩篇集に関する小論あるいは注釈』(1620年)は、少年王ルイ13世の摂政となったマリー・ド・メディシスに取り入って権勢を誇ったものの、ルイ13世に疎まれて暗殺されたアンクル侯爵コンチーニ(1617年歿)と解釈した *8

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、「測り知れない都市」をパリと見なし、それと「湾」について疑問があると述べただけだった*9

 その後、20世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードシャルル・ニクローの著書には載っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は近未来に現れるノルマンディ(ルーアン、エヴルーが含まれる地方)からの偉大な教皇に対立する反キリストの出現を描写したものと解釈した*10。後の改訂では、ルーアンとエヴルーは出身地ではなく経由地とされている*11

 ロルフ・ボズウェル(1943年)も、反キリスト出現と解釈している*12

 ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)はそのまま敷衍したような漠然としたコメントしかつけておらず、夫婦の改訂(1982年)でも全く変更はなかったが、の改訂(1994年)では、1990年8月にクウェートに侵攻して、サウジアラビア国王ファハドと対立したイラクの独裁者サダム・フセインとする解釈に差し替えられた*13。ただし、その解釈では湾岸危機とルーアン、エヴルーがどう関わるのかは全く説明されなかった。

 エリカ・チータム(1973年)はルーアンとエヴルーの組み合わせが、ナポレオン3世と普仏戦争の予言である百詩篇第4巻100番にも登場することを指摘するにとどまった*14。これは後の著書(1989年)でも同じで、そちらでは「私にはそれ以上の解釈は出来ない」と明言されている*15

 セルジュ・ユタン(1978年)は、「パリの『サン・キュロット』による王権の破壊」(Destruction du pouvoir royal par les «sans-culottes» parisiens)とだけ解釈した*16。この解釈は後のボードワン・ボンセルジャンの補訂(2002年)でもそのままだった。サン・キュロットは、言うまでもなくフランス革命期の小商工業者や小土地所有農民などの下層市民層のことで、ユタンの解釈は簡潔だけれども、フランス革命期の共和政樹立と解釈していることは明らかである。
 なお、五島勉は『ノストラダムスの大予言IV』(1982年)でユタンの解釈を「『フランスでの過激派の出生を描いた詩か?』と書いている程度」 と紹介しているが*17、さも引用のように見せかけた単なる捏造である。

 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)は、1行目に描写された都市を日本か中国とし、アジアから現れる反キリストがヨーロッパに侵攻し、ルーアンやエヴルーにまで攻め上ってくると解釈した*18
 五島勉は『ノストラダムスの大予言IV』で、原詩は非常に漠然としており、日本だの中国だのとまで限定できるはずがないと批判している。五島自身は侵略者一般について述べた象徴的な詩か、さもなくばヒトラーのフランス侵攻についての詩だろうというくらいにしか解いておらず、「それ以上に解いたら、それは原詩と掛け離れたこじつけになってしまう」とまで述べている*19。上で見たユタン解釈の捏造は、これと関連するのだろう。要するに、フォンブリュヌ以外に細かく限定した論者がいると、フォンブリュヌ批判が弱まってしまうので、ユタンも漠然と解釈したことにしないと都合が悪かったためと思われる。

同時代的な視点

 はからずも五島勉が指摘していたように、この詩は非常に漠然としている。ルーアンエヴルーの組み合わせは百詩篇第4巻100番にも登場するが、文脈に何らかの繋がりがあるようには見えない。

 ピーター・ラメジャラーは『ミラビリス・リベル』に描かれた、反キリストによるヨーロッパ侵攻のモチーフが投影されていると見た*20
 これは十分に妥当性を持っているように思われるが、信奉者側にも反キリストと見なす解釈は複数見られた。この詩の解釈の信奉者と実証主義的論者の違いは、その反キリストの侵攻を、実際に近未来に起こるものと見なすかどうかにあるのだろう。

【画像】 関連地図


※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
最終更新:2016年02月18日 23:05

*1 DMF

*2 Lemesueier [2003b], Lemesurier [2010]

*3 Sieburth [2012]

*4 Clébert [2003]

*5 大乗 [1975] p.170。以下、この詩の引用は同じページから。

*6 DMF

*7 山根 [1988] p.203。以下、この詩の引用は同じページから。

*8 Petit discours..., pp.24-25

*9 Garencieres [1672]

*10 Fontbrune (1938)[1939] p.266

*11 Fontbrune (1938)[1975] p.279

*12 Boswell [1943] p.306

*13 Roberts (1947)[1949], Roberts (1947)[1982], Roberts (1947)[1994]

*14 Cheetham [1973]

*15 Cheetham (1989)[1990]

*16 Hutin [1978] p.178, Hutin [1981] p.204

*17 同書、p.117

*18 Fontbrune (1980)[1982]

*19 同書、p.117

*20 Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]