ルシヨン王令

 ルシヨン王令 (Édit de Roussillon) は1564年1月に発せられた王令に対する通称で、その第39条で規定された年初に関する規定で知られる。

概要

 1月1日を年初とする思想は古代ローマ時代から存在していた。しかし、中世フランスでは聖母の受胎告知の祝日(3月25日)や復活祭を年初とする慣例が広まった。この背景には年初の祝いが異教的であるとして忌避する思想があったとも言われる。
 結果、14世紀までに北仏では復活祭(3月22日から4月25日までの不定)、南仏では3月25日を年初とする思想が広まり、前者は公文書類でも使用されるに至り、特に1月から3月の表示には混乱が生じることとなった。つまり、現代人が言うところの1502年1月1日は、当時の書類ではしばしば1501年1月1日と書かれているということである。

 この問題について、1564年1月の王令の第39条にはこうある。
  • すべての公証人証書・聖堂区記録・公文書・契約書・王令・国王親書、ならびにすべての私文書において、今後一月一日をもって一年を起算すべきこと*1

 これがいわゆるルシヨン王令と呼ばれるものの第39条だが、実際にはパリで発せられたものである。これがルシヨンの名を冠せられているのは、同年8月のルシヨン王令と混同されたことによる。
 この王令には高等法院の反発などもあったが、1567年1月1日をもって、高等法院もこの方針を採用することになった。

 現代の歴史研究などでは現行暦に換算した場合を「新方式」(nouveau style)、当時の表記のままの年を「旧方式」(ancien style)として区別している*2


【画像】 二宮敬 『フランス・ルネサンスの世界』

ノストラダムス関連

 ノストラダムスの場合、生まれたのが12月、モンペリエ大学入学が10月、再婚が11月、国王謁見が8月、歿したのが7月のため、生没年や人生の節目になる出来事が1年ずれる可能性はない。

 また、セザールへの手紙は1555年3月1日付けであって、それだけならば1556年3月1日の可能性も生じてしまうが、印刷完了日として明記されている「1555年5月4日」は旧方式の影響を受けないので、手紙の日付も1555年であることが確定する。

 暦書の献辞などにしても、新方式で理解して不整合が生じるものはなさそうである。たとえば、『1557年向けの驚嘆すべき予兆』に収録されたアンリ2世への献辞(1556年1月13日)、『1557年向けの暦』に収録された王妃カトリーヌへの献辞(1556年1月13日)などにしても、もしそれらの1556年が1557年のことだとしたら、(実際の刊行はそれ以降になってしまうので)暦書には刊行された時点で役立たずになっている日々の占いが含まれることになり、まずありえないと言ってよい。

 『予言集』の第二序文、いわゆるアンリ2世への手紙の場合、文中に登場する「1557年3月14日」という日付が1558年3月14日を指している可能性はなくもないが、上述のように他の状況証拠との整合性を考えれば、積極的には支持できない(別人による偽作の場合は別)。


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最終更新:2016年04月29日 16:31

*1 二宮敬『フランス・ルネサンスの世界』p.425

*2 以上は二宮、前掲書、特にその「年の初めについて」「生死の認知をめぐって」の2論文による