百詩篇第2巻11番


原文

Le prochain1 fils de l'asnier2 paruiendra
Tant esleué3 iusques au4 regne des fors5,
Son aspre6 gloire vn chascun7 la craindra8,
Mais ses9 enfants10 du regne11 getés12 hors.

異文

(1) prochain : Prochain 1656ECL 1712Guy
(2) de l’asnier : de l’aisnier 1568B 1568C 1568I 1591BR 1597 1600 1605 1610 1611A 1628 1649Xa 1716(a b) 1772Ri, del’asnier 1590SJ, de l'ANICR 1594JF, de l’aisner 1611B 1981EB, de l’Aisnier 1656ECL 1668 1672, de Lanier 1712Guy, de l'assené 1715DD, de laisnier 1716c
(3) esleué : esleuer 1588-89
(4) iusques au 1555 1557U 1557B 1568A 1589PV 1590SJ 1590Ro 1649Ca 1650Le 1668 1715DD : iusque au 1568B 1568C 1568I 1772Ri 1840, iusqu’au 1588-89 1591BR 1594JF 1597 1600 1605 1610 1611 1627 1628 1630Ma 1644 1649Xa 1650Ri 1653 1656ECL 1665 1712Guy 1716 1981EB, jusqu’au au [sic.] 1672
(4) regne : reng 1589PV, rang 1590SJ, Regne 1672 1712Guy
(5) fors : forts 1590SJ 1649Ca 1650Le 1653 1665 1668 1716c, Forts 1594JF 1712Guy 1715DD
(6) aspre : Aspre 1656ECL
(7) chascun : chacnn 1590Ro
(8) la craindra : craindra 1600 1610 1716
(9) ses : les 1672
(10) enfants : Enfans 1715DD
(11) regne : Regne 1656ECL 1672 1712Guy
(12) getés/gettez : iette 1588Rf 1589Rg, ietté 1589Me, iettez 1589PV 1590SJ 1594JF 1600 1611B 1627 1630Ma 1644 1649Ca 1650Ri 1650Le 1653 1656ECL 1665 1668 1672 1712Guy 1715DD 1981EB

(注記)1555を忠実に転記している1840が珍しく転記を誤っている詩 ( jusques au の部分)。

校訂

 異文は多いが、ピエール・ブランダムールは初版の原文を堅持している。ただし、jusques au の部分は実質的に jusqu'au と発音すべきという注記はある。

日本語訳

驢馬引き人の跡取り息子が成り上がるだろう、
強者たちの支配にまで並ぶほどに高く。
その荒々しい栄光を誰もが恐れるだろう。
しかし、その子供たちは王国の外へと追い出される。

訳について

 1行目 l'asnier (l'ânier) は「驢馬引き、驢馬を引く人」の意味で何も難しいものではない。また、中期フランス語では無知な人物や愚昧な人物の意味にもなった *1
 しかし、この語がノストラダムスの死後刊行された1568年版の一部で(おそらく誤って) l'aisnier という意味不明の単語に書き換えられたことで、むやみに読みが多様化してしまった(この点、以下の大乗訳・山根訳についての検討や「信奉者側の見解」節を参照のこと)。エドガー・レオニは l'aîné もしくは l'Aisnier (l'Aisné) としていたが、現在では支持できないだろう(そもそも後者の固有名詞が古語辞典も含めて確認できず、レオニも詳述していない)。
 同じ行の fils (息子)の前の prochain は普通は「次の」の意味なので、「次男」とでも訳したくなるところだが、この場合の prochain は「跡継ぎ」の意味であり、同時代のルメール・ド・ベルジュなどに同様の用例が見出せることをピエール・ブランダムールが指摘している*2高田勇伊藤進訳でも「驢馬曳きの跡取り息子」*3となっている。

 ブランダムールが指摘するように、2行目と4行目のregneは文脈に応じて訳し分ける必要がある。ジャン=ポール・クレベールは後の異文と同じように2行目の regne を rang と釈義しているが、regne のままでも意味は通じるだろう。
 2行目 fors はジャン=ポール・クレベールも指摘するように forts の綴りの揺れと理解するのが自然であり、ブランダムールも puissants と釈義している。かつてエドガー・レオニは古フランス語の fors は privileges (特権)の意味とし、そのように英訳していた。DALF には「外に」(hors)の意味を持つ fors や「おそらく」(peut-être)の意味を持つ fors のほか、fuer (価格、慣習ほか)の綴りの揺れとしての for はあるが、「特権」の意味は確認できない。エヴリット・ブライラーも「価格、慣習」などとともに「特権」を挙げているので事実なのだろうが、そのような意味が実際にあろうとも、この詩においてはあまり考慮しなくて良いのではなかろうか。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「近くでライズニールの長兄は栄え」*4は、ガランシエールの異文に基づくという点を差し引いても誤訳。冠詞の付いた Le prochain を副詞的に「近くで」と訳すのは無理があるし、prochain をそう訳すなら、単なる「息子」の意味でしかない fils だけで「長兄」と訳すのはやや強引だろう。
 2行目「偉大な地位にまでのぼり」は、副詞の tant が訳に反映されていない。また、regne des forts (強者たちの支配)を「偉大な地位」とするのは、意訳にしても原文の意味合いからやや離れているように思われる。
 4行目「だが彼の子供たちは追いだされるだろう」は、du regne(王国から) が訳に反映されていない。

 山根訳について。
 1行目 「二番目の息子が大成功をおさめ」*5は定本の違いを考慮に入れても不適切。prochain を「次の」→「二番目の」としたのだとしたら l'aisnierが訳に反映されていない。ちなみに元になったはずのエリカ・チータムの英訳は The following son the elder *6という、これはこれで問題のある訳だった (チータムの盗用元の一つであるレオニの英訳では the elder の前に of が入っている)。
 2行目「大権を握る王国の頂上をきわめる」は意訳を交えすぎていて不適切。大乗訳同様に tant が訳に反映されていない。

信奉者側の見解

 ジャン=エメ・ド・シャヴィニー(1594年)は l'asnier を l'ANICR と読み替えるという特異な読みを導入し、プロヴァンス語の Anric のアナグラムと見なしてアンリ2世と解釈し、その「息子」を、ポーランド王になった後でフランス王になったアンリ3世と解釈した*7
 バルタザール・ギノー(1712年)は、原文は Lanier としつつも解釈では l’ANICR を採用し、シャヴィニーの解釈を踏襲した*8

 1656年の解釈書は、著者がアミアンの名士マヌシエ・レリュ (Mr. Mannessier l’Eslu) という人物から聞いた話として、ノストラダムスの友人であった「レニエ領主たちの偉大な父」(le grand Pere des messieurs l’Aisnier) が、子どもの未来を相談したときに贈られた詩とした*9
 レニエ(l’Aisniers)という地名は見当たらない(ベルギーになら Ainières という地名がある)。アミアン近くにはエーヌ川 (l’Aisne) があるので、それと何か関連があるのかもしれない。
 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、1656年の解釈書のエピソードをそのまま転用している*10
 このエピソードはさらにヘンリー・C・ロバーツ(1947年)がそのまま踏襲することになる*11

 D.D.(1715年)はこの詩から百詩篇第2巻13番までをひとまとめに扱い、スチュアート朝を開いたジェイムズ1世と解釈した*12。D.D.は1行目の単語を読み替えることで「父の暗殺の少し前に生を享けた子供」と訳した(1566年6月生まれのジェイムズ1世は、父親であるダーンリー卿を翌年2月に失っている。ダーンリー卿の死因は謎の爆死)。ジェイムズの息子チャールズ1世の時にピューリタン革命が起こっている。

 フランシス・ジロー(1839年)は直前の詩とセットで解釈し、ルイ=フィリップと解釈した*13
 ルイ=フィリップとする解釈はセルジュ・ユタン(1978年)も採用した*14

 シャルル・ニクロー(1914年)はナポレオン・ボナパルトと解釈した。ニクローは l'asnier を lainier (羊毛製造業者、羊毛商人)と読み替えて「ハヤブサ」(Faucon) としたが、おそらく lanier (ラナーハヤブサの雌)と更に読み替えているものと思われる*15。なお、lanier と読んでハヤブサを導くのは、アナトール・ル・ペルチエの語註に見られたものである*16

 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)はナポレオン・ボナパルトの百日天下の終焉(1815年6月)と解釈した*17

懐疑的な視点

 ノストラダムスの知人宛てとする解釈について、エドガー・レオニは「面白いが、かなり疑わしい解釈」「全然説得力のない詳細」と、否定的に紹介している。実際、エドガール・ルロワイアン・ウィルソンらの実証主義的な伝記では、このような人物への言及は見られない。
 1656年の解釈書には、ほかにもフロランヴィルの領主のような、実証主義的にノストラダムスとの関わりが確認されていない人物やエピソードが登場することを忘れてはならない。この詩の解釈にしても、全面的に嘘と切り捨てられるかには議論の余地があるだろうが、あまり軽率に信じるべきでないことは確かだろう。

 なお、上述のように l'aisnier という異文はノストラダムスの死後にならないと登場しない。初版(1555)、生前の増補版(1557U)、1568年版の中でも最も初期と考えられる版(1568A)、生前の非正規版を比較的忠実に写していると思われる版(1588Rf)、生前のアヴィニョン系の流れを汲む可能性がある版(1589PV)がいずれも l'asnier と綴っている事実は、ノストラダムスが生前に親交のあった L'Aisniers 領主の父に宛てたとする説の説得力を大きく減じるものだろう。また、1555に見られる l'asnier は上述の通り、中期フランス語では「愚昧な人物」の意味にもなった。知人の名前をそのように綴ったというのもありそうもない(ただし、わずかな綴りの違いに過ぎないため、この点は単なる誤植の可能性も否定は出来ない)。

 仮にレニエ領主が実在したとしても、その人物がノストラダムスの知人だったというよりも、後の時代の l'aisnier という異文を元に、レニエの名前が織り込まれていると思った本人ないし取り巻きが、話を創作した可能性なども想定されてしかるべきだろう。

同時代的な視点

 ピエール・ブランダムールは驢馬引き人を「粗野な人物、身分の低い人物」の隠喩と見なし、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』に描かれたアウグストゥスを連想している。以下、『ローマ皇帝伝』からいくつか引用しよう。
  • マルクス・アントニウスは「アウグストゥスの曽祖父は解放奴隷であった」と貶している。「彼はトゥリイ村出身の綱作り職人で、祖父は両替屋であった」(『ローマ皇帝伝』第2巻2章)*18
  • 娘と孫娘のユリアは、あらゆるふしだらで穢れたとして島に流した。(『ローマ皇帝伝』第2巻65章)*19
  • 三番目の孫アグリッパと同時に継子ティベリウスとも、民法会に則り広場で養子縁組を結ぶ。このうちアグリッパの方は、まもなく野卑で粗暴な性格のため勘当し、スレントゥムへ隔離した(同上)*20
  • 話題がアグリッパと二人のユリアに及ぶたびに、アウグストゥスはいつも嘆息し、こう呻き声を発していた。(中略)そして彼らを終始ただ、「私の三つのおでき」とか「三つの癌」とのみ呼んでいた(同上)*21

 高田勇伊藤進ピーター・ラメジャラーもアウグストゥスとの関連性を挙げている。他方、ブリューノ・プテ=ジラールリチャード・シーバースは何もコメントしていない。
 アウグストゥスの父は『ローマ皇帝伝』にもあるように元老院議員であり、その意味では出自について悪く言う声があったからといって、ノストラダムスが「驢馬引き人(身分の低い人)の跡取り息子」呼ばわりしたかどうかは議論の余地があるかもしれない。
 他方、低い身分から一代でのし上がったが、有能な子どもたちに恵まれなかった例などは歴史上いくらでも想定しうるのは事実であり、アウグストゥスに触発されて、より一般的な状況を述べた可能性などもあるのかもしれない。




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最終更新:2016年06月01日 01:40

*1 DMF p.38

*2 Brind'Amour [1996]

*3 高田・伊藤 [1999] p.124

*4 大乗 [1975] p.74。以下、この詩の引用は同じページから。

*5 山根 [1988] p.80。以下、この詩の引用は同じページから。

*6 Cheetham [1973] p.76

*7 Chavigny [1594] pp.214, 216

*8 Guynaud [1712] pp.117-119

*9 Eclaircissement..., 1656, pp.438-440

*10 Garencieres [1672]

*11 Roberts (1947)[1949/1982/1994]

*12 D.D. [1715] pp.12-14

*13 Girault [1839] p.41

*14 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]

*15 Nicouraud [1914] pp.158-159

*16 Le Pelletier [1867b]

*17 Fontbrune (1980)[1982], Fontbrune [2006] pp.226-227

*18 スエトニウス『ローマ皇帝伝・上』国原吉之助訳、岩波文庫、p.95

*19 上掲『ローマ皇帝伝』p.160

*20 上掲『ローマ皇帝伝』p.161

*21 上掲『ローマ皇帝伝』p.162