Dieu le ciel1 tout le diuin2 verbe3 à4 l’vnde5,
Pourté6 par rouges sept razes7 à Bisance8:
Contre9 les oingz10 trois cens de Trebisonde11,
Deux loix12 mettront, & horreur13, puis credence.
前半の訳が難しい。ピエール・ブランダムールの釈義を踏まえた読みを主に採用しつつ、ジャン=ポール・クレベールの釈義やリチャード・シーバースの英訳を踏まえた読みを『別訳』として提示した。ピーター・ラメジャラーの英訳は後者に近い。
1行目 unde (onde) は現代フランス語でも中期フランス語でも「波」や「海」の意味(*1)。語源のラテン語にまで遡れば「水」(water)の意味も導けるが(*2)、onde が水を意味する場合、普通は海や川などのまとまった量の水を指す。
そのため、1行目の unde も「波」の意味に理解するのが素直だが、ピエール・ブランダムールはこの行を「天がにわか雨を降らせ聖体を濡らす」という意味に理解したことがある。onde を「にわか雨」の意味に捉えられるかどうかは当「大事典」としては判断しかねるが、確かに百詩篇第2巻27番との整合性などからすれば、十分に可能性はある。ただ、ブランダムールの読みも同じ本の中で若干揺れているので(「天なる神」なのか「天と神」なのか、など(*3))、確定的な読み方として採用すべきかどうかは悩ましいところである。
なお、異文欄に示したように、1行目 à を a としている版がピエール・リゴー版など、17世紀以降に見られる。それを採用するなら「みことば全体が波(海、水)を持つ」という意味になるが、意味不明であろう。実際、P. リゴーの読みをかなり取り入れていたエドガー・レオニでさえ、この異文は黙殺していた。
山根訳について。
1行目 「神 天 波に呑まれし聖なる言(ことば)すべてが」(*5)は区切り方によっては成立するが、素直に読めば tout が係っているのは「みことば」だけのはずである(実際、ラメジャラーははっきりそう訳している)。ただし、前半律は tout までであり、ciel で切れるのはやや不自然なことと、釈義や翻訳においてこの tout を省いている論者も少なくないので(シーバース、クレベール、ブランダムール)、断定はしがたい。いずれにせよ、1行目全体に係るかのような形で「すべて」を置くのはミスリードとなりかねない。
他の行は特に問題はない。