ノストラダムスの墓

 現在の ノストラダムスの墓サロン=ド=プロヴァンスのサン=ローラン教会(サン=ローラン参事会聖堂)にある。しかし、もともとノストラダムスが遺言していた場所はそれと異なっており、移転されたのは1813年のことであった。

ノストラダムスの遺言

 ノストラダムスは口述した遺言書の中で、次のように埋葬場所を指定していた(当「大事典」の区分でいう3節)。

  • 本遺言人ミシェル・ノストラダムス師はその魂が肉体から召し上げられた暁には、その亡骸が前記サロン市の聖フランチェスコの修道院の墓所に丁重に葬られることを望み、また命じる。そして、その 〔修道院の〕 大扉と聖マルタの祭壇の間の壁に寄り添う墓碑または記念碑が作られることを望む。

 「聖フランチェスコの修道院」とはフランシスコ会修道院のことである。実際に、フランシスコ会修道院附属聖堂でこの遺言の通りに埋葬されたといい、壁には墓碑が掲げられた。しかし、この墓碑についての16世紀から18世紀までの証言は、ノストラダムスの存命期間に関する食い違いを含んでいる。

最初の墓碑

最初の証言

 墓碑に関するおそらく最初の証言はラ・クロワ・デュ・メーヌのものである。彼はその書誌(1584年)の中で、こう述べている。

  • 彼の死に際して作成された墓碑から私が知ったところによると、彼は1566年7月に62歳6か月17日で亡くなった。

シャヴィニーの証言

 次の証言はジャン=エメ・ド・シャヴィニーの『フランスのヤヌスの第一の顔』(1594年)に収録された伝記である。
  • 彼の墓所には墓碑銘が刻まれているが、それは(上で触れた)古代ローマの年代記作者である大ティトゥス=リウィウスの墓碑銘の模倣である。今日、それは彼の亡骸が立派に葬られ安置されているサロンのコルドリエ派の教会で見ることができる。そこに刻まれたものは、以下のような言葉がラテン語で記されたものなので、私はこう訳しておく。
  • ここにミシェル・ド・ノートルダムの骨が眠る。ほとんど神のような彼の筆は、星辰の影響に従って、地上全ての未来の出来事を人々に描き、伝えたと言うにふさわしいものと判断された。彼はプロヴァンス州サロン・ド・クローで1566年7月2日に、62歳6ヶ月17日で亡くなった。おお、後世の人々よ、彼の遺骸に触れてはならぬ。この者の眠りを一切羨んではならぬ。

 このシャヴィニーの著書はフランス語とラテン語の対訳になっており、上記はそのフランス語部分からの翻訳である。ただ、比較のため、墓碑の原文はラテン語部分を引用しておく *1
D. OPT. M.
OSSA
MICH. NOSTRADAMI VNIVS OMNIVM MOR-
TALIVM IVDICIO DIGNI, CVIVS PENE DIVINO
CALAMO TOTIVS ORBIS EX ASTRORVM INFLV-
XV FVTVRI EVENTVS CONSCRIBERENTVR.
VIXIT AN. LXII. MENS. VI. DIES XVII.
OBIIT SALONÆ PETRÆÆ [sic.] AN. CHRISTI M. D.
LXVI. DIE II. IVLII.
QVIETEM POSTERI NE INVIDETOTE.

 この墓碑は、上でシャヴィニー自身のフランス語訳(の当「大事典」での和訳)を引用したように、ラ・クロワ・デュ・メーヌの簡略な紹介と何も矛盾しないものである。

セザールの証言

 ノストラダムスの息子セザール・ド・ノートルダムの『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年)にも、ノストラダムスの墓碑は引用されている *2 。問題となるのは、その文面がシャヴィニーのそれと明らかに異なる点である。

D. M.
OSSA CLARISSIMIMICHAELIS NOSTRADAMI VNIVS OMNIVM MOR-
TALIVM IVDICIO DIGNI, CVIVS PENE DIVINO CALAMO TOTIVS
ORBIS EX ASTRORVM INFLVXV FVTVRI EVENTVS CONSCRIBEREN-
TVR. VIXIT ANNOS LXII. MENS. VI. DIES X. OBIIT SALONAE CIƆ
IƆ LXVI. QVIETEM POSTERI NE INVIDETE.
ANNA PONTIA GEMELLA, CONIVGI OPTIMO. V. F.

 シャヴィニーと異なる部分には下線を引いた。
 この墓碑についてはエドガール・ルロワのフランス語訳や竹下節子の日本語訳がある。ここでは竹下訳を引用させていただく *3
  • 偉大なる神へ。ここに有名なミッシェル・ド・ノートルダムの遺骨が眠る。彼は全ての人間の中で選ばれて、天体と全宇宙の軌跡を追い、ほとんど神のような筆で未来の出来事を書きあらわした。彼は六二年と六カ月と一〇日生き、一五六六年にサロンで死んだ。彼の休息を羨まないように。みんないつかは彼に続く。アンナ・ポンティア・ジェメラより愛する夫へこの墓銘碑を贈る。

細かな表記の違いはさておき、いくつか問題となる違いが存在している。
  • ノストラダムスの生涯が62年6か月10日なのか17日なのか。
  • ノストラダムスの命日がシャヴィニーの方に明記され、セザールの方では省かれている。ラ・クロワ・デュ・メーヌの証言は前者と一致する。
  • 妻アンヌの名前がシャヴィニーの転記では省かれている。
以上3点は誰の目にも明らかな点であろう。パトリス・ギナールは上記3つに加え、
  • シャヴィニーの転記は古代ローマ式の D.M.(「死者の御霊に」。竹下訳では「偉大なる神へ」)がキリスト教式のD.OPTO.M.(至高善なる神に)とされ、単なる「年」がわざわざ AN CHRISTI (キリスト紀元の年)とされるなど、シャヴィニー版の方がキリスト教色が強まっている。
という点も指摘している *4

1716年ごろの偽ピエール・リゴー版

 18世紀に刊行された『予言集』の中には、墓碑とそのフランス語訳を転記するものも複数現れた。その最初のものはおそらく1716年ごろに刊行されたと推測されている偽ピエール・リゴー版である。

D. O. M.
CLARISSIMI OSSA MICHAELIS NOS
TRADAMI, VNIUS OMNIUM MORTA
LIUM JUDICIO DIGNI CUJUS PENE
DIVINO CALAMO TOTIUS ORBIS. EX
ASTRORUM IN FLUXU FUTURI
EUENTUS CONSCRIBERENTUR ;VI
XIT ANNOS. LXII. MENSES. VI. DIES
XVII. OBIIT SALONE', ANNO M.D
LXVI. QUIETEM POSTERI NE INVIDE-
TE' ANNA PONTIA. GEMELLA SAL
LONIA CONJUGI. OPT. V. FELICIT

 改行位置は当「大事典」でいう1716A に合わせたが、1716B などは異なっており、別に本来の墓碑の改行位置を再現したというものではないだろう。なお、最後の部分が 1716Bでは OPT. V. C.FELICIT となっている。
 いちいち訳はつけないが、全体としてはシャヴィニーよりもセザールの転記に近い。しかし、生涯の期間は62年6か月17日となっている。

墓の移転

 ノストラダムスの墓は、フランス革命初期に暴かれた。ルイ・ジモンの『サロン市の年代記』(1882年)にはこうある *5
  • ノストラダムスの遺骨は散らばってしまい、略奪に遭っていた。地元の伝説によれば、あるマルセイユ人が頭蓋骨を盗み、盃に使ったという。
  • ダヴィド市長は、彼にできた範囲でプロヴァンスの預言者〔引用者注:ノストラダムス〕の遺骨を集め、ノストラダムスとその息子セザールの肖像画(それらはセザールによって金属板に描かれたものである)を救い出した。市長は愛国主義者たちにこの興味深い遺留品の保存への関心を持ってもらうために「市民ミシェル・ノストラダムスは自由を予言していた」と語っていた。
  • 彼は遺骨を、以下のような文面の復古王政期に完成した碑文と共に、サンローラン教会の旧サン・ロック礼拝堂 (l'ancienne chapelle de Saint-Roch)の壁の奥に移した。
  • 「自由紀元3年にノストラダムスの墓が暴かれた。彼はその故郷サロンの誉れであり、自由の統治〔引用者注:フランス革命〕を予言したために愛国的フランス人にとってその思い出はかけがえのないものである。彼の遺骸の保存に熱心だった市民たちはそれらを分け合ってしまった。市当局はかろうじてこの墓に納められた分の遺骨を集めることができたにすぎないが、それらはこの有名な人士と歴史家であったその息子の肖像画――描いたのは息子自身――とともに、後世への贈り物を形成するものである」

 この碑文にある「自由紀元3年」は共和暦では計算が合わないので、エドガー・レオニが指摘するようにフランス革命勃発から起算しているのだろう。すなわち西暦1791年ということである *6 。その一方、19世紀初頭には移設を1793年とする文献が複数登場するようになっていた *7ルカベル博士はその一例)。

 上の碑文に登場するサン・ロック礼拝堂は現在の聖処女礼拝堂(la chapelle de la Sainte Vierge)であるが、そこに掲げられている墓碑は上のような文面ではなく、ラテン語で簡略な移設の事情を付加しつつ、かつての墓碑をほぼ再現するものとなっている。その移設事情を見る限りでは、墓碑が再掲されたのは1813年7月のことである。

現在の墓碑

RELIQVIÆ MICHAELIS NOSTRADAMI IN HOC SACEL[LV]M
TRANSLATÆ FVERVNT POST ANNVM MDCCLXXXIX
EPITAPHIVM RESTITVTVM MENSE IVLIO ANNO MDCCCXIII
~~~
D. O. M.
CLARISSIMI OSSA MICHAELIS NOSTRADAMI VNIVS OMNIVM
MORTALIVM IVDICIO DIGNI CVIVS PENE DIVINO CALAMO
TOTIVS ORBIS EX ASTRORVM INFLVXV FVTVRI EVENTVS
CONSCRIBERENTVR VIXIT ANNOS LXII MENSES VI DIES XVII
OBIIT SALONE ANNO MDLXVI QVIETEM POSTERI NE INVIDETE
ANNA PONTIA GEM[ELLA S]ALONIA CONIVGI OPTAT V. FELIC[IT]

【画像】 現在の墓碑 *8

 D.O.M. 以下の文面は、句読点の有無と正書法の変化、最後の方の OPTAT を除けば、1716年ごろの偽ピエール・リゴー版の文面と完全に一致する。
 そのため、D.O.M.以下はいちいち訳さず、その上の部分だけ訳しておく。そこには、

  • ノストラダムスの遺骸は1789年以降にこの礼拝堂に移された。その墓碑は1813年7月に再作成された。

とある *9

移転の予言

 ノストラダムスは最初、サン=ローラン教会に葬るように指示した後、フランシスコ会修道院附属聖堂へと変更したという説がある。実際、遺言書の写本の中にはその変更の痕跡を示すものがあるが、無条件に受容することの出来ない話である。詳しくはノストラダムスの遺言書・遺言補足書の記事を参照のこと。

 なお、移転前の旧フランシスコ会修道院は現存しない。フランシスコ会士の異称「コルドリエ」の名を冠したコルドリエ通りも、現在は Fr. ジュルダン通りと改称されており、そこに立つノストラダムス像が、旧修道院のおおよその位置を伝える *10 。礼拝堂の跡地は「ブロシュリー・デ・コルドリエ」という名のレストランになっており、ノストラダムスがかつて埋葬されていたとされる壁も残っている *11

墓碑の作者

 ノストラダムスの墓碑を誰が起草したのかはよく分からない。墓碑の文面そのものは妻アンヌ・ポンサルドの筆であることを示すが、この墓碑はティトゥス=リウィウスの墓碑を翻案したものであることが明らかになっている。

 それゆえ、実際の作者ないしラテン語訳者として、アンヌとは別のラテン語に通じた教養人の存在が想定されているのである (もっとも、アンヌ自身の教育水準を示す史料は全くないので、アンヌが作成・翻訳した可能性を積極的に全否定できる理由はない)。

セザール・ド・ノートルダム説

 エドガール・ルロワは息子セザール・ド・ノートルダムと見ていた。その根拠となっているのが、セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』の記述である。ルロワは« »でくくって、こう引用している(引用部分のうち、後半を一部略した)
  • この碑文を作ったのが私だというのなら――と、セザールは述べる――、それは誇示や余計な見栄によるものではなく、私をこの世に生み出してくれて、卓抜にして非凡な栄誉のいくばくかの痕跡を残したこの人物の名をより遠くへ、より先へと投げかけたいという欲求と結びついた正当な義務によるものである。
  • Si j'ai composé cette inscription, déclare César, ce n'est ni par ostension, ni superflue vanité, mais par un juste devoir, accompagné d'un désir de jetter plus loin et plus avant le nom de celui qui m'a mis au monde, laissé quelque trace d'honneur excellent et non commun... *12

 竹下節子もこの見解を踏襲している *13

 なるほど、上の引用が正当ならば、この碑文を作成したのはほぼ間違いなくセザールということになるだろう。しかし、ピエール・ブランダムールやパトリス・ギナールが指摘するように、この引用は正しいものではない *14 。実際の『プロヴァンスの歴史と年代記』にはこうある。
  • これ(墓碑)を私が記したかったのは誇示や余計な見栄によるものではなく、私をこの世に生み出してくれて、卓抜にして非凡な栄誉のいくばくかの痕跡を残したこの人物の名をより遠くへ、より先へと投げかけたいという欲求と結びついた正当な義務によるものである。
  • Ce que i'ay voulu mettre non par ostentasion ou superfluë vanité, mais par vn iuste deuoir, accompaigné d'vn desir de jetter plus loin & plus auant le nom de celuy qui m'a mis au monde, laissé quelque trace d'honneur excellent & non commun... *15

 この書き方は曖昧である。碑文そのものを書いたとも読めるのかもしれないが、むしろブランダムールやギナールが指摘するように、『プロヴァンスの歴史と年代記』という主題の本の中に、あえて父親の墓碑を引用した正当性を釈明しているようにも読めるからだ。

 そして、もし墓碑がノストラダムスの没後間もなく作成されたのなら、周囲の大人たちがあえてその大役を(長男とはいえ)12歳の少年であったセザールに託すのかどうか、疑問が生じるのも事実である *16 。竹下節子はセザールが大人になってから贈ったと述べているが *17 、どのような史料上の裏づけに基づいているのかは示されていない。

ジャン=エメ・ド・シャヴィニー説

 他方、墓碑の作者としてジャン=エメ・ド・シャヴィニーを想定する説もある。これはエドガー・レオニが可能性を示していたものだが、シャヴィニー自身の証言などによるものではなく、ノストラダムスが歿した時点で親しかったラテン語にも通じた学者として、また墓碑がティトゥス=リウィウスの翻案であることを最初に示した人物として、候補に上がったにすぎない。
 中には竹本忠雄のように「凝った文体の起草者は、署名者であるノストラダムス夫人という説もありますが、笑止なことで、篤学のシャヴィニの筆によること疑いありますまい」 *18 とまで断言する論者もいるが、裏付ける史料は何一つ示されていない。

 また、シャヴィニーがノストラダムスの遺族から墓碑の起草を依頼されるほどに親密だったのなら、墓碑の引用から妻アンヌの名を削る理由がない。イアン・ウィルソンはシャヴィニー自身にはよく分かっていたから削ったと推測したが *19 、少々不自然ではないだろうか。

 そして、ほかでもなく、シャヴィニー自身が別の作者の名前を明言している。それがノストラダムス自身である。

ノストラダムス説

 シャヴィニーは『フランスのヤヌスの第一の顔』に収録した伝記のラテン語版でこう述べている。
  • Epitaphium sibi tale ipse condidit ad imitationem Liviani maxima ex parte *20
  • 彼は自分でこの碑文を作成し、リウィウスを大部分で模倣した。

 つまり、ティトゥス=リウィウスを模倣した文面は、生前のノストラダムス自身によって準備されていたというのである。パトリス・ギナールは墓碑の作者の可能性が高いのはノストラダムスとし、その根拠としてこれを挙げている。

 シャヴィニーはノストラダムスに関する伝記をラテン語とフランス語で書いているが、上記の一文はラテン語版だけにしか見られない(フランス語版でも墓碑は引用されているが作者には全く触れていない)。ゆえに、どこまで本当なのか、当「大事典」としては判断に迷ってはいるが、少なくともシャヴィニーが作者なら、その手柄をわざわざノストラダムス自身に譲る理由はないだろうし、一定程度は信頼できるのかもしれない。

その他

五島勉の脚色

 五島勉の『ノストラダムスの大予言II 』(1979年)では、「町外れの墓地」にノストラダムスの「大理石の白い墓石」が「半ば崩れて立って」おり、「妖しい碑文が、いばらとつたに埋もれて」残っているなどと紹介し、以下のような文面を『引用』していた *21
  • 「ノストラダムス。遠き星よりの使者。正しきペンによって偽りなき未来を告げし者。なんじら人間の狂える運命を見守りつつ、ここに静かに眠る。その大いなる予言、果てるときまで」

 しかし、上で見てきたように、ノストラダムスの墓は野外にはないし、その文面も「遠き星よりの使者」云々などという意味不明なものではない。

 なお、五島自身は上記の設定など忘れたかのように、『ノストラダムスの大予言・最終解答編』(1998年)では、サロンの「サン・ロレアル教会」(原文ママ)の中にある墓の近くで、ビノ師なる人物と会見したと主張している。

誕生日についての新説

 上で見たように、墓碑についての証言はノストラダムスの生涯を「62年6か月10日」とするものと「62年6か月17日」とするものがあった。通常はただの誤記や誤認の類として重視されなかったが、パトリス・ギナールは「10日」こそが本来の碑文であり、そこから逆算すれば、ノストラダムスの誕生日は定説化している12月14日ではなく、12月21日であるとした。この説については、記事「ノストラダムスの誕生日」で一括して扱う。

外部リンク



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