ノストラダムスの誕生日

 ノストラダムスの誕生日は1503年12月14日(木曜日)とされている。これはほぼ定説化した日付だが、2006年にパトリス・ギナールが1503年12月21日とする新説を発表した。本項目では、ノストラダムスの誕生日に関する記録、それに対するギナールの反証、当「大事典」としての雑感をまとめておく。

誕生日に関する記録

 ノストラダムス一族には、地元の洗礼記録の存在などによって生年月日が絞り込める例が少なくない。しかし、ノストラダムスが生まれたサン=レミ=ド=プロヴァンスの場合、1518年以降のものしか残されていないため、ノストラダムスの直接的な出生記録は存在しない*1

 ノストラダムスの誕生日についての同時代的な言及は
の3点である。また、命日が1566年7月2日であることに異論はないので、墓碑に記載された存命期間から逆算することも出来る。これらを順に見ていこう。

ノストラダムスの私信

 ノストラダムスの私信のうち、1565年12月12日にハンス・ロベットに宛てた書簡では、その日付を「私の誕生日の2日前」と述べている*2
  • XII. Decembris, die autem ante natalem meum secunda.*3

 ジャン・デュペーブピエール・ブランダムールはこの記述をノストラダムスの誕生日の根拠と見なしている*4

シャヴィニーの伝記

 シャヴィニーの『フランスのヤヌスの第一の顔』(1594年)に収録された伝記には、出だしの部分に以下の記述がある。

  • MICHEL DE NOSTREDAME le plus renommé & fameux qu'ait esté de longs siecles en la predicion qui se tire de la cognoissance, & iugement des Astres, nasquit en la ville de Sainct Remy en Prouence l'an de grace 1503. vn Ieudy 14. Decembre, enuiron les 12. heures de midy.
  • 星辰の知識と判断によって遠い未来まで予言した最も有名な人物、ミシェル・ド・ノートルダムは、サン・レミ・アン・プロヴァンスにて、1503年12月14日木曜日の昼の12時頃に生まれた。

 誕生日だけでなく時刻まで示している点に特色があるが、情報の出所は明記されていない。

セザールの言及

 息子セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年)の本文には、こういう記述がある。
  • ...Michel de Nostredame nasquit à la ville de Sainct Remy presques sur les abbois de l'an de Iaques, & de Renee de Sainct Remy...
  • ほとんど年末の時期にサン=レミの町で、ジャックルネ・ド・サン=レミの間に、ミシェル・ド・ノートルダムが生まれた。*5

 また、その欄外註には
  • 1503年12月14日/著者の父ミシェル・ド・ノートルダム誕生。

とある。

墓碑の記載

 ノストラダムスの墓にはその生涯が「62年6か月17日」と書かれている。命日が1566年7月2日であることに異説はないため、そこから逆算すれば、ほぼ1503年12月14日が導かれる。

ギナールの反論

 パトリス・ギナールはノストラダムスの誕生日を1503年12月21日とし、従来の定説に疑問を投げかけた。彼の根拠を見ておこう。

ノストラダムスの私信について

 ギナールはノストラダムスの私信に偽作の疑いを掛けている。
 この手紙はノストラダムスの書簡集(BN ms. Lat. 8592)には含まれておらず、1701年に C. L. ミーク (C. L. Mieg) が公表したものであることに疑いの目を向けているのである。この立場に立つ場合、書簡に「誕生日の2日前」と書かれているのはノストラダムス自身の証言ではなく、後の時代に定説化した誕生日を元に捏造されたものとなる。

シャヴィニーについて

 ギナールは12月14日説を打ち出した張本人をシャヴィニーと見なしている。
 その動機に関しては、一つの可能性として占星術的理由を挙げている。というのは、ユリウス暦12月14日は、学者や占星術師の守護星とされた水星が磨羯宮で太陽と合になっているのに対し、12月21日には特筆すべき星位が見られなかったから、というのである。

 なお、ノストラダムスの誕生日の星位については、京都情報大学院大学教授の作花一志が以下のように述べている。

  • 望遠鏡で発見された天王星以遠を除いて、水星から土星までの六惑星が最も直線状に並ぶのは一五〇三年の年末ごろに起こっています。図2・20 〔引用者注・ここでは割愛〕 は六惑星が全体としてよくまとまる一五〇三年一二月二四日(グレゴリオ暦値)の惑星配置で、〔中略〕 金星がやや外れているのが気になるかもしれませんが、これが六〇〇〇年間で最良の日なのです。〔中略〕 この日に生まれた有名人としては大予言者ノストラダムス、その誕生日は一二月一四日です。ただしこれは当時使われていたユリウス暦の値で、グレゴリオ暦に換算すると一二月二四日です。〔中略〕 みんな天動説を信じていたので、この夜空を見ても火星・木星・土星の集いとしか思えなかったでしょう。*6


【画像】 作花 『天変の解読者たち』カバー

 ただし、上の引用では略したが、作花はノストラダムスがこの日に生まれたことに特段の意義を認めていない。作花も指摘するように、同じ日に生まれた人物は他にいくらでもいたはずである。

セザールについて

 ギナールは、セザールの証言では「年末」を重視している。12月14日は年末にならないが、12月21日(ユリウス暦)生まれなら、10日程度ずれるグレゴリオ暦では実際に年末になるからである。

 欄外注については、12月14日という日付はエクス高等法院の記述とノストラダムスの誕生とにはさまれており、前者の日付ではないかとした。確かに上で訳出したように、「この日」というような分かりやすい限定語は、ノストラダムスの誕生に関する記述には入っていない。
 また、ギナールは別の可能性として、セザールが知人ピエール・オジエに宛てた手紙の中で、削除や変更、入れ替えなどをやらかす出版業者に対する不満を表明していることと結び付けている。すなわち、セザール自身が加えた情報ではなく、業者が勝手に挿入したのではないかということである。

墓碑について

 ノストラダムスの墓の記事で述べたように、古い墓碑の記録には「62年6か月17日」になっているもののほか、「62年6か月10日」になっているものがあり、セザールは後者を採っている。
 そして、1656年の解釈書テオフィル・ド・ガランシエールバルタザール・ギノーピエール=ジョゼフ・ド・エーツらもそれを踏襲しており、1664年には歴史家オノレ・ブーシュ (Honoré Bouche) もそのように転記している。

 このことから、62年6か月10日の生涯が正しいと見なせば、その誕生日は12月21日とすべきだというのである。
 もちろん、命日の方を動かして6月24日ごろとすることもできなくはないが、遺言補足書が6月30日付となっていることと矛盾するとして、ギナールは退けている。

コメント

 ギナールの論は今のところ追随している論者が見られないようだが、思いつきの域を遥かに超える細かな論証がなされている。そこで、以下に疑問を述べておこう。

ノストラダムスの私信について

 12月12日付の書簡について、デュペーブやブランダムールは本物と見なしており、書簡集に含まれていないということが直ちに偽作といえるかは疑問である。書簡集には翌日付のよく似た文面の手紙が含まれているが、ノストラダムスが似たような文書を複数したためることがあった点はいくつかの真正文書から明らかになっており、これも不思議な点ではない。

 ただし、その12月13日付では「誕生日の前日」というようなくだりは無いようなので、その点の不整合は気になる。

シャヴィニーについて

 もしも「62年6か月17日」が偽造されたものなら、その犯人として疑われるのは確かにシャヴィニーだろう。そして、占星術的理由ならば確かに可能性はある。
 ただし、それならばシャヴィニーがその日について積極的な意味づけをした言及があってしかるべきだろうが、ギナールもそのような証言は挙げていない。この点は、シャヴィニーを犯人とする可能性に疑いを投げかける。

セザールについて

 最も問題となるのがこれであろう。確かに「年末」という表現は日付単位で見れば、12月14日にはふさわしくない。しかし、原文には presques (ほとんど)とあり、年末と完全に限定しているわけではない。

 そして、欄外注についてだが、確かに日付とノストラダムスの誕生に触れた記述は改行されている。しかし、そのスタイルは命日についても同様なのである。

【画像】『プロヴァンスの歴史と年代記』誕生日に関する欄外注(左)と命日に関する欄外注(右)

 また、セザールの私信で、出版業者に不満を述べているのは興味深いが、それならば本文で引用された墓碑の文面で「XVII」(17)を「X」(10)と誤植するくらいの誤りは普通にありえたのではないだろうか。本文は(碑文はフランス語ではなくラテン語だというのに)セザールの意図通り正確に記載する一方、欄外注では全くの独自の注を丸々、業者が挿入したという想定は、(否定できるものではないが)本文を誤る可能性に比べて一方的に可能性が高いと見なせるものではないだろう。

墓碑について

 ギナールの仮説にはロベール・ブナズラも疑問を述べたらしい。ブナズラが挙げたのは、ラ・クロワ・デュ・メーヌ書誌(1584年)の中で「62年6か月17日」とされていることである。この証言はシャヴィニー(1594年)よりも10年早い。
 これに対してギナールは、材質やサイズなどの証言を含んでいないことから、実見したものではなく伝聞に基づいているのではないかとした。

 確かにその可能性もあるだろう。しかし、では誰からそのような「誤った」情報を聞いたというのだろうか。仮にシャヴィニーだとすれば、それを妄信したのは何故なのか、やや苦しいことは否めないだろう。

 また、17世紀以降の多くの証言と矛盾するとしているが、サイズなどに言及している歴史家ブーシュの証言にしても、セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』の中に墓碑のサイズや材質への言及があるのだから、これを転記した可能性は排除できない。
 ゆえに、ラ・クロワ・デュ・メーヌを退けて、17世紀以降の証言を優先する理由にはならない(ギナール自身認めるように、「17日」とする証言も一定程度存在する)。

小括

 以上見てくると、ギナールは自説に都合の悪い証言を過小評価しすぎではないのかという印象を禁じえない。もちろん、従来当たり前すぎると思われていたさまざまな証言の中に見られる綻びについての問題提起としては、非常に有益なものであったといえるだろう。しかしながら、現時点ではその結論を積極的に支持できるものではない。

 なお、ギナールは命日が7月2日であることを当然の前提にしているが、7月2日は「聖母の訪問の祝日」(Visitation)であった(現代ではこの祝日は5月31日*7)。ノストラダムスの本来の姓ノートルダムは聖母を意味するので、その命日にはふさわしい日といえるかもしれないが、誕生日には別人の作為を見出すというのに、ここには何の作為も見出さないというのは、片手落ちではないだろうか。
 ギナールの場合、遺言補足書に暗号としての特殊な意味づけをしている点は差し引いておくべきだろう。すなわち彼の暗号解読にとっては、命日の方を動かして遺言補足書が偽物であると位置づけるわけにはいかないのである (誤解のないように付け加えておくと、当「大事典」は遺言書や遺言補足書に暗号が含まれているという仮説には否定的だが、それらの本文が全体として本物であろうという点には疑いをさしはさんでいない)。

 とりあえず当「大事典」では今のところ、1503年12月14日生まれとする通説を支持し、命日についても通説を支持しておく。今後、さらに誕生日についての確定的な証言が出てくることを期待したい。
 なお、この当時の人々の正確な生没年が確定させがたいのは珍しいことではなく、大詩人ピエール・ド・ロンサールの生年は1年ずれる可能性があるし、大文人フランソワ・ラブレーに至っては近年は1483年が有力視されるようになっているとはいえ、1483年か1494年かで長らく争われてきた上、それ以外の年を挙げる論者たちもいた*8
 それを考えれば、ノストラダムスの場合、命日については争いがなく、誕生日についてもほぼ確定し、異論があってもわずか1週間の範囲におさまるのだから、実に幸運なことと言えるのではないだろうか。

外部リンク



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最終更新:2016年07月02日 01:00

*1 Leroy [1993] p.32, n.4

*2 cf. Lhez [1961] p.228

*3 Dupèbe [1983] p.169

*4 Dupèbe [1983] p.169, Brind'Amour [1993] p.21

*5 C. de Nostredame [1614]p.726

*6 作花 [2013] 『天変の解読者たち』恒星社厚生閣、pp.86-87

*7 L’art de croire 竹下節子ブログ

*8 二宮敬「生死の認知をめぐって」(『フランス・ルネサンスの世界』所収)および宮下志朗訳『ガルガンチュア』の訳者解説