原文
Arriuera au port de Corsibonne1 ,
Pres2 de Rauenne qui pillera la dame3 ,
En mer4 profonde5 legat6 de la7 Vlisbonne8
Souz roc9 cachez10 rauiront septante ames.
異文
(1) Corsibonne : Corcibonne 1572Cr
(2) Pres : Prês 1667Wi
(3) dame : Dame 1665Ba 1672Ga 1720To 1840
(4) mer : Mer 1672Ga
(5) profonde : prafonde 1611A, parfonde 1611B
(6) legat : legar 1611A, leger 1611B 1981EB, Legat 1644Hu 1653AB 1665Ba 1667Wi 1720To 1840
(7) de la : dela 1590Ro, de là 1644Hu, de 1650Mo 1716PR, de l’ 1667Wi
(8) Vlisbonne : Vlisbone 1568X 1672Ga
(9) roc : Roc 1672Ga
(10) cachez : caichez 1568X, caches 1590Ro
(注記)1667Wi は de l’Ulisbonne となっている。
日本語訳
婦人を略奪するであろう者が
ラヴェンナ 近くの
コルシボンヌ の港に到達するだろう。
リスボン からの教皇特使は深い海の中に。
岩の下に隠されたものたちが七十人の魂を奪うだろう。
訳について
言葉の係り方の都合上、1行目と2行目を入れ替えて訳している。もとの順序を維持すると「コルシボンヌの港」がラヴェンナ近くに位置づけられていることが伝わりにくい。ただし、
マリニー・ローズ は de Corsibonne を挿入的に理解し、「コルシボンヌからラヴェンナ近くの港へと」と訳す可能性も挙げている。
3行目の Vlisbonne (Ulisbonne) が
リスボン を指すことは、立場を問わず異論がない。単純に語頭音添加(prothèse)と理解してもよいだろうし、
ジャン=ポール・クレベール のようにラテン語形のオリシポ (Olisipo) に引き摺られたものと見てもよいだろう。なお、
マリニー・ローズ はノストラダムスと同時代のモンペリエ大学の学生登録簿にも、同様の表記が見られることを指摘している。
3、4行目の訳し方は
ピーター・ラメジャラー の読み方にほぼ従った。クレベールや
リチャード・シーバース のように、原文では単数の岩を複数形に捉える論者がいる。
既存の訳についてコメントしておく。
大乗訳 について。
1・2行目 「コルシボンの港にはいって/ラベンナ近くで 人々は婦人をとらえて」は誤訳。2行目の qui 以下は動詞が三人称単数であることからして、「人々は」と訳すべきではない。
3・4行目「リスボンの大使は深い海のなかへ/岩陰にかくれて 七十のたましいをもちさるだろう」も微妙。この繋がり方だと、岩陰に隠れているのは「リスボンの大使」と読めてしまうが、4行目の「隠される」は複数形であり、3行目の「教皇特使」(単数形)とは対応していない。もちろん、cachez (cachés)を caché と校訂すればよいのだが、それならそれで「隠れる」ではなく「隠される」という受動的な訳にする必要がある。
山根訳 について。
1・2行目 「ポルト・コルシーニに到着するだろう/ラヴェンナの近く 貴婦人を略奪する者」は、逐語的な訳としてはかなりの程度妥当だが、相互の関係が分かりづらいのではないだろうか。なお、コルシボンヌの港を「ポルト・コルシーニ」と訳すのは、有力説を踏まえた意訳としては許容されるだろう。ラメジャラーやシーバースのように、21世紀においてもそのような意訳をする者たちはいる。
3・4行目「リスボンの使節は深き海の底へ/岩陰にかくれ 彼らは七十の魂を奪うだろう」は、大乗訳と似たような問題点を抱えているように思われる。
信奉者側の見解
テオフィル・ド・ガランシエール (1672年)は、コルシボンヌの港をアンコーナ、掠奪される婦人をロレート(聖母マリア崇拝で知られる)の聖母マリア礼拝堂ないし教会と解釈する一方、後半は遭難や海賊行為についてと解釈した。
ヘンリー・C・ロバーツ (1947年)は、コルシカ出身のナポレオンがイタリアをはじめとするヨーロッパに被害をもたらすことと解釈した。この解釈は、
娘 夫婦や
孫 もそのまま踏襲した。
エリカ・チータム (1973年)は、「婦人」はカトリック教会の喩えで、ポルト・コルシーニの教会が掠奪に遭うことを予言したのかもしれないとした。
セルジュ・ユタン (1978年)は総裁政府および執政政府(いずれもフランス革命期)によるイタリア征服と解釈した。
ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ (1980年)は「コルシボンヌ」を、コルシカ(Corse)のボニファシオ(Bonifacio)に基づく造語と解釈し、連合国によるコルシカ奪還(1943年)と解釈した。
同時代的な視点
エドガー・レオニ は前半について、教皇領の敵となる存在がポルト・コルシーニに上陸し、「婦人」に喩えられる何物かを略奪することを描写したものと解釈したが、後半は曖昧であるとした。
【画像】関連地図。ポルト・コルシーニはこの縮尺の地図だとラヴェンナとほぼ重なってしまうので割愛した。
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最終更新:2020年03月07日 10:42