百詩篇第6巻89番


原文

Entre deux cymbes 1 piedz 2 & mains 3 estachés 4 ,
De miel face oingt & de laict 5 substanté 6 :
Guespes & mouches 7 , fitine 8 amour faschés 9 ,
Poccilateur 10 faulcer, Cyphe 11 tempté 12 .

異文

(1) cymbes: cymbres 1590SJ 1590Ro
(2) piedz : piez 1589PV
(3) mains : main 1772Ri
(4) estachés : astachés 1590Ro, attachez 1591BR 1597 1600 1607PR 1610 1611 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 1672 1716 1840 1981EB
(5) laict : l’aict 1568A 1590Ro
(6) substanté : subtanté 1605, substante 1672, substantés 1772Ri
(7) mouches : monches 1611B, moucnes 1628, mouche 1981EB
(8) fitine : fit i ne (3 mots) 1605, fit ne 1649Xa, fitide 1653 1665, feront 1672, seront HCR
(9) faschés 1557U 1557B 1568A 1589PV 1590SJ 1590Ro : fachés 1568B 1568C 1568I, fachez T.A.Eds.
(10) Poccilateur : Poccisateur 1589PV 1590SJ, Poccilateurs 1605 1611 1628 1649Ca 1649Xa 1981EB 1672
(11) Cyphe: Scyphe 1672
(12) tempté 1557U 1568 1772Ri : temptee 1557B 1589PV, temptée 1590SJ, tente 1672, tenté T.A.Eds.


校訂

 ピエール・ブランダムールは3行目の fitine を furtive と校訂している *1 。これは、ウェルギリウスの『アエネイス』に出てくる furtivus amor と関連付けた結果であり、百詩篇第8巻25番(未作成)や『1566年向けの暦』にも類似の表現が登場している。
 fitine というのはフランス語にない単語であり、ジャン=ポール・クレベールはブランダムールのこの読みを紹介しており、リチャード・シーバースも英訳ではこの読みに従っている。他方、ブリューノ・プテ=ジラールピーター・ラメジャラーは支持していない。

 ブランダムールは4行目 Poccilateur を Poccilateurs としているが、これは他の諸論者から支持されていない。ブランダムール自身、その部分は殊更に校訂した結果と強調していなかったので、単に暫定的な底本としていた17世紀以降の版をそのまま踏襲していただけなのかもしれない。

日本語訳

二隻の小舟の間で足と手を結び付けられ、
顔に蜜と乳を塗られ、命を繋ぐも、
忍ぶ愛(のせいで)、雀蜂と蝿に苦しめられ、
盃に穴を開ける酌人(からも)、試される。

訳について

 1行目 cymbe は現代フランス語にはなく、DALF ではシンバルの意味とある *2 。しかし、この場合は同綴異義の古語 cymbe ないしラテン語 cymba から「小舟」の意味とされる *3

 2行目は高田勇伊藤進訳では「顔に蜜を塗られ、乳で命長らえ」 *4 となっている。前半律の区切れ目などや、後述する古代の拷問が「蜜」だけであったことを考慮に入れるとその方が正しいとも思える。
 他方で、百詩篇第1巻57番との整合性を考慮し、ここではピエール・ブランダムールの釈義に従った。なお、ジャン=ポール・クレベールの釈義やリチャード・シーバースの英訳では「顔に蜜と乳を塗られる」ことしか触れられておらず、 substanté の処理の仕方が不明瞭である(あるいは「乳が混ぜられた蜜」という形で「混ぜられた」の意味に理解しているのかもしれない)。

 3行目は fitine が難物である。上の「校訂」の節でも触れたように、そのような仏単語はない。そこで、従来はギリシア語にひきつけて理解されてきた。アナトール・ル・ペルチエはギリシア語 phuton からとして「子供」(enfant)、「末裔、ひこばえ」(rejeton)の意味を導き、ブリューノ・プテ=ジラールも疑問符付きで「子孫」の縁語としていた *5 。それに対し、エドガー・レオニピーター・ラメジャラーはギリシア語 phitos / phitus から「父(の)」(father, paternal) を導いている。
 しかし、ブランダムールは furtive と校訂し、furtive amour (秘められた愛、人目を忍ぶ愛)を導いた。この読みを踏襲したと明記しているシーバースの英訳では「不貞の愛」(faithless love) である。

 4行目 Poccilateur はラテン語 Poccilatores からで、「杯を持つ人」の意味 *6 。英訳では cup-bearer (宮廷などで酒を注ぐ役)がしばしば用いられる。訳語として山根訳にも見られる「酌人」を選んだのは、原語が一語であることが伝わりやすいようにするためである。
 DALFではfaucer は fasser の綴りのゆれで「欺く」「偽造する」「反証を挙げる」などの意味 *7 。DFEでも似たような意味が挙がっている。しかし、ブランダムールはエドモン・ユゲの辞書から「穴を開ける、穿つ」(trouer, percer, enfoncer)の意味を挙げ、これを釈義に使っている。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「二つの小舟のあいだで手足をむすび」 *8 は、普通に受動態で訳すべきだったように思われる。
 3行目「すずめばちとみちばちは大いに彼を狂気にし」は、fitine が seront になっている底本に従ったことを差し引いても、amour (愛)が訳に反映されていない。なお、mouche を「みつばち」と訳したことについては、mouche が古い方言では mouche à miel で「蜜蜂」を意味したことから許容される。これはテオフィル・ド・ガランシエールの英訳をヘンリー・C・ロバーツがそのまま踏襲し、大乗訳に引き継がれたものである。スズメバチとの対比からすれば、一定の妥当性はあるものと思われるが、ブランダムール、高田・伊藤、クレベール、ラメジャラー、シーバースがいずれも「ハエ」(flies)としていることから、当「大事典」ではそちらに従っている。
 4行目「陰険なうつわがはこばれ毒が入れられる」は、Poccilateur(s) が盃そのものではなくそれを運ぶ人であることからすると前半はやや不適切。後半の「毒が入れられる」はガランシエール=ロバーツの英訳に従ったものだろうが、原文にそのような意味の語はない。

 山根訳について。
 3行目 「スズメ蜂と蝿 父性愛は怒り」 *9 は、fitine の訳の可能性からすれば許容される。
 4行目「酌人は寝そべり 酒杯は試される」は、行の前半と後半で分ける読み方自体が許容されるにしても、前半が意味不明。「寝そべり」はエリカ・チータムの英訳で lies が使われていたものを転訳したのだろうが、この場合の lie は「横たわる」方ではなく「偽る」方であろう(チータムがしばしば転用しているエドガー・レオニの英訳では falsify で、これは上述のように古語として存在する語義である)。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、描かれているものはペルシア人たちの刑罰で、ペルシア王アルタクセルクセスの生涯にも、その拷問の話しが見出せるとした *10
 ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)の解釈も古代の拷問の描写とする点でこれに近いが、歴史的具体性を取り除いた漠然としたものになっている *11


 アナトール・ル・ペルチエ(1867年)は、蜜を塗られる描写をナポレオンの戴冠と結びつけ、その彼がエルバ島とセント・ヘレナ島という「2つの深淵」(ル・ペルチエは cymbes をギリシア語からの結びつけでこう釈義している)で縛られて権力を失ったことと解釈し、4行目はエルバ流刑の前に服毒自殺を試みたとされるエピソードと結びつけた *12
 この解釈は、細部に変化はあるものの、チャールズ・ウォード(1891年)、エリゼ・デュ・ヴィニョワ(未作成)(1910年)、竹本忠雄(2011年)らが踏襲した *13

 エリカ・チータムは1973年の時点ではナポレオンと弱く結びつける程度だったが、のちの最終版ではルイ16世の処刑と結び付けている *14

 セルジュ・ユタン(1978年)はムッソリーニの処刑と解釈していたが、ボードワン・ボンセルジャンの補訂(2002年)では、キプロス (Chypre) の歴史と関係のある特定不能な人物についてとする解釈に差し替えられた *15


同時代的な視点

 ピエール・ブランダムール百詩篇第1巻57番とともに、蜜を塗って放置する古来の刑罰を描写したものとした。ボッカッチョの『デカメロン』にも高徳の女性の評判を傷つけて同様の刑に処せられた人物についての描写があり、そこでは蝿、蜂、虻にたかられ死に至ったとされている *16
 こうした刑罰がモデルになっているとする見方は、高田勇伊藤進も踏襲している。

 ピーター・ラメジャラーはガランシエールと同じく、プルタルコス『英雄伝』の「アルタクセルクセス伝」を主要なモデルと見なしていたが *17 、古代の刑罰とする点では同じである。


コメントらん
以下のコメント欄はコメントの著作権および削除基準を了解の上でご使用ください。なお、当「大事典」としては、以下に投稿されたコメントの信頼性などをなんら担保するものではありません (当「大事典」管理者である sumaru 自身によって投稿されたコメントを除く)。

名前:
コメント: