六行詩132篇説

 全58篇の文書として流布している六行詩集について、本来は全132篇だったとする主張がある。以下では17世紀の証言を概観した上で、若干のコメントを付けておきたい。

1656年の解釈書

 現在確認しうる最古の出典は匿名の解釈書『ミシェル・ノストラダムス師の真の四行詩集の解明』(1656年)である。その著者は、アミアンの医師エチエンヌ・ジョベールもしくはアキテーヌ出身のドミニコ会聖職者ジャン・ジフル・ド・レシャクとされる(以下、便宜上ジフル・ド・レシャク説を採っておく)。この解釈書では、ジフル・ド・レシャク自身がそれを見たことがあると主張している。

 以下に掲げる抜粋は、偽のノストラダムス予言を排除すべきとする主張の二項目めの翻訳である。

Secondement, il en faut absolument, & sans aucun doute retrancher les sixains qui sont à la fin des Quatrains, que le tiltre dit auoir esté presentez au Roy Henry IV. par Vincent Seve de Beaucaire en Languedoc le 19. Mars 1605. au Chasteau de Chantilly.
I’en ay veu l'original escrit à la main, & le mesme qui fut presenté à sa Maiesté, couuert d’vn velin blanc, auec les armes de France ; il est entre les mains de M. Barbotteau, l’vn des plus considerez Chanoines d’Amiens,& dont le merite s’est fait connoistre par les charges qu'il a eu dans cét illustre Chapipitre[sic.], sous feu Monseigneur l’Euesque d'Amiens François de Caumartin, Prelat d'vn grand exemple & de merite.
Le Mercure François en l'année 1610. pag. 437. découure la fourbe de ces nouueaux sixains, monstrant à celuy qui les luy fit voir, & qui en disoit tant de merueilles, que Nostradamus estoit mort en l'an 1566. & par consequent il estoit faux, selon qu'il disoit, que l'Auteur les auoit donné luy-mesme, pendant les troubles du Royaume depuis l’an 1590. à tel qu'il nommoit.
Ces nouueaux sixains furent vendus bien cher à vn Procureur de Prouence, lequel estant à Paris, & voulant rapporter en son pays quelques nouuelles de la Cour, se mit à copier ces propheties de fresche datte, puis estant à Aix, il en donna la copie à d'autres.
Le Parlement d’Aix voulant soustenir l’honneur de leur compatriotte Michel Nostradamus, fit arrester prisonnier ce Procureur, & nonobstant qu’il eust allegué n'auoir eu cette copie que de Paris, il fut condamné aux galeres, dautant que ces sixains parloient trop clairement de beaucoup de choses qui regardent la vie des Monarques, &
c’est vne chose criminelle de tremper en ces perquisitions.
L’Original de ces sizains en a cent trente deux, & ce que l’on en a imprimé ne va iufques à 58. ce qui fait connoistre, que ceux qui les ont fait donner au iour par l'impression, ont reconneu la fourbe de leur Auteur, mettant les vns & non pas les autres.
Le seul stile fait voir assez clairement, que iamais Nostradamus n’y a touché.

 第二に、四行詩の末尾に位置し、その題名で「1605年3月19日にシャンティイ城にてラングドック州ボーケールのヴァンサン・セーヴにより国王アンリ4世に献じられた」と謳っている六行詩集は、疑いようもなく絶対に削除しなければならない。
 私はその手書きの原本を見たことがある。それは国王陛下に献上されたものと同じもので、瀆皮紙〔とくひし〕の装丁にフランスの紋章が付けられており、アミアンの最も人望ある司教座聖堂参事会員の一人、バルボトー氏の手にある。偉大な模範となった有徳の高位者にしてアミアン司教だった故フランソワ・ド・コーマルタン貎下のもと、彼はその名高い参事会で負っていた職務によって、その有徳さを知られていた。
 『メルキュール・フランソワ』1610年分の437ページが、その新たな六行詩集の奸計を暴いている。それらを彼 〔=『メルキュール・フランソワ』の書き手〕 に見せた者が、「1590年以降のこの王国の騒擾の期間中 〔=ユグノー戦争末期〕 に(六行詩の)著者が、任命した者にそれらを自ら渡した」という大変驚くべきことを語ったのに対し、(書き手が)ノストラダムスは1566年に亡くなっているのだから、その人物は偽者だと示したというのである。
 それらの新たな六行詩集は、プロヴァンスのさる検事にかなりの高額で売却された。その人物はパリに滞在していて、宮廷のいくらかのニュースを故郷に知らせたいと考えており、それらの最近の予言の複写に着手したのである。そして、エクス滞在時に他の幾人かにその複写したものをあげた。(それに対し)エクス高等法院は同郷人ミシェル・ノストラダムスの名誉を維持したいと考え、この検事を逮捕・拘禁させてしまった。彼はその写本をパリから持ってきただけだと抗弁したが、漕役刑 〔=ガレー船送り〕に処された。というのは、それらの六行詩は君主たちの生涯に関係する多くのことを相当あけすけに語っており、それらの詮索に加担することは犯罪事項だからである。
 それらの六行詩集の原本は132篇の六行詩を収めていたが、その中で印刷されたものは、知られている58篇にとどまった。ということは、それらを印刷して世に出した者たちは、一方の詩篇を印刷し、他方の詩篇を印刷しなかったのだから、その(原本の)著者の奸計を認識していたことになる。
 その独特の文体はノストラダムスがそれらに一切関与していないことを十分に、かつ明瞭に知らしめている。

コメント

 『メルキュール・フランソワ』の記事がどのようなものだったのかはすぐ下で触れるので、ここでは扱わない。
 それ以外で注目すべき情報は、
  • 全132篇の六行詩を収録した立派な装丁の手稿がある。
  • それは国王に献上されたものと同じものである。
  • アミアンの参事会員バルボトーが持っている。
  • 真の作者は何らかの政治的意図(=「奸計」)に基づいて作成しており、58篇の取捨選択はその意図を汲んで(=意図を強化あるいは洗練するために?)行われたものである。

 以上の4点である。
 バルボトーについては、フランソワ・バルボトー参照。
 ジフル・ド・レシャクはパリでも活動していた聖職者なので、バルボトーとの接点があってもおかしくない(仮にジョベールが著者だったとしても、アミアンの医師とされるので、アミアンの参事会員バルボトーとの接点は想定可能である)。

 1656年の解釈書には、フロランヴィルの領主など、裏づけの取れないエピソードが盛り込まれているほか、下で見るように『メルキュール・フランソワ』の引用もやや誇張している疑いがある。そうした文献にある証言を鵜呑みにするのは慎重になるべきだろう。
 その一方、1656年時点ではバルボトーは存命であり、ジフル・ド・レシャクが言うとおり、人望の高い人物であったなら、そのように知られていた人物の名を出して嘘を言うと考えづらいのも確かである。

 ただし、事実であったとしても、彼の証言から分かることは、全132篇の六行詩を収録した手稿があったということだけであり、どのような根拠でそれが印刷された58篇に先行していると判断したのかはまったく分からない。
 また、彼がどういう根拠で献上されたものと同じと判断したのかもはっきりしないが、その証言からは窺える最大の問題点は、ヴァンサン・オカーヌの存在が想定されていないことである。同じと判断している以上、手稿にもセーヴの名が書かれていたと考えるのが自然であり、ヴァンサン・オカーヌの名は無かったことになる(あったら当然言及したはずだろう)。
セーヴの印刷版とオカーヌの手稿では、後者の方が先であったことに異論は見られない。異文の内容からしてもその判断は妥当であろう。とすると、仮に132篇の手稿が存在するのなら、
  • セーヴが132篇を執筆 → オカーヌがそのうち54篇を抜粋 → セーヴがオカーヌ版を改定した上で4篇増補

という不自然な経緯を辿っていることになる。なぜ本来の著者のセーヴがオカーヌ版を尊重しなければならなかったのか不可解である(オカーヌとセーヴがそれぞれ独立に抜粋版を作ったなら、それらの選択が見事に一致し、セーヴにない詩をオカーヌが一切収録しなかったのは不自然すぎる)。
 どうにか合理的に解釈するなら、「セーヴは132篇書いたが(α版)、何らかの理由で54篇に削ったバージョン(β版)を作り、さらにその54篇の原文を改訂した上で、そこに4篇追加したバージョン(γ版)も作った。オカーヌはβ版を勝手に剽窃しただけである」といった流れになるだろうか。
 だが、そういう不自然な流れを想定するよりも、
  • オカーヌが54篇を作成 → セーヴが58篇に改定・増補 → セーヴ(もしくはそれを騙った模倣者)がさらに132篇に増補

という流れの方が遥かに自然ではないだろうか。

 なお、ロベール・ブナズラは上記の一連のエピソードを要約した上で、「我々だったら、この六行詩の波乱に富んだ歴史に関して、まるっきりの絵空事だって書けるだろうに!」 *1 と、事実上一蹴している。

メルキュール・フランソワ

 上の1656年の解釈書の訳にあったように、文芸誌『メルキュール・フランソワ』(のちの『メルキュール・ド・フランス』とは別物)では、関連する証言がある。『メルキュール・フランソワ』は初巻が1611年に刊行された後、各年の情報が順次追加されていった。以下に訳出しよう(以下の訳は1613年刊行のものの1610年の項目からの抜粋である)。

Bref, les premiers iours d'apres la mort du Roy, les Curieux recherchoient tout ce qu’auoient dit les Almanachs, & les Centuries de Nostradamus ; Pesellus, & Camerarius en ses Centuries ; Les vers Latins d’vn Rossolanus Medecin, commençans, Lucia qui lucis contulit auspicia & c. d'autres Centuries toutes nouuelles de Nostradamus, qu'on asseuroit auoir esté monstrees au Roy peu auant sa mort ; & vne infinité de petits discours. *2
...Quant à Rossolanus, quelqu’vn s'est joüé de faire ces vers-là sous ce nom, comme aussi les Nouuelles Centuries de Nostradamus : Celuy qui me les monstra escrites à la main m'en fit grande feste, ie les leu , & luy demanday d'où il les tenoit ; il m’en compta merueilles de quand & à qui Nostradamus mesmes les auoit baillees durant ces derniers troubles; mais il fut estonné quand ie luy monstray que Nostradamus estoit mort dés l'an 1566. Tout le mal qui en est aduenu a esté, qu'vn Procureur de Prouence pensant reporter en son pays des nouuelles de la Cour, prit copie de ces Centuries, & en donna dés qu’il fut à Aix la copie à d'autres; Le Parlement aduerty, ( pource que Nostradamus estoit Prouençal ) le fit constituer prisonnier, & nonobstant qu’il dit qu’il
les auoit apportees de Paris, il fut condamné aux galeres. Il est dangereux de tenir des escrits qui parlent, quel doit estre l’Estat de la Republique, & ce qui y doit aduenir : mais sur tout de les faire courir parmy le peuple. *3
  • 語注
    • Centurie は本来「百集めたもの」の意味だが、ノストラダムス予言集の影響で、1篇の予言詩をもこう呼ぶ誤用が、16世紀後半以降見られるようになっていた。ノストラダムス以外の人物にも Centuries が用いられていることから、この場合はその誤用の方であろうと判断した。
    • compter (conter) de は raconter de (語る、いいかげんなことを言う)と同じ *4
    • republiqueは中期フランス語で「統治形態」(forme de gouvernement) *5 、現代のフランス語辞典にも古語として「国家」「国事」などの意味を載せているものがある。
    • courir sur は「攻撃する」。ここでは不定詞だが、文脈を考慮して受動態で訳した。

 要するに、国王が亡くなってすぐの数日間、好奇心の強い人々は以下のものが語る全てを探求した。ノストラダムスの暦や予言 (Centuries)。プセロスやカメラリウス 〔16世紀のルター派神学者〕 がそれぞれの予言 (Centuries) で(語ったこと)。「ルキア・クィ・ルキス・コントゥリト・アウスピキア」等で始まるロソラヌスなる医師のラテン語詩。国王に死の直前に示されていたと保証されているノストラダムスの他の幾つものすっかり新しい予言 (Centuries) 。
…ロソラヌスに関しては、何者かがその名前であの詩を作って戯れたものである。それはノストラダムスの新たな予言 (Centuries) も同様である。手書きされたそれらを私に示した者は、私を大いに歓迎してくれた。私はそれらを読んで、どこから手に入れたのかを彼に尋ねた。それに対して彼は驚くべきことに、ノストラダムスその人が最近の騒擾の間にそれらを与えてくれたと、私に吹聴した。しかし、私がノストラダムスは1566年に亡くなっていると教えてやると、彼は驚いていた。それらから生じた以下のような厄介事そのものがあった。プロヴァンスのさる検事は、その郷里に宮廷のニュースを知らせたいと考え、それらの予言 (ces Centuries) の写本を作成し、エクスに至るとすぐにその写本を他の人々にあげてしまった。通報を受けた高等法院は――ノストラダムスがプロヴァンスの人であったので――、彼を収監した。彼は、それらをパリから持ってきただけだと主張したにもかかわらず、漕役刑に処せられた。政体がどうなるであろうかということや、そこで起こるであろうことを語っている書き物を保持しているのは危険なのである。民衆の間でそれらをしているあらゆるものが攻撃されている。

コメント

 1613年版が初出と全く同じか確信が持てないため、そこから改定された要素があるとすると、以下の分析はズレてしまうことになるが、そのような限界を自覚した上でいくらか述べておこう。

 まず、1656年の解釈書にある情報のうち、「高額で買い取った」という情報などが見当たらない。同書は『メルキュール・フランソワ』を出典としているのだから、(この箇所に改訂がないとすると)1656年の解釈書は話を膨らませていることが明らかである。

 それ以上に問題なのは、この一件のどこにも「六行詩」(sixains / sizains) という言葉が出てこないことである。17世紀はノストラダムスの予言からとったと称する出所の怪しげな四行詩や六行詩が非常に多く出現していた時期であったので、Centurie だけではどの予言だか分からない。
 当然それらは、おのおの固有の政治的背景を持っていたのだから、政情に対する不穏な見通しを含んでいるものも珍しくはなかった。ゆえに、この証言をもって132篇の六行詩集が出現していた証などとは到底いえないのである。

 ガレー船送りの件が真実かどうかは不明である。さすがにエクス高等法院がノストラダムスの名誉を重んじたなどとは信じがたいが、王の運命を予言することの禁令はすでに16世紀後半の時点で出されていた。
  • 一五七九年、アンリ三世は、「明白な言葉によってであれ、曖昧な言葉によってであれ、世俗の事柄あるいは国家の事柄について、または特定の個人に関する事柄について、不敵にも予言を行うことを万用暦の作成者すべてに対し」禁じている。特に強い調子で禁止されたのは、国王の死にまつわる預言を出版することであった。このため、万用暦の書き手たちは、天候や三面記事的な出来事に関する月並みな話題しか扱えなくなってしまうのである。 *6

 ゆえにアンリ4世の暗殺直後に王権が不謹慎な予言に過敏に反応したり、高等法院が忖度して神経質に対応した可能性はあるのかもしれない。
 ただ、いずれにしても、この話が仮に六行詩集を指しているのだとすれば、六行詩は1610年のアンリ4世の暗殺にあわせて出現したことになってしまう(1590年代に手渡された云々を信ずべき理由に乏しい。アンリ4世の死後、死の直前に献上されていたなどという話が出ていることから言っても、事後的な捏造設定だろう)。
 しかし、六行詩集の初出が1605年版『予言集』だとすれば、1610年に出現したことはありえないし、それが偽年代版で、真の初出が1611年シュヴィヨ版だとしてもやはりありえない。というのは、1610年に出現したばかりの手稿をシュヴィヨがいかにして手にしたのかという問題もさることながら、それを手に出来る情報網があったなら、当局に弾圧される対象となったということも当然知りえたはずだからである。シュヴィヨは王家の御用印刷業者であり、そのようないわくつきの文書をあえて収録する動機があるとは思えない。

1694年の警察調書とプネの手紙

 1878年、『ラ・フランドル』誌にヴィクトル・アドヴィエルの論文「ノストラダムスの予言集と、その継承者ヴァンサン・セーヴに関する未公刊の文書群」 *7 が載った。ここでいう未公刊の文書群とは、1694年の警察調書と、それに関連するプネの手紙、ヴァンサン・セーヴの略伝および彼の地方史の手稿の抜粋である。そのうち、最初の2つが132篇説に関わるので、以下に訳出しておく。ただし、直接見たという証言ではないのと、分量がそれなりにあるので、原文は省略する。

警察調書の全訳

警察調書(RAPPORT DE POLICE)
(パリ) 1694年6月23日

 6年前、当時24歳のブリュッセル生まれの一個人が、当時国王の召使(valet de chambre du Roy)で今は王室財務官(trésorier de la Maison de Sa majesté)となっているデュピュイ氏(le s r Dupuis)の邸宅の下男(laquais)となった。彼は「フラマン」(Flamand, フランドル人の意味)とあだ名され、召使(valet de chambre)となった今もそう名乗っている。
 多くの人々は―― デュピュイ氏の友人や家族さえも――、「フラマン」がその(下男ないし召使という)境遇の人々以上に機知に富むことに気付いていた。彼は100フランしか稼いでいないが、多額の出費をしている。彼は毎週フランドル宛に多くの手紙を書き、多くの手紙をフランドルから受け取っている。
 彼は初めの頃、フランスの短所をかなり自由に言い立て、敵への依怙贔屓を公然と示していた。ところがある時期から、彼は全くの正反対になった。それはかなりわざとらしく見えたので、そのこと自体が彼に疑いを向けさせ始めた。彼はしばしばヴェルサイユに主人とともに赴いていたが、もしもこの召使が何事かを見出したり助言したりしたいと考えたなら、それはとても容易なことであろう。

 彼が受け取った手紙の中から、1694年2月26日付のブリュッセルからの手紙を抜き取った。プネ(Penez)という署名があり、大聖堂の司教座聖堂参事会員だという。プネは「フラマン」に、ノストラダムスの真の予言を探し出し、真偽を区別できるしるしに従ってきちんと知らせてくれるように頼んだ。また、彼は「フラマン」に送った覚書に挙げている文献も探すように依頼した。
 この用事は、下男の日常業務にはほとんど含まれておらず、彼と参事会員の間にあるらしい親密な関係も、参事会員が彼に示している配慮も、同様(に下男向けらしからぬもの)である。
 もしも彼に語らせるため、彼の身辺に何者かを配置したいでのあれば、便宜が図られることになるだろう。また、その(配置する)者が、フランドルやフランドル人を多少とも知っているのであれば、彼と打ち解けるのは難しいことではないと思われる。もしもこの意見がいくらかの注目に値するならば、彼に警戒心を一切持たせないために、その手紙は彼に返しておくことが得策と思われる。

プネの手紙全訳

ブリュッセルの司教座聖堂参事会員プネの手紙(LETTRE DU CHANOINE PENEZ, DE BRUXELLES)
ブリュッセルにて、1694年2月26日

拝啓
 私は貴方からのとても丁寧な手紙を受け取りました。それによって、文献を発見しようとする善良にして熱心な探求に没頭したいという、貴方の熱意が伝わってきました。それらの文献は、私にとっては、好奇心を満たすため、そしてその問題について更なる解明をするために必要なものなのです。

 私は貴方に、ノストラダムスの予言集がいくつもの異なる場所で印刷されたと言いました。私はその伝本をいくつか持っており、他にも目にしたものがいくつもあります。しかし、現在刊行されている全ての版は、ノストラダムスが生前に印刷させたものではないので、誤りに満ちたものばかりです。
 私がル・フェーヴル氏(Mons r Le Fevre)に預けた覚書を通じて貴方に示した通り、ノストラダムスは各巻に100篇の四行詩を収めた10巻の詩百篇を書き、その最初の7巻を1555年に印刷させ (1) 、残る3巻を、先行する7巻とともに1558年に刊行させました。
 ですが、現在私が目にしている全ての版において、第7巻はちっとも完全ではなく、100篇あるべきところに、いくつかの版は42篇、別のいくつかには44篇しかありません。 (2)
 そういうわけで、ノストラダムスの生前に印刷された何らかの版は良質で完全なものであったがゆえに (3) 、見つけるよう努めなければならないのです。
 ノストラダムスの予言集の伝本が完全かどうかを判別するためには、その7巻が最初の6巻分および後続の3巻分と同じように100篇含んでいるかどうかだけ見ればよいのです。そうは言っても、もしも貴方が(全10巻ではなく)最初の7巻のみが息子セザール・ノストラダムスへの序文とともに含まれていて、各巻に100篇ずつ揃っている初版本を見つけたならば、それは取り逃さないようにお願いします。全10巻の完全版にめぐり合ったなら、なおのこと(取り逃さないようにすべき)です。

 小さな20巻(les vingt petits tomes) (4) ―― 貴方にそれを手に入れてもらうために、ル・フェーヴル氏にその覚書を渡しました ―― の著者は、私が今持っているその第1巻の序文(la préface de son premier tome)で、こう述べています。当時アミアン大聖堂の参事会員だったバルボトー氏から、ノストラダムス予言集の真の伝本(un véritable exemplaire des Prophéties de Nostradamus)を手に入れた。その同じ参事会員バルボトーの家には、『この世紀のいずれかの年のための驚くべき他の予言』(Autres Predictions de Nostradamus pour les ans courans en ce siècle)と題されてノストラダムス予言集の末尾に追加されている六行詩集の原本がある、と。
 彼はまた、その原本が1605年3月19日にシャンティイ城にてラングドック州ボーケールのヴァンサン・セーヴにより国王アンリ4世に献じられたものと同じと述べていて、それが手書きで瀆皮紙〔とくひし〕の装丁にフランスの紋章が付けられていることや、各詩6行から成る六行詩132篇が収められていることも付け加えています。
 ですが、私が目にしている全ての刊本には、原本で132篇ある場所に50篇 (5) しか収録されていないのです。それに対し、もしも貴方がその原本を探し当て、その写しを私にくれたならば、貴方がその写しと引き換えに求めるものを心底喜んでお支払いしましょう。

 さて、その六行詩の原本も、ノストラダムス予言集の真の伝本も、アミアンの参事会員バルボトー氏の蔵書でした。私がアミアン(の知人)から書き送ってもらったところによると、その参事会員(バルボトー)はパリ出身で、彼の死後、その全所有物はパリの親族が引き取ったとのことです。その相続者たちのうちで、前述の文献を持っているかもしれないのは、甥のマクロン氏(M. Macqueron)だそうです。彼は現在、国王秘書官(secrétaire du Roy)で、パリのサント=ジュヌヴィエーヴ(修道院)近くに住んでいます。

 最後に、今しがた述べたばかりのノストラダムス予言集の真の伝本を貴方が見つけたならば、売却されて欲しくないので、数日間はそれを手許に置くように努めて下さい。そして、お好みで何がしかの印刷業者の別の版をお買い求めになって、その誤りを真の伝本でもって、以下のように修正してもらえないでしょうか。
 まず白紙に詩百篇第1巻と書き、その巻のいずれかの四行詩に何らかの誤りを見つけたなら、例えばこんな風に書いてもらえませんか。
QUAT.2. V.3. - En peur j’écris fremissant, 等と。
 これはつまり、第1巻2番の3行目に、他の版の多くでは Un peur et voix fremissant とあるのに対し、真の伝本では En peur j’ écris 等とあることを意味します (6) 。したがって、貴方が購入する版には誤植があり、示したようなやり方でお手許の用紙に訂正する必要があるだろうということです。

 私はこの(前の)冬に、パリの書籍商がこの地にいたことを思い出します。サン=ジャック通りで金色太陽の看板を掲げるブドー氏(M r Boudot, au soleil d’or, rue Saint-Jacques) (7) と言ったと思います。彼は、ノストラダムス予言集のある良質な伝本(un bon exemplaire)を求めていくらか調査したと言っていました。私の勘違いでなければ、それはメーヌ公爵閣下(Mons r le duc du Maine)のためだったそうです。そして、大変な苦労を伴って、その1冊を見つけたと言っていました。おそらく貴方もその本を目にする何らかの機会があることでしょう。その場合、詩百篇第7巻が完全かどうかを調査するようお願いします。同時に、(その版に書かれている)出版時期と出版地も見ておいてもらえないでしょうか。

 パリで貴方に手渡すために、ル・フェーヴル氏が持っている覚書で言及した小さな20巻について言えば、参事会員バルボトー氏が全20巻を持っていたことを疑っていません。というのは、(20巻の)著者はこの参事会員のとても親しい友人であり、その20巻の著作をまとめるためのいくつもの解明(plusieurs eclaircissements)をこの参事会員から得ていたためです。ついでに言っておくと、その著者はドミニコ会修道士(Jacobin)だったと思います。
 私が欲しいと思っている20巻のほかの巻をあなたが見つけられないとしても、その第1巻は私がここに持っていることをお知らせしておきます。

 もしも貴方が上で述べてきたようなノストラダムス予言集の真の伝本や、六行詩の原本にあった132篇の写しを私に示してくれるなら、他にはない喜びです。貴方がこれから、私が自らの楽しみのために欲している文献にめぐりあえる幸運に十分恵まれるよう、願います。こちらから貴方のお役に立てることがあるなら、どうぞ私のことは従順なしもべとして自由にお使い下さい。
A.プネ

追伸 2番目の覚書に記された文献『予言集との一致』(Concordance des Prophéties) (8) をル・フェーヴル氏が持ってきてくれました。

  • 注記
    • (1)1555年の初版は百詩篇第4巻53番までであり、第7巻までは印刷されていなかった。アヴィニョン版がそうであった可能性は否定できないが、その版は伝聞のみで実在せず、内容に関する確実な証言もない。もっとも、1555年初版に7巻まで含まれていたという話は渡辺一夫の「ある占星師の話」にすら載っていたくらいなので、17世紀末の知識人が誤っていても仕方ないだろう。
    • (2)この証言からは、プネの手許にあった複数の版が、1665年頃までのリヨン系もしくは1643年マルセイユ版であったことを想定させる。17世紀初頭から1694年までに絞ると、それ以外のほとんどの版が、第7巻に70番台以降の補遺篇を含んでいて、46篇以上あるからだ。
    • (3)少なくとも現存している範囲内では、ノストラダムスの生前の版にも死後の版にも、第7巻に100篇を収録しているものはない。
    • (4)「小さな20巻の著者」について、アドヴィエルは不明としているが、1656年の解釈書の著者を指していると思われる。詳しくは後述。
    • (5)アドヴィエルも指摘するように、「58篇」の誤り。既存の刊本で六行詩を50篇だけ収録したものは見つからない。
    • (6)真の伝本と主張しているが、プネが引用している異文は、明らかに1656年の解釈書もしくは1693年のギノーの解釈書のものであって、初版以降の信頼できる版の原文を歪曲したものである。
    • (7)アドヴィエルはジャン・ブドー(Jean Boudot)の名を挙げている。この人物の略歴はフランス国立図書館の公式サイトにもあり *8 、サン=ジャック通り、金色太陽の看板といった情報も一致しているので、確かにそうなのだろう。もっとも、彼が見たという良質な伝本の正体は全く分からない。
    • (8)アドヴィエルも注記しているように、バルタザール・ギノーの解釈書『アンリ2世からルイ大王までの歴史とノストラダムス予言集との一致』のことだろう。この文献は1693年に出たばかりだった。

コメント

 警察調書は一読して明らかなように、スパイ(ないし何らかの利敵行為)を疑われた召使に関する調査報告である。アドヴィエルは、取り越し苦労、つまり単にその召使が身分に似つかわしくない知能の持ち主だったにすぎない可能性を支持している。当「大事典」でも、挙げられている調査事例だけではいささか根拠が弱いと感じている。いずれにせよ、そこで偶然抜き出された手紙がプネの手紙だったことは、ノストラダムス現象に関する一つの証言が残ったという点では有り難かったといえる。

 そのプネの証言だが、彼は132篇の原本の特色を、「20巻の著者」に全面的に依拠している。これは1656年の解釈書の著者、すなわちジャン・ジフル・ド・レシャクのことだろう。そう考える理由は以下の通りである。
  • 1656年の解釈書は、序文を除くとその内容が3部に分かれている。そして、結局出版されなかったが、ほかに17巻刊行する計画があると予告されていた。フランス語の tome は、「著者またはしかるべき編者によって定められたもので、印刷、製本されたものとしての volume(s)とは異なる」 *9 。ゆえに、20巻の正体は、実際に刊行された3部(3巻)+未刊の17巻ということだろう。
  • 六行詩の原本の説明が、瀆皮紙云々まで含めて、1656年の著者のそれと一致する。
  • プネが真の原文と誤認した第1巻2番の異文は、1656年の解釈書が初出である。
  • プネは20巻の著者をドミニコ会修道士と推測している。ジフル・ド・レシャクは、確かにドミニコ会修道士であった。

 ゆえに、これを1656年の解釈書から独立した証言と見なすのは無理があるだろう。なお、アドヴィエルはプネが132篇の写しを手に入れたはずと推測しているが、根拠はない。また、仮にそうだったとしても、アドヴィエル自身が認めるように、フランス国内の大きな図書館にも、ベルギーの王立図書館にも残っていない。また、アドヴィエルはベルギーの知識人たちにも問い合わせたらしいが、プネの蔵書はもちろん、プネ自身のことさえも知っている者はいなかったという *10

総括

 以上の証言からは、132篇が58篇に先行していたと見なすべき論拠は見当たらない。1610年のアンリ4世暗殺後に、何者かが58篇を土台に増補した私家版のようなものだった可能性は否定できないだろうから、17世紀初頭のノストラダムス現象に関する資料として、発見されれば重要な意味を持つだろう。しかし、六行詩の起源を解き明かす鍵になるかといえば、それは大いに疑問である。


名前:
コメント: