詩百篇第10巻30番


原文

Nepueu & sang du sainct1 nouueau venu,
Par le surnom soustient arcs & couuert
Seront2 chassez mis à mort chassez nu,
En3 rouge & noir conuertiront leur vert.

異文

(1) sainct : St. 1672Ga, Sainct 1772Ri
(2) Seront : Leront 1650Mo
(3) En : Un 1716PRc

ほとんど例外的といってよいレベルで異文の少ない詩篇である。

日本語訳

新たに来た聖人の血族である甥は、
その姓によって迫持 〔せりもち〕 や屋根を支える。
(彼らは)追い立てられ、殺され、裸で追放されるだろう。
彼らの緑を赤と黒に変えるだろう。

訳について

 2行目 couvert は中期フランス語で 「覆うことに使うもの」「覆われた場所」「小屋」(hangar) などの意味*1。『ロベール仏和大辞典』 では古語としての用法で 「住居」 とある。とりあえずピーター・ラメジャラーの roof という英訳に従い、「屋根」 と訳しておく。リチャード・シーバースの英訳では beam となっている。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「甥と聖なる血が新たにやってきて」*2は、不適切であろう。この場合、venuが単数なので、「甥」と「聖なる血」を別の存在と見るのは通常おかしい。ノストラダムスはしばしばこのような不整合をしたことが指摘されているため、まったくありえないとは断言できないが、ピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースらの英訳では、「甥」と「聖人の血族」は同一人物として扱われている。
 2行目 「あだ名でアーチは弦のようにあげられおおわれて」は意味不明。元になったはずのヘンリー・C・ロバーツの英訳は By the surname, upholds arches and covers で、(arch や cover が複数形になっていることはともかく)構文理解上は何もおかしくはない。

 山根訳はおおむね問題はない。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは解釈不能であることを告白しただけだった*3
 その後、20世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードの著書には載っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は近未来のイタリアの戦局で偉大な教皇が出現することや、ファシストが駆逐されることと解釈していた*4。この解釈はアンドレ・ラモン(1943年)がほぼそのまま踏襲した*5

 エリカ・チータムは1973年の時点では一言もコメントをつけておらず、1989年の最終版でも解読不能である旨コメントしただけだった*6。ただし、その日本語版では、甥をナポレオン3世とする日本語版監修者らの解釈に差し替えられている*7

 セルジュ・ユタンジョン・ホーグもナポレオン3世と解釈した*8

同時代的な視点

 エヴリット・ブライラーは、2行目の迫持や屋根を支える姓は、コロンナ家 (コロンナは 「柱」 に通じる) の言葉遊びであろうとした。

 この解釈はピーター・ラメジャラーも引継いだ。彼はここで言われている人物を、同時代の教皇パウルス4世 (在位1555年 - 1559年) であろうとした*9。パウルスはネポティズム (官職への縁故採用) の酷さや、コロンナ家などから奪い取った不正蓄財で知られていたからである。
 もっとも、3、4行目について彼は解釈していない。
 3行目は、パウルス4世が、容赦のない異端狩りを断行し続けたことや、修道院に属さない修道士たち100人以上のガレー船送りにしたこと*10などと結び付けられるかもしれない。
 4行目は「緑」(青)が洋の東西を問わず若さや清新さの象徴とされることと、少なくとも「赤」がノストラダムスの詩でしばしば枢機卿を示す色とされていることを踏まえれば、何の実績のない若い親類を高位聖職者にとりたてる、という意味だろうか。

 確かに2行目は直説法現在形で書かれており、ノストラダムスが同時代について述べているならば、時制上も整合している。

 なお、コロンナ家はローマ教皇庁で長く影響力を行使した名家だが、その力が警戒された面もあってか、コンクラーヴェでは枢機卿の支持をあまり得られず、歴史上、マルティヌス5世(在位1417年 - 1431年)を輩出しただけであった。
 また、ニコラウス4世 (在位1288年 - 1292年) はコロンナ家出身ではなかったが、同家の支持を受け、持ちつ持たれつでコロンナ家も勢力を伸ばした。ところが2代後に教皇となったボニファティウス8世 (在位1294年 - 1303年。教皇アレクサンデル4世の甥) はコロンナ家と対立し、領地や財産の没収、一族の追放と強硬な手段に出たのである (コロンナ家もやられたままではなく、フランス王家と結託し、のちにアナーニ事件を引き起こし、ボニファティウスを憤死に追い込んだ)*11
 時制が一致しないが、2行目と3行目の受け止めようによっては、こちらの時期のほうが当てはまる可能性もあるのかもしれない。


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詩百篇第10巻
最終更新:2019年02月10日 11:28

*1 DMF

*2 大乗 [1975] p.291。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 Garencieres [1672]

*4 Fontbrune (1938)[1939] p.226

*5 Lamont [1943] p.276

*6 Cheetham [1973], Cheetham (1989)[1990]

*7 チータム [1988]

*8 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003], Hogue (1997)[1999]

*9 Lemesurier [2003b], Lemesurier [2010]

*10 バンソン『ローマ教皇事典』

*11 以上のコロンナ家関連は、バンソン『ローマ教皇事典』に拠った。