アンリ・トルネ=シャヴィニー

  アンリ・トルネ=シャヴィニー (Henri Torné-Chavigny, 1826年6月20日 - 1880年7月5日)は、フランスの司祭。ノストラダムス予言の信奉者であり、エドガー・レオニが言うところの「19世紀の三大解釈者」の一人である(後2人はウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエ)。ロベール・ブナズラは「ノストラダムスの注釈者の中で一番の有名人」 *1 と紹介している。

 本名はアンリ=アントワーヌ・トルネ(Henri-Antoine Torné)だが、ノストラダムスの秘書ジャン=エメ・ド・シャヴィニーに肖って、姓に「シャヴィニー」を加えた。司祭であったことから、トルネ師(アベ・トルネ, l'abbé Torné)とも呼ばれる。日本語文献に、ノストラダムスの秘書(弟子)の名前を「トルネー」としているものがあるのは、明らかにシャヴィニーとトルネ=シャヴィニーを取り違えたものであろう。

【画像】トルネ=シャヴィニーの肖像画(解釈書に利用された図版の抜粋) *2

生涯

 本人の語るところによれば、1826年にラ・ロッシェル(未作成)で生まれたという。母方の祖父の名はノエル=ジャック・シャヴィニ(Noël-Jacques Chavigni)で、アンリ・トルネは後年、この姓がノストラダムスの秘書シャヴィニー(Chavigny)とほぼ同じものであることもあって、自らの姓に付け加えたのだという。

 彼は、1852年にラ・ロッシェルで司祭に任命された後、翌年サン=レジェ=アン=ポンの主任司祭となり、次いで1855年にはラ・クロット(未作成)、1865年にはサン=ドニ=デュ=パン(未作成)(1865年)にそれぞれ赴任し主任司祭を務めた。ノストラダムスに関心を持ち、多くの文献を集めて研究を行った。後には研究に専念するため、司祭職を辞した。

 彼が1860年から1862年、および1870年代の足かけ20年間に刊行したノストラダムス関連書は、下に挙げるように30点を超える。19世紀までの信奉者は1-2冊の解釈書しか出さないのが普通だったことからすると、彼の活動は突出したものであった。

 彼は熱烈なレジティミスト(ブルボン王朝支持者)であり、シャンボール伯アンリが王位に就くことを疑わなかった。それゆえ、彼の近未来解釈には「アンリ5世」に関連するものが多くあった。結局、シャンボール伯は王位に就くことなく1883年に世を去るが、トルネ=シャヴィニーはその3年前に没し、自身の解釈の結果を見ることはなかった *3

 彼の解釈は典型的な信奉者のものであり、百詩篇第8巻1番で Pau, Nay, Lolon からアナグラムで「国王ナポロン」(Roy Napaulon,ナポレオン)を導き出す解釈のように、後代に踏襲されたものもある。また、百詩篇第9巻1番に自分のことが予言されていると解釈した *4 。同じ詩は、後に中村惠一ヴライク・イオネスクも「自分のことだ」と解釈したが、自分のことを『予言集』の中に見出そうとする手合いの中でも、おそらく彼の解釈は最も初期の部類に属していると考えられる。
 また、「1999年7ヶ月」で始まる有名な百詩篇第10巻72番を世界の終末と結び付けたのも、おそらく彼が最初だったはずである *5

 その一方で、彼は、ノストラダムスの『予言集』第一序文(セザールへの手紙)がジロラモ・サヴォナローラ(未作成)の著書と酷似した箇所を多く含むことや、『1559年9月16日に起こるであろう蝕の意味』が、キュプリアヌス・レオウィティウスの著書からの転用を含むことを指摘するなど *6 、現在の実証的な研究にも寄与する重要な指摘も行っており、「思い込みの激しい信奉者」だけでは片付けられない側面も持っていた。

 彼はノストラダムスに関するかなりの文献を持っていたようだが、フランス国立図書館などに寄贈することは拒んだ。彼の予言解釈ではパリの破滅が導き出されていたからであり、寄贈した書物が灰燼に帰することを恐れたからだという *7 。なお、蔵書の少なくとも一部は、弟子筋に当たるエクトール・リゴーが譲り受けた。

著作リスト

 ボルドーで初期の著作の出版を請け負っていたのは、ジュスタン・デュピュイ未亡人出版社(Typographie V e Justin Dupuy & C e )であった。


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