アンドレ・ド・ノートルダム(André de Nostredame, 1557年11月3日 - 1601年12月2日)は、
ノストラダムスと
アンヌ・ポンサルドの間に生まれた三男(第四子)。後半生を修道士として過ごした。
ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと引き換えに、家の所有権は失ったはずである。
アンドレは若いころプロヴァンス総督アンリ・ダングレームに従者として仕えていた。しかし、決闘でサロンのコルニヨンと名乗る人物(un Cornillon)を殺めたことから投獄された。獄中において神に祈り、無事出所できたなら一生を信仰にささげると誓った。無事に出所できると、誓約に従い、1587年12月14日に
サロンのフランシスコ会修道院(未作成)に入り、名をセラファン・ノストラダムス(Séraphin Nostradamus)と改めて、残る生涯を修道会での生活にささげたという。
1601年12月2日に
ブリニョール(未作成)(Brignoles)にて44歳で歿したとされる。ルロワは、この出典としてポレー師(l'abbé Paulet)著『サン=レミ=ド=プロヴァンス』という文献を挙げる一方で、1597年に兄
セザールが作成した遺言書にはアンドレへの言及がないことにも触れている。
またルロワによれば、1630年に作成されたセザールの遺言書では、サロンのフランシスコ会修道院への蔵書の寄贈を表明した際に、そこに弟(un frère)の遺灰が保存されていることに触れているという。
若くして投獄され、出所後すぐに修道士となったため、妻帯したことは全くなかったようである。子供の存在も確認されていない。
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最終更新:2009年12月11日 11:58