ジャン・ド・ノートルダム

 ジャン・ド・ノートルダム(Jean/Jehan de Nostredame, 1522年 - 1577年頃)は、フランスの法曹家、歴史家。ノストラダムスの弟のひとり。プロヴァンス史(特に文学史)の研究を行い、『最も名高い昔のプロヴァンス詩人たちの生涯』(Les vies des plus célèbres et anciens poètes provensaux(未作成))を刊行した。

生涯

 ジャンはかつて1507年にサン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれたとされていた。ただし、これは古い文献で示されていた出典の不明な記述である。

 エドガール・ルロワは洗礼記録が1522年2月19日であることから、実際の生年を1522年とした*1竹下節子、ジャンに関する研究で博士号を取得したカザノヴァ(J.Y.Casanova)、その研究を紹介したゲラールのように、これを支持する者たちもいる*2

 他方でルロワの伝記改訂版の編者(名前未詳)は、伝聞通り1507年頃を正しい生年とし、ノストラダムスの弟には本項で扱っているジャンとは別に、1522年に生まれ1534年以前に没したもう一人のジャンがいたとする見解を示している*3。中にはピーター・ラメジャラー『ノストラダムス百科全書』のように、同一著書中で1507年説と1522年説が混在しているケースもある*4

 当「大事典」では1522年誕生説を採り、ノストラダムスの弟に2人のジャンがいたとする立場はとらない。親子で同じ名前が受け継がれることは珍しくないが、兄弟に同じ名前をつけるのはあまりにも不自然と思われるからだ(兄が早世したときに弟にその名を与えることはあるだろうが、この場合はそれにも該当しない)。

 生年自体がこのように不確かな有様なのだから、当然にしてというべきか、少年期・青年期についての詳しいことは分かっていない。

 1543年頃から1555年頃にはエクス=アン=プロヴァンス(未作成)で公証人として活動し、それ以降、20年以上にわたりエクスの高等法院検事(procureur)を長くつとめた。

 ノストラダムスの著書『化粧品とジャム論』(1555年)の第二部には、「エクスの検事」であるジャンに宛てた献辞が収録されている。

 ジャンは本業の傍らでプロヴァンス史研究を行っており、その成果の一部は『最も名高い昔のプロヴァンス詩人たちの生涯』(リヨン、アレクサンドル・ド・マルシリ、1575年)として刊行された。同じ年には同じ版元からイタリア語版も出され、そちらは1702年と1722年に再版されている。フランス語版は1913年に増補の上で復刻されており、1971年にはオリジナルの復刻版も出された。

 ほか、800ページ近くに及ぶプロヴァンス史研究の草稿がエクスの市立図書館に現存している*5。これは生前刊行されることはなかったが、甥のセザール・ド・ノートルダムがこの研究を引き継ぎ、『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年)として出版している。

 かつては1590年歿とされていた。これはピトン『エクス市の歴史』(1666年)で1490年歿とされていたものが、1590年の誤植に違いないと修正された上で広められた結果である。19世紀のミショーの人名辞典などもこの見解を踏襲していた。
 しかし、現在ではこの見解は否定されている。甥のセザールが『プロヴァンスの歴史と年代記』で叔父ジャンの死を36年前としていること、知人のジュール・レモン・ド・ソリエ(Jules Raymond de Solliers)が1577年にまとめた手稿でジャンの死を最近としていること、ジャンの死によって空席となった高等法院判事の席にピエール・テル(Pierre Terre)が就任したのが1577年3月7日であること、さらには1577年2月8日付の公文書で「最近」死んだジャンの遺産分配について触れられていることなど、1577年初め頃に歿したと推測できる証拠が揃ってきた一方、1590年まで生きていたことを裏付けられる根拠が何もないからである*6

 ちなみに、上記の遺産分配の記述からは、ジャンに子供がいなかったこと、遺言を残さずに死んだこと、その結果として兄弟のベルトランエクトールアントワーヌ、および甥に当たるノストラダムスの子供たちで遺産が分配されたことなどが分かる(ノストラダムスの子供たちの名前はないので、姪たちにも分与されたかは不明)。

 なお、ジャンの死から40年以上あとにあたる1618年にパリとリヨンで相次いで出版された匿名のパンフレット『今年1618年に見られた驚異と徴の予言』(Les Prédictions des signes et prodiges qu'on a vus cette présente année 1618(未作成).)も、ジャンの著作とされたことがある。これは、ジャンが用いていた「プロヴァンスの紳士」(le M. Provençal)という変名が記載されているからという薄弱な根拠によるもので、現在では不適切な推測とされている*7

関連項目



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人物 一族
最終更新:2009年09月21日 12:00

*1 Leroy [1993] pp.32 & 39

*2 竹下 [1998] pp.53-54, Pierre Gayrard [2001], Un dragon provençal, Actes Sud, p.19

*3 Leroy [1993] pp.vii-viii.

*4 ラメジャラー[1998a]p.317と表紙裏

*5 Chomarat [1973]

*6 Leroy [1993] p.viii, pp.41-42.

*7 Benazra [1990] p.181