ジャン・ジフル・ド・レシャク(Jean Giffre de Réchac, 1604年8月25日-1660年4月9日)は、ドミニコ会の聖職者。宗教上の名前はジャン・ド・サント=マリー。
1604年にアキテーヌ地方のレシャクの領主ジャン=ロジェ・ジフルの子として、キルブーフ(Quilleboeuf)に生まれた。14歳のとき、パリの修道院でドミニコ会士となり、以降学問を積んで伝道師、副修道院長などとして様々な場所に赴任した。
1637年にルーアンの小修道院長として赴任したあたりから、その予言や心霊方面での活動などで知られるようになった。その後、彼はパリに呼び戻されボルドーなどに赴任した後に、1641年からはパリの小修道院の副院長になっていた。
1645年以降、修道会の指導者(le maître de l’Ordre)のトマ・チュルコ(Thomas Turco)と対立するようになり、ジフル・ド・レシャクは著書の出版禁止や副修道院長の職務停止の処分を下された。
1657年11月にはチュルコからサン=テチエンヌ=アン=フォレに住むことを許され、懺悔の聴聞などの職務をこなした。最後はリヨン近郊のサン=サンフォリアン=シュル=コワーズで四旬節の説教などを行っていたが、1660年にその地で歿した。
ノストラダムス関連
「トマ・チュルコは、すでに開始されていた『イエス・キリストの現世の王国』(Le royaume temporel de Jésus-Christ)という本の印刷を差し止めさせることに成功した。それでも、『解釈されたノストラダムスの予言集』(Prophéties de Nostradamus expliquées)については、著者名を出さない形ではあったが出版されることになるだろう(1656年)」。
見てのとおり、書名がかなり違っている。しかし、1656年に著者名を記さずに出版されたノストラダムス予言の解釈書は『解明』以外にない。また、ジフル・ド・レシャクの場合、なぜ著者名を記さなかったのかが、チュルコの妨害という背景から非常に明快に説明できる。この点で、実態のよく分からないエチエンヌ・ジョベールよりも説得的とは言えるだろう。
最終更新:2009年09月21日 12:08