ビュジェによる百詩篇第1巻35番の検証

 19世紀の書誌学者フランソワ・ビュジェ(未作成)は、百詩篇第1巻35番についておそらく最初に懐疑的な検証を行った人物である。その細部に若干の誤りがあるのは事実であり、あまりにも語義を硬直的に捉えている点も少々問題かもしれない。しかし、現代の懐疑的な指摘に盛り込まれる要素のあらかたが出揃っているものなので、資料的価値を考え、ここに全訳しておく。

全訳

 非常に重大で並外れた事件なら、百詩篇集の中で描写されていないはずはない。実際、我々は第1巻35番の四行詩にそれを見出すのである。というのは、セザールが『プロヴァンスの歴史』(Histoire de Provence)でこう述べているからだ。

「不幸な槍の一撃、ある傑出した人物はそれが起こる数年前に、予言的な四行詩集の一篇ではっきりと示していたようである。彼はそこでこう歌っている。

 Le lyon jeune le vieil surmontera
 En champ bellic par singulier duelle,
 Dans cage d'or les yeux lui crêvera :
 Deux classes une, puis mourir mort cruelle.

奇妙な真実への予言、そこでは黄金の籠という言葉で、王家の兜が活写されているのが分かる。」

 もっとつまらない外観にも満足する(=一致させられそうなささいな描写なら、もっとつまらないものでも採用している)シャヴィニーが、その『ヤヌス』(Janus)の中にこの四行詩を入れていないのは目を引く。そのことは、世間で行われてきた解釈がノストラダムスの目には誤解と映っただろうことを、まさしく証明している。
 しかし、ジョベールギノーも少々原文を改竄しつつ、事件に一致していると考えた。ルルー(未作成)は抵抗したが、無駄だった。というのは、今日でもなお、それは注釈者たちにとって自明のこととなっているからだ。信じる者には悦楽を、疑う者には悪夢をもたらすこの有名な四行詩を検証してみよう。

 「獅子」(lyons)がアンリ2世モンゴムリ(未作成)を描写しているかもしれないと想像するときには、予言者のスタイルを多かれ少なかれ知らねばならない。というのは、この隠喩は彼らを何一つ特徴付けておらず、その上、フランスには彼らと同じくらい勇敢な勇士たちが数多くいたからだ。その隠喩は、この場合、何らかの公式の通称なり、金言なり、その他の特殊なモチーフなりでまさしく獅子と位置づけられるような2人の指導者にしか、適用することはできない。
 さらに、モンゴムリは若くなかったし、王は年老いておらず、どちらも壮年だった。王は1518年3月31日の生まれで当時41歳、モンゴムリは1545年にフランソワ1世からスコットランド派遣部隊の指揮官に任ぜられており、そんな任に就くときには21歳にはなっていただろうと思われることから、すくなくとも当時35歳にはなっていただろう。
 surmonter は「打ち負かす」とか「凌ぐ」の意味なので、「乗り越えるだろう」(surmontera)は、勝者なき裏切りもしくは事故の結果であるアンリ2世の死とこの四行詩が何の関係もないことだけを示している。
 馬上槍試合はサン=タントワーヌ街で開催され、観客が陣取るために2つの障壁に挟まれていた。さて、「戦いの野」(champ bellic)すなわち戦場とは、程度の差はあれ広く開かれた空間であり、閉ざされた場所、とりわけ非常に狭い競技場とは正反対である。
 「一騎打ちによる」(par singulier duelle)は、ノストラダムスが好んだあからさまな贅語法である(訳者注:「戦いの野」の「戦い」と意味が重なるということ)。Duellum は bellicus と duellicus の対応のように、bellum の古い形である。結果として「一騎打ち」(singulier duelle)は決闘や真剣勝負を意味し、過去において、「膝当てに衝撃を与えたり揺すったりすることなく一直線に進み、その柄を横たえるか壊すこと」しか問題とされない競技の意味に拡大されたことはないのだ。
 「」(cage)は閉じ込めるものであるのに対し、兜は難を避けるもの、守ってくれるものである。王の兜は金色だったといわれている。しかし、それは間違いなく「金色の」(d'or)ものなどではなかったのだ。
 勝者は敗者の両目を引き裂くというが、アンリ2世がモンゴムリの持っていた槍の破片で貫かれたのは右目だけだった。
 「クラシス」(classis)が意味するものは、陸の部隊か艦船(それが運ぶ部隊も含む)なので、「ドゥ・クラス・ユヌ」(Deux classes une)とは、二つの軍隊がひとつにまとまることを言いたいのだ。ここで、ジョベールは勝手に「二つの傷は一つになり」(deux plaies une)と置き換え、王の傷が実際に二重のものであると示したがった。彼は「頭部への乱暴な衝撃によって破れたいくつかの血管からの出血が脳を流れ、治療できない膿瘍を引き起こしたので、ひとつだった王の傷は別の傷とくっついたものだったのだ」と語った。ブーイは「ドゥ・カス」(Deux casses)と置き換え、こう言った。「この金の籠とは、ただ一人純金で作れる権利を持つ王の兜のことである。Deux casses une とはつまり、兜を意味する cassis から来た casses という言葉を使い、荒々しい攻撃で2つの兜がぶつかり合うことを意味している」。こんな調子だから、あとは推して知るべし。
 「そして死ぬ、酷き死」(Puis mourir mort cruelle)は、「二軍が一つになり」(Deux classes une)によって3行目と区切られているので、二つの軍隊が合流した後に勝者が捕虜を残酷なやり方で死なせることを意味しているのである。
 さらに「そして」(puis)は、「酷き死」(mort cruelle)が程度の差はあれ両目の喪失から長い時間を置いていること、つまり酷き死は両目の喪失の結果でないことを示すに十分である。結局のところ、アンリ2世はあの負傷から死までの間、大いに苦しんだというわけではなかった。なぜなら、彼はほとんど毎日昏睡状態にあったからである。
 以上、私の見るところでは、この四行詩には一語として、かの君主の不幸な末路に当てはめられるものはない *1

コメント

 比喩に関する見解や細かい語法上の見解については議論のあるところだろうが、ここでは触れない。とりあえず、客観的な事実関係に基づく補足だけをしておきたい。

 まず、セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』からの引用だが、実際にセザールが第1巻35番を引用したときには4行目は省いていた *2 。ビュジェは引用の際に4行目を補っているのである。現代であれば、同一性保持権の侵害に該当しかねない余計なお節介だが、さて当時はどうだったのか。
 なお、ここでセザールは父ノストラダムスのことを「ある傑出した人物」と婉曲に表現しているが、すぐ横の欄外注でノストラダムスの名前を出しているので、「名前は書いていない」 *3 という山本弘の紹介は少々不正確である。

 次に、モンゴムリの年齢について補足しておく。モンゴムリの生年は、1526年または1530年とされているので、事件当時の年齢は29歳または33歳となる(ロジェ・プレヴォは29歳を採っている)。この点で、ビュジェの推測よりは年齢差が開いていたことになる。
 もちろん、若いと老いたという対比がおかしいことに変わりはなく、これ自体は話の筋に何の影響も及ぼさない。

 現代でもジェイムズ・ランディ(未作成)や山本弘などのように、この詩の語句と当時の状況を細かく対比させて検証した者はいるが、それらと見比べてみれば、主要な論点のほとんどがすでにビュジェによって指摘されていたことが分かる。


コメントらん
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  • とある信奉者 さんが 2013-03-10 23:53:12 に投稿したコメントは申し訳ありませんが削除させていただきました。記事の主題(ビュジェの解釈)と直接的な関連性がなく、「独自解釈は 1 記事につき 200 字以内」という制約を逃れるためにこちらに投稿した可能性があると判断したからです。百詩篇第1巻35番に投稿するつもりのコメントを誤爆したのだとしても、そちらにはすでに400字近い投稿があるため (また最近、とある信奉者 さんについては、制約をオーバーする400字前後の投稿を複数黙認してきたという事情もあるため)、削除やむなしと判断しました。--sumaru

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