百詩篇第3巻98番

原文

Deus1 royals2 freres3 si fort guerroyeront
Qu'entre eux4 sera5 la guerre si mortelle,
Qu'vn chacun places6 fortes occuperont:
De regne7 & vie sera leur grand querele.

異文

(1) Deus 1555 1840 : Deux T.A.Eds.
(2) royals : Royals 1589PV 1620PD 1649Ca 1650Le 1653 1665 1668, royaux 1594JF, rouals 1649Xa, Royal 1672
(3) freres : Freres 1589PV 1672
(4) Qu'entre eux : Qu'ente eulx 1557U, Qu'entr'eux 1589PV 1620PD 1649Ca, Entre eux 1594JF, Qu'ent r'eux 1650Le, Qu'entreux 1668 1672
(5) sera : fera 1668
(6) places : place 1589Rg, place- 1644
(7) regne : Regne 1672

(注記)異文6の place- は原文ママ。

日本語訳

王家の兄弟二人が余りにも激しく戦うので、
そして、彼らの間では、戦いがきわめて致命的となるので、
それぞれに(相手の)堅牢な場所を占有するだろう。
彼らの大騒擾は、王国と生命を賭けたものとなるだろう。

訳について

 si...que...は、英語の so...that 構文と同じ。
 大乗訳2行目「その戦いによって やがて滅ぶべき運命にあった」*1は、明らかに誤訳。この場合の si mortelle は、語尾からいっても la guerre を形容しているのは明らかである。ヘンリー・C・ロバーツの英訳でも、That the war between them shall be mortal*2となっている(これはこれで、強調の si に対応する語がないのは若干不適切だが)。
 3行目の直訳は「それぞれが強い場所を占領するだろう」。
 山根訳「両者とも要塞化した城にたてこもる」*3は、意訳した結果として許容範囲かもしれないが、当「大事典」ではピエール・ブランダムールの読み方に従った。
 大乗訳3行目「たがいに強く主張しあい」は、誤訳。ロバーツの英訳 Each of them shall seize upon strong places と見比べても、理由がよく分からない。
 山根訳4行目「二人の大喧嘩はおたがいの命と王とにかかわるものとなろう」の「命と王」は「命と王国」の誤植か。大乗訳4行目は vie をこの場合「生活」と訳すのが適切かどうかに疑問もあるが、ひとまず問題ないと思われる。

信奉者側の見解

 ジャン=エメ・ド・シャヴィニーは、この詩を1586年に位置づけ、義理の兄弟であったフランス王アンリ3世とナヴァル王アンリ(のちのアンリ4世)の対立と解釈した*4
 著者不明の『百詩篇集の小論あるいは注釈』(1620年)でも、宗教戦争末期のナヴァル王アンリと関連付けられた*5
 1574年から1576年としているため時期は少しずれるが、ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌも宗教戦争の状況と解釈していた。彼の場合は、アンリ3世とその弟のアランソン公の関係と捉えており、同様の読み方はエリカ・チータムもしていた。ただし、チータムの場合、1632年ごろの国王ルイ13世と王弟オルレアン公の関係にもあてはまるとしていて、歴史の循環性についても言及している*6

 2001年のアメリカ同時多発テロ事件後、この詩を一部取り込んだ偽の詩篇がインターネット上に出回った。それを踏まえて、この詩自体をブッシュとビン・ラディンの対立と解釈するものも見られるようになった*7

同時代的な視点

 信奉者のテオフィル・ド・ガランシエールが、「解釈の必要なし」とだけ注記していたように*8、詩の情景は読んだ通りである。しかし、兄弟の対立が国を傾けるなどというモチーフは歴史上それほど珍しいものではなく、固有名詞などが一切出てこないこの詩について、特定のモチーフを見つけ出すのは困難だろう。

 実際、ピエール・ブランダムールエヴリット・ブライラージャン=ポール・クレベールピーター・ラメジャラーらは語法上の解説などを展開するにとどまり、特定のモデルなどの提示を一切行っていない。

 しかし、1724年の『メルキュール・ド・フランス』紙に載った「ミシェル・ノストラダムスの人物と著作に関する批判的書簡」では、歴史的モデルを土台にした解釈が展開された。
 それによれば、1558年から1559年にかけてオスマン帝国内部ではスレイマン大帝の子供たちの間で内紛があったといい、それが土台になっていると解釈されている。
 この解釈について言及したエドガー・レオニが指摘しているように、この解釈は、詩の出版が1555年だったことを無視しており、明らかに問題がある。

 この詩が書かれたときには、オスマン帝国皇帝はスレイマン1世、ハプスブルク家当主は神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世だった。こうした強大な君主の国が後継問題でもめることへの期待が織り込まれている可能性などは否定できないだろうが、この曖昧な詩句から裏付けることはほとんど不可能だろう。


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百詩篇 第3巻
最終更新:2009年09月21日 18:42

*1 大乗 [1975] p.121. 以下、この詩の訳文は同じページから

*2 Roberts [1949] p.109

*3 山根 [1988] p.145. 以下、この詩の引用は同じページから。

*4 Chavigny [1594] p.244

*5 Petit discours..., p.11

*6 Fontbrune [1980/1982], Cheetham [1990]

*7 G.B.ノストラダムス研究班 [2001] pp.16-17

*8 Garencieres [1672]