百詩篇第9巻20番

原文

De nuit viendra par la forest1 de Reines2,
Deux pars3 vaultorte4 Herne5 la pierre blanche,
Le moine6 noir en gris7 dedans Varennes8
Esleu cap.9 cause tempeste10 feu, sang tranche.

異文

(1) forest : Forest 1672
(2) Reines : Renes 1627, Rennes 1672 1840
(3) pars : parts 1627 1672, par 1644 1650Ri
(4) vaultorte : vaultote 1627, voltorte 1605 1628 1649Xa 1649Ca 1660 1840, vautorte 1653 1665, Voltorte 1672
(5) Herne : Hene 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1716
(6) moine : Moyne 1644 1672
(7) gris : gros 1627
(8) Varennes : narennes 1572Cr
(9) cap. : cap 1597 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1716, Cap. 1672
(10) cause tempeste : tempeste 1653 1665

校訂

 ピーター・ラメジャラー高田勇伊藤進らは1行目を Rennes と読み替えているが、これは韻の上からも意味の上からも妥当なものである。なお、ロジェ・プレヴォは レンヌ=アン=グルヌイユ(Rennes-en-Grenouille)がかつてよく似た「レーヌ」(Raines)とも綴られたとしている。

 2行目 vaultorte Herne la pierre blanche は Vaultorte, Heruée(Ernée), la Pierre Blanche となるべきである。これらはシャンタル・リアルツォ(未作成)の研究によるものである。

 同じく2行目 Deux pars(二つの方向)については、リアルツォは言葉遊びの一種で De par(~を通って)と読むべきではないかとしている。高田勇・伊藤進も支持しており、十分に説得的なことから、当「大事典」での以下の訳にも反映させた。

日本語訳

夜に来るだろう、レンヌの森を通り、
ヴォトルト、エルネ、ラ・ピエール・ブランシュを通って、
ヴァレンヌで灰色をまとった黒き修道士が。
彼は長に選ばれ、嵐、火、血、切断を引き起こす。

訳について

 高田・伊藤訳では1行目が「夜陰にレンヌの森に来ん」*1となっているが、par は経由を指すほうが一般的で、エドガー・レオニやラメジャラーの英訳でも through が用いられていることから、とりあえずより直訳に近い訳語を採用して、2行目と並列的に訳した。
 2行目の直訳は「二つの方向、ヴォトルト、エルネ、ラ・ピエール・ブランシュ」で、ロジェ・プレヴォは「二つの方向」(Deux parts)を「二つの党派」と理解しているが、ここでは De par とする読み方に従った。

 大乗訳も山根訳も信奉者側の定説に基づく読み方としては、おおむね許容範囲内といえる。
 ただし、大乗訳1行目「ラインの森」は意味不明(ヘンリー・C・ロバーツの英訳ではレーヌ Reines はそのままである)。また、4行目「首長を選び 大あらし 火事 洪水が走るように」の最後の部分は誤訳。「洪水」も「走る」も原文に無い一方、「血」(sang)が脱落している*2。山根訳もなぜか「血」が脱落している(エリカ・チータムの原書では脱落していないので、日本語版だけの問題である)。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、未来の予言とした上で、ヴァレンヌの黒い僧侶が灰色の服を着て隊長(Captain)に選ばれ、血と火の嵐を引き起こすと解釈した。この解釈はほとんど直訳に近いが、2行目については訳が分からない単語が並んだ解釈不能なものとしていた。

 現在の信奉者たちは、フランス革命中のヴァレンヌ逃亡事件(1791年)とすることで一致している。この解釈は、当「大事典」で確認している範囲内では、テオドール・ブーイ(1806年)が最初に提唱したようである。ただし、フランス革命期には様々なパンフレットが出されたので、先行する指摘は当然存在していたことだろう。

 ブーイの解釈には、その後展開される解釈の基本要素があらかた登場している。彼は、国王「夫妻」(Deux parts)が「レーヌの森」(forêt de Reines)や「曲がりくねった道」(Vaultorte)を通り、ヴァレンヌにたどり着いたとしている。Herne はアナグラムで reine(王妃)とする。「白い石」とは逃亡時に白い衣装を身にまとっていた王妃自身という。黒き僧侶の「黒い」(noir)はアナグラムで「王」(roi)となる。彼らの逃亡が嵐、火、血、「断頭」(tranche)を引き起こした。「首長に選ばれた」(Eslu cap)とは、国王が国民から選ばれた立憲君主となったことを指すという。

 この解釈は基本線で継承されるが、細かい点で変更を加えた者たちもいた。
 まず、「レーヌの森」(forêt de Reines)は、現代でも五島勉のようにそのまま踏襲する者もいるが、実在しない。そこで、アナトール・ル・ペルチエは直前の forest をラテン語の fores(扉)と読み替え、チュイルリー宮殿の王妃の間の隠し扉から逃げたこととした。
 「レーヌの森」については、ロルフ・ボズウェルジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌのように、「ランスの森」(forêt de Reims)が脚韻のために変化したとする見解もある。

 Herne はブーイの解釈が踏襲されることが多いが、フォンブリュヌは清廉を旨とする hernute(モラヴィア派の信徒)と関連付け、ルイ16世の性質を表す言葉と解釈した。これに触発されたのか、五島勉は、ルイ16世がエルヌ派の修道士の格好をしていたことの予言と解釈した。

 3行目 moine(修道士)について、ル・ペルチエはギリシャ語の monos(独り)と読み替え、見捨てられた状態の国王を指すとした。エリカ・チータムはルイ16世の性的不能状態を指すものと解釈した。

 国王夫妻の服の色については、アレクサンダー・チェントゥリオ(未作成)が当時の『ガゼット・ナショナル』紙を調査した結果として、確かに王妃が白、国王が灰色だったと主張している。この解釈は、クルト・アルガイヤーなどにも引き継がれた。

 4行目 Esleu Cap. の Cap. は、ウジェーヌ・バレストが Capet(カペー)の省略と読んで以来、そう解釈されることが多い。ルイ16世は、フランス革命期にはフランス王家の祖にちなんでカペー姓を名乗ることを強制された。

 ジョン・ホーグは、詩番号の9巻20番の9を6にひっくり返した上で、事件の6月20日が織り込まれているとした*3

懐疑的な見解

 この詩は有名すぎる分、エドガー・レオニジェイムズ・ランディ(未作成)などの懐疑派からも検証されてきた。

 まず「レーヌの森」(forêt de Reines)は実在しない。レオニによれば、「ラ・レーヌの森」(forêt de la Reine)なら実在するらしいが、逃走経路とは全く別で、ヴァレンヌから南東に80km 以上の場所にあるという。実際に逃走の際に抜けたのはアルゴンヌの森である。
 また、ランディによれば、王宮から抜けるときに使われた扉は、王妃の間から離れた侍従の部屋の扉だったという。

 「夫妻」(「2組の夫妻」と訳されることもある)も不正確で、子供たちや従者も連れていた状況にそぐわない。また、国王夫妻の扮装はロシア貴族のもので、「修道士」は何の関係も無い*4。五島勉が主張する「エルヌ派」が関係ないのはもちろんだが、そもそもそんな宗派が実在しているのか自体、当「大事典」では確認が取れない。

 服装については、カンパン夫人(Mme de Campan)の証言が引き合いに出されることがあるが、カンパン夫人は伝聞でしか状況を知らなかったので、信頼性に欠ける。ランディの調査によれば、王妃の服装は白でなく、灰色のドレスと黒のケープだったという。

 チェントゥリオが引き合いに出した『ガゼット・ナショナル』の調査も信頼性に欠ける。彼は逃亡事件が1791年6月12日にあり、2日後の14日付の紙面に服装の話が書かれていたとしているが、事件は6月20日であった。
 当「大事典」で19世紀に復刻された『ガゼット・ナショナル』の1791年6月分の記事を調査してみたが、逃亡事件の記事は6月22日に載っていたものの、服装の話は無かった*5

 「ヴァレンヌ」(Varennnes)という地名が最大の鍵となるが、DNLF によれば、この地名はフランス国内に24ある(ヴァレンヌに余計な言葉がついているものを含む。ヴァレンヌ事件の舞台にしても、現在はヴァレンヌ=アン=アルゴンヌという)。
 さらに、よく似た地名の「ヴァレンヌ」(Varenne ; 最後に s がない)が3箇所、「ラ・ヴァレンヌ」(La Varenne)が1箇所、同じ語源の「ヴァレーヌ」(Varesne)が1箇所存在する*6。高田・伊藤が24箇所としているのに対し、レオニやランディが26箇所としているのは、この紛らわしい地名のどれかを算入したためだろう。あるいは市町村合併などによって消滅したヴァレンヌがほかに2つあったのかもしれない。

 最後の行は何とか結び付けられる可能性が残るものの、それ以外はほとんど史実と整合していない*7

同時代的な視点

 従来、特に2行目は多様に解釈されてきたが、シャンタル・リアルツォ(未作成)の優れた指摘(1986年)以来、シャルル・エチエンヌ『フランス街道案内(未作成)』(1552年、増補1553年)との共通性が知られるようになった。

 その増補版のpp.137-140 には、ここで問題となっている固有名詞と同じ、もしくはよく似た地名が登場している。つまり、「レンヌの森」(forest de Renes[sic.])、「ヴォトルト」(Vaultorte)と「ヴォトルチュ」(Vaultortu)、「エリュエ」(Heruée)、「ラ・ピエール・ブランシュ」(la Pierre Blanche)、「ヴァレンヌ」(Varennes)である*8
 これらは複数のルートに見られる地名であり、単一のルートとして結ばれているものではない。ただし、互いに隣接するルートの地名であり、ノストラダムスが『フランス街道案内』を参考にしてこの詩を書いた可能性は十分にある。これらの地名は全てフランス北西部のものであり、下に掲げた地図にあるようにヴァレンヌ事件の舞台(ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ)とはかけ離れている。

 ちなみに、リアルツォが指摘している通り、同じページ範囲内には、「メーヌ地方」(Maine)、「マイエンヌの森」(forest de Mayenne)、「フージェール」(Fougeres)も登場しているが、これらはいずれもひとつ前の詩(第9巻19番)に登場している地名なのである。

 この詩に特定のモデルがあるかについてだが、ロジェ・プレヴォは1562年にフランス北西部で繰り広げられていたカトリックとプロテスタントの戦いを描写したものではないかとしている。

 1562年はユグノー戦争の開始に当たっていた年であり、北西部でも各所で戦いが繰り広げられていた。その中で、ヴォトルトの領主ド・ラ・フェリエール(J. de la Ferriere, Seigneur de Vautorte)はプロテスタント側について周辺を支配した。しかし、エルネの町はギーズ公や弟のロレーヌ枢機卿によって守られていた。
 近隣の主要都市トゥール(この近くにはヴァレンヌ=シュル=ロワールや現アンドル=エ=ロワール県内のヴァレンヌがある)では、プロテスタントの脅威に対して立ち上がった修道士がいた。アントワーヌ・デュ・プレシ・ド・リシュリューである。彼はフランス国王から火縄銃部隊の「隊長」(capitaine)に任命され(選ばれ)、その出身から「修道士」(le moine)の異名を持っていた。当時の年代記でもしばしば「修道士」と呼ばれている。彼はその数年前にベネディクト会(黒衣)を離れた*9。その後、彼は兄とともに軍隊に加わり、ユグノー戦争でも活躍したのである*10

 この解釈は、地名もその他のキーワードも満足させるという点で非常に魅力的である。ひとつ問題があるとすれば、この詩の初出がいつなのかという点である。この解釈が成り立つとすれば、1558年版『予言集』の出版は否定される。逆に1558年版が実在したとすれば、この解釈は採れない。
 1558年版実在説に立つピーター・ラメジャラーは、現在流布している1568年版の原文、特にその後半2行は、ジャン=エメ・ド・シャヴィニーが1562年以降に改竄したものではないかとも述べている*11
 この辺りの点は、今後も更なる検討が必要だろう。

【地図1】関連する地名(この縮尺では、ヴォトルトやラ・ピエール・ブランシュはエルネと重なってしまうので省略)

【地図2】エルネ周辺の拡大地図(ラ・ピエール・ブランシュは、正確な緯度・経度が分からないため、隣接するサン=チレール=デュ=メーヌの緯度・経度を利用した)


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  • デュメジル、竹本説を支持。白い石、黒、灰色はカバラ思想の生命の樹に対応。白い石はダイヤであり、王冠も意味する。故に王妃でなく、ルイ16世を指す。 灰色は憂鬱な気分を指す。カバラでは黒→灰色→白となるが、逆の過程を辿っている。“曲がりくねった道”は、その樹のパスも意味し、ケセドからビナーのパスは通っていないので一度、ティファレトに戻ってからでないと進めない。これは衰退や逆行を意味する。 -- とある信奉者 (2013-04-02 19:38:12)

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