詩百篇第9巻19番


原文

Dans le millieu de la forest1 Mayenne2,
Sol au lyon3 la fouldre4 tombera,
Le grand bastard5 yssu6 du gran7 du Maine,
Ce iour fougeres8 pointe9 en sang entrera.

異文

(1) forest : Forest 1672Ga
(2) Mayenne : miyen ne 1572Cr, Mayene 1650Mo, Moyenne 1716PRc
(3) lyon 1568X 1568A 1568B 1627Di 1653AB 1665Ba 1772Ri 1840 : Lyon T.A.Eds.
(4) la fouldre : le foudre 1650Mo, la Foudre 1672Ga
(5) bastard : Bastard 1672Ga
(6) yssu : yssue 1568X 1590Ro 1653AB 1665Ba 1720To 1840
(7) gran 1568X 1568A 1590Ro : grand T.A.Eds. (sauf : grain 1572Cr)
(8) fougeres : Fougeres 1572Cr 1605sn 1611 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1667Wi 1668 1672Ga 1981EB
(9) pointe : point 1653AB 1665Ba 1720To, Pointe 1716PRb

校訂

 3行目 gran は grand と同じ。grain も発音はほぼ同じだが、文脈には適合しない。
 4行目 fougeres は地名なので、Fougeres とするほうが良い。

日本語訳

マイエンヌの森の真ん中で、
太陽が獅子宮にある時、雷が落ちるだろう。
メーヌの貴族の偉大なる落胤が
その日、血のついた槍とともにフージェールに入るだろう。

訳について

 大乗訳1行目にある「ヌイエン」*1は、誤訳というより単なる誤植だろう。
 同2行目「太陽はしし座に 光は混乱し」は後半が誤訳。ヘンリー・C・ロバーツの英訳 the lightning shall tumble*2の lightning を light と間違えて、文意を取り損なったものと思われる。
 3行目「私生児はメインに生まれ」も誤訳。私生児を形容している grand(偉大な)と、名詞の grand(大物、貴族)が両方とも訳されていない。また、「メイン」をライン川の支流と注記しているのも誤りだが、そもそもそれならば「マイン」と表記すべきだろう。
 同4行目「その日フジェーレは血の中にはいる」は、固有名詞の読みを置いておくとしても、pointe が無視されていることから明らかに誤訳である。

 山根訳はおおむね問題はないが4行目「その日 切っ先がフージェールの血に入りこむ」*3のみ、議論の余地がある。
 一応、山根訳のもとになったエリカ・チータムの英訳はエドガー・レオニの訳を踏襲しているものなので、許容範囲ではあるだろう。
 ただし、この行は省略されている語が1語ないし数語あるため、何を補うかでいくつかの読みがありうる。当「大事典」の訳は、ジャン=ポール・クレベールの読み方に従ったものである。

信奉者側の見解

 直前の第9巻18番がモンモランシー公処刑の予言として、直後の20番がヴァレンヌ事件の予言として、数多くの関連書に取り上げられているのと裏腹に、この詩についてはほとんど解釈がつけられてこなかった。

 セルジュ・ユタンは、アンリ4世がカトリック同盟のマイエンヌ公を打ち破った予言と解釈した*4


同時代的な視点

 シャンタル・リアルツォ(未作成)は、次の詩百篇第9巻20番に出てくる地名とともに、これがシャルル・エチエンヌ『フランス街道案内』(1552年、増補1553年)を参照して書かれたものである可能性を示した。

 ロジェ・プレヴォはそれら2つの詩は1562年のメーヌ地方でのカトリックとプロテスタントの争いを描写したものであると捉えた。
 「太陽が獅子宮に」入る時期は当時の暦では7月10日頃で、実際に1562年7月11日には、カトリック側の攻勢の結果として、プロテスタント勢がメーヌ地方の主要都市のひとつル・マンから撤退している。そして、年代記作家たちは、この月に激しい落雷があったことも記録しているという。
 「メーヌの貴族の偉大なる落胤」について、プレヴォはルイ・ド・ブルボンの血を引くモンパンシエ公(le duc de Montpensier)としている。フージェールは直接の関わりがなかったが、プレヴォはむしろトゥール近郊のフージェール=シュル=ビエーヴル(Fougères-sur-Bièvre)ではないかとしている。モンパンシエ公は1562年夏にその地域一帯に軍勢を展開していたからである*5

 プレヴォの解釈は魅力的で、クレベールなどは支持しているが、ピーター・ラメジャラーはこの詩について「不明」とだけ注記して、プレヴォの解釈には言及すらしていない*6
 その辺りの温度差は、この詩の初出が何年なのかという問題にも結びついているのだろう。1558年版予言集が実在したのなら、この解釈は取れないからだ。他方、初出が1568年版ならば何の問題もなくなる。この点は、今後も更なる検討が必要だろう。


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最終更新:2020年02月10日 22:48

*1 大乗 [1975] p.263. 以下この詩の訳は同じページから

*2 Roberts [1949] p.284

*3 山根 [1988] p.290

*4 Hutin [1978]

*5 Prévost [1999] p.30

*6 Lemesurier [2003b]