百詩篇第5巻58番

原文

De laqueduct 1 d'Vticense 2 , Gardoing 3 ,
Par la forest 4 & mont 5 Inaccessible 6 :
En my 7 du pont sera tasché 8 au 9 poing,
Le chef Nemans 10 qui tant sera terrible.

異文

(1) laqueduct 1557U 1568 1590Ro 1650Ri : l'aqueduct T.A.Eds. (sauf l'archeduc 1557B 1589PV 1649Ca, l'aque duct 1600 1610, l'Aqueduct 1644 1653 1665 1672 1840, la queduct 1588Rf 1589Rg, l'aqueduc 1772Ri)
(2) d'Vticense : d'vticense 1653 1665, d'Vticeuse 1668P, d'Vrice 1588-89
(3) Gardoing : Genar doing 1588-89
(4) forest : Forest 1672
(5) & mont : mort 1600 1610 1716, & mort 1665, & Mont 1672
(6) Inaccessible 1557U 1589PV : inaccessible T.A.Eds.
(7) En my 1557U 1557B 1568 1589PV 1590Ro 1649Ca 1772Ri : Emmy T.A.Eds. (sauf Ennemy 1610 1716)
(8) tasché : taché 1588-89 1605 1628 1649Xa 1672, tranché 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1668 1716 1840, transché 1650Le
(9) au : ou 1672
(10) Nemans : nemans 1568B 1568C 1568I 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1716 1772Ri

校訂

laqueduct は当然 l'aqueduct となっているべき。
En my と Emmy はほぼ同じ意味であり、どちらの可能性もあるだろう。

日本語訳

ガルドン川のユティサンスの水道橋、
―それは森と近寄れない山を通っている―
その橋の真ん中にて、拳で汚されるだろう、
非常に恐ろしいネマウススの首領は。

訳について

 各行に対応させようとした結果、繋がりが若干分かりづらくなっている。行にとらわれずに訳せば、「森と近寄れない山を通っているガルドン川沿いユティサンスの水道橋、その真ん中で非常に恐ろしいネマウススの指導者が拳で汚される(=殴られる)だろう」となる。

 大乗訳3、4行目「橋のまんなかに手首をむすびつけられ/ネーマン首長は非常に恐れるだろう」 *1 は、誤訳。ヘンリー・C・ロバーツの英訳(In the middle of the bridge shall be tied by the wrist, / The chief Nemans, that shall be so terrible. *2 )と見比べても明らかにおかしい。
 3行目 tasche の訳が難しいのは事実だが、ここでは現代フランス語の tacher と捉えるマリニー・ローズらの読み方に従った。

信奉者側の見解

 ロルフ・ボズウェルはロアン公アンリ(Henri, duc de Rohan, 1579年-1638年)の予言とした。
ロアン公は当時の急進派プロテスタントの中心人物で、王権としばしば衝突した。そして、1627年にはニームで攻囲されていたプロテスタント勢力を助けようと、砲兵隊を派遣した。その際の進軍ルートが水道橋、険しい山や森林を通るものであり、その先遣隊は砲撃の射線のために、水道橋の一部を損壊したという *3
 この解釈はエリカ・チータムが支持した。ジョン・ホーグもこの解釈を紹介しているが、それによると最初の提唱者はコラン・ド・ラルモール(未作成)(1925年)のようである *4

 セルジュ・ユタンは1944年のモンテ・カッシーノの戦いと解釈している *5

同時代的な視点

 ここでいう水道橋が、世界遺産になっているポン・デュ・ガールであることはほぼ疑いのないところである。

 ロジェ・プレヴォは、ノストラダムスと同時代にニーム近郊のポンピニャンの領主でもあったフランソワ・ド・ボーモン(François de Beaumont, le baron des Adrets, seigneur de Pompignan)と、その一味(compère)であるモンブランの領主シャルル・デュ・ピュイ(Charles du Puy, seigneur de Montbrun)の「運命の話」(récit du destin)と関連付けている *6
 プレヴォはそれ以上詳しくは説明していないが、ピーター・ラメジャラーによれば、その2人はポン・デュ・ガールの上で殴り合いをしたことがあったという *7

 当「大事典」として具体的な史実を確認できていないこともあり、何年の出来事だったのかよく分からない。
 プレヴォの解釈は魅力的なものが多い代わりに、書誌的事実との整合性が問題になることもしばしばなので、この詩の初出(1557年)より前の出来事だったのかどうかについて、確認が必要かもしれない。


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