シクストゥス5世

  シクストゥス5世 は第227代ローマ教皇(在位1585年-1590年)。

【画像】シクストゥス5世の肖像画 *1

生涯

 世俗名はフェリーチェ・ペレッティ(Felice Peretti)で、1521年12月13日にアンコーナのグロッタンマーレ(Grottammare)に生まれた。彼が極貧の境遇で育てられ、豚飼いをしていたという若いときの話には疑問の余地がある。若くしてフランシスコ会修道院に入り、すぐに説教者、弁証家としての類まれなる才能を発揮した。

 1552年頃に修道会の庇護者であるカルピ枢機卿をはじめ、ギスリェリ(Ghislieri, のちの教皇ピウス5世)、カラファ(Caraffa, のちの教皇パウルス4世)らの目にとまり、将来の栄達は約束された。のちにピウス5世(在位1566年-1572年)が教皇になると重用され、1570年には枢機卿に任命された。
 続くグレゴリウス13世(在位1572年-1585年)とはそりが合わなかった。これは1560年代前半にスペイン使節団に属していたときの不和が尾を引いていたものである。この時期、ペレッティは隠棲し、邸宅の手入れや研究活動に専念した。隠棲中は一切攻撃的ととられないように慎重に振舞っており、その慎重さが1585年4月24日の教皇選挙にも少なからず役に立った。
 彼はローマ教皇に選出されるや諸課題に精力的に取り組んだ。彼の在位期間は5年と短かったが、教皇庁の改革に意欲的に取り組んだ教皇として知られている *2

ノストラダムス関連

 ノストラダムスは修道士時代のペレッティに会っていたという伝説がある。このエピソードはパラメド・トロンク・ド・クドゥレ(未作成)(1701年)が最初に言及したらしい *3 。広める上で大きく寄与したのは、トロンク・ド・クドゥレからの紹介として採り上げたウジェーヌ・バレストであろう。その紹介は以下の通りである。

 またある時には、ノストラダムスはフェリーチェ・ペレッティという名の若いコルドリエ(フランシスコ会修道士)を目にすると、地面に膝をついて挨拶した。その修道士と一緒にいた人々は、その恭しさに驚き、理由を尋ねた。
 「なぜなら聖下〔注:教皇の尊称〕の御前では膝を折って屈従しないわけにはいかなかったからです」とその占星術師〔ノストラダムス〕は答えた。
 他のコルドリエたちは肩をすくめ、その予言者〔ノストラダムス〕を狂人や妄想狂の類として扱った。しかし幸運なことに、未来はノストラダムスが正しかったことを示した。というのは、件のコルドリエは1585年にシクストゥス5世の名でローマ教皇になったからである!
 このことは予言を真に並外れたものにした。この聖職者の到来が百詩篇第3巻28番の前半2行で告げられたのは、1555年のことだったからである。
 「取るに足らない土地の貧しい家族から、
 折々に慎ましく帝国で成り上がるだろう。」
 シクストゥス5世がアンコーナ辺境の極貧の村の、ほとんど財産を持ち合わせていなかった両親から生まれたことは知られている。彼は豚飼いから修道士になり、モンタルト枢機卿の称号を手に入れ、ペテロの聖座に昇りつめたのである。 *4

 この時点では時期や場所には全く言及がない(掲載場所からすれば、1550年代後半以降と考えていたのだろう)。しかし、『家族の博物館』(1847年)で紹介されたときには、根拠は分からないが1555年イタリアでのこととされた *5

 20世紀の関連書でこのエピソードを紹介しているものは多いが、最も早い部類に属するのは、ヘンリー・ジェイムズ・フォアマン(未作成)(1940年)とジャック・ブーランジェ(未作成)(1943年)の著書である。伝説の変形過程を考えるための題材として、それぞれ引用しておこう。

フォアマンによる紹介
 イタリアにてある若いフランシスコ会修道士、アンコーナ近郊の村落出身の貧しい若者であったフェリーチェ・ペレッティ(Felix Peretti)と出会ったとき、彼〔ノストラダムス〕はそのみすぼらしい若い修道士の前で膝をついた。「なぜ?」「この表敬は一体なぜ?」と他の修道士たちは訊ねた。
 「私は聖下の御前で首を垂れ、ひざまずかねばならなかったからです」とノストラダムスは答えた。修道士たちはそんな予言をほとんど重視しなかった。ペレッティが彼ら自身よりも抜きん出ているとは全く思えなかったのである。にもかかわらず、この村落出の青年は後にモンタルト枢機卿となり、1585年にはシクストゥス5世としてローマ教皇になった。 *6

ブーランジェによる紹介
 こういう話がある。フェリーチェ・ペレッティ(Félix Peretti)という若いコルドリエ派会士〔フランシスコ会修道士〕に出会ったとき、彼〔ノストラダムス〕はすぐさまラバから降りてひざまずいた。
 「なぜそんなことをするのですか?」とペレッティは尋ねた。
 「教皇(le pape)の前では平伏し、膝をつくのが当然です」とノストラダムスは答えた。
 それを聞くと、居合わせた人々は皆、あの男は頭がおかしいのだと思った。どこを見れば、アンコーナ辺境の村落の貧民層に生まれたこの未熟な修道士が、非常に高貴な運命を約束されていることなどと思えただろうか。それでもなお、彼はのちに枢機卿となり、1585年にシクストゥス5世の名でローマ教皇に即位した。 *7

異伝

 さらに他の論者になると際限なく拡散していく。
 フォアマンは場所をイタリアとしかしていなかったし、ブーランジェは場所に全く触れていなかった。しかし、ミシェル=クロード・トゥシャール(1972年)はジェノヴァ周辺、クルト・アルガイヤー(1982年)はミラノ、エリカ・チータム(1990年)はアンコーナと、論者によって出会った場所がずいぶん異なっている *8
 また、時期についてフォアマンは放浪期間(1530年代~1544年頃)の間としており、多くの論者が同じ見解を示しているが、トゥシャールのように1548年頃のイタリア小旅行とするものもある。

コメント

 日本では黒沼健が『謎と怪奇物語』(1957年)、『予言と怪異物語』(1964年)、『天空人物語』(1968年)などで度々紹介していたので、比較的早い段階から知られていたものと思われる。なお、それらでは、出会いがミラノであったことと、ペレッティのフルネームがフェリックス・ペレッティになっているという共通点がある。後者は、英仏語では確かにそう表記するので、依拠した資料によるものだろう。前者は元にした資料にそうあったのか、盗作除けの脚色なのか判断がつかない。

 実際にあったとすれば、1548年から1549年にかけてのイタリア小旅行か1556年のイタリア小旅行のときが有力だろう。
 しかし、ピーター・ラメジャラーは、ペレッティが1547年にすでに司祭に叙任されていることから、1548年以降に修道士の一団として旅をしていたことがありえないと疑問を呈している *9

 さらに志水一夫は、当時誰も注目しなかった予言だというのなら、なぜ後になってあれがノストラダムスだったと分かったのかという観点から疑問を呈している *10
 これが放浪期間中(1530年代後半から40年代前半)のエピソードだとすれば、ラメジャラーの指摘は問題ではなくなる。しかし、そう位置付ける根拠がない上、志水の批判に答えられていない(むしろ一層不都合が生じる)のも確かである。
 ノストラダムスが占星術師としてデビューしたのは1549年頃に執筆した1550年向けの占筮が最初で、それ以前は全く無名だったからだ。通りすがりの見知らぬ中年が奇妙な予言をしたなどと書き留める者はあまりいないだろうし、いたとしても40年ほど後に予言が実現してから、あのときの中年男性が正真正銘ノストラダムスであったなどとは到底いえまい。

 なお、志水はルーカ・ガウリコ(未作成)が未来のローマ教皇を予言したというエピソードを下敷きにして捏造されたのではないかとしていたが *11 、情景が全く一致しない。志水はケネス・J・デラノ『エピソード占星術』(社会思想社)からガウリコの予言を引用していたが、その引用文中にもあったように、将来教皇になると予言されたメディチ家のジョヴァンニはその時点で既に教会の要職についており、将来の栄達を予測することは十分可能だった。
 むしろ何らかの出典を想定するのであれば、羽仁礼(未作成)が指摘するように *12 、フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』に見られるマナエモスの予言の方がこのエピソードに近い。そこで、少し引用しておこう。

 エッセネ派にマナエモス(ヘブル語ではメナヘム)という名の人がいたが、彼が有徳の人物であることは、そのすべての生活態度、とくに、神によって未来を予知する能力を与えられていることから証明ずみであった。
 さて、この人が、当時まだ少年だったヘロデが家庭教師のもとへ出かけるのを見て、彼にたいし「ユダヤ人たちの王」と呼びかけたことがあった。もちろんこれにたいしヘロデは、この者が自分の身分を知らないのか、あるいはからかっているのか、そのどちらかだろうと考えて、自分はたんなる一人の平民なのだと注意した。
 しかし、マナエモスは、穏やかに笑いながら、ヘロデの尻を軽くたたいてこう言った。
「そうは申しましても、あなたはやはり王におなりになり、またその王国を立派に支配なさることでしょう。なぜなら、神はすでに、あなたがそれに値する人物であることを認めておられるからです。そしてあなたは、マナエモスから、こうして突然お尻をたたかれたことをお忘れになってはいけません。それは、人間の運命が突然変わるものであることをあなたに示すものなのですから。〔略〕
 そのときのヘロデは、彼の言葉に少しの注意も払わなかった。そのような期待は、何ひとつなかったからである。しかし、しだいに、その幸運と王者への道をのぼりはじめ、王権をわがものとする日が来たのである。(第15巻373節から377節) *13

 このエピソードは、無名の若者に対して似つかわしくない尊称で呼びかけ、当事者にさえも本気にしてもらえなかったが、のちに的中したという基本的なプロットが一致している。ヨセフスの『ユダヤ古代誌』はヨーロッパでも古来広く読まれてきたので、トロンク・ド・クドゥレがノストラダムスを「ユダヤ人の予言者」として祀り上げようとしたときに、ヨセフスを参照した可能性も十分に想定できる。

 いずれにしても、現時点ではこのエピソードが史実である(もしくは核心部分が史実を踏まえている)と判断すべき理由が全くない。実際、エドガール・ルロワピエール・ブランダムールイアン・ウィルソンらは完全に無視している。
 仮にこのエピソードを史実として紹介するのであれば、一体何という資料から引用したのかを明記することが必須となるだろう。信奉者側の著作の孫引きの孫引きというのでは話にならない。



名前:
コメント: