ノストラダムス現象

 ノストラダムス現象は、ノストラダムスとその作品が影響を及ぼしてきた様々な事象のことである。
 ノストラダムスは、『予言集』や翌年一年間を予言した『暦書』類などの形で様々な 「予言」 を残した。
 彼の (主として暦書で展開した) 予言は同時代でも様々な反応を惹き起こし、とりわけ同時代においては批判者や中傷者、さらに便乗的な偽者や模倣者を生み出した。ノストラダムスの予言は死後も大事件のたびに便乗する者や政治的意図を持つ者たちが大きく採り上げ、現代に至るまで多くの便乗本や解釈書が刊行されてきた。

 これらの原動力としては、当初は暦書が主体であったが、次第に『予言集』の影響が強くなっていった。その『予言集』は、18世紀末までに130種以上の版を重ねるという成功をおさめ、2022年現在では英語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、オランダ語、フィンランド語、スウェーデン語、ハンガリー語、セルビア語、ロシア語、アラビア語、ペルシア語、中国語、日本語などの翻訳版を含めて少なくとも累計240種以上の版を確認できる(ここには解釈本の類や、Googleブックスなどのオンライン上で公開された古版本を安易に印刷・製本しただけの文献は含んでいない)。

 関連書を出版したことのある版元の所在地に至っては、母国フランスをはじめ、当「大事典」で確認できているだけでも、スイス、イタリア、モナコ、スペイン、ポルトガル、イギリス、アイルランド、ドイツ、オランダ、ベルギー、ギリシア、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、セルビア、ラトビア、ロシア、日本、韓国、中国、フィリピン、インド、アゼルバイジャン、イスラエル、トルコ、エジプト、チュニジア、南アフリカ、カナダ、アメリカ、プエルトリコ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、チリ、オーストラリア等、地域的な濃淡はあるにせよ、文字通り世界中の国・地域にまたがっている。

定義

 冒頭に示した定義に対し、竹本忠雄はこの用語を 「日本では一般に社会現象化のことを云うようであるが、西洋ではノストラダムス予言の強力な特異効力の表れを意味する」*1と位置付けているが、妥当なものとは言いがたい。
 西洋でそのように位置づけているのはせいぜいヴライク・イオネスクくらいで、その定義を西洋一般に拡大するのは不当であろう。

 というのは、ロベール・ブナズラは従来の解釈書の氾濫が、「ノストラダムス現象」(le phénomène nostradamus)を分かりにくくする主因の一つになっていると指摘していた*2。これが、彼の記念碑的書誌の前書きに書かれていることを考えれば、彼が解明したいと考えていた 「ノストラダムス現象」 が社会現象を指すのは明らかだろう。
 予言の特異効果とやらを解明したいのならば、解釈書を出すべきで、あれほどの大著として書誌をまとめあげる必然性がない。

 また、詩百篇集はすべてノストラダムスの死後に偽造されたものという大胆な仮説を打ち出したジャック・アルブロンの書名は、『ノストラダムス現象に関する未発掘の資料群』 であった。詩百篇はすべてノストラダムス死後の偽作だとして、その正統性を認めないアルブロンが、そこに 「強力な特異効力」 など見出すはずがないのは言うまでもないことで、竹本の定義に明らかに反している。

 竹本が個人的にどのような定義を行おうと彼の勝手である。
 しかし、それをあたかも西洋一般で通用している定義であるかのように吹聴することには、強い疑問を感じる。

時代区分

 ノストラダムス現象は、ロベール・ブナズラの区分に準じれば、以下の3つの時代に大別できる*3

敵対者たちの時代

 この時代は、ノストラダムスの存命中(1550年代半ばから1560年代初頭まで)にあたる。
 ノストラダムスの予言は、大いにもてはやされた一方で、様々な批判が浴びせられた。そうした批判には、論理的な批判も見られた一方で、ノストラダムスを「モンストラダムス」(Monstradamus, モンストル=怪物との合成語)と呼ぶなど、単なる中傷に過ぎないものも少なからず見られた。かつてのノストラダムスの知人ジュール・セザール・スカリジェ(未作成)なども、こうした中傷に関与した。

 この時期の批判や中傷の特色としては、コンラッド・バディウス(未作成)ウィリアム・フルクなどプロテスタントからの批判が多かったこと、および主たる攻撃対象は暦書類であって、『予言集』は余り相手にされていなかったことが挙げられる*4

 この時期の主な批判者は以下の通りである。

詐欺師たちの時代

 この時代は、ノストラダムスの晩年から17世紀初頭にあたる(この時代の初期は批判者たちの時代と重なる)。この時期には、ノストラダムス2世アントワーヌ・クレスパンフィリップ・ノストラダムスといった偽者たちが現れ、弟子を自称する者も複数現れた。また、アンベール・ド・ビイイ(未作成)コルモペードのように、ノストラダムスの詩篇を盗用した占星術師も複数いた。

 彼らはノストラダムスの著書を真似たが、そこで模倣の対象になったのは、主に暦書類の書式であって、『予言集』を真似て詩集を出した者は、ピエール・ド・ラリヴェ(未作成)のような例外を除けば、ほとんどいなかった。他方、ノストラダムスの作品からの盗用は、むしろ『予言集』の詩篇が対象となる場合が多かった。

解釈者たちの時代

 この時代は、16世紀末葉から現代にあたる(この時代の初期は模倣者たちの時代と重なる)。ノストラダムスの予言について、最初に体系的な解釈を施したのは、ノストラダムスの秘書であったジャン=エメ・ド・シャヴィニーである(1594年)。
 しかし、その後ノストラダムスの注釈者が一気に増えたわけではなく、19世紀までは各世紀数人程度しか注釈者は現れなかった。しかし、ノストラダムス関連書が少なかったわけではなく、ミシェル・ショマラの書誌では、1567年(ノストラダムスの死の翌年)から1800年頃までの関連書として、実に300点以上が挙げられている。
 それらの中で『予言集』の版以上に目立ったのは、翌年一年を予言した暦書や、数年程度に対象を限定した散文の予言書であった。前者の例としては『ミシェル・ノストラダムス師によって正確に算定された1674年向けの歴史的暦』(パリ、1674年頃)などが、後者の例としては『1768年から1774年までの7年間のノストラダムスの新奇なる予言』(パリ、1768年頃)などが挙げられる。それらの主たる書き手は匿名のパンフレット作家であるため、内容もノストラダムスとは無関係の偽書にすぎないが、毎年のように出版された。
 このように、ノストラダムスの名は、19世紀までマチュー・ランスベール、ピエール・ド・ラリヴェ2世などとともに、「売れるブランド」として暦書や予言書に多く用いられていたのである。その際にしばしば権威付けとして用いられたのが、「ノストラダムスの墓から新たな予言が見つかった」という言説である。
 そうした言説は17世紀にはもう見られるが、実際には、フランス革命期に墓荒らしにあったときでさえ、目ぼしい副葬品はなかったようである(伝説には事欠かないが、いずれも裏付けがない)。

 ほか、17世紀のフロンドの乱の際に出された一連のマザリナード(未作成)の中には、ノストラダムスに仮託する形で政治的な主張や願望 (例えば「マザランの失脚が予言されている」といった類の言説) を盛り込んだ風刺文書も少なからず出されていた。1648年から1652年までの関連書として、ブナズラの書誌では40点が挙げられている。同様の現象はフランス革命期にも見られた。

 ノストラダムスの作品から未来を読み取ろうとする解釈者が爆発的に増えるのは、20世紀の2度の世界大戦を経てのことである。
 第二次世界大戦の直前や戦中には、ノストラダムスをめぐって様々なトラブルが起こった。
 フランスのヴィシー政権は、ナチスを刺激することを恐れて、マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)エミール・リュイール(未作成)らのノストラダムス解釈書を発禁処分にした。彼らの著書には、ナチスに否定的な未来予測が載っていたためである*5
 また、ナチスは占星術師カール・エルンスト・クラフト(未作成)に命じて、自分たちに都合のよい解釈を載せた著書を執筆させ、これをばら撒いた。

 戦後、ノストラダムスに対する関心はある程度落ち着いたが、1980年代になって再燃した。1980年に出版されたジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌの著書『歴史家にして予言者ノストラダムス』が国際的な大ベストセラーとなったためである。
 フォンブリュヌの著書は、1981年になって、その年のミッテラン政権誕生やヨハネ・パウロ2世狙撃を予言していたとして話題になり、オリジナルのフランス語版だけで100万部を超えた。次いで、様々な言語に訳され、アメリカ、イギリス、ドイツ、スペイン、カナダ、ブラジル、トルコなどでも出版され、余り売れなかったものの日本語訳も出された。

 フォンブリュヌの的中例とされたものは、必ずしも実際の事件に一致するものではなかったが(詩百篇第2巻97番参照)、著書の内容が近く起こる第三次世界大戦とそれによるパリ壊滅を描き出すものであったため、多くのフランス人の不安を煽った。
 これに対しては、フランス国内で複数の反論書や批判的な書評が寄せられ、ノストラダムス協会も反対の姿勢を明確に打ち出した。

 ジャン=ポール・ラロッシュ(未作成)によって作成された、フランスを中心とするノストラダムス関連文献の刊行点数のグラフ*6によれば、爆発的に刊行点数が増えたのは、1981年、1986年、1999年、2001年であったという。これらの年にはいずれも刊行点数は50点を超えている*7。ただし、フランスの場合、1980年代以降には実証的な立場からの優れた研究も相次いで刊行されたので、関連文献が全て信奉者の解釈書というわけではない。

 1999年にはファッションデザイナーのパコ・ラバンヌが、恐怖の大王の正体はロシアの宇宙ステーション「ミール」の墜落であると主張して、フランスでは話題となった。 
 2001年には、英語圏でもフランス語圏でも、アメリカ同時多発テロ事件に便乗し、ノストラダムスの予言の中からこれを読み取ろうとする言説がインターネット上を駆け巡り*8偽の詩も出回った。また、関連書も急増した。その後、アメリカではノストラダムスの予言絵画が取り沙汰されるなどしている。

 こうした欧米のノストラダムスブームは、アラブ社会における終末論の論じられ方にも間接的に影響を及ぼしたとする指摘もある*9

日本への影響

 日本のノストラダムス現象を参照のこと。


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最終更新:2013年11月28日 18:27

*1 竹本 [2010] 『秘伝ノストラダムス・コード』p.586

*2 Benazra [1990] p.XIII

*3 Benazra[1990]

*4 批判者たちについて、より詳しくはMillet[1987], Halbronn[1991a]を参照。

*5 Laroche[2003]p.105, ドレヴィヨン&ラグランジュ[2004]pp.84-91

*6 Laroche[2003]pp.149-155

*7 おそらく著書だけでなく雑誌論文なども含む

*8 Googleの2001年の検索用語の統計からもそれは窺える。

*9 池内恵『現代アラブの社会思想 - 終末論とイスラーム主義』講談社現代新書、 pp.233-234