予兆詩第68番

予兆詩第68番(旧61番) 1561年5月について

原文

Joye non longue abandonné des siens.
L'an pestilent, le plus grandassailli,
La Dame bonne aux champs Elysiens.
Et la plus part des biens froid non cueilli. *1

異文

(1) le plus grand 1561LN : le plus Grand T.A.Eds.
(2) Elysiens : helisiens 1561LN

(注記)1561LN は初出である『1561年向けの暦』を指す。この文献は断片が現存しており、この詩については完全に比較が可能である。

百詩篇第7巻76番

Ioye1 non longue abandonné des siens
L'an pestilent le plus grand assailly
La dame bonne aux champs Helisiens2,
Et la plus part des siens froid non cueilly.

異文

(1) Ioye : Ioy 1589Me
(2) Helisiens : Elisiens 1589Me

(注記)1588年から1589年にパリで出された版には、百詩篇第7巻76番として収録されていた。信頼性の点で疑問だが、ほぼ同じ時代の参考資料として掲載しておく。底本は1588Rf で、比較に 1589Rg, 1589Me を使った。なお、この詩篇は予兆詩との一致がつとに知られていたため、1590年以降の『予言集』に、この詩を収録したものはなかった。

日本語訳

長くない喜びが彼の仲間たちによって棄てられる。
悪疫の年に、最も偉大な者が襲われる。
善良な婦人はエリュシオンの野に。
そして、財物の大半は寒さで摘まれない。

信奉者側の見解

 ジャン=エメ・ド・シャヴィニーは、1589年の予言とした。1、2行目は、前年12月に政敵のギーズ公を暗殺して喜んでいた国王アンリ3世が、カトリック勢力からも見放され、その年の8月に暗殺されたことと、1589年にペストが流行したこと、3行目はその年の1月にカトリーヌ・ド・メディシスが死んだこととした。4行目はその年の秋に雨が多かったことを指すという*2

同時代的な視点

 ノストラダムスがこれを書いたのは1560年上半期と推測されている。その時期にあった何らかの「喜び」がぬか喜びに終わると悲観的に述べているようにも見える。
 一つの可能性としては、1560年4月に大法官(宰相)に就任し、カトリックとプロテスタントの融和に尽力したミシェル・ド・ロピタルの試みが、宮廷の人間たちに足を引っ張られて挫折するという見通しを示したものと見ることができるのかもしれない。

 3行目は明らかに高位の女性が死ぬことを述べているが、誰を念頭に置いたものかは分からない。地位の高い人間の死はノストラダムスの予言に頻出するので、ここでもただ漠然とそういうモチーフを述べただけなのかもしれない。

 4行目は当時が小氷期に当たっていたことから、春から初夏にかけて気温が十分に上がらず、作物が十分に実らないことを述べたものだろう。

 ちなみに、この詩に登場する「悪疫の年」(L'an pestilent)という表現は、この年全般向けの予兆詩にも登場している。


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最終更新:2010年02月19日 23:19

*1 原文は Chevignard [1999] p.146 による。

*2 Chavigny [1594] p.260