百詩篇第6巻94番

原文

Vn Roy iré sera aux 1 sedifragues 2 ,
Quant 3 interdictz seront 4 harnois de guerre:
La poison 5 taincte au sucre 6 par les 7 fragues 8
Per 9 eaux 10 meurtris, mors, disant 11 serre 12 , serre 13

異文

(1) aux : au 1660
(2) sedifragues : fedifragues 1627 1644 1650Le 1650Ri 1660 1665
(3) Quant 1557U 1557B 1568A 1568B 1568C 1589PV 1772Ri : Quand T.A.Eds.
(4) seront : feront 1627 1644 1665
(5) poison : poisson 1650Le 1668
(6) sucre 1557U 1557B 1589PV : succre T.A.Eds.( sauf sucere 1653 1665)
(7) les : ses 1653 1665 1840
(8) fragues : fraigues 1653, fraignes 1665
(9) Per 1557U : Par T.A.Eds.
(10) eaux : eux 1627
(11) disant: disans 1665
(12) serre : terre 1557B 1589PV, setre 1649Xa
(13) serre : terre 1557B 1589PV 1627

校訂

sedifrague は一部の異文にあるように fedifrague の方が正しい可能性がある。
 4行目serre, serreは、上に見るように例外的な異文としてterre, terre(「大地を、大地を」)が存在する。ピーター・ラメジャラーのように1557Uを使っていても、この部分をあえて terre, terreと見なす者もいるが、1557Bは海賊版の可能性の強い版であることから、妥当性については疑問である。

日本語訳

王は誓約を破る者に怒るだろう、
戦いの甲冑が禁じられるであろうときに。
苺のために砂糖に塗られた毒。
大水によって傷つけられ、「閉じろ、閉じろ」と言いつつ死んだ者。

訳について

 1行目 sedifrague は fedifrague とする読み方に従った。sedem frangere に由来するとする説に従うなら「誓約を破る者」ではなく「座(地位)を破壊する者」となる。
 2行目seront をいくつかの版にあるように feront とした場合、「禁止された者たちが戦いの甲冑を作るであろうときに」と訳せる。
 3行目 par は pour と見なして訳している。ノストラダムスがラテン語の用例に従ってそういう用い方をしている可能性はつとに指摘されている *1
4行目 serre は serrer の(親しい相手に対して、あるいはぞんざいな口調での)命令形と理解できることから、「閉じろ、閉じろ」と訳した。名詞と理解するなら「部屋を、部屋を」といった訳になる。

 大乗訳4行目「内密に内密にといいながら かれらは殺されそして死ぬ」 *2 は、Per eaux (大水によって)が訳に反映されていない。

 山根訳4行目「水(海)に殺害され 死 近く 近く という声」 *3 について。serrer は英語の close と同じで「密接する」の意味もあるので、「近く」という訳は可能かもしれない。ただし、disant を「声」と訳すことは微妙である。

信奉者側の見解

 テオフィル・ド・ガランシエールは「言葉は平易」(The words are plain.)としか注記していなかった *4


 エリカ・チータムsedifrague を「座の破壊者」と理解し、聖座(ローマ教皇の地位)を破壊する者、つまりプロテスタントに関する詩だろうとしたが、詳しくは解釈していなかった *5

 セルジュ・ユタンは宗教戦争を終わらせたアンリ4世と解釈した *6

 加治木義博sedifragueを「縁取りを壊す者」という語源的根拠の不明な形で訳し、クウェートの国境を侵害したイラクのサダム・フセインのこととし、湾岸危機から湾岸戦争にいたる一連の事件と解釈した *7

同時代的な視点

 sedifragueを「座の破壊者」と訳し、「座」をローマ教皇の聖座と見なした場合、「座の破壊者」はプロテスタントを指すと理解される。ピーター・ラメジャラーは、この詩に出てくるプロテスタントに怒らされる王とは、フランソワ1世だろうと指摘している *8 。フランソワはプロテスタントに寛容だったが、1534年の檄文事件によって段階的に方針を転換したからである。

 エヴリット・ブライラーは、イングランド王リチャード3世(在位1483年-1485年)と苺の結び付き、およびクラレンス公が酒樽で溺死したという話(1478年)は、同時代のフランスの文献でも話題になっていたことから、それを基にした詩だろうとしている *9


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