Traité d'Astrologie

 『 占星術論 』( Traité d'Astrologie )はノストラダムス2世が1563年にパリで出版したとされる著書。正式名自体が不明であり、実在したかどうかすら定かではない。

記録

 この書名はミシェル・ショマラの書誌などに見られるが、大元の出典となっているのはバルタザール・ギノーの言及である。彼の証言を抜粋しておこう。

 「彼 〔ノストラダムス〕 はそこで裕福な家庭の未婚女性ポンス・ジュメルと再婚した。『ガリアのヤヌス』は彼が6人の子供をもうけたと主張したが、実際には4人の子供、つまり3男1女しかいなかったのである。
 第一子はミシェル・ノストラダムスという名を持ち、父と同じように占いをしようと志したが父のようには成功せず、1563年に1冊の占星術論(un Traité d'Astrologie)をパリで出版したことで満足し、その科学〔占星術〕を捨てた。
 第二子はセザール・ノストラダムスで、彼はプロヴァンスの歴史を研究した。第三子はフランシスコ会修道士で、第四子は娘だった」 *1

 この証言はノストラダムスの子が6人だったという史実として裏付けられている話をわざわざ否定し、実の子ではないノストラダムス2世を加えているため、現代の視点で見たときには非常に信頼性が低い。
 また、ノストラダムス2世が1563年に1冊出した後で占星術師を廃業したとするのも事実でなく、むしろ彼はその後活発に活動するようになる。

 ギノーは出典を明らかにしていないが、それが1656年の解釈書『ミシェル・ノストラダムス師の真の四行詩集の解明』を基にしていることは明らかである。そこにはこうある。

 「彼は三男一女をもうけた。第一子はその(父と同じ)名のミシェル・ノストラダムスで、1563年にパリで出版された占星術に関する何らかの作品 (quelque piece d'Astrologie) を執筆した。
 第二子はセザール・ノストラダムスで、プロヴァンスについて物した大著によって、フランスの歴史家たちの中に列せられる資格がある。
 第三子はカプチン会士で、そのためにセザールは自身の史書の中で、プロヴァンスにおける同修道会の布教についての記述を挿入したのである。第四子は娘だった」 *2

 見ての通り、占星術論の正式な書名はなく、その1冊で廃業したとも書かれていない。1656年の解釈書の著者がシャヴィニーによる伝記を認識していたかは不明だが、ギノーはその両方を認識する中で、なぜかシャヴィニーを否定しただけでなく、1656年の解釈書にも書かれていなかった話を水増ししているのである。当然、そのあたりの追加された話を史実と信ずべき理由は全くない。

 ちなみにテオフィル・ド・ガランシエールの著書にもこの話は出てくるが、彼は1656年の解釈書の紹介をほぼそのまま英訳しただけだった(ただし、1563年の文献についてはsome pieces of Astrology, Printed at Paris in the year 1563 と英訳されており、piece が複数に改変されている)。


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