ノストラダムス2世

 ノストラダムス2世(Michel de Nostradamus le jeune, 1574年歿?)は、ノストラダムスに便乗した同時代の占星術師の一人である。本名や生年は不明で、ノストラダムス本人との血縁関係は一切裏付けられていない。また、「ノストラダムスの弟子」と自称していたが、この点も裏付けが取れない。
 なお、Nostradamus le jeune は「若者(の方の)ノストラダムス」の意味である。普通「2世」は姓でなくファースト・ネームにつくものなので、むしろ「小ピット」「小デュマ」などにならって「小ノストラダムス」とでもした方が良いのかもしれないが、先行する文献に倣って「ノストラダムス2世」としておく。

【画像】ノストラダムス2世の肖像画(『20年間の予言』扉の木版画)*1

活動

 記録上この名前を初めて確認することができるのは1568年のことである。しかし、現在では、これに先行して登場していた「ミシェル・ド・ノストラダムス」(Michel de Nostradamus, Mi. de Nostradamus)と名乗る偽者も同一人物であろうと考えられている。当時、本物のノストラダムスの著者名表示は「ミシェル・ド・ノートルダム」(Michel de Nostredame)ないし「ミシェル・ノストラダムス」(Michel Nostradamus)となるのが基本で、 「ノストラダムス」の前に de が入ったケースは全くなかったし、 Michel を Mi. と略記することもなかったからである。

 1563年に出版した『占星術論』を皮切りに、矢継ぎ早に著書を出版した。彼はキュプリアヌス・レオウィティウスの『20年間の予言』やフランソワ・グリュデの予言アンソロジー、さらに本家ノストラダムスの『化粧品とジャム論』などを遠慮なく剽窃し、自分名義で出版した。

 ノストラダムスが生きていたときは弟子を名乗り、著書の献辞の中では「(私が本家ノストラダムスの)弟子と自認することを何ら恥じるものではありません」と相当に厚顔なことまで言ってのけていた*2
 ノストラダムスが死ぬと le Jeune(若い方、2世)をつけて活動するようになった。このため、同時代の大書誌学者ラ・クロワ・デュ・メーヌもノストラダムスの子供として紹介していた*3。これを引き継ぐかのように、後代の研究家・書誌学者の中には実子セザール・ド・ノートルダムと混同してしまうケースも見られた。
 また、テオフィル・ド・ガランシエールバルタザール・ギノーなどのように、この人物をノストラダムスの長男と位置づけ、セザールを次男としているものも見られた。こうした位置付けは19世紀のミショーの人名辞典などにも引き継がれた。

 この人物の著述活動の特色は、他の偽ノストラダムスに比べ、再版・再編集版が多いことである。このことは、彼の著作が比較的売れていたことを表しているように思われる。

 ただし、この人物の素性は本名も含めてほとんど明らかにはなっていない。唯一、最期に関するエピソードがよく知られている。
入手できる範囲で最古の部類に属する資料から引用しておこう。ローラン・ボルドロンの『判断占星術について』(1689年/1710年)である。

 オービニー(Aubigny)は次のように語っている。モンパンシエ公の御子息がリヨンとマルセイユの間にあるル・プサン(Le Poussin)を陥落させた。町が略奪されていたとき、ノストラダムス2世(le jeune Nostradamus)が居合わせていた。彼は、ミシェル・ノストラダムスの息子である。父親は有名な予言者にして「曖昧な言い回しで何でもないことしか言わない男」(diseur de rien, en termes obscurs)であり、パリ市民だったエチエンヌ・ジョデルは彼に対して次のような面白い二行詩を作った。
 Nostra damus, cum falsa damus,
 Et cum falsa damus, nil nisi nostradamus.

 そんな父親にふさわしい息子だったノストラダムス2世は、サン=リュック殿(Monsieur de Saint-Luc)に町が火で滅びると保証し、そのあとで嘘にならないようにと火をつけて回っているところを取り押さえられた。
 翌朝、サン=リュック殿はこの詐欺師を罰するために、また同時に予言を馬鹿にするために、お前に今日降りかかる顕著な災いは何かと尋ねた。ノストラダムスは何も見えませんと答えた。すぐさまサン=リュック殿は手にもっていた鞭の先端でからかうように彼に触れたが、それと同時に乗っていた馬が彼の腹に重い一蹴りを入れたので、彼の腹はその場で破裂した*4

 ル・プサン(Le Poussin)とあるのはル・プザン(Le Pouzin)のことである。
オービニーという人物からの孫引きである通り、ボルドロン以前にこれに触れていた論者が何人かはいたようである。
 ピエール・ド・レトワルの日記にも、この件に関する簡略な記述はあるらしい。ジャン=ポール・ラロッシュ(未作成)はそれを引用しているが、それは1720年版に登場する記述らしく、果たして本当にオリジナルの記述なのかはよく分からない。
 少なくとも18世紀初頭の段階では、ノストラダムスの息子がインチキ予言の廉で処刑されたと広く信じられていたらしいことだけは明らかだろう。

 ただし、バルタザール・ギノーたちの著書には見られない。ノストラダムス関連書の中で古い部類に属する紹介は、ウジェーヌ・バレスト(1840年)によるものだろう。そこでの紹介を引用しておくが、ボルドロンへの過剰な敵対心は差し引いて考えておくべきだろう。

 哲学者ボルドロンは1689年に、予言者たちに対する凡庸な風刺書『判断占星術について』を著し、その中でノストラダムスに奇抜な判断を下した。彼はノストラダムスのことを、何故かは知らないが「曖昧な言い回しで何でもないことしか言わない男」と呼んだのである。我々はもっと後で、「何でもないこと」に何がしかの価値があり、十分に明瞭に表現されていることを見ていくことになる。
 さて、この哀れなるボルドロンは、彼が攻撃したかった当の人物についてろくな知識を持ち合わせておらず、予言者であった父ミシェルと歴史家であった息子セザールの区別もついていなかったのである。これほどひどい無知で論じるのは無理というものだ!
 オービニーによれば、モンパンシエの息子がル・プサン(原注:これは同名のフランス人芸術家ではなくリヨンとマルセイユの間の防衛拠点 place forte である)を攻略したそうだ。ボルドロンが付け加えて言うには、「町が略奪されたとき、ノストラダムス2世はサン=リュック殿に町が火で滅びると保証した後で、嘘にならないようにと火をつけて回っているところを取り押さえられた。(まだ語っているのはボルドロンである。)
 翌朝、サン=リュック殿はこの詐欺師を罰しつつ予言を馬鹿にするために、お前に今日降りかかる顕著な災いは何かと尋ねた。彼は何も見えませんと答えた。すぐさまサン=リュック殿は馬鹿にするように鞭の先端で彼に触れたが、それと同時に乗っていた馬が彼の腹に重い一蹴りを入れたので、彼はその場で絶命した」。
 これはボルドロンが確言しているが、彼にとっては不幸なことに事実ではない。彼が述べている若いセザールとやらは、その時に74歳くらいになっていたのである。これは時代錯誤と見なされるべきだろう。そこで死んだのは若いミシェルであってセザール・ノストラダムスではない。
 ル・プサンの陥落後にミシェルが馬に押しつぶされたのは事実である。しかし、ボルドロン氏も、この不幸が占星術師にもそうでない人々にも及ぶかもしれないことについては、我々と意見が一致するだろう。ここで我々があえて抗弁したいのは、サン=リュック殿の愛馬にはろくな知能がなかっただろうということである(訳注:馬が蹴ったのは偶然であって、インチキ占星術師だから罰したわけではなかったということ)。
 いずれにしても、『リシュレの蔵書』でのルクレルク、『王太子の教育に関する言説』でのラモト=ル=ヴァイエ*5といったこの逸話を語っている書き手のものを、我々がそうしたように注意深く読んでみれば、ノストラダムスの中傷者の一人であるボルドロン氏は、彼が攻撃するに違いない人々以上に、そういう人々、つまり偽予言者たちにそっくりだということを確信できるのである。*6

 改めてボルドロンの紹介を読み直していただけば、セザールになど一言も触れていないことは明らかで、バレストの批判は全く筋違いなものである。また、馬の行動に脚色があったとしても、それで偽予言者呼ばわりするのはやりすぎだろう。
 しかし、このエピソードが予言に批判的な側から出されたものであるにもかかわらず、事実関係自体はバレストも否定していない点には意味があるだろう。つまり、その程度には信頼性を持っているエピソードと受け止められているのである。

関連項目



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最終更新:2010年03月29日 22:58

*1 画像の出典:http://www.propheties.it/

*2 Dupèbe, Nostradamus Lettres inédites, Droz, 1983, p.115

*3 Bibliothèque françoise de La Croix du Maine, Tome second, 1772, p.135

*4 Bordelon, De l'Astrologie judiciaire, 1710, pp.59-60

*5 Leclerc, Bibliothèque de Richelet ; Lamothe-Le-Vayer, Discours sur l'éducation du dauphin

*6 Bareste [1840] pp.87-88