アンベール・ド・ビイイ

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「アンベール・ド・ビイイ」で検索した結果

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  • コルモペード
    ...・ド・ブロックランとアンベール・ド・ビイイとコルモペードが同一人物の可能性を指摘している(後述)。  没年は未詳である。ロベール・ブナズラは、1588年から1620年まで1年も途切れずに暦書を刊行していたとしており(*3)、1905年には類似の指摘をしていた人物もいたが(*4)、その間の暦書をすべて挙げているわけではなく、これらもどういう根拠なのか、よく分からない。  また、後掲のように、アムール・ド・ヴァルファンの暦書では、1598年向けの暦書の時点で故人として扱われており、事実ならば、17世紀の暦書は別人による偽作ということになる。  なお、17世紀末には「パリ在住トロワ出身の占星術師コルモペディ」なる人物の暦書が登場しているが、これは明らかにコルモペードに便乗した偽作だろう。17世紀初頭に実在していたことになっているマチュー・ランスベールが、その後20世紀初頭...
  • ノストラダムス現象
    ...も複数現れた。また、アンベール・ド・ビイイ(未作成)やコルモペードのように、ノストラダムスの詩篇を盗用した占星術師も複数いた。  彼らはノストラダムスの著書を真似たが、そこで模倣の対象になったのは、主に暦書類の書式であって、『予言集』を真似て詩集を出した者は、ピエール・ド・ラリヴェ(未作成)のような例外を除けば、ほとんどいなかった。他方、ノストラダムスの作品からの盗用は、むしろ『予言集』の詩篇が対象となる場合が多かった。 解釈者たちの時代  この時代は、16世紀末葉から現代にあたる(この時代の初期は模倣者たちの時代と重なる)。ノストラダムスの予言について、最初に体系的な解釈を施したのは、ノストラダムスの秘書であったジャン=エメ・ド・シャヴィニーである(1594年)。  しかし、その後ノストラダムスの注釈者が一気に増えたわけではなく、19世紀までは各世紀数人程度しか注...
  • エクトール・ド・ノートルダム
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの弟の一人。サン=レミ=ド=プロヴァンスに生まれたが、洗礼記録などはなく、詳細は不明である。  弟のアントワーヌの息子エクトールの洗礼記録に、立ち会った代父として「商人のエクトール・ド・ノートルダム」の名が記されている(*1)。ほぼ間違いなく同一人物であろうから、エクトールの職業は商人だったと考えられる。  1546年4月26日の結婚契約書が残っている(*2)。相手の名はアントワネット・ド・モルゲート(Antoinette de Morguète)だが、アントワネットはアントネート(Anthonete)、トネート(Thonète)など、表記に揺れがある。  アントワネットはマルティーグ島のジャン・モルゲ(Jean Morguet(*3))とカトリーヌ・ド・ベランギエー...
  • ピエール・ド・ノートルダム
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame, 1430年頃 - 1485年頃)は、ノストラダムスの父方の祖父。アヴィニョンで穀物商と高利貸を営んでいた。クレカ・ド・カルカソンヌ(Crescas de Carcassonne)、ギ・ガソネ(Guy Gassonnet)、ギドン・ガソネ(Guidon Gassonnet)、ヴィド・ガソメ(Vido Gassomet)、ペロ・ド・サント=マリー(Perrot / Peyrot de Sainte-Marie)など、多くの名で公文書に記録されている(*1)。  関連文献においてカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)や、息子であるアルルのピエール・ド・ノートルダムと区別するときには、「アヴィニョンのピエール・ド・ノートルダム」と書かれることもある。 生涯  ダヴァン・ド・カルカソンヌの子供の一人...
  • ルイ・ド・ガロー・ド・シャストゥイユ
     ルイ・ド・ガロー・ド・シャストゥイユ (Louis de Galaup de Chasteuil, 1554年11月19日 - 1598年3月8日) は、16世紀フランスの詩人、行政官。  同時代には、「シャストゥイユ殿、ルイ・ド・ガロー」(Louis de Gallaup, sieur de Chasteuil) と表記されることもあった。また、ガローは Galaup とも Gallaup とも綴られ、シャストゥイユはシャスチュエイユ (Chastueil) とも綴られることがあった(*1)。  ノストラダムス関連書では「ルイ・ガロー・ド・シャストゥイユ」と表記されることも多いが、ここではフランス国立図書館のデータに従う。  エクス=アン=プロヴァンスに生まれた。アンリ4世からは国務院(コンセイユ・デタ)の評議員に任命された(*2)。詩人としては1595年に 『王家の懺悔の...
  • クレール・ド・グリニャン
     クレール・ド・グリニャン(Claire de Grignan, 生没年未詳)は、ノストラダムスの長男セザールと結婚した女性。  ジャン・ド・グリニャン(Jean de Grignan)とジャンヌ・ド・クラポンヌ(Jeanne de Craponne)の娘で、セザールとは1604年に結婚した(*1)。母ジャンヌは、アダン・ド・クラポンヌの兄フレデリクの姪だという(*2)。  その容姿について、セザールは類まれなる美しさであると褒めている。  セザールとの間に子供はいなかった。  生没年に関する言及は関連書の中に見出せないが、1630年に書かれたセザールの遺言書では、遺産の受取人としてディアーヌ・ド・ノートルダムが指定されているので、それ以前に亡くなっていたものと思われる。 ...
  • レニエール・ド・サン=レミ
     レニエール・ド・サン=レミ(Reynière de Saint-Rémy)はノストラダムスの母。ルネ・ド・サン=レミ(Renée de Saint-Rémy)とも表記される。  父ルネ・ド・サン=レミ(René de Saint-Rémy)と母ベアトリス・トゥレルの間に生まれたが、詳しいことはわかっていない。エドガール・ルロワは、おそらくキリスト教徒だったと推測している(*1)。  生没年も不明だが、ウジェーヌ・レーは1536年以降に歿したと推測している(*2)。 名前 コメント
  • 詩百篇第1巻16番
    ...倣者であった占星術師アンベール・ド・ビイイ(未作成)は、1603年12月に、人馬宮で遠点に位置する土星と、人馬宮の支配星である木星が合となることと解釈していた(*7)。  テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、「かつて魚のいる池だった牧草地が刈り取られ、人馬宮が auge すなわちアセンダントにあるとき、ペスト、飢餓、戦争が支配し、ある世紀が終わり、別の世紀にあらたまる」と解釈した(*8)。「かつて魚のいる池だった牧草地が刈り取られ」というのがどこから出てきた発想なのかよく分からないが、おそらく1行目の「鎌」と「池」から大幅に想像を膨らませた結果なのだろう。前述の通り、この解釈はロバーツの英訳に影響を及ぼした。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、バルタザール・ギノー、D.D.、テオドール・ブーイ、フランシス・ジロー、...
  • エクトール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 1546年 - 没年未詳)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムの次男(第二子)で、ノストラダムスの甥の一人。  1546年4月17日の洗礼記録のみが知られている。立ち会った代父はエクトール・ド・ノートルダム、代母はゴントラーヌ・ペトゥーズ(Gontrane Pétouse)であったというから(*1)、エクトールという名は伯父からもらったものだろう。 名前 コメント
  • シャルル・ド・ノートルダム
     シャルル・ド・ノートルダム(Charles de Nostredame, 1556年 - 1629年12月頃)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次男(第三子)。軍人、詩人。  1556年にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有...
  • ジャン・ジフル・ド・レシャク
     ジャン・ジフル・ド・レシャク(Jean Giffre de Réchac, 1604年8月25日-1660年4月9日)は、ドミニコ会の聖職者。宗教上の名前はジャン・ド・サント=マリー。  1604年にアキテーヌ地方のレシャクの領主ジャン=ロジェ・ジフルの子として、キルブーフ(Quilleboeuf)に生まれた。14歳のとき、パリの修道院でドミニコ会士となり、以降学問を積んで伝道師、副修道院長などとして様々な場所に赴任した。  1637年にルーアンの小修道院長として赴任したあたりから、その予言や心霊方面での活動などで知られるようになった。その後、彼はパリに呼び戻されボルドーなどに赴任した後に、1641年からはパリの小修道院の副院長になっていた。  1645年以降、修道会の指導者(le maître de l’Ordre)のトマ・チュルコ(Thomas Turco)と...
  • セザール・ド・ノートルダム
     セザール・ド・ノートルダム(César de Nostredame, 1553年12月18日-1630年?)は、ノストラダムスの長男で、詩人、歴史家として著作を残し、画家としてもいくつかの作品を手がけた。ノストラダムスの『予言集』の第一序文は、彼にささげられており、一般に「セザールへの手紙」といわれる。  この記事では歴史的存在としてのセザール自身の足跡と作品を扱う。「セザール」を予言の最終解読者のコードネームとする俗説については最終解読者としてのセザール・ノストラダムスを参照のこと。 【画像】『プロヴァンスの歴史と年代記』に掲載された肖像画(1614年)(*1) 生涯  1553年12月18日、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現在のサロン=ド=プロヴァンス。以下、サロンと略記)で、ノストラダムスとその再婚相手アンヌ・ポンサルドの間に長男(第2子)として生...
  • アンヌ・ド・ノートルダム
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1559年12月15日 - 1597年以前)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次女(第五子)。  1559年12月15日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。かつてエドガール・ルロワらの研究では1558年頃の生まれとされていたが、兄セザールの自筆らしき手稿によって正確な生年月日が特定された(*1)。  トゥーロン(未作成)の有力者ピエール・ド・スヴァ(Pierre de Seva)と結婚し、息子メルキオール・ド・スヴァ(未作成)(Melchior de Seva)を生んだ。なお、ピエール・ド・スヴァについて、イアン・ウィルソンはラングドック州ボーケールのピエール・ド・セーヴ(Pierre de Sève)として紹介している(*2)。具体的な根拠があって...
  • アダン・ド・クラポンヌ
     アダン・ド・クラポンヌ(Adam de Crapponne, 1526年 - 1576年)は、16世紀フランスを代表する水利技師の一人。彼の手掛けた最大の事業であるクラポンヌ運河建設は、不毛のクロー平野を豊かな農地に変えた。  なお、彼の名は "Craponne" と綴られることが多いが、彼自身は "Crapponne" と綴った。日本のノストラダムス関連書では「クラッポン」「クロポンヌ」などと表記されることもあるが、いずれも不適切である。  また、日本語では「アダム・ド・クラポンヌ」と表記されることもあるが、フランス人名の表記としては不適切の可能性がある。  というのは、『ロワイヤル仏和中辞典』のように、Adamの発音記号に /adã/ と /adam/ を併記するものもあるが、普通は『ロベール仏和大辞典』なども含め、/adã/...
  • アントワーヌ・ド・ブルボン
     アントワーヌ・ド・ブルボン (Antoine de Bourbon, 1518年 - 1562年) は、ヴァンドーム公、ナヴァル王(在位 1555年 - 1562年)。フランスのブルボン王朝の始祖アンリ4世の実父。  アントワーヌが生まれたブルボン家は、聖王ルイ9世の末子ロベール・ド・クレルモンの血を引いており、アントワーヌの時代には筆頭親王家として、領地はそれほどでもなかったが、家格はかなり高かった。そして、ナヴァル王家のジャンヌ・ダルブレと結婚したことで、1555年からは妻ジャンヌとともに、共同統治という形でナヴァル王となった。  アントワーヌは1550年代後半にはプロテスタントに傾倒しており、公然とそれらの運動にも加わっていた。しかし、シャルル9世の時代になってフランス王国総代官の地位についた後、プロテスタントに寛容な一月王令(1562年)が出ると、逆にカトリックへ...
  • ジャン=アルベール・ジョリ
     ジャン=アルベール・ジョリ(Jean-Albert Joly, ca1755 - ?)はアヴィニョンの出版業者。  父はアヴィニョンの出版業者アンリ・ジョゼフ・ジョリで、アンリ・ジョゼフはフランソワ=ジョゼフ・ドメルグのもとで徒弟修業をした。アンリ・ジョゼフが1767年9月21日に歿すると、妻アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ヴーグレ(Anne Geneviève de Vougrey)が「ジョリ未亡人」(veuve Joly)名義で事業を引き継いだ。このとき、息子のジャン=アルベールが手伝っていたようである。  ジョリ未亡人が1784年に歿すると、ジャン=アルベールは自らの名義で活動するようになった(*1)。  以上はルネ・ムリナの研究に依拠しているが、ムリナはいつまで活動したのかについて何も記載していない。かつてペルシェはジャン=アルベールの活動時期を1769年から18...
  • ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの叔父)
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame)は、ノストラダムスの叔父。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、三男と推測されている(*1)。父のピエールやカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)と区別されるときには、「アルルのピエール・ド・ノートルダム」と表記されることがある。  父親と同じく商業を営んだが、1513年以降は活動拠点を出生地アヴィニョンからアルルに移した。その商取引に関する記録がいくつも残っている。  この人物は、ノストラダムスの親族の中で唯一人「予言的」なエピソードが公証記録に残されている点で、特徴的といえるかもしれない。  それによると、1535年9月15日に、タラスコンの商人で改宗キリスト教徒であったトマ・ド・バレーム(Thomas de Barrème)と賭けをした...
  • ジル・ド・サン=ジル
     ジル・ド・サン=ジル(Gilles de saint-Gilles)は16世紀パリの出版業者。1577年から1589年まで活動した(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムス本人の著書は出さなかったようである。  アントワーヌ・クレスパンの『彗星の予兆と影響を提示するための、国王ならびに世紀の哲学論争の当事者たちに宛てた書簡』(1577年)、『五年間の天文的占筮』(1586年頃)を出版した。また、現存しないが、クレスパンの『1581年向けの驚異の大占筮』(1580年頃)も出したらしい。  ほかに、ピエール・メニエが出版したクレスパンの『驚異の予言』の特認はサン=ジルに向けて出されており、末尾にサン=ジルがメニエの出版を許諾した旨の追記がなされている。 名...
  • アントワーヌ・ド・ノートルダム
     アントワーヌ・ド・ノートルダム(Antoine de Nostredame, 1523年 - 1597年以降)は、ノストラダムスの弟の一人。ジョーム・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミの間に生まれた。プロヴァンス州サン=レミの役人、法曹家。  1523年4月27日に洗礼を受けた記録がある。1547年から1597年までについては、公証人バディナンクによる記録に多く見出せる。このため、そのときまで生きていたことは確かだが、正確な没年は不明である(*1)。ラメジャラーは1597年没としていたが(*2)、明らかに誤認だろう。  職業は記録によって様々で、1550年から1551年にはサン=レミの徴税吏 (exacteur de la taille)、1557年にはサン=レミ市の代訴人 (procureur)、1558年にはサン=レミ市の執政官 (consul) および法廷...
  • 人名一覧
     ノストラダムスに関連する人名や団体名の一覧。  原則として姓をカタカナ表記した際のアルファベット順に並べている。「ド」などを姓に含むかどうかは、外国語文献の索引に準じて個別に判断している。また、一部日本人のペンネームは外国人名のように見えても全体で一つと見なしている(例えば、「フェニックス・ノア」は「は行」に掲載)。  なお、ノストラダムスの一族のうち、細かすぎる項目はノストラダムス一族の方に、出版業者のうちノストラダムス本人と関連性が薄い人物は出版業者の一覧の方に、それぞれ記載しているので、そちらを参照されたい。  名前の後の括弧は大まかな職業やグループわけを示している。斜線が引かれている場合、その前が職業などを指し、後ろがノストラダムス関連の立ち位置などを指す(「その他」とあるのは、専門的な研究者や信奉者的な解釈者と分類しづらい人物を示す)。 あ 明石三世(インテリ...
  • ジョーム・ド・ノートルダム
     ジョーム・ド・ノートルダム(Jaume de Nostredame, 1470年頃 - 1547年頃)は、ノストラダムスの父。アヴィニョンとサン=レミで、商人、公証人などとして活動した。  ジョメ・ド・ノートルダム(Jaumet de Nostredame)、ジャック・ド・ノートルダム(Jacques de Nostredame)、ジャック・ド・サント=マリー(Jacques de Sainte-Marie)などとも記録され(*1)、ラテン語名はヤコブス・デ・ノストラ・ドミナ(Jacobus de Nostra Domina)である(*2)。 生涯  ジョームは1470年頃にアヴィニョンで生まれた(*3)。父ピエールの死は1485年頃で、ジョームが15歳頃にあたっている。ジョームは当初父の職をついでアヴィニョンで商業と貸金業を営んでいたが、1495年5月14日にプロヴァンス州サ...
  • ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの弟)
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame)は、ノストラダムスの弟。  父ジョーム・ド・ノートルダムが何度か執筆した遺言書の中で言及されていることから、存在が明らかになったが、生没年などの詳しいことは全く分かっていない。職業は香料商人(épicier)だったという(*1)。  1534年から1535年にかけて書かれた3通の遺言書で言及されているが、1547年の相続関連の文書では触れられていない(*2)。このことからすれば、その時点までに亡くなっていた可能性がある。ただし、その最後の文書では長男ミシェル(ノストラダムス)の名前もないが、これは執筆当時がノストラダムスの放浪期間とほぼ重なっており、消息不明だったことによるものだろう。ピエールの名前がないことも、死亡ではなく、そのような失踪の類が原因の可能性もある。 ...
  • ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ
     ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(Jean-Charles de Fontbrune, 1935年 - 2010年)は、フランスのノストラダムス解釈者。  父マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)もノストラダムス解釈者で、親子二代に渡る解釈者として国際的に知られている。  本名はジャン・ピジャール・ド・ギュルベール (Jean PIGEARD DE GURBERT) で(*1)、ド・フォンブリュヌという筆名は、父が使っていた分家の姓に基づく筆名を引き継いだものである。  日本では、五島勉が「ジャン・シャルル・ド・フォンブリューヌ」と表記していたが、当「大事典」では「フォンブリュヌ」と表記する。  邦訳された『新釈ノストラダムス』で「フォンブリュヌ」と表記されていたのが理由の一つである。また、フランス語の brune は brun の女性形で、その発音記号は ...
  • ポール・アルボー博物館
     ポール・アルボー博物館(Musée Paul Arbaud)ないしポール・アルボー書誌学・考古学博物館(Musée bibliographique et archéologique Paul Arbaud)は、エクス=アン=プロヴァンスの18世紀の邸宅が元になっている博物館である。エクス市内のマザラン地区(le quartier Mazarin)、九月四日通り(Rue du 4-Septembre)2番地にある。  様々な美術品を収蔵しているが、わけても地元陶器のコレクションがしばしば特筆される(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムス関連の稀覯書が多く収蔵されていることで国際的に有名である。  インターネット上での目録の公開などはしていないようなので、その蔵書については直接博物館に赴くか、ミシェル・ショマラやロベール・ブナズラの書誌などから間接的に知るしかないだ...
  • ジャン・ド・サン=レミ
     ジャン・ド・サン=レミ(Jean de Saint-Rémy, 1428年頃 - 1504年?)は、ノストラダムスの母方の曽祖父。サン=レミ=ド=プロヴァンスの医師であった。 生涯  ジャン・ド・サン=レミの正確な生年は不明である。1478年10月の公文書で50歳と記載されていることなどから、1428年頃の生まれとされる(*1)。  確認されている限りでは、ジャンはキリスト教徒であった。通俗的には、本人ないしその父親が改宗した元ユダヤ教徒だったとされるが、その辺りの事情を証明できる史料は残っていない(*2)。  時期は不明だがシレット(Sillette)という女性と結婚し、息子ルネをもうけた。ルネはベアトリス・トゥレルと結婚したが、1479年頃に亡くなり、ベアトリスの父ジャックとジャン・ド・サン=レミの間で、ベアトリスの結婚持参金返還をめぐる係争があった(*3)。 ...
  • ブランシュ・ド・サント=マリー
     ブランシュ・ド・サント=マリー(Blanche de Sainte-Marie)は、ノストラダムスの父方の祖母。ブランシュ・ド・ノートルダムとも名乗った。 生涯  生年は未詳である。医師ピエール・ド・サント=マリー(未作成)の娘として生まれ、1464年にピエール・ド・ノートルダムと結婚したときには、エクス=アン=プロヴァンスに住んでいた(*1)。  ジョーム、フランソワ、ピエール、カトリーヌ、バルトロメ、マルグリットという6人の子供をもうけた。  没年も未詳だが、1503年2月15日に、借金取立ての権利を代理人ピエール・ジョアニスに譲った記録があるので、少なくともその頃までは生きていたことが明らかになっている(*2)。 名前 ...
  • ヴィタル・ド・カルカソンヌ
     ヴィタル・ド・カルカソンヌ(Vital de Carcassonne, 1390年頃 - 1452年)は、ノストラダムスの父方の先祖。ノストラダムスの高祖父、つまりノストラダムスの祖父ピエールの祖父に当たる。  アストリュージュ・ド・カルカソンヌの子で、アヴィニョンで小麦と織物の卸売商を営んでいた(*1)。クレギュ・マシプ(Crégut Massip)の娘アストリュジー(Astrugie)と結婚し、ジャコブ(Jacob)、ダヴァン、マソヌ(Massone)という少なくとも3人の子をもうけた(*2)。 名前 コメント
  • ピエール・ジョアニス
     ピエール・ジョアニスないしピエール・ド・ジョアニス(Pierre de Joannis)は、ノストラダムスの叔父。ノストラダムスの父ジョームの妹マルグリットの夫。「ピエール・ド・ジョアニ」と発音した可能性もある。  1494年12月26日にマルグリットと結婚した(*1)。  息子オノレ、孫テオドール、曾孫メルキオン=ジャック・ド・ジョアニス(Melchion-Jacques de Joannis)へと家督が受け継がれていく。  なお、このメルキオン=ジャックはマルグリット・ド・ノートルダムの兄ジョームの曾孫トミーヌ・ド・ノートルダムと再婚した。  ただし、家を継いだのは最初の妻マルグリット・ド・トゥイエ(Margueritte de Touier)との子、ガブリエルであった(*2)。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連...
  • シャストゥイユが伝えた百詩篇
     ノストラダムスの『予言集』には、補遺とされる断片が数多く存在する。その多くは取るに足らない偽物にすぎないが、本物の可能性が指摘されている詩篇もわずかになら存在する。  そのひとつがルイ・ド・ガロー・ド・シャストゥイユが残したとされるカルパントラ市立図書館に残る手稿 mss.385 および mss.386 である。それらは、いずれも17世紀の写本と見なされている (ピーター・ラメジャラーはアンガンベルチーヌ図書館 (Bibliothèque Inguimbertine) 所蔵としているが、アンガンベルチーヌはカルパントラ市立の図書館なので(*1)、これらは同一であろう)。  その本文には王立図書館 (現在のフランス国立図書館) に手稿の原本があることも明記されているが、その現存は確認されていない。 研究史  先行研究は少ない。ダニエル・ルソは1947年にフォトコピーを入手してい...
  • マドレーヌ・ド・ノートルダム
     マドレーヌ・ド・ノートルダム(Madeleine / Magdeleine de Nostredame, 1551年頃 - 1623年)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた長女(第一子)。  1551年頃の生まれというのはエドガール・ルロワの推測であって、正確な生年は全くわからない。1553年12月に生まれたセザール・ド・ノートルダムがマドレーヌのことを「姉」(la soeur aînée)と明言していることなどからして、それ以前に生まれていたことは間違いない(*1)。  ノストラダムスは1547年11月に再婚したが、そのすぐ後にイタリアへの小旅行に出掛け、サロンに腰を落ち着けたのは1549年以降のことだったとされる。こうしたことも考慮すれば、ルロワの推測は十分に説得的なものといえるだろう。  マドレーヌの若いときのことはあまり分かっていない。ノストラダ...
  • 今日は何の日
     ノストラダムスとゆかりのある日付をまとめる(一部にノストラダムス現象を含む)。ノストラダムスが存命中に直接関わった出来事は太字で示す(『予言集』以外での、手紙の日付を除く)。  なお、旧暦・新暦などの換算は行っていない。 1月 1月1日五島勉『イスラムvs.アメリカ 「終わりなき戦い」の秘予言』の発売日(奥付上の日付)(2002年)。 1月4日リヨン市立図書館でノストラダムスの展示『危機の時代のための予言』開催(3月22日まで)(1997年)。 1月12日フランス国立図書館でノストラダムスも含む展示『占星術と予言』開催(2月26日まで)(1994年)。 1月13日暦書あてのアンリ2世への献辞、王妃カトリーヌへの献辞のそれぞれ末尾に記された作成日(1556年)。 1月20日ノストラダムスがスペインでの宝探しに関する質問に答えた手紙の日付(1562年)。 1月23日ノストラダムスの秘...
  • ジャック・ド・ジャン
     ジャック・ド・ジャン(Jacques de Jant, 1626年 - 1676年9月)は、フランスのディジョン出身の国家官吏、著述家。著作を発表する際には、「ル・シュヴァリエ」(騎士)を冠して「ル・シュヴァリエ・ド・ジャン」(Le chevalier de Jant)としばしば称した。 生涯  ジャック・ド・ジャンは、ディジョン財務局財務官ピエール・ド・ジャンの息子として、1626年に生まれた。青年期にマルタ騎士団の騎士となり(後年の筆名はこのことに因む)、その後、国王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップの家令(intendant)となり、貴重品陳列室守衛を兼務した。  1655年には、ルイ14世から国境警備の総責任者(capitaine et garde général des frontières)と海軍監査役(commissaire de la marine)に任...
  • バルトロメ・ド・ノートルダム
     バルトロメ・ド・ノートルダム(Bartholomée de Nostredame)ないしバルテルミー・ド・ノートルダム(Barthélemye de Nostredame)は、ノストラダムスの叔母。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、次女と推測されている(*1)。エドガール・ルロワは認識していなかったが、ウジェーヌ・レー(未作成)の調査で明らかになった。  詳細な経歴は不明だが、サロンの商人バルテルミー・ブゾーダン(Barthélemy Bezaudin, 1490年に改宗)と結婚したことだけが明らかになっている(*2)。 名前 ...
  • ジャン・ド・ノートルダム
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean/Jehan de Nostredame, 1522年 - 1577年頃)は、フランスの法曹家、歴史家。ノストラダムスの弟のひとり。プロヴァンス史(特に文学史)の研究を行い、『最も名高い昔のプロヴァンス詩人たちの生涯』(Les vies des plus célèbres et anciens poètes provensaux(未作成))を刊行した。 生涯  ジャンはかつて1507年にサン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれたとされていた。ただし、これは古い文献で示されていた出典の不明な記述である。  エドガール・ルロワは洗礼記録が1522年2月19日であることから、実際の生年を1522年とした(*1)。竹下節子、ジャンに関する研究で博士号を取得したカザノヴァ(J.Y.Casanova)、その研究を紹介したゲラールのように、これを支持する者...
  • アナトール・ル・ペルチエ
     アナトール・ル・ペルチエ(Anatole le Pelletier, 生没年未詳)は、19世紀フランスの作家、リトグラフ印刷業者。ノストラダムスや聖書の預言などに関する著書をいくつも出版した。なかでも『ミシェル・ド・ノートルダムの神託集』(2分冊)は、信奉者の著書の中では記念碑的なものと見なす論者がいる。  以下に掲げる著作リストの版元を見ていると、ル・ペルチエがパリで出版活動を行っていたのは1850年代から1860年代にかけてで、その後はオセールやポワチエに活動拠点を移したようにも見える。 著書  以下はフランス国立図書館のオンライン目録に基づいているため、ほかの著作が存在している可能性もある。 理神論と世界の仕組み(Déisme et système universel)パリ、ラドランジュ(Ladrange)、1844年 労働の社会的組織(Organisation...
  • バルタザール・ギノー
     バルタザール・ギノー(Baltazar Guynaud, 生没年未詳)は、17世紀末頃のフランスの作家。ノストラダムス予言の解釈書を刊行した。現在知られている範囲内で、「恐怖の大王」について初めて解釈を展開した人物である。  ギノーの生涯についてはほとんど分かっていない。彼自身の著作にある自伝的な言及から、調馬師の資格を持ち、フランス王ルイ14世附きの小姓頭を務めた時期があったとされる。この真偽は定かではないものの、彼がルイ14世に強い思い入れがあったことは著書から明らかである。  彼の唯一の著作は『アンリ2世からルイ大王までの歴史とノストラダムス予言集との一致』である。これは1693年に刊行され、1709年と1712年に再版された。  ノストラダムスの予言を熱烈に信奉したがゆえに、ピエール・ガッサンディ(未作成)やジャン・ド・スポンド(未作成)といったノストラダ...
  • エリザベート・ベルクール
     エリザベート・ベルクール(Elisabeth Bellecour)は、Nostradamus trahi(邦題『裏切られたノストラダムス』)の著者。ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌのブームを報じた『読売新聞』1981年11月9日夕刊の記事では「パリ九区で書籍店を営む」女性として紹介されているが、それ以外の詳細な経歴は全く分からない。著書の内容からすれば、アルベール・スロスマンの弟子のような存在らしい。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • ジャン・ド・トゥルヌ
     ジャン・ド・トゥルヌ(Jean de Tourne, 1504年 - 1564年9月7日)は、16世紀フランスの印刷・出版業者。1540年から1564年までリヨンで出版事業を行い、リヨンの文学活動の発展に大きく寄与した。ラテン語式にはヨアンネス・トルナエシウス(Joannes Tornaesius)と名乗り、モットーには自身の名をアナグラムした「神の内の技芸」(Son art en Dieu)を用いた。 生涯  1504年にリヨンの金銀細工師の息子として生まれた。若い頃、リヨンの出版業者トレクセル兄弟(Gaspard et Melchior Trechsel)やセバスチャン・グリフのもとで下積みを行ったが、このグリフの工房での下積み時代の同門にはエチエンヌ・ドレがいた。トゥルヌは1540年から独立して事業を営み、当初はドレが手がけた作品の再版などを多く行った。また、1547年から...
  • 出版業者の一覧
     ノストラダムスに関連する出版業者の一覧。原則として姓をカタカナ表記した際のアルファベット順に並べている。「ド」などを姓に含むかどうかは、外国語文献の索引に準じて個別に判断している。  ノストラダムス関連書を出版したことのある業者、特に16世紀から19世紀までの業者の情報を網羅することを目指している。  出版業者の情報はさしあたり次の2点で有益と考える。  ひとつめは、刊行年の特定されていない関連書について、出版業者の活動歴から刊行年を絞り込める可能性が出てくることである。  ふたつめはノストラダムス現象を従来とは別の視点から裏付けていくことにある。 例えば、ピエール・ルーやクリストフ・プランタン(未作成)など、出版業者の中には活動し始めて間もない頃にノストラダムス関連書を出版している事例がしばしば見られる。これは単なる偶然の場合もあるだろうが、その一方で「売れるブラン...
  • フランソワ・ド・ノートルダム
     フランソワ・ド・ノートルダム(François de Nostredame)は、ノストラダムスの叔父。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、次男と推測されている(*1)。  生年未詳だが、兄ジョームが1470年頃の生まれなので、当然それ以降の生まれとなる。また、1485年6月15日以降の記録に全く登場しないことから、若くして亡くなったと推測されている(*2)。 名前 コメント
  • フロリモンド・ド・ノートルダム
     フロリモンド・ド・ノートルダム(Florimonde de Nostredame, 1558年 - 没年未詳)は、エクトール・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪の一人。  1558年9月4日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。洗礼に立ち会った代父は地元の執政官エチエンヌ・モラン(Etienne Maurin)、代母はフロリモンド・ラノス(Florimonde Ranosse)で、フロリモンドの名はこの代母にあやかったものである。  1577年にサン=レミの記録から消えたようだが、詳細は不明である(*1)。 名前 ...
  • マルグリット・ド・ノートルダム
     マルグリット・ド・ノートルダム(Margueritte de Nostredame, 1485年以前 - 没年未詳)は、ノストラダムスの叔母。ノストラダムスの父ジョームの妹。  生没年は不明だが、父ピエール・ド・ノートルダムの1485年2月付の遺言書で言及があることから(*1)、そのときにはすでに生まれていたと考えられる。  1494年12月26日にアヴィニョンの染物工ピエール・ジョアニス(Pierre Joannis)と結婚した(*2)。  ノストラダムスがアヴィニョン大学在学中に面倒を見たといわれることがあるが、史料的に裏付けることはできない。 名前 ...
  • ロベール・ブナズラ
     ロベール・ブナズラ(Robert Benazra, 1953年 - )ないしロベール・ベナズラは、リヨン出身のノストラダムス研究者。ミシェル・ショマラと並び、ノストラダムス書誌学の分野では世界的な権威である。同時に、ノストラダムスの出自や伝記についても調査・研究を続けている。  1980年代初頭にはノストラダムス協会の一員として、ミシェル・ショマラとともに欧米の主要図書館での関連書の所蔵状況についての詳細な調査を行い、1982年にはオーストリア国立図書館に1555年マセ・ボノム版が、1983年にはアルビ市立図書館にボノム版の別系統の伝本が、同じくハンガリー国立セーチェーニ図書館に1557年11月3日版が、それぞれ現存していることを確認した。ミシェル・ショマラが出版した1555年版と1557年版の復刻版には、ブナズラによる序文が収録されている。  1990年には記念碑的な書...
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame)は、ノストラダムスの叔母。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、長女と推測されている(*1)。エドガール・ルロワは認識していなかったが、ウジェーヌ・レー(未作成)の調査で明らかになった。  生年未詳は未詳である。1483年初め頃に、アルルの商人トロフィム・エカルディ(Trophime Aycardi)と結婚した。この時点で18歳以下であったろうとされている。ウジェーヌ・レーはその根拠を示していないが、おそらく両親の結婚の年から判断したものだろう。  その後、アルルの仲買人(négociant)であったトロフィム・マリー(Trophime Marie)と再婚し、一子(名前は未詳)をもうけたが、1498年に死別した。1502年には、アルルの改宗キリスト...
  • アストリュージュ・ド・カルカソンヌ
     アストリュージュ・ド・カルカソンヌ(Astruge de Carcassonne, 1370年頃 - 1417年以降)は、ノストラダムスの父方の先祖で、史料からアヴィニョンの商人と推測されているユダヤ人。ノストラダムスの五世祖、つまりノストラダムスの祖父ピエールの曽祖父に当たる。  ロベール・ブナズラは「アストリューグ・ド・カルカソンヌ」(Astrugue de Carcassonne)と綴っている。  ヴィタル、サロモン(Salomon)、ジョス(Josse)、コンプラデ(Compradet)、ベル(Belle)、ストルト(Sterete)という6人の子供がいた(*1)。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • エクトール・リゴー
     エクトール・リゴー(Hector Rigaux, 1841年11月23日 - 1930年7月16日)は、フランスの司祭。ノストラダムスに関する膨大な蔵書を持っていたことで知られ、書誌研究上の重要人物として知られている。司祭であったことからリゴー師(アベ・リゴー l abbé Rigaux)とも呼ばれる。生まれたときの名はエスペランス=エクトール・カファール(Espérance-Hector Caffart)だったようだが、すぐに改名されたこともあって、現在ではこの名で呼ばれることはほとんどない。  リゴーは、1841年にソンム県のモンシー=ラガシュで生まれた。1865年にアミアンで司祭に任命され、その地で4年ほど過ごした後、ソンム県アルグーヴの主任司祭に任命され、終生その地で過ごした。  リゴーは、ノストラダムスに関して信奉者の立場からの解釈を重ねていたアンリ・トルネ=シ...
  • トリスタン・ド・ヴェロルグ
     トリスタン・ド・ヴェロルグ(Tristan de Vélorgue, 1464年以降 - 1528年頃)はノストラダムスの父方の大叔父。ノストラダムスの祖父ピエール・ド・ノートルダムの異母弟にあたる。  父アルノートン・ド・ヴェロルグが1464年に再婚した後、それほど離れていない時期に生まれたらしい。  マルセイユに住み、1524年8月にマルセイユがブルボン公によって包囲されたときには、防衛隊に名を連ねた。その4年ほど後にはマルセイユの理髪師として記録が残っている(*1)。 その他  五島勉は、ノストラダムスが1530年代にアヴィニョンに住む「父方の大伯父」から、予言能力を開花させるための重要な示唆を受けたとしていた(*2)。しかし、祖父ピエールの兄弟はここで扱うトリスタン以外確認されておらず、住所も生きていた時期も「大伯父」か「大叔父」かも、何ひとつ一致していな...
  • アンドレ・ド・ノートルダム
     アンドレ・ド・ノートルダム(André de Nostredame, 1557年11月3日 - 1601年12月2日)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた三男(第四子)。後半生を修道士として過ごした。  アンドレは1557年11月3日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、アンドレもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと...
  • テオフィル・ド・ガランシエール
     テオフィル・ド・ガランシエール(Théophile de Garencières, 1610年- 1680年)は17世紀ロンドン(未作成)で活動したフランス出身の医師。 【画像】ガランシエールの肖像 生涯  1636年にカーン(未作成)で医学博士号を取得し、遅くとも1647年までにイングランドへ渡った。渡英後、1657年にオックスフォード大学でも医学博士号を取得し、ロンドンの医学校に勤務した。医師として、『この破局的な1665年におけるペストの本質、原因、兆候、救済、予防に関する理論的小論』(ロンドン、1665年。これは翌年までに少なくとも3版を数えた)、『混じりけのない真の珊瑚染料の身体への驚異の効能と素晴らしい効果』(ロンドン、1676年)などを刊行した。  彼はカトリックの信者であったが、渡英の際に棄教しており、のちに『クレメンス8世が陰謀と狡猾な策略...
  • リュクレース・ド・ノートルダム
     リュクレース・ド・ノートルダム(Lucrèce de Nostredame, 1554年 - 1596年以降)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1554年7月15日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで、代父ピエール・ド・リスプらの立会いのもと洗礼を受けた。リスプの息子は後にリュクレースの姉カトリーヌと結婚した。  1577年2月17日にアルルのブルジョワであるジャン・ドモンド(Jean Demonde)と結婚したことがわかっているが、それ以外のことは不明である。1596年のベルトランの遺言書でも言及があるので、少なくともその時までは生きていたらしい(*1)。 名前 ...
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