アンリ3世

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「アンリ3世」で検索した結果

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  • 予兆詩第14番
    ...、残りは1589年にアンリ3世が殺されたことの予言と解釈した。  それによれば、1行目の「大きな坩堝」はパリの事を指し、アンリ3世が怒号渦巻くパリに恐れを抱くことが描かれているという。  2行目の「第一位に選ばれし者」は、国王代理官に就任したマイエンヌ公のことで、3行目の「世界の偉大なる低きもの」とは、カトリックに見捨てられたアンリ3世を指すという。  3行目後半はローマ教皇庁がアンリ3世暗殺に衝撃を受けたさまを表し、4行目の「空虚な者」(le Buy)は一般名詞でなく、ある隊長の名(Nom de certain Capitaine)だという(*2)。  ジョン・ホーグは4行目のヒステルをアドルフ・ヒトラー、バルブをバルバロッサ作戦(1941年)などと関連付け、第二次世界大戦に関する予言と解釈した(*3)。  ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌは、将来のイスラ...
  • 予兆詩第125番
    ...月に当てはめ、冒頭はアンリ3世が習慣や様式を変えたこととした。残りの部分はアンリ3世の小姓たち6人が決闘をし、うち4人が死んだことと関連付けた(*2)。 名前 コメント
  • 詩百篇第9巻36番
    ...ー(1594年)は、アンリ3世の暗殺(1589年8月2日)と解釈した。  1行目はアンリ3世がドミニコ会の若者 (ジャック・クレマン) に殺されたことを指し、2行目はその陰謀がその年の復活祭の後に練られていたこと、暗殺後にヴァロワ王朝断絶という混乱を惹き起こしたこと、凶器が短刀であったことなどを的中させたとした。ただし、後半の要素については解釈していなかった(*5)。  ウジェーヌ・バレスト(1840年)はこの解釈を部分的に引用しつつ、ほぼそのまま踏襲したが、その際には詩句の提示の時点で後半を省略してしまっていた(*6)。  アナトール・ル・ペルチエ(1867年)もアンリ3世の暗殺とし、最後の行の「三兄弟」は、アンリ3世と、その前に即位していた2人の兄王フランソワ2世、シャルル9世と解釈したうえで、「三兄弟の最後の一人が傷ついて死ぬ」と読み替えた(*7)。 ...
  • 百詩篇第6巻11番
    ...は、1574年5月にアンリ3世が即位したことと解釈した。1行目はアンリ2世の子供のうち、王位に就いたのが3人だったこと、2行目はフランソワ2世とシャルル9世が相次いで病没したこと、3行目はアンリ3世と弟のアランソン公の対立、4行目は1572年のサン=バルテルミーの虐殺でプロテスタントの指導者たちが殺されたことと、それぞれ解釈した。なお、シャヴィニーはノストラダムスが1560年向けの占筮で「大きな幹からいくつかの枝が伐られるだろう」(Du grand tronc plusieurs branches seront coupées)と予言していたこととも関連付けている(*2)。  テオフィル・ド・ガランシエールは、そのまま敷衍したような解釈しかつけていなかった(*3)。  アナトール・ル・ペルチエは、シャヴィニーの解釈と似ているが、「七つが三つに」は、アンリ2世の子供が最...
  • 百詩篇第3巻55番
    ...されていた。時の国王アンリ3世はヴァロワ家の唯一の王族男子となっており(1行目)、その後継問題が議論されていた(2行目)。後半は、そのアンリ3世がギーズ公アンリを暗殺させたこととした(*4)。  テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、片目のフランス王が君臨する予言として、漠然としか解釈していなかった。この解釈はのちにヘンリー・C・ロバーツに引き継がれた(*5)。  その後、19世紀に入るまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャン、バルタザール・ギノー、D.D.の著書には載っていない。  匿名の解釈書 『暴かれた未来』(1800年)では1559年の情勢とされた。アンリ2世は事故で片目を失い、それから2週間と経たずに死去し、それが宮廷に混乱をもたらしたさまが前半に予言されていたという。3行目は同じ年にあったというブロワ伯の...
  • 詩百篇第12巻56番
    ...る王と王をフランス王アンリ3世とナヴァル王アンリ(後のフランス王アンリ4世)と解釈し、1585年の予言とした(*5)。  テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は時期をより広くとり、宗教戦争期のフランスで、カトリック側のフランス王アンリ3世とプロテスタント側のナヴァル王アンリ、カトリック側のギーズ公とプロテスタント側のコンデ親王などが対立していた状況の予言と解釈しており(*6)、ジョン・ホーグもそれを踏襲している(*7)。  ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)は、「繰り返し予言されているフランスの内戦」とだけ注記した(*8)。その日本語訳では「フランス革命の市民戦」と訳されているが、フランス革命と限定している理由が分からない。  ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)は、近未来に起こると想定していたフランスの戦乱と解釈した(*9)。 ...
  • Pronostication generale, pour l'annee M. D. LXXV.
    ...細な内容は不明。国王アンリ3世向けの献辞の日付は1574年7月31日だという(*2)。 コメント  前王シャルル9世の死は5月30日のことで、7月の時点では新王アンリ3世はまだポーランドから帰国していなかった(*3)。その状態で果たして本当に「お抱えの」(ordinaire)占星術師の地位についていたのか、少々疑問に思える。 所蔵先 マザラン図書館  なお、扉に「リヨンでジャン・ユグタンが出版した版に基づく」とある以上、先行した版があったのは間違いないが、そちらは現存しない。  ミシェル・ショマラとロベール・ブナズラの書誌には載っていない。この文献を最初に指摘したのは、おそらくジャック・アルブロンだったはずである。 名前 ...
  • 予兆詩第83番
    ...、前半は1574年にアンリ3世が即位したことと解釈した。「天から」はポーランドとドイツの空の下からという意味に捉えたようである(アンリ3世はポーランド王だった)。後半は翌年のことだとしたが、具体的には触れなかった(*2)。  アンリ・トルネ=シャヴィニーは、シャンボール伯アンリがアンリ5世として即位することの予言とした。未来に現れる大君主アンリ5世とする解釈は、エミール・リュイール(未作成)や信奉者時代のピーター・ラメジャラーもしていた。ほかにも、ナポレオンやルイ=フィリップなどに当てはめた者もいた(*3)。 同時代的な視点  後半が不鮮明だが、フランスに名君が現れることの予言と見て間違いないだろう。  この詩が書かれたのは1561年前半で、シャルル9世の即位(1560年12月)から間もない時期だったことから、シャルルが名君となることを期待して書かれた可能性を当然想...
  • 予兆詩第6番
    ...2行目は1589年にアンリ3世に抗議し、様々な都市で暴動が起こったことと解釈している(*2)。なお、4行目は分からないとして放置している(*3)。 同時代的な視点  2行目の「終わりなき息子」は分かりづらいが、シャヴィニーは、ウェルギリウスからの借用としている。その作品『アエネイス』に「終わりなき皇帝」という表現があることから、シャヴィニーは王族の息子を表現したものだろうとしている(*4)。シャヴィニーがそれをアンリ3世と解釈していることには必ずしも賛成できないが、古典からの借用という指摘は有益だろう。  なお、シャヴィニーが解釈で示した日付の話が正しいのかは未確認だが、1555年5月にカレー近郊のマルク(Marcq)で講和会議が持たれたこと自体は事実らしい。というのは、ベルナール・シュヴィニャールがシャヴィニーの解釈をまとめた際に、シャヴィニーが述べていない開催地な...
  • 予兆詩第63番
    ...しているのは、むしろアンリ3世(未作成)の暗殺を言い当てたとする解釈である。この解釈の元祖は「ルーヴィカンの隠者」ことジャン・ル・ルー(未作成)である。  彼は1行目を「王にして王なるものは生きていない」と理解し、アンリ3世がフランス王になる前にポーランド王になっていたことを表しているとした。そして、doux(寛大な)はclément の類義語であることから、アンリ3世を暗殺したジャック・クレマン(Jacques Clément)の名前を見事に言い当てていると理解したのである(*4)。  この解釈は、アナトール・ル・ペルチエ、チャールズ・ウォード、ジェイムズ・レイヴァー、スチュワート・ロッブ、セルジュ・ユタン、ジョン・ホーグといった多くの信奉者たちに踏襲される形で「定説」と化している(*5)。  ただし、信奉者の中には、「王にあらざる王」と訳してシャンボール伯アンリ(国王...
  • 予兆詩第144番
    ...のことで、のちに国王アンリ3世やギーズ公アンリが死んだことで王位を手に入れたことを指すとした。3行目は虐殺事件の中で一命を取り留めた有力者たちを言ったものだという(*2)。 名前 コメント
  • ジョヴァンニ・ミキエル
    ...た。既に見たように、アンリ3世にしても、兄が安泰なら国に呼び戻されることなく、ポーランド王のままだったはずである。  つまり、「みな王になる」という予言は、王太子以外は周辺国の王になり、フランスの権力基盤はさらに強化されるという予言だった可能性もあるのではないだろうか。 名前 コメント
  • 百詩篇第7巻43番ter
    ...2世、シャルル9世、アンリ3世)から見れば、ルイ13世が甥にあたるからだという(ルイの父アンリ4世はマルグリット・ド・ヴァロワと結婚していたので、アンリ3世たちから見れば義理の兄弟になる)。  ギナールは二頭の一角獣をフランス、イギリスと解釈したが、いずれにしても、ラ・ロッシェル攻囲に関連し、攻囲側(王権)に批判的な立場から偽作されたと見るのが妥当だろう。 名前 コメント
  • 百詩篇第3巻98番
    ...弟であったフランス王アンリ3世とナヴァル王アンリ(のちのアンリ4世)の対立と解釈した(*4)。  著者不明の『百詩篇集の小論あるいは注釈』(1620年)でも、宗教戦争末期のナヴァル王アンリと関連付けられた(*5)。  1574年から1576年としているため時期は少しずれるが、ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌも宗教戦争の状況と解釈していた。彼の場合は、アンリ3世とその弟のアランソン公の関係と捉えており、同様の読み方はエリカ・チータムもしていた。ただし、チータムの場合、1632年ごろの国王ルイ13世と王弟オルレアン公の関係にもあてはまるとしていて、歴史の循環性についても言及している(*6)。  2001年のアメリカ同時多発テロ事件後、この詩を一部取り込んだ偽の詩篇がインターネット上に出回った。それを踏まえて、この詩自体をブッシュとビン・ラディンの対立と解釈するものも見られ...
  • 予兆詩第28番
    ...リ(のちのフランス王アンリ3世)が、選挙によってポーランド王になったことの予言とした(*2)。  ジョン・ホーグは、この場合のジェノヴァ(Gennes)をラテン語のgenus(階級)に由来する言葉と捉え、ロシア革命の予言と解釈した(*3)。 名前 コメント
  • 予兆詩第21番
    ...ヌ公やその兄弟が国王アンリ3世に叛旗を翻し、宮廷から追放されたことの予言とした。残りの部分については、曖昧な上に別の時期の予言であるとして解釈を棚上げしていた(*2)。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • 百詩篇第2巻88番
    ...けるカトリック同盟とアンリ3世・アンリ4世の対立と解釈した。3行目の「異邦人」もアンリ4世のことで、それは彼がナバラ王国出身であったことを示すのだという(*3)。  細部に違いはあれども、アンリ3世やアンリ4世とする解釈は、ヘンリー・C・ロバーツやエリカ・チータムが踏襲した(*4)。  アンドレ・ラモンやロルフ・ボズウェルは「五番目の者」を近未来に登場するフランス王アンリ5世と解釈した(*5)。 同時代的な視点  キーワードになる「第五番目の第七の名」については、ピエール・ブランダムール、ピーター・ラメジャラー、ジャン=ポール・クレベールらはいずれも特定していなかった。  当「大事典」でも一つ解釈を示しておこう。  七番目の名前 (nom septiesme) という表現は、ノストラダムス自身がアンリ2世について Henry, second de ce n...
  • ノストラダムスの肖像画 (予言され裁定された歴史)
    ...2世、シャルル9世、アンリ3世、アンリ4世、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世、ルイ16世、共和国(第一共和政)、ナポレオン1世、ルイ18世、シャルル10世、ルイ=フィリップ、共和国あるいは若きオグミウス(第二共和政)、ナポレオン3世、ナポレオン4世、シャンボール伯、共和国あるいはオグミウス、マゼンタ公、ウジェニー、ナポレオン王子、ピウス9世、ピウス9世の最初の後継者、ピウス9世の二番目の後継者、ガリバルディ、ヴィットーリオ=エマヌエーレ、チャルディニ、カブール、イタリアの迫害、司祭、修道士、嘆きの修道女と、実に多彩である。  未来に属するものを別にすれば、フランス政治史とつながりの深い人物が多く挙げられている。 関連  ジャン=ポール・ラロッシュ(未作成)によると、リヨン市立図書館ミシェル・ショマラ文庫には、これに先行する1862年の写真版が存在しているという(*3)。 ...
  • 六行詩22番
    ...引に解釈するならば、アンリ3世がギーズ公アンリを首尾よく暗殺したものの、自身もジャック・クレマンに刺殺されたことや、その後国王になったアンリ4世が厳しいパリ攻囲戦を仕掛けたことがモデルになって偽作された、と見ることができるのかもしれない。 その他  1600Au では19番になっている。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • 予兆詩第62番
    ...世の死を受けて、弟のアンリ3世が即位し、結婚したことを指すという。シャヴィニーは2行目冒頭を「(1人の)偉大な剃髪」(Raze Grand)としており、それと4行目を、その年に毒殺されたロレーヌ枢機卿シャルル・ド・ギーズと結び付けている。2行目後半から3行目はポーランド王だったアンリが急遽呼び戻されてフランス王位に就いたことを示すという(*2)。 名前 コメント
  • 詩百篇第1巻97番
    ...ギーズ公アンリが国王アンリ3世の刺客によって暗殺されたブロワの三部会と解釈した(*4)。  テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、単語に不明瞭なものがあるとしつつも、全体の意味は平易とした(*5)。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャン、バルタザール・ギノー、D.D.、テオドール・ブーイ、フランシス・ジロー、ウジェーヌ・バレスト、アナトール・ル・ペルチエ、チャールズ・ウォードの著書には載っていない。  エリゼ・デュ・ヴィニョワ(未作成)(1910年)は、ルイ14世がナントの勅令を廃止した後の状況と解釈した(*6)。  マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)(1938年)は、1999年以前に反キリストが誕生するのに先立つ、嵐の前の静けさに関する詩篇の一つとして紹介していた(*7)。 ...
  • 六行詩45番
    ...いることを認めつつ、アンリ3世の暗殺と解釈した(*4)。 同時代的な視点  冒頭の2行は六行詩31番の4、5行目とほぼ同じである。当然、モチーフも同一線上にある可能性は想定できるが、曖昧すぎて特定が難しい。 その他  1600Au では43番になっている。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • 詩百篇第1巻10番
    ...シャヴィニーはこれをアンリ3世とヴァロワ家の運命に結びつけたが、彼の時点ではまだ 「蛇」 はそのまま解釈されていた(*7)  アナトール・ル・ペルチエはトルネ=シャヴィニーの解釈を引き継ぎつつも、Serpens をギリシア語の Sarpos と結びつけて 「棺」 と解釈し、ヴァロワ朝最後の王アンリ3世 (1589年没) の棺がサン=ドニに安置されたのは、アンリ4世の没後の1610年のことだったことを表し、ヴァロワ王朝滅亡を冥府の先祖たちが嘆いていることの予言と解釈した(*8)。  この解釈は、チャールズ・ウォード、ジェイムズ・レイヴァー、エリカ・チータム、竹本忠雄らが踏襲した(*9)。 同時代的な視点  エドガー・レオニは、ここでの「蛇」はプロテスタントの隠喩ではないかとしていた。  たしかにアンリ2世への手紙でも、異教徒を 「誘惑者」 と位置づけているらしいので、『創...
  • 百詩篇第4巻7番
    ...ンによって暗殺されたアンリ3世についてとした(*11)。 懐疑的な見解  アンジュー公、シャルル9世、アンリ3世がハンセン病、あるいはそれと混同された他の皮膚病に感染したことがあったかどうか、あるいはそのような噂が当時あったかどうかについては、当「大事典」では確認できていない。 同時代的な視点  エヴリット・ブライラーは、フランソワ2世についての見通しだったのではないかと推測した。フランソワはノストラダムスがこの詩を発表した年に11歳の王子だったが、病弱であり、その皮膚に現れた症状が癩病ではないかと疑われたことがあったという(*12)。  ピーター・ラメジャラーはフロワサールの年代記からと推測し、イングランド王エドワード3世の第四子ジョン・オヴ・ゴーント (1340年 - 1399年) とその家族がモデルではないかと推測した。「臆病な指導者」は12世紀の聖職者...
  • ラ・クロワ・デュ・メーヌ
    ...。また、フランス国王アンリ3世には『あらゆる点が満たされている完璧な図書館を建てる為の素描あるいは計画』(パリ、1583年)を捧げたが、国王はさしたる関心を払わなかったという。  それでも、ラ・クロワ・デュ・メーヌは調査研究を継続し、その成果を大著『ラ・クロワ・デュ・メーヌ殿の蔵書第1巻』(パリ、1584年)として公刊した。  第1巻とあるが、彼は1592年にトゥールで狂信者によって暗殺されたため、続巻は存在しない。暗殺の原因は、プロテスタントとして秘密裏に講義を行っていると疑われたことであったという。 著書 『ラテン語・フランス語作品の大部分について著書、書名、記載事項を簡略に含む言説』(Discours du sieur de La Croix du Maine, contenant sommairement les noms, titres et inscrip...
  • 予兆詩第68番
    ...殺して喜んでいた国王アンリ3世が、カトリック勢力からも見放され、その年の8月に暗殺されたことと、1589年にペストが流行したこと、3行目はその年の1月にカトリーヌ・ド・メディシスが死んだこととした。4行目はその年の秋に雨が多かったことを指すという(*2)。 同時代的な視点  ノストラダムスがこれを書いたのは1560年上半期と推測されている。その時期にあった何らかの「喜び」がぬか喜びに終わると悲観的に述べているようにも見える。  一つの可能性としては、1560年4月に大法官(宰相)に就任し、カトリックとプロテスタントの融和に尽力したミシェル・ド・ロピタルの試みが、宮廷の人間たちに足を引っ張られて挫折するという見通しを示したものと見ることができるのかもしれない。  3行目は明らかに高位の女性が死ぬことを述べているが、誰を念頭に置いたものかは分からない。地位の高い人間の死...
  • La Prophetie merveilleuse, contenant au vray les choses plus memorables
    ...ス王ではない。彼は、アンリ3世(未作成)が殺された後、プロテスタントのアンリ4世が王位に就くことを認めなかったカトリック同盟によって、対立国王として担ぎ出された人物である。  ジャック・アルブロンは、この文献はカトリック同盟に加担する人物が、政治的動機によって作成した偽作と見なしている。また、驚異の予言(Prophetie Merveilleuse)という題名は1567年にノストラダムス2世の名義で出された『今年に始まり1568年閏年まで続く驚異の予言』とも一致することから、この時期には複数の名前を使い分けて偽予言を世に出していた人物がいたとしている。  さらにアルブロンは、この文献が題名で星位に触れるかのように書いているが、実際にはクレスパンが1580年代に扱っていた話の焼き直しであり、1590年代特有の星位への言及がないとも指摘している(*2)。  この文献は、明らか...
  • 詩百篇第8巻38番
    ...年、即位間もない国王アンリ3世の事績に関する予言と解釈した(*6)。 同時代的な視点  詩の概要はある程度理解しやすいものである。  フランスの王がアヴィニョン(当時教皇領)を併合しようとすることで、アヴィニョン住民の反発を招き、それが(鎮圧しようとした王によって、もしくは陰謀を企んだ民衆によって引き起こされた)「壁」の細工による人為的な水害に繋がる。その水害は5度にわたり、最後のものはノル(Nolle)という場所にまで被害が及ぶ(またはノルをノエルと解釈するなら、「最後のものは本来安寧に過ごすべきクリスマスの時期に起こる」)。  おおよそ以上の通りだろう。  ジャン=ポール・クレベールは、『ミラビリス・リベル』に収録された聖セゼールの予言との共通性を指摘している(*7)。  そこでは、ブロワの王が教皇の都市(アヴィニョン)に王座をおくという予言があるからだ。 ...
  • 百詩篇第3巻50番
    ...リ市民が放棄し、国王アンリ3世とその軍勢をパリから追い出した事件である。この解釈はチャールズ・ウォード、ジェイムズ・レイヴァー、エリカ・チータムらが追随した(*4)。  マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)とジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌの親子は、普仏戦争中に国防政府が直面したパリ包囲戦(1870年)と解釈した(*5)。  セルジュ・ユタンはルイ16世のヴァレンヌ逃亡事件と解釈した(*6)。  2016年のアメリカ大統領選挙でドナルド・トランプが勝利すると、3行目の「喇叭兵」(トロンペット)をトランプと結びつける解釈が見られるようになった。日本ではネットメディアのTOCANAがこれを(おそらく最初に)紹介した(*7)。 同時代的な視点  市壁に梯子が掛けられるのは攻囲戦の描写だが、従来特定のモデルは提示されてこなかった。  ピーター・ラメジャ...
  • 百詩篇第4巻18番
    ...585年7月18日にアンリ3世が出した、改宗しないプロテスタントの国外追放を宣言した王令についてと解釈されていた(*3)。  テオフィル・ド・ガランシエールは、天文学者や占星術師たちへの迫害の様子を描写したものに過ぎないとした(*4)。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、バルタザール・ギノー、テオドール・ブーイ、フランシス・ジロー、ウジェーヌ・バレスト、アナトール・ル・ペルチエ、チャールズ・ウォード、ロルフ・ボズウェル、ジェイムズ・レイヴァーの著書には載っていない。  アンドレ・ラモンは、第二次世界大戦中の枢軸国内での言論弾圧と解釈した(*5)。  セルジュ・ユタンは占星術師に対する苛烈な措置の予言としたが、ここまでの勅令を出した国は無いと述べた(*6)。 同時代的な視点  ピエール・ブランダムールは、...
  • 百詩篇第6巻24番
    ...の死を意味するとし、アンリ3世の暗殺後に王になったアンリ4世によって(ユグノー戦争が終わり)平和がもたらされたと解釈した(*3)。  アンリ4世とする解釈はセルジュ・ユタンなども行っている(*4)。  バルタザール・ギノーは未来の情景としていたが、解釈はかなり漠然としている(*5)。  テオドール・ブーイは、占星術上、巨蟹宮に含まれるのはヨーロッパの一部とした上で、フランス革命期にそれを巡ってヨーロッパで大きな戦いが引き起こされたこととした。そして 「新しい王」 はナポレオンと解釈した(*6)。  アナトール・ル・ペルチエは、マルスを将来現れる 「偉大なケルト人」 に敵対する存在とし、それが別の王と結託して北回帰線(cancer du tropique)に含まれる地方、つまり 「エジプト、ペルシア、インド、中国、メキシコ」 などで凄惨な戦争を引き起こすことが...
  • 詩百篇第9巻17番
    ...すぐ後に即位した新王アンリ3世の時代に宗教戦争がさらに悪化したことを予言したという(*6)。  ヘンリー・C・ロバーツはこの解釈を支持していた。ただし、娘婿夫妻の改訂版では「第三」を第三帝国としてユダヤ人迫害などと結びつける解釈に差し替えられた(*7)。  アナトール・ル・ペルチエ(1867年)は、フランス革命の予言と解釈した。前半は平民、つまり第三階級が第一位になったあとに、恐怖政治によって多くの流血をもたらすことと解釈し、3行目はタイル焼き窯跡に建てられたチュイルリー宮殿に、貴族達を死に追いやる窯(処刑場)が設置されたこととした。4行目は共和政の到来が「黄金の世紀の死」と表現され、「新たな王」という表現でナポレオンの台頭が予言されているとした(*8)。  この解釈はチャールズ・ウォード、アンドレ・ラモン、エリカ・チータムらに引き継がれた(*9)。  マックス・...
  • 百詩篇第5巻30番
    ...ァロワ王朝末期の国王アンリ3世とパリのカトリック同盟の対立と解釈した (*3)。  この解釈は後に、ドゥドゥセが1790年に刊行した解釈書でも踏襲された(*4)。1800年の匿名の解釈書『暴かれた未来』も時期はほぼ同じで、アンリ4世によってパリが封鎖されたことと解釈した(*5)。  アナトール・ル・ペルチエは1798年2月11日のベルチエ将軍率いるフランス軍のローマ入城と解釈した(*6)。この解釈はチャールズ・ウォード、ジェイムズ・レイヴァーによって踏襲された(*7)。  エリカ・チータムも踏襲したが、彼女の場合、1808年から1809年にかけてのフランスへの教皇領併合も含めて解釈している(*8)。もっとも、その解釈はエドガー・レオニが示唆していたことを盗用しただけであろう。1798年と1808年の2つを想定する解釈は、ジョン・ホーグも踏襲した(*9)。  ル・ペルチエ...
  • 百詩篇第2巻79番
    ...タムの場合、アンリはアンリ3世(在位 1574年 - 1589年)を指し、若干予知がずれたのではないかとしていた(*7)。  ホーグの場合、1559年に歿したアンリ2世と見て、ノストラダムスが見ていたオルタナティヴな未来(つまりアンリが事故死することなく強大な君主として君臨し続けていたはずの未来)が描かれているのだろうとした(*8)。  五島勉は、barbe(あごひげ)と口ひげの誤差はあるが、「縮れた黒髭」はサダム・フセインだろうと解釈した。  そして、enginを10世紀には死語になっていた言葉で、エンジンやミサイルの意味で使われていると説明した。  それを踏まえ、この詩はフセインが各国大使館員などを人質に取った湾岸危機(1990年)の予言と解釈した(*9)。 【画像】 コン・コクリン 『サダム―その秘められた人生』  未来の偉大な人物の予言とす...
  • 詩百篇第9巻45番
    ...ヴィニーは、1行目をアンリ3世のこととして、残りの行は彼の次に王になり、パリ、ピカルディ、ピエモンテ(サルッツォ侯国)、トスカーナを手中に収めた(または収めることになる)アンリ4世の予言とした(*3)。  Mendosusはアナグラムしてヴァンドームを導き、アンリ4世がヴァンドーム公でもあったことと結びつけている。  メンドススが出てくるもうひとつの詩篇である詩百篇第9巻50番が、非常に多くの論者からアンリ4世の予言と解釈されているのに比べると、こちらの詩を取り上げた論者の数はかなり少ない。  テオフィル・ド・ガランシエールにしても、メンドススがヴァンドームのアナグラムであること以外は意味不明として片付けている(*4)。  ウジェーヌ・バレストは前半2行のみを取り上げてシャヴィニーの解釈を踏襲したが、残り2行については省いている(*5)。  シャヴィニーが解釈した時点...
  • アンリ4世
     アンリ4世(Henri IV, 1553年12月13日 - 1610年5月14日)は、フランス国王(在位 1589年 - 1610年)。ナヴァル王からフランス王になり、ブルボン朝の創始者となった。しばしば「アンリ大王」(Henri le Grand)とも呼ばれる。 【画像】アンリ4世の肖像画(*1) 生涯  父はアントワーヌ・ド・ブルボン、母はジャンヌ・ダルブレ(未作成)。幼いときからユグノー(プロテスタント)の影響が強い環境で育ち、弟のコンデ親王ともども、ユグノー勢力の中心的存在として頭角を現した。  1572年に王妹マルグリットと結婚するが、サン=バルテルミの虐殺に際して王宮に幽閉される。一度はカトリックに強制改宗させられるが、脱走後に再びプロテスタントに転じ、ユグノーの司令塔となった。  いわゆる「三アンリの戦い」を最後まで生き抜き、1589年にサリ...
  • 百詩篇第5巻38番
    ...ー(1594年)は、アンリ3世が出したボーリュー王令(1576年5月)と解釈した(*5)。この王令はプロテスタント側に大幅に譲歩し、礼拝の自由を完全承認したほか、各高等法院に「新旧両派合同法廷」を設置することなどを認めるものであり、この王令を以って第五次ユグノー戦争は終息した(*6)。  匿名の解釈書『1555年に出版されたミシェル・ノストラダムス師の百詩篇集に関する小論あるいは注釈』(1620年)は、アンリ4世とその愛人で1599年に没した la D. de B. (明記されていないが、la Duchesse de Beaufort の称号を有していたガブリエル・デストレのことだろう) についてと解釈した (*7)。  テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、「これは前の詩と関係があり、それゆえに云々 (therefore c.)」と、ごく簡略なコメントを...
  • 百詩篇第3巻81番
    ...描写された人物が国王アンリ3世を追放したカトリック同盟の首領ギーズ公アンリ、3行目の人物がアンリ4世と解釈されている (*6)。  1656年の解釈書では、1557年のケラース地方 (Queyras) の攻囲戦と解釈されている。前半は、戦死したボニヴェを継いでフランス歩兵連隊司令官に任命されたシャルトル司教代理フランソワ・ド・ヴァンドーム、3行目はフランス元帥であったブリサック伯シャルル・ド・コセと位置づけられた(*7)。  テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、この解釈を踏襲した(*8)。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャン、バルタザール・ギノー、D.D.、テオドール・ブーイ、フランシス・ジロー、ウジェーヌ・バレスト、アナトール・ル・ペルチエ、チャールズ・ウォード、シャルル・ニクロー、マックス...
  • アンリ2世
     アンリ2世(Henri II, 1519年 - 1559年)は、フランス国王(在位1547年 - 1559年)。 【画像】同時代の画家フランソワ・クルーエが描いたアンリ2世(*1) 生涯  フランソワ1世と王妃クロードの次男。パヴィアの戦いで大敗を喫しマドリードに幽閉されていた父の身代わりとして、わずか7歳のときに兄であった王太子フランソワともども、人質としてスペインに送られた。1530年にカンブレーの和約が締結された後に彼らは帰還したが、アンリは周囲に影響されないでいるには幼すぎたので、生涯を通じて、その態度物腰はフランス的というよりもスペイン的なものだった。  1533年にはカトリーヌ・ド・メディシスと結婚し、1536年に兄フランソワの死によって王太子となった。そのときから、彼は余生を完全に支配されることになる2人の人物の影響下に入った。一人は愛人のディ...
  • 百詩篇第2巻30番
    ...カトリック同盟と国王アンリ3世の対立に関する詩と解釈した(*2)。  テオフィル・ド・ガランシエールは、ローマ掠奪を行ったカール5世のこととした(*3)。  アナトール・ル・ペルチエはヴォルテールの思想(啓蒙思想)に関する詩と解釈した。ハンニバルは地獄の神々を証人としてローマへの嫌悪を示した人物とされた。ヴォルテールを筆頭として18世紀に作家やジャーナリストが続々と現れ、啓蒙思想を広めたことがローマにもたらした恐怖は、バベルの塔で起きたとされる混乱以来のものだとした(*4)。  チャールズ・ウォードは、ハンニバルはアルプスを越えイタリアに侵攻した点で、ナポレオンの原型といえるとして、ナポレオンと解釈した(*5)。  ナポレオンとする解釈はセルジュ・ユタンもしていた(*6)。  マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)は、ここでいう地獄の神々とはモロク(...
  • 1656年の伝記
    ...て、百詩篇第8巻ではアンリ3世について語る形でそれをやり、彼 〔=アンリ3世〕 のことを 「健康も死も略奪も知らない、生活について幸いなる者、フランス王国にて幸いなる者」 等と呼んだ。 第5節注記  ノストラダムスの国王との謁見を正しく1555年7月14日としている。こうした日付、滞在先、褒美の内容などはセザール・ド・ノートルダムの年代記に登場することと一致しており(*2)、おそらくそれを参考文献にしたと思われる。  しかし、セザールが記載しているのはブロワに赴いたことまでで、そこで見た未来の内容や、それについてどのようなやり取りを国王夫妻と交わしたのかには触れられていない。その辺りの出典は不明だが、むしろ無根拠に膨らませたものではないかと思われる。  なお、第8巻の詩とされている引用句は、実際には百詩篇第10巻の16番から採られており、省略や修正が施されている。 ...
  • 人名一覧
    ...世(フランス国王) アンリ3世(フランス国王) アンリ4世(フランス国王) イアンブリコス(古代の新プラトン主義哲学者) ヴライク・イオネスク(美学者、哲学博士/解釈者) 池田邦吉(建築家/解釈者) 石垣ゆうき(漫画家/その他) 伊藤和行(科学史家) 伊藤進(仏文学者/研究者) 井山弘幸(科学思想家/関連書の訳者) ローラン・ヴィデル(同時代の占星術師) イアン・ウィルソン(ジャーナリスト) ジャン・ド・ヴォゼル(文人/ノストラダムスの文通相手) チャールズ・ウォード(解釈者) アントワーヌ・ヴォラン(出版業者) ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ(伝記作家) 英森単(広告ディレクター/解釈者) デイヴィッド・オーヴァソン(解釈者) おおさかけい(漫画家) 大林憲司(小説家) 荻野アンナ(仏文学者) 小田晋(精神医学者/その他) か アンナ・カールステット(未作成)(仏文学者/研究者)...
  • 百詩篇第5巻72番
    ...。後半が退廃的な国王アンリ3世の宮廷についてとする点は、シャヴィニーとほとんど変わらない(*7)。  この解釈は、チャールズ・ウォード、ジェイムズ・レイヴァー、エリカ・チータム、ネッド・ハリーらが踏襲した(*8)。  セルジュ・ユタンはルイ14世の治世についての予言とした(*9)。 同時代的な視点  ピエール・ブランダムールはこの詩の後半について第4巻30番、第6巻23番などと関連付け、ウェヌスは銅の、太陽は黄金の比喩とした上で、貨幣価値の下落のモチーフであるとした(*10)。ジャン=ポール・クレベールも同じような読み方であった。  これに対し、ロジェ・プレヴォはドイツでトマス・ミュンツァーらが蜂起した1524年には、フランス各地でもプロテスタントの運動が盛り上がっていたことが影響しているとした(*11)。 【画像】H.-J. ゲルツ 『トーマス...
  • アンリ2世への手紙
     「アンリ2世への手紙」は、『予言集』第二序文の通称。  正式名は「最も無敵にして極めて強大、そして敬虔なキリスト教徒であらせられるフランス王アンリ2世へ。そのとても賤しく、とても従順な従僕にして臣下であるミシェル・ノストラダムス(が)、勝利と至福を(お祈り申し上げます)」(A L INVICTISSIME,TRES-PVISSANT ET tres-chrestien Henry Roy de France second; Michel Nostradamus son tres humble, tres-obeissant seruiteur subiect, victoire felicité.)という。  その題名の通り、国王アンリ2世に宛てた献呈文の体裁を取っている。  五島勉は海外では「ノストラダムスの黙示録」とも呼ばれていると主張していたが、調...
  • アンリ・ノストラダムス
     アンリ・ノストラダムス(Henri Nostradamus)は、ノストラダムスの甥とされる人物。  彼の名は1605年版の『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』に登場する。それによれば、アンリはノストラダムスの甥であり、1605年版で初めて『予言集』に付け加えられた「六行詩集」は、ノストラダムス本人からアンリに託されたものであったという。  しかし、現在明らかにされている範囲内では、7人いたノストラダムスの甥に「アンリ」は含まれていない(ノストラダムスの甥参照)。また、「六行詩集」は他のノストラダムス作品との文体の違いが顕著なため、「アンリ・ノストラダムス」は偽書である「六行詩集」の権威付けのために創作された人名の可能性もある。  一部の信奉者は、アンリをノストラダムスの実弟ジャンの息子と仮定しているようだが、エドガール・ルロワの実証的な研究で否定されている(*1...
  • 詩百篇第9巻59番
    ...にヴァロワ朝最後の王アンリ3世に嫁ぐことになる。  史実との一致は不明瞭だが、ルイーズの誕生を踏まえて何らかの見通しを示したものの、それが外れてしまったということだろうか。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • アンリ・ボードリエ
     アンリ・ボードリエ(アンリ=ルイ・ボードリエ Henri-Louis Baudrier、1815年5月29日-1884年6月17日)は、フランスの法曹家、書誌学者。没後出版された『リヨン書誌』全12巻は、16世紀リヨン出版史研究に関する重要文献である。  リヨンの裁判長の息子として生まれ、自身も1841年に弁護士資格を取得した。その後、リヨン、ナンチュア、モンブリゾンなどで検事や判事を歴任した。  ボードリエは、生業の傍ら、リヨンの古版本収集や書誌の調査を丹念に行っていた。生前にはその成果はほとんど日の目を見ることはなかったが、死後、息子のジュリヤン・ボードリエによって『リヨン書誌』(Bibliographie lyonnaise(未作成))として順次まとめられていった。  最終的にジュリヤンの義理の息子も引き継いだものの、ボードリエの書誌研究の全てが公刊されるに...
  • アンリ・トルネ=シャヴィニー
     アンリ・トルネ=シャヴィニー(Henri Torné-Chavigny, 1826年6月20日 - 1880年7月5日)は、フランスの司祭。ノストラダムス予言の信奉者であり、エドガー・レオニが言うところの「19世紀の三大解釈者」の一人である(後2人はウジェーヌ・バレストとアナトール・ル・ペルチエ)。  ロベール・ブナズラは「ノストラダムスの注釈者の中で一番の有名人」(*1)と紹介している。  本名はアンリ=アントワーヌ・トルネ(Henri-Antoine Torné)だが、ノストラダムスの秘書ジャン=エメ・ド・シャヴィニーに肖って、姓に「シャヴィニー」を加えた。  司祭であったことから、トルネ師(アベ・トルネ, l abbé Torné)とも呼ばれる。  日本語文献に、ノストラダムスの秘書(弟子)の名前を「トルネー」としているものがあるのは、明らかにシャヴィニー本人と、この...
  • Nostradamus' Unpublished Prophecies
    ...照)。  ほかにもアンリ3世の死を予言した「三行詩」なるものを持ち出しているが(*2)、それは予兆詩第63番を改変したものに過ぎず、事件の35年前(つまり1554年)に発表されたというのも嘘である。 出版年と出版地  五島勉は『ノストラダムスの大予言・中東編』において、クロケットのこの本が1989年にニューヨークの小さな出版社から出されたと主張していたが、インナーライト出版はニューブランズウィック(ニュージャージー州)の出版社で、出版年、出版地とも間違っている。  ただ、ロベール・ブナズラはこの本が1981年にニューヨークのグローバル・コミュニケーションズ社から出版されたと述べているので、大元の本がニューヨークで出された可能性はある(これは後述のフランス語訳版に基づくと思われるが、当「大事典」では未確認)。どちらにせよ、「新発見予言はフランスの秘密結社が1986年に発見し...
  • アンリエット・ダンコス
     アンリエット・ダンコス(Henriette d Encausse)は、ノストラダムスの最初の妻である。1531年にアジャンで交わされた結婚契約書が1990年代に発見されたが、詳細な研究はまだ見られない。  ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの伝記が仮に正しいのだとすれば、幼い子ども2人とともに、1530年代に病死したと考えられる。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
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