エクス=アン=プロヴァンス

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「エクス=アン=プロヴァンス」で検索した結果

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  • 百詩篇第4巻86番
    ...「エクス」はしばしばエクス=アン=プロヴァンス(未作成)(Aix-en-Provence)を指すが、ここではエクス=ラ=シャペル(Aix-la-Chapelle, アーヘン(未作成)のフランス語名)を指しているとされる。ランスはフランス王の即位式が行われていた都市であり、アーヘンは神聖ローマ皇帝の即位式の行われていた都市である。  そこで、この詩はフランスとドイツを支配する強大な君主の登場を予言したものと解釈される(*3)。 同時代的な視点  エドガー・レオニは、信奉者側と同じくランスとアーヘンで即位する人物の予言と解釈した。ただし、彼の場合は、同時代的にフランス王アンリ2世が神聖ローマ皇帝にもなることを期待したものだろうと見ていた(*4)。アンリ2世の父フランソワ1世は、神聖ローマ皇帝選挙に出馬したこともあったが、アンリ2世自身はそうすることなく歿した。  ピエール・ブ...
  • ブランシュ・ド・サント=マリー
    ...と結婚したときには、エクス=アン=プロヴァンスに住んでいた(*1)。  ジョーム、フランソワ、ピエール、カトリーヌ、バルトロメ、マルグリットという6人の子供をもうけた。  没年も未詳だが、1503年2月15日に、借金取立ての権利を代理人ピエール・ジョアニスに譲った記録があるので、少なくともその頃までは生きていたことが明らかになっている(*2)。 名前 コメント
  • ノストラダムスの肖像画 (メジャヌ所蔵、1614年頃)
    ...先 メジャヌ図書館(エクス=アン=プロヴァンス) コメント  息子セザール・ド・ノートルダムが作成したと伝えられる肖像画の中では、おそらく最も有名なものであろう。日本では、ヘンリー・C・ロバーツ『ノストラダムス大予言原典・諸世紀』(たま出版、1975年)にモノクロ写真が掲載されており、比較的早い段階から知られていたものと思われる。  ここで採用した図版はウィキメディア・コモンズにアップロードされているものである。エドガール・ルロワがメジャヌ所蔵としている画像と色調が一致しているが、エルヴェ・ドレヴィヨンらがメジャヌ所蔵として紹介している画像はもっと青みがかっている(*2)。しかし、e-corpus に提供されている画像は、そのどちらとも微妙に色調が異なっている(*3)。  当「大事典」では実物を確認していないので、どの色調が最も実物に近いのかは判断がつかない。 ...
  • 化粧品とジャム論 (リゴー、1572年)
    ...か。 所蔵先 エクス=アン=プロヴァンス市立図書館、サント・ジュウヌヴィエーヴ図書館、マザラン図書館、メジャヌ図書館 ゾロトゥルン中央図書館(スイス) 名前 コメント
  • La Vie de Nostradamus (Haitze)
    ...s) は1711年にエクス=アン=プロヴァンス(未作成)で刊行されたピエール=ジョゼフ・ド・エーツによる伝記。翌年にも再版され、伝説的なノストラダムス像の形成にも影響した。 題名 LA VIE DE NOSTRADAMUS.PAR PIERRE JOSEPH. De filiis quoque Isachar, veri eruditi, qui noverat singula tempora. Paralip. Lib. 1, cap.12, v.32 A AIX, Chez la Veuve de CHARLES DAVID, JOSEPH DAVID, Imprimeur du Roi de la Ville. 1711 ノストラダムスの生涯ピエール・ジョゼフによる。 「イサカル族の者たちは、あらゆる時を認識し、識別する能力に長けていた」『歴代誌・上』第12章3...
  • ルイ・ド・ガロー・ド・シャストゥイユ
    ...に従う。  エクス=アン=プロヴァンスに生まれた。アンリ4世からは国務院(コンセイユ・デタ)の評議員に任命された(*2)。詩人としては1595年に 『王家の懺悔の聖詩篇の模倣』(Imitation des Pseaumes de la penitence royalle) を刊行し、これには知人であったセザール・ド・ノートルダムが数篇の詩を寄せている。ほかにマレルブとも親交があったことで知られている。  息子は作詩なども行なったエクス高等法院の主席検察官ジャン・ド・ガロー (1587年 - 1646年)、孫はエクス高等法院の次席検察官をつとめたユベール・ド・ガローと、ラ・フォンテーヌやボワローとも親交のあった文人ピエール・ド・ガロー (1644年 - 1727年) である(*3)。 ノストラダムス関連  上述の通り、ルイ・ド・ガローとセザール・ド・ノートルダム...
  • ポール・アルボー博物館
    ... Arbaud)は、エクス=アン=プロヴァンスの18世紀の邸宅が元になっている博物館である。エクス市内のマザラン地区(le quartier Mazarin)、九月四日通り(Rue du 4-Septembre)2番地にある。  様々な美術品を収蔵しているが、わけても地元陶器のコレクションがしばしば特筆される(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムス関連の稀覯書が多く収蔵されていることで国際的に有名である。  インターネット上での目録の公開などはしていないようなので、その蔵書については直接博物館に赴くか、ミシェル・ショマラやロベール・ブナズラの書誌などから間接的に知るしかないだろう。  関連書は膨大な数に上るが、世界でもアルボー博物館にしか残っていない、もしくは他数箇所にしか残っていないノストラダムス作品とその再版を挙げると以下の通りである(*印はアルボーに...
  • ジャン・ド・ノートルダム
    ...から1555年頃にはエクス=アン=プロヴァンス(未作成)で公証人として活動し、それ以降、20年以上にわたりエクスの高等法院検事(procureur)を長くつとめた。  ノストラダムスの著書『化粧品とジャム論』(1555年)の第二部には、「エクスの検事」であるジャンに宛てた献辞が収録されている。  ジャンは本業の傍らでプロヴァンス史研究を行っており、その成果の一部は『最も名高い昔のプロヴァンス詩人たちの生涯』(リヨン、アレクサンドル・ド・マルシリ、1575年)として刊行された。同じ年には同じ版元からイタリア語版も出され、そちらは1702年と1722年に再版されている。フランス語版は1913年に増補の上で復刻されており、1971年にはオリジナルの復刻版も出された。  ほか、800ページ近くに及ぶプロヴァンス史研究の草稿がエクスの市立図書館に現存している(*5)。こ...
  • Epistre à la Royne mere du Roy Empereur de France Charles IX
    ...フランス国立図書館、エクス=アン=プロヴァンス市立図書館 名前 コメント
  • サロン=ド=プロヴァンス
     サロン=ド=プロヴァンス(Salon-de-Provence)は、南フランス、ブーシュ=デュ=ローヌ県の都市である。  ノストラダムスが晩年を過ごした町として、またクラポンヌ運河を建設したアダン・ド・クラポンヌの出身地として知られている。 概要  クロー平野に位置し、かつてはサロン・ド・クローとも呼ばれていた。  古来、オリーブオイルやマルセイユ石鹸の産地として知られている。現在は空軍士官学校の所在地でもある。  市の中心部近くにアンペリ城がそびえる。  かつてはアルル大司教の私邸だったが、現在は博物館に改装されている。  市庁舎の前にはアダン・ド・クラポンヌの像が飾られている(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムスは1547年にこの町のアンヌ・ポンサルドと結婚したのを機に、サロンに移り住んだ。  彼は暦書などにラテン語で署名するとき...
  • サン=レミ=ド=プロヴァンス
     サン=レミ=ド=プロヴァンス(Saint-Rémy-de-Provence)は、南フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県の都市である。ノストラダムスの生誕地として、また画家ゴッホの療養地として国際的に知られている。 概要  アルピーユ山脈のふもとに位置し、町の歴史は古代ローマの入植地だった頃に遡る。当時の遺跡はサン=レミの近郊に残っている(グラヌムの遺跡)。  10世紀には近隣にロマネスク様式のサン=ポール=ド=モゾル修道院が建造され、1810年から私営の精神病院に転用されている。その病院は画家ゴッホが療養のため滞在していたことがあるため、国際的に有名である(ゴッホが滞在していた部屋は見学可能)。この病院の背後には採石場跡であるマス・ド・ラ・ピラミッドがある。  現在の町の中心部には、町の歴史や文化にゆかりのある博物館がいくつもある。  サドの館(Hôtel de Sad...
  • Ein Erschrecklich und Wunderbarlich zeychen
    ...トラダムスはこの星がエクス=アン=プロヴァンス近郊のサント=ヴィクトワール山から発したと考え、3月14日にはエクスに赴き、住民達に話を聞いたという。その結果は芳しくなかったが、地元の有力者から聞いた話を元に、サント=ヴィクトワール山から2リューの場所で出現したと結論付けた。  その2日後にはサン=シャマで理髪業を営む男性からも話を聞き、そこではスペイン方面の海に伸びる虹のようだったという証言を得た。  ノストラダムスはそうした証言や推論を踏まえ、この彗星はプロヴァンスや他の沿岸地域に訪れる様々な災厄の前兆であろうと読み解き、災厄の例として飢饉、戦争、火災、ペストなどを列挙している(*2)。  末尾の日付は1554年3月19日となっている。  なお、木版画ではあたかも三日月から燃える矢が放たれたように描写されているが、本文にそのような記述はない。パトリス・ギナール(...
  • マドレーヌ・ド・ノートルダム
    ...でノストラダムスは、エクス=アン=プロヴァンス(未作成)から帰ってきた自分に、娘が貴方からの手紙を手渡してくれたと語っている。マドレーヌが当時14歳前後と考えられるのに対し、2人の妹はそれぞれ5歳と4歳位で手伝いをするには少々幼いため、ここで言及されている娘がマドレーヌではないかとも考えられるわけだ。  なお、イアン・ウィルソンはここからさらに推測を進め、当時マドレーヌがノストラダムスの事務的な手伝いをしていた可能性があるとしている(*2)。  ノストラダムスは死が目前に迫った1566年6月に作成した遺言書で、マドレーヌに対し、結婚時の持参金として600エキュを贈ることに決めた。さらに、2週間ほど後の遺言補足書では、指輪、宝石などの宝飾品類も贈ることにした(*3)。  セザールの証言によれば、マドレーヌは、クレール・ド・グリニャンの両親が婚約したのと同じ日に、バルバ...
  • セザール・ド・ノートルダム
    ...、セザールの著作は、エクス=アン=プロヴァンス(以下エクスと略記)の出版業者ジャン・トローザン(活動期間 1597-1628年)やトゥールーズの出版業者コロミエ家によって、次々と刊行されていった。  また、具体的な期間は不明であるが、叔父ジャン・ド・ノートルダムの研究を引き継ぐ形で郷土史研究も行っていたものと推測され、その成果は1614年に1000ページを超える大著『プロヴァンスの歴史と年代記』として結実した。この文献は8部構成で、古代から16世紀末までのプロヴァンス史を扱っており、フレデリック・ミストラル(未作成)も歴史に題材を採った作品のいくつかで、この文献を出典として挙げている。公刊には至らなかったものの、続編にあたる草稿の一部がカルパントラ市立図書館に現存している。  セザールの没年は1629年とされることが多かったが、現在では1630年1月23日付の遺言書が...
  • ノストラダムス大予言原典・諸世紀
    ...際には、オリジナルはエクス=アン=プロヴァンスにある)。  続いて「セザールへの手紙」の日本語訳が収録され、そのあとで、ロバーツによる端書きの訳と、日本語版監修者による解説(pp.17-43)が載せられている。  本編にあたる詩百篇集では、原文対訳に解説が添えられている。  この解説は、原書に載せられていた解説と注をもとに、手短にまとめなおしたものである。  一方、詩によっては、編集者韮沢潤一郎らの解釈や、おそらく編集者らによって関連性があると判断されたジーン・ディクソンやエドガー・ケイシーの予言のフレーズが併記されている。  第7巻と第8巻の間には、「アンリ2世への手紙」が収録されているが、ロバーツの英訳に比べても、一部で大幅な省略が行われている。  なお、テーマごとに予言を分類した別添えの索引が挟み込まれている。 コメント  原書がそもそも信...
  • ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (偽ブノワ・リゴー版)
    ...ルセイユ市立図書館、エクス=アン=プロヴァンス市立図書館、メジャヌ図書館、ペルージャのアウグスタ公立図書館  かつて、エクトール・リゴーやダニエル・ルソも所有していた。 名前 コメント
  • ミシェル・ノストラダムス師の真の百詩篇集と予言集 (アントワーヌ・ベソン)
    ...リヨン県立古文書館、エクス=アン=プロヴァンス市立図書館、メジャヌ図書館、ボルドー市立図書館、グルノーブル市立図書館、リヨン市立図書館、リヨン市立図書館ミシェル・ショマラ文庫、ポール・アルボー博物館 クレモナBG、ウェルカム医学史研究所、アンブロジャーナ図書館、ポルトガル国立図書館、ノースウェスタン大学、イリノイ大学、 シェイネ(ノストラダムス記念館)、RAMKAT 名前 コメント
  • 百詩篇第2巻88番
    ...ノストラダムスは普通エクス=アン=プロヴァンスの略としてエクスを使っていたが、これは百年戦争の主戦場ではない。ただし、エクスは北フランスも含めてフランス各地にある地名なので、北部や西部など、英仏の衝突があった地域のエクスが想定されているということかもしれない。  以上、若干苦しい部分があるのも事実だが、歴史的出典を想定する論者たちも有効なモデルを提示できていないので、参考情報として記載しておく。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史
     『プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史』(Histoire de la premiere guerre de religion en Provence)は、ノストラダムスが執筆していたらしい草稿である。内容については全く分からない。  この草稿の存在自体は、19世紀にフランソワ・ビュジェ(未作成)によって指摘されていた。ビュジェは、ジャン=エメ・ド・シャヴィニーがジャン・ドラ(未作成)にあてた献辞の中で、この草稿の題名に触れていることを指摘した(*1)。  ノストラダムスの私信の中にも、これと同じ文献ではないかと推測される言及がある。1562年5月13日付のロレンツ・トゥッベ向けの書簡での「お望みなら、私がまとめたプロヴァンスにおける宗教戦争初期の覚書をあなた向けに要約します。」(Si vous voulez, je vais vous résumer le mémoire ...
  • ノストラダムス関連年表
    ... 1546年 - エクス=アン=プロヴァンスでペストの治療に当たる。 1547年 – サロン・ド・クローに転居し、11月11日にアンヌ・ポンサルドと再婚。以降、終生この町で暮らす。 1549年頃 - 1550年向けの暦書類を刊行する。以降、1551年向けを除き、1567年向けまで毎年刊行される。この一連の刊行物の中で初めて「ノストラダムス」の名を用いたとされる。 1551年頃 - 長女マドレーヌ・ド・ノートルダム誕生。 1553年11月 - 翌年向けの暦書類について粗雑な版を組んだ業者ベルトー師とトラブルになる。 1553年12月18日 - 長男セザール・ド・ノートルダム誕生。 1554年 - 『受難の主日にあたる3月10日土曜日の7時から8時の間に、フランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』がニュルンベルクで出版される。 1555年 - 『化粧品...
  • 1656年の伝記
    ...)によって刊行され、エクス=アン=プロヴァンス(未作成)高等法院検事になっていた彼の兄弟ジャン・ノストラダムスに捧げられた。  彼は諸学問、とりわけ医学に専心するためのメノドトスの勧告に関するガレノスの釈義を、ラテン語からフランス語に翻訳した。その作品は、1557年にリヨンでアントワーヌ・デュ・ローヌによって刊行された。  それらの作品群は、医学教育 (sa Lecture de Medecine) の期間、つまり彼が年齢的に最も盛んな時期に作成されたものであり、のちに友人たちの執拗な要求を受けて公刊されたものである。 第2節注記  ノストラダムスがモンペリエで教鞭を執ったという、現代でもよく言われる俗説のルーツは、おそらくこの節に由来するものと思われる。しかし、そのような記録はなく、実証的にはきわめて疑わしい俗説と見なすほかない。  ここで挙げられて...
  • 化粧品とジャム論
    ...ダムスが1546年にエクス=アン=プロヴァンス(未作成)でペスト治療に当たったときのことが略述されており、医師としてのノストラダムスを垣間見ることができる。ただし、彼が述べているペスト治療に用いた薬の効能については、疑問視する意見や否定的な意見が多い(*2)。  その第8章の処方に限らず、彼の調剤は伝統的な医学理論に基づいたもので、四体液の調和を重視するものであった。その材料は高価な香料や香辛料、金・水銀・鉛白などの(一部には有害なものも含む)金属類、珊瑚・ラピスラズリ・真珠などの宝石類、様々な植物、はては実在しない一角獣の角など様々であった(*3)。  初版の第18章(媚薬の製法)は、1557年以降の版によっては削除されている。  なお、加治木義博はノストラダムスを安息香酸の発見者だといっていた(*4)。ノストラダムスは、第4章、第5章では「安息香の香油」(l&#...
  • シャルル・レノー=プランス
     シャルル・レノー=プランス(Charles Reynaud-Plense)は、サロン=ド=プロヴァンスのアンペリ城博物館の学芸員補佐(Conservateur-adjoint)だった人物。 ノストラダムス関連  1939年から1940年に『ミシェル・ノストラダムスの真の百詩篇集と予言集』を出版した。  セルジュ・ユタンはこの版の原文を踏襲する形で『ノストラダムス予言集』をまとめた。 名前 コメント
  • SEXT.
     SEXT. あるいは SEX. は、ノストラダムスの生まれたサン=レミ=ド=プロヴァンス近郊の遺跡グラヌム(未作成)に残る碑文から抜粋された言葉のようである。 実証的な読み方  グラヌムの遺跡に残る「ユリウス家の霊廟」(Mausolée des Jules)には、こういう碑文が残っている。  SEX. L. M. IULIEI C. F. PARENTIBUS SUEIS  現代では「ユリウスの息子たち、セクストゥス、ルキウス、マルクスから両親へ」と解釈される。しかし、セザール・ド・ノートルダムの証言によれば、ノストラダムスは「ユリアの夫セクストゥス・ラエリウスが両親のためにこの円柱を立てた」と解釈していたらしい(*1)。  SEX. あるいは SEXT. はこの碑文の冒頭部分に触発されたものだろう。これは、エドガール・ルロワが指摘し、エドガー・レオニ、ピ...
  • 詩百篇第9巻82番
    ...た。ノストラダムスがエクス=アン=プロヴァンスでペスト治療にあたったのも、この時である。  3行目のマンモルトは、1546年に英仏間で結ばれたアルドル条約で、ブローニュの譲渡について合意されたことと解釈した(*13)。  ピーター・ラメジャラーはその解釈を踏襲した(*14)。  プレヴォの3行目の読みを誤りと判断したジャン=ポール・クレベールは、特に歴史的モデルは提示していない。  シーバースも特に解釈をつけていない。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • アダン・ド・クラポンヌ
     アダン・ド・クラポンヌ(Adam de Crapponne, 1526年 - 1576年)は、16世紀フランスを代表する水利技師の一人。彼の手掛けた最大の事業であるクラポンヌ運河建設は、不毛のクロー平野を豊かな農地に変えた。  なお、彼の名は "Craponne" と綴られることが多いが、彼自身は "Crapponne" と綴った。日本のノストラダムス関連書では「クラッポン」「クロポンヌ」などと表記されることもあるが、いずれも不適切である。  また、日本語では「アダム・ド・クラポンヌ」と表記されることもあるが、フランス人名の表記としては不適切の可能性がある。  というのは、『ロワイヤル仏和中辞典』のように、Adamの発音記号に /adã/ と /adam/ を併記するものもあるが、普通は『ロベール仏和大辞典』なども含め、/adã/...
  • アンドレ・ド・ノートルダム
     アンドレ・ド・ノートルダム(André de Nostredame, 1557年11月3日 - 1601年12月2日)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた三男(第四子)。後半生を修道士として過ごした。  アンドレは1557年11月3日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、アンドレもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと...
  • 詩百篇第2巻53番
    ...翌年(1546年)にエクス=アン=プロヴァンスに広まったペストの治療に当たったが、そのときの凄惨な有様を、『化粧品とジャム論』(1555年)でこう綴っている。 「そこで発生したペストは非常に悪性で激しいものであって、多くの者が、神による罰であると述べていた」(*13)。  ノストラダムス自身、多くの犠牲者たちを看取る中で、その凄惨さの陰に何らかの因果関係を想定せずにはいられなかったのではなかろうか。  そう考えれば、プロヴァンスのペスト大流行とリュブロンの大虐殺を結び付けた可能性は十分にあるだろうし、新型コロナウイルスや未来の事件を引き合いに出すまでもないだろう。 外部リンク 新型コロナウイルス感染症について(厚生労働省)  日本政府の対応にも、世界保健機関の対応にも、批判が多いのは事実であり、そうした公的な情報を無条件に信じられる人は多くないかもし...
  • 百詩篇第4巻27番
    原文 Salon, Mansol1, Tarascon2 de SEX.3 l arc4, Ou5 est debout6 encor7 la piramide8, Viendront liurer le prince9 Dannemarc10 Rachat honni11 au temple12 d Artemide13. 異文 (1) Mansol Nansol 1557B, Tansol 1668P (2) Tarascon Tarrascond 1627 (3) SEX. 1555 1557U 1568 1644 1650Le 1650Ri 1668 1840 sex 1588-89 1590Ro, SEX, 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1660 1716, Sex 1557B 1589PV 1649Ca...
  • アンヌ・ド・ノートルダム
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1559年12月15日 - 1597年以前)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次女(第五子)。  1559年12月15日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。かつてエドガール・ルロワらの研究では1558年頃の生まれとされていたが、兄セザールの自筆らしき手稿によって正確な生年月日が特定された(*1)。  トゥーロン(未作成)の有力者ピエール・ド・スヴァ(Pierre de Seva)と結婚し、息子メルキオール・ド・スヴァ(未作成)(Melchior de Seva)を生んだ。なお、ピエール・ド・スヴァについて、イアン・ウィルソンはラングドック州ボーケールのピエール・ド・セーヴ(Pierre de Sève)として紹介している(*2)。具体的な根拠があって...
  • エクトール・ド・ノートルダム
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの弟の一人。サン=レミ=ド=プロヴァンスに生まれたが、洗礼記録などはなく、詳細は不明である。  弟のアントワーヌの息子エクトールの洗礼記録に、立ち会った代父として「商人のエクトール・ド・ノートルダム」の名が記されている(*1)。ほぼ間違いなく同一人物であろうから、エクトールの職業は商人だったと考えられる。  1546年4月26日の結婚契約書が残っている(*2)。相手の名はアントワネット・ド・モルゲート(Antoinette de Morguète)だが、アントワネットはアントネート(Anthonete)、トネート(Thonète)など、表記に揺れがある。  アントワネットはマルティーグ島のジャン・モルゲ(Jean Morguet(*3))とカトリーヌ・ド・ベランギエー...
  • ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ
     ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ(Pierre-Joseph de Haitze, 1648年頃 - 1736年7月26日)は、フランスの作家、歴史家。主としてプロヴァンスの歴史や、プロヴァンスに縁のある人物の伝記をまとめた。  エーツは、1648年頃にカヴァイヨンで生まれた。ベアルン地方の高貴な出自であったという。彼はプロヴァンスの歴史に特に興味を持ち、様々な調査も行った。その作品は文体の丁寧さや明瞭さが評価される一方、内容が皮相的であることや、調査における批判能力の不足なども指摘されている。 彼は、親戚にあたるジャン=フランソワ・ゴフリディ家に秘書として住み込んでおり、1736年にプロヴァンス地方のトレ(Trets, 現ブーシュ=デュ=ローヌ県内)で没した。 ノストラダムス関連  エーツによるノストラダムスの伝記 『ミシェル・ノストラダムスの生涯(未作成)』(1711年...
  • Les Vraies Centuries et Prophéties de Michel Nostradamus (Reynaud-Plense)
     『ミシェル・ノストラダムスの真の百詩篇集と予言集』(Les Vraies Centuries et Prophéties de Michel Nostradamus)は、シャルル・レノー=プランスの著書。1940年にサロン=ド=プロヴァンスのアンプリムリー・レジョナル(Imprimerie régionale)から出版された。表紙に「1939」とある版と「1940」とある版の二通りがある。 正式名 Les Vraies Centuries et Prophéties de Michel Nostradamus Médecin-Astrologue et conseiller ordinaire des Rois Henri II, François II et Charles IX (1503-1566).Le Grand Voyant de Salon. Colligées de...
  • 地名一覧
     地名記事の一覧。未作成の記事が多いがご寛恕いただきたい。* 印は歴史的地名。 あ アヴィニョン アウクスブルク(アウグスブルク) アウソニア* アグド アジャン アスティ アルビ アルマダ アルモリカ* アルル アングレーム アンスウィ アンチーブ(アンティーブ) アンティオキア* アンティポリス → アンチーブ アンフィポリス* イエール諸島 イギリス諸島 イスタンブル(イスタンブール) イラク → バビロン* イラン → ペルシア* イングランド インスブリア* → Insubre ヴァティカン → バチカン ヴァレンヌ ウィーン(未作成) ヴィエンヌ ヴィチェンツァ ヴィルフランシュ ヴェネツィア ウェールズ ヴェルチェッリ ヴェローナ エヴルー エノー エフェソス* エペイロス*(エピルス) エペソ* → エフェソス オセール(オーセール) オルレアン(未作成) か カオ...
  • アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪)
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1554年5月29日 - 没年不明)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルルの娘で、ノストラダムスの姪に当たる。  1554年5月29日にプロヴァンス州サン=レミ(現サン=レミ=ド=プロヴァンス)に生まれた。アントワーヌの10人の子供(五男五女)の中では、次女(第五子)に当たる。  1571年1月29日に結婚したが、結婚契約書の字が読みづらいらしく、夫の名前は疑問符つきでスプリ・ボワリエ(Sperit Boylier)もしくはスプリ・ベルリエ(Sperit Berlier)とされている(*1)。  なお、エドガール・ルロワは下に掲げるノストラダムスの娘や孫とも違う第4の「アンヌ・ド・ノートルダム」が16世紀末から17世紀初頭のサン=レミにいたとしているが、このノストラダムスの姪と同一人物...
  • ディアーヌ・ド・ノートルダム
     ディアーヌ・ド・ノートルダム(Diane de Nostredame, 1561年 - 1630年以降)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた三女(第六子、末子)。ノストラダムスの子供の中で最後に生まれ、おそらく最後に亡くなった。  プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれ、1561年9月8日に洗礼を受けた。1564年10月に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)がサロンの町に立ち寄った際には、他の兄姉とともに、一家で謁見を果たした。ただし、このときのディアーヌはようやく3歳になったばかりだったので、本人の記憶には残らなかったであろう。  その後の詳しい生涯は不明だが、気難しい性格で独身を貫いたことは分かっている。  長兄セザールが1630年に作成した遺言書では、セザールの残す物財全ての用益...
  • シャルル・ド・ノートルダム
     シャルル・ド・ノートルダム(Charles de Nostredame, 1556年 - 1629年12月頃)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次男(第三子)。軍人、詩人。  1556年にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有...
  • フロリモンド・ド・ノートルダム
     フロリモンド・ド・ノートルダム(Florimonde de Nostredame, 1558年 - 没年未詳)は、エクトール・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪の一人。  1558年9月4日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。洗礼に立ち会った代父は地元の執政官エチエンヌ・モラン(Etienne Maurin)、代母はフロリモンド・ラノス(Florimonde Ranosse)で、フロリモンドの名はこの代母にあやかったものである。  1577年にサン=レミの記録から消えたようだが、詳細は不明である(*1)。 名前 ...
  • ベアトリス・トゥレル
     ベアトリス・トゥレル(Béatrice Tourrel)は、ノストラダムスの母方の祖母。マルセイユ出身のジャック・トゥレルという人物の娘で、ルネ・ド・サン=レミと結婚したということ以外には、この人物の伝記的事実は何も知られていない(*1)。トゥレル家自体は、サン=レミ=ド=プロヴァンスでは19世紀まで知られた名だったという(*2)。 名前 コメント
  • ノストラダムス
    ...  1546年にエクス=アン=プロヴァンス(未作成)でペストが大流行した時には、ペスト治療の医師または薬剤師として市当局から雇われた。1546年6月付の契約書は現存しており、市の会計簿にも同様の記録が残っている。  しかし、そこで行われた治療は芳香性の丸薬などを処方するもので、伝統的なペスト治療の手法と大きく異なるものではない。通俗的には、ノストラダムスが未来の消毒法や治療法を先取りしていたかのように述べる文献も多いが、それらのほとんどは根拠がない(*16)。 再婚  その後、ノストラダムスはプロヴァンス州サロン・ド・クローに落ち着き、1547年11月11日に未亡人アンヌ・ポンサルドと再婚した。  ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もなく行われたイタリア旅行であり、処方箋など...
  • ジャン・ド・サン=レミ
     ジャン・ド・サン=レミ(Jean de Saint-Rémy, 1428年頃 - 1504年?)は、ノストラダムスの母方の曽祖父。サン=レミ=ド=プロヴァンスの医師であった。 生涯  ジャン・ド・サン=レミの正確な生年は不明である。1478年10月の公文書で50歳と記載されていることなどから、1428年頃の生まれとされる(*1)。  確認されている限りでは、ジャンはキリスト教徒であった。通俗的には、本人ないしその父親が改宗した元ユダヤ教徒だったとされるが、その辺りの事情を証明できる史料は残っていない(*2)。  時期は不明だがシレット(Sillette)という女性と結婚し、息子ルネをもうけた。ルネはベアトリス・トゥレルと結婚したが、1479年頃に亡くなり、ベアトリスの父ジャックとジャン・ド・サン=レミの間で、ベアトリスの結婚持参金返還をめぐる係争があった(*3)。 ...
  • エドガール・ルロワ
     エドガール・ルロワ(Edgar Leroy, 1883年4月17日-1965年4月2日)はフランスの精神科医、歴史家(郷土史家)。ノストラダムスの実証的な伝記研究に先鞭をつけた人物として、現在でもノストラダムスを歴史学的・文学的な視点で研究する論者たちから高く評価されている。 生涯  リール(未作成)に生まれ、生物学で学士号を、精神医学で博士号をそれぞれ取得した。第一次世界大戦の影響で家財を失ったあと、求めに応じてサン=レミ=ド=プロヴァンス(この記事では以下サン=レミと略記)に精神科医として赴任し、終生その町で過ごした。サン=レミでは本業の傍ら、地元にゆかりのある歴史上の有名人ゴッホとノストラダムスに関心を持ち、調査を行った。  とりわけノストラダムスについては、『プロヴァンス歴史学研究所論集』誌(Mémoires de l Institut Historique de...
  • ノストラダムスの肖像画 (サロン市庁舎所蔵)
    (*1) 基本データ 作品名 Portrait de Nostradamus 日本語訳 ノストラダムスの肖像画 作者 セザール・ド・ノートルダム 作成時期 17世紀 様式 不明 サイズ 不明 所蔵先 サロン=ド=プロヴァンス市庁舎「結婚の間」(Salle des Mariages) コメント  望遠鏡の発明は17世紀初頭のことで、ノストラダムスが使っていたことはありえない。エルヴェ・ドレヴィヨンとピエール・ラグランジュは、息子セザールが「学者としてのノストラダムス」を強調しようとした伝説化の一環と指摘した。 名前 コメント
  • ドフィーヌ・ド・ノートルダム
     ドフィーヌ・ド・ノートルダム(Dauphine de Nostredame)は、ノストラダムスの姉もしくは妹。しばしばノストラダムスの妹で第二子(長女)とされるが、生年がはっきりしないため、ミシェル(ノストラダムス)とドフィーヌのどちらが第一子だったのかは特定できない。1576年の遺言書で「大変な高齢」(Son extrême vieillesse)とあることから長子と推測するものもいる(*1)。  名前はデルフィーヌ(Delphine)と綴られることもある。  生涯をサン=レミ=ド=プロヴァンスで過ごし、独身を貫いた。弟のアントワーヌ・ド・ノートルダムとのかかわりでいくつかの史料に名を見出すことができる (*2)。  1576年の遺言書では、遺産の受取人としてアントワーヌとその息子クロード(未作成)を指名している(*3)。 ...
  • リュクレース・ド・ノートルダム
     リュクレース・ド・ノートルダム(Lucrèce de Nostredame, 1554年 - 1596年以降)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1554年7月15日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで、代父ピエール・ド・リスプらの立会いのもと洗礼を受けた。リスプの息子は後にリュクレースの姉カトリーヌと結婚した。  1577年2月17日にアルルのブルジョワであるジャン・ドモンド(Jean Demonde)と結婚したことがわかっているが、それ以外のことは不明である。1596年のベルトランの遺言書でも言及があるので、少なくともその時までは生きていたらしい(*1)。 名前 ...
  • Almanach, Pour l'an 1560
     『1560年向けの暦』(Almanach, Pour l an 1560)は、ノストラダムスの暦書のひとつ。1559年頃にパリのギヨーム・ル・ノワールが出版した。 【画像】『1560年向けの暦』の扉。本来は二色刷りである。(*1) 正式名 Almanach, Pour l an 1560, Composé par Maistre Michel Nostradamus, Docteur en Medicine, de Salon de Craux, en Provence. Tu teipsum oblectes, vulgi verba loquacis. Sperne, bene hic de te dicet, at ille malè.プロヴァンス州サロン・ド・クローの医学博士ミシェル・ノストラダムス師により構成された1560年向けの暦。 内容  24葉...
  • ノストラダムスの肖像画 (予言され裁定された歴史)
    (*1) 基本データ 作品名 Nostradamus écrit L Histoire prédite et jugée, comprenant toute l histoire de France et les grands faits de l histoire de l Eglise et des peuples étrangers. 日本語訳 ノストラダムスがフランス全史ならびに教会史上や外国人たちの大事件を含む予言され裁定された歴史を記す 作者 ロワール=ミシュレ(Loire-Michelet) 公刊時期 1878年頃 様式 版画 サイズ アトラス判(in-plano, 収録文献のサイズ) 収録文献 Henri Torné-Chavigny, Influence de Nostradamus dans le Gouvernement de la France depuis ...
  • ジャンヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     ジャンヌ・ド・ノートルダム(Jeanne de Nostredame, 1545年8月11日 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  サン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれた。洗礼に立ち会った代父は、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子ピエール・アルメランで、代母はラマノンの貴族ヨハンナ・グイレマンダ(Johanna Guiremanda(*1))だった。  サロン・ド・クローの名士でたびたび市の執政官にもなっていたトロン・ド・クドゥレ家の当主(Tronc de Coudoulet)と1565年に結婚した。エドガール・ルロワの研究書では、その名は本文ではピエール・トロン・ド・クドゥレとなっているのに対し、家系図ではジャン(Jehan)となっている。  なお、ノストラダムスがサロン滞在中...
  • ジャン=ポール・クレベール
     ジャン=ポール・クレベール(Jean-Paul Clébert, 1926年2月23日 - 2011年9月20日(*1))は、パリ出身のフランス人作家。  歴史に造詣が深い作家で、70作を超える作品を発表してきた。『チャリティバザーの火事』(L Incendie du Bazar de la Charité, Denoël, 1978)で、フランスの権威ある文学賞であるゴンクール賞歴史部門(le prix Goncourt du récit historique)を受賞。  さらに『ミストラルのプロヴァンス』(La Provence de Mistral, Edisud, 1980)で郷土文学賞(le prix de la littérature régionaliste)、『ルイーズ・コレあるいは詩才』(Louise Collet ou la muse, Presses de la...
  • アンヌ・ポンサルド
     アンヌ・ポンサルド(Anne Ponsarde, 1582年7月18日没)は、サロン=ド=プロヴァンスの住民、ノストラダムスの再婚相手。ノストラダムスとの間に三男三女をもうけた。  名前はアンヌ・ポンサール(Anne Ponsard)と表記されることもある。最後にジュメルをつけて「アンヌ・ポンサルド・ジュメル」とされることもあるが、ジュメル(Gemelle)は中期フランス語で双子の意味であり(*1)、双子であったらしい彼女のあだ名のようなもので、名前の一部ではない(*2)。  生涯  ノストラダムスとは1547年11月11日に結婚契約書を交わした。ノストラダムスと結婚する前のアンヌの経歴は、前の夫が弁護士ジャン・ボーム(Jean Beaulme)だった事くらいしか分かっていない(*3)。  生まれた年自体が不明だが、再婚時に仲介の労をとったトミーヌ・ルースとは幼馴染であ...
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