サン=ローラン教会

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「サン=ローラン教会」で検索した結果

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  • グルノーブル
    ...存最古の建造物であるサン=ローラン教会(11世紀以降)が残る。近世・近代には手袋製造業が栄え、18世紀には機械技師ヴォーカンソン、作家スタンダールを輩出した。  旧市庁舎がスタンダール記念館となっているほか、稀覯書の所蔵で知られる市立図書館にはスタンダールの草稿も残る。  1968年には冬季オリンピック開催都市となった(*1)。 ノストラダムス関連  南仏の主要都市のひとつなので、当然ノストラダムスは立ち寄ったことがあったろうが、直接的な記録はないようである。  前記のように、グルノーブル市立図書館は客観的にも著名ではあるが、ノストラダムス関連でもいくつかの稀覯書を所蔵している。  その中で価値が高いのは、第2部のみの不完全な版とはいえ最初の完全版(1568X)を所蔵していることであろう。  また、詳細不明の1804年版『予言集』も所蔵されているよ...
  • サロン=ド=プロヴァンス
    ...  町外れにはサン=ローラン教会があり、その聖母礼拝堂の壁にノストラダムスの遺骨は納められている。  立ったままで埋葬されていたという俗説もあるが、シャルル・レノー=プランスによれば、実際には骨壷におさめられているようである(*4)。  アンペリ城は、かつてサロンに立ち寄った国王シャルル9世と母后カトリーヌ・ド・メディシスが逗留した場所であり、ノストラダムスもそこで謁見を果たしている。  ノストラダムスの生誕500周年にあたる2003年には、アンペリ城で記念の展覧会「危機の時代のための予言」が開催された。  そのときの公式ガイドブックには、サロン市長が祝辞を寄せている(*5)。  市庁舎前にあるのはクラポンヌの像だが、庁舎内の「結婚の間」にはセザール・ド・ノートルダムによるノストラダムスの肖像画の一つが飾られている。 ※記事へのお問い合わせ...
  • ノストラダムスの墓
     現在のノストラダムスの墓はサロン=ド=プロヴァンスのサン=ローラン教会(サン=ローラン参事会聖堂)にある。  しかし、もともとノストラダムスが遺言していた場所はそれと異なっており、移転されたのは1813年のことであった。 ノストラダムスの遺言  ノストラダムスは口述した遺言書の中で、次のように埋葬場所を指定していた(当「大事典」の区分でいう3節)。 本遺言人ミシェル・ノストラダムス師はその魂が肉体から召し上げられた暁には、その亡骸が前記サロン市の聖フランチェスコの修道院の墓所に丁重に葬られることを望み、また命じる。そして、その〔修道院の〕大扉と聖マルタの祭壇の間の壁に寄り添う墓碑または記念碑が作られることを望む。  「聖フランチェスコの修道院」とはフランシスコ会修道院のことである。  実際に、当初はフランシスコ会修道院附属聖堂でこの遺言の通りに埋葬されていたといい、...
  • ノストラダムスの遺言書・遺言補足書
    ...ノストラダムスが当初サン=ローラン教会を指定したのを打ち消して、フランシスコ会修道院付属聖堂に変更したという話が知られており、墓暴きの結果、実際にサン=ローラン教会に移されたため、予言の的中例として指摘されることがある。  たしかに、遺言書にはその打ち消された文言があるが、それはマルセイユ原本ではなく、マルセイユ抄本のみに存在している(*8)。  大幅に省略された抄本であるマルセイユ抄本に、なぜ原本に存在しない文言が挿入され、打ち消されているのかという点は、実に不可解なことである。現在の原本が署名などまで忠実に複写された謄本なら、失われた原本にその文言があったと理解することもできようが、そうでないのなら、その打ち消された文言はノストラダムス本人に由来するものなのかどうか、慎重に検討されるべきだろう。  なお、その打ち消された文言が本当にノストラダムスの発言だったとしても、...
  • ノストラダムス
    ...  現在は同市内のサン=ローラン教会(サン=ローラン参事会聖堂)にノストラダムスの墓がある。 遺産  ノストラダムスは遺言書などの規定に従うならば、現金・債権・宝飾品などの形でかなりの財産を持っていたらしい。  しかし、それを受け継いだ者たちが (特に形見となる品々について) どのように扱ったのかはよく分からない。ノストラダムスの所持品だったとされるもので現在まで伝わっているのは、ごく一部の蔵書とわずかな手紙類のみである。  自宅の地下室や墓の壁を壊したら新予言が見付かっただのという、センセーショナルな「遺産」が取りざたされたことは17世紀以降何度もあるが、いずれも偽作と見るべきだろう。  特に日本で有名なクロケットの四行詩はひとつ残らず偽作と見て間違いない。 関連項目 ノストラダムス研究史 ノストラダムス現象 ノストラダムス関連年表 外部リンク ...
  • ノストラダムス関連年表
    ...後、遺体はサロン市のサン=ローラン教会(未作成)の聖処女礼拝堂に安置し直された。 1813年7月 - 新たな墓所に墓銘碑が飾られる。現存する墓銘碑はこの時のものである。 1859年 - サン=レミに現存する「ノストラダムスの泉(未作成)」が作られる。 1923年 - カミーユ・フラマリオンの『此世は如何にして終わるか』が刊行された。日本での最初のノストラダムスの紹介とされている。 1939年 - 第二次世界大戦。ナチスは自陣営に都合のよい解釈を載せたパンフレットを各国語に訳して配布した。また、フランス占領時に、いくつかの解釈書を発禁処分にしたという(*1)。このほか、特にアメリカでは、ノストラダムス関連書の刊行点数が増えた。 1966年12月 - パリのオークションに『1562年向けの暦書』の異本の手稿が現れる(暦書類で存在が知られている唯一の手稿)。現在の所有者は未詳であ...
  • サン=レミ=ド=プロヴァンス
     サン=レミ=ド=プロヴァンス(Saint-Rémy-de-Provence)は、南フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県の都市である。ノストラダムスの生誕地として、また画家ゴッホの療養地として国際的に知られている。 概要  アルピーユ山脈のふもとに位置し、町の歴史は古代ローマの入植地だった頃に遡る。当時の遺跡はサン=レミの近郊に残っている(グラヌムの遺跡)。  10世紀には近隣にロマネスク様式のサン=ポール=ド=モゾル修道院が建造され、1810年から私営の精神病院に転用されている。その病院は画家ゴッホが療養のため滞在していたことがあるため、国際的に有名である(ゴッホが滞在していた部屋は見学可能)。この病院の背後には採石場跡であるマス・ド・ラ・ピラミッドがある。  現在の町の中心部には、町の歴史や文化にゆかりのある博物館がいくつもある。  サドの館(Hôtel de Sad...
  • ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム
     ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム(Michel-Bertrand de Nostredame, 1578年 - 1637年以前)は、ノストラダムスの甥であるクロードの息子。一族で最も有名な大伯父「ミシェル」(ノストラダムス)と、プロヴァンス総督の従者を務めた祖父「ベルトラン」の名を与えられた男児だが、ベルトランが築き上げた名家としての地位と財産を潰してしまった不肖の孫である。 生涯  1578年11月1日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。姉トミーヌの時と同じく、代父は伯父(または叔父)でもあるピエール・ダルメランがつとめた。代母はクローズ領主(sieur de Crozes)の夫人シルヴィ・ド・ブランケ(Sylvie de Brancquais)である。なお、シルヴィの夫ポール・ミストラル・ド・モンドラゴンの一族の邸宅は、現在、サン=レミのアルピーユ博物館になっ...
  • ローラン・ヴィデル
     ローラン・ヴィデル(Laurens Videl, 生没年未詳)は、16世紀フランスの医師・占星術師。当時有名になっていた同業者のノストラダムスを批判した人物として知られている。 生涯  ローラン・ヴィデルは、1558年に『プロヴァンス州サロン・ド・クローのミシェル・ノストラダムスの誤謬・無知・煽動の告発』を出版している。また、1559年と1560年に占星術師クロード・ファブリと共同で暦書を出版したことも、ローヌ県立古文書館(未作成)に現存する特認記録から明らかになっている (*1)。しかし、これ以外の伝記的事実は全く不明である。  同時代の書誌学者ラ・クロワ・デュ・メーヌの書誌でも、ヴィデルはノストラダムスを批判する書を出した人物としか触れられていない。  19世紀のミショーの人名辞典では、ルイ・ヴィデル(Louis Videl)の項目に「ノストラダムスに反対する...
  • アルル
     アルル(Arles)はプロヴァンス(未作成)地方の都市。  現在はブーシュ=デュ=ローヌ県アルル郡の郡庁所在地であり、面積だけで見ればフランス最大の市(コミューン)である。古代ローマ時代の名称はアレラテ(Arelate)。  古代ローマ時代の円形劇場や円形闘技場、共同浴場などの遺跡が残っており、ロマネスク様式の旧司教座聖堂(サン=トロフィーム教会)とともに世界遺産に登録されている。 【画像】DVD『ゴッホ -アルルのひまわり-』 ノストラダムス関連  ノストラダムスは、1564年にこの都市に滞在していた国王シャルル9世(未作成)に呼ばれ、「王附常任侍医兼顧問」の称号を下賜された。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • ジャン・ド・サン=レミ
     ジャン・ド・サン=レミ(Jean de Saint-Rémy, 1428年頃 - 1504年?)は、ノストラダムスの母方の曽祖父。サン=レミ=ド=プロヴァンスの医師であった。 生涯  ジャン・ド・サン=レミの正確な生年は不明である。1478年10月の公文書で50歳と記載されていることなどから、1428年頃の生まれとされる(*1)。  確認されている限りでは、ジャンはキリスト教徒であった。通俗的には、本人ないしその父親が改宗した元ユダヤ教徒だったとされるが、その辺りの事情を証明できる史料は残っていない(*2)。  時期は不明だがシレット(Sillette)という女性と結婚し、息子ルネをもうけた。ルネはベアトリス・トゥレルと結婚したが、1479年頃に亡くなり、ベアトリスの父ジャックとジャン・ド・サン=レミの間で、ベアトリスの結婚持参金返還をめぐる係争があった(*3)。 ...
  • ジル・ド・サン=ジル
     ジル・ド・サン=ジル(Gilles de saint-Gilles)は16世紀パリの出版業者。1577年から1589年まで活動した(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムス本人の著書は出さなかったようである。  アントワーヌ・クレスパンの『彗星の予兆と影響を提示するための、国王ならびに世紀の哲学論争の当事者たちに宛てた書簡』(1577年)、『五年間の天文的占筮』(1586年頃)を出版した。また、現存しないが、クレスパンの『1581年向けの驚異の大占筮』(1580年頃)も出したらしい。  ほかに、ピエール・メニエが出版したクレスパンの『驚異の予言』の特認はサン=ジルに向けて出されており、末尾にサン=ジルがメニエの出版を許諾した旨の追記がなされている。 名...
  • ルネ・ド・サン=レミ
     ルネ・ド・サン=レミ(René de Saint-Rémy)はノストラダムスの母方の祖父。ノストラダムスの母であるルネ(Renée)とは綴りが異なる。  ベアトリス・トゥレルと結婚し、娘ルネをもうけたことは確かだが、それ以外の伝記的な事柄は全くわからない。  ピーター・ラメジャラーは1479年頃歿と推測している(*1)。その根拠を明示していないが、おそらく1479年にルネの「管財人」でもあった父ジャン・ド・サン=レミと、ベアトリスの父ジャック・トゥレルとの間で、ベアトリスの持参金返却を巡る諍いがあったことを踏まえたものだろう(*2)。いずれにしても、娘ルネとジョーム・ド・ノートルダムが1495年に結婚した時点では、故人として扱われている(*3)。 名前 ...
  • レニエール・ド・サン=レミ
     レニエール・ド・サン=レミ(Reynière de Saint-Rémy)はノストラダムスの母。ルネ・ド・サン=レミ(Renée de Saint-Rémy)とも表記される。  父ルネ・ド・サン=レミ(René de Saint-Rémy)と母ベアトリス・トゥレルの間に生まれたが、詳しいことはわかっていない。エドガール・ルロワは、おそらくキリスト教徒だったと推測している(*1)。  生没年も不明だが、ウジェーヌ・レーは1536年以降に歿したと推測している(*2)。 名前 コメント
  • 迷い犬を発見した話
     「迷い犬を発見した話」は、ノストラダムスの予言者としてのエピソードの一つ。 伝説  宮廷での滞在中には、ノストラダムス的な輝かしい伝説がボーヴォー家(Beauveau)の若き小姓(page)の小話に結びついている。その小姓は、世話を任されていた立派な犬が行方不明になってしまって、ある晩に困り果てて「サン=ジェルマン=ロセロワ近くの」ノストラダムスが逗留していた邸宅にやってきた。  夜もかなり更けていたので、小姓は王の代理で参りましたと大声で叫んだ。そして訪問の目的を告げようとすると、それより先に扉越しにノストラダムスが叫んだ。「何事ですかな、王の小姓どの。迷い犬のためにそんなにも叫んだりして。オルレアンへの道へお行きなさい。そこで紐につながれたまま見付かりますよ」(Qu est-ce que c est, page du roi ? Que voilà bien des cri...
  • 詩百篇第8巻12番
    詩百篇第8巻 12番* 原文 Apparoistra aupres1 de Buffalorre2 L hault3 procere entré4 dedans Milan L abbé5 de Foix auec6 ceux de saint7 Morre8 Feront la forbe9 abillez10 en vilan11. 異文 (1) aupres au pres 1568X 1590Ro (2) Buffalorre Buffalarre 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1720To 1840, Buffalatre 1627Di, Baffalorre 1650Mo (3) L hault Le haut 1590Ro, L hout 1665Ba 1720To (4) entré e...
  • フローラ
     フローラ(Flora)はローマ神話における花と春の女神。  ルネサンス期の芸術では、フィレンツェ(フロランス, Florence)の象徴としてしばしば描かれたモチーフで、ノストラダムスもフィレンツェの隠喩として用いているようである(*1)。  フロール(Flore)はそのフランス語化。 登場箇所 詩百篇第2巻84番(未作成) 詩百篇第7巻8番 詩百篇第8巻18番(未作成) 予兆詩第7番(旧8番) 予兆詩第35番(旧31番)(Flor. として) 予兆詩第36番(旧31番)(Floreとして) ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪)
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1554年5月29日 - 没年不明)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルルの娘で、ノストラダムスの姪に当たる。  1554年5月29日にプロヴァンス州サン=レミ(現サン=レミ=ド=プロヴァンス)に生まれた。アントワーヌの10人の子供(五男五女)の中では、次女(第五子)に当たる。  1571年1月29日に結婚したが、結婚契約書の字が読みづらいらしく、夫の名前は疑問符つきでスプリ・ボワリエ(Sperit Boylier)もしくはスプリ・ベルリエ(Sperit Berlier)とされている(*1)。  なお、エドガール・ルロワは下に掲げるノストラダムスの娘や孫とも違う第4の「アンヌ・ド・ノートルダム」が16世紀末から17世紀初頭のサン=レミにいたとしているが、このノストラダムスの姪と同一人物...
  • ジャン・ジフル・ド・レシャク
     ジャン・ジフル・ド・レシャク(Jean Giffre de Réchac, 1604年8月25日-1660年4月9日)は、ドミニコ会の聖職者。宗教上の名前はジャン・ド・サント=マリー。  1604年にアキテーヌ地方のレシャクの領主ジャン=ロジェ・ジフルの子として、キルブーフ(Quilleboeuf)に生まれた。14歳のとき、パリの修道院でドミニコ会士となり、以降学問を積んで伝道師、副修道院長などとして様々な場所に赴任した。  1637年にルーアンの小修道院長として赴任したあたりから、その予言や心霊方面での活動などで知られるようになった。その後、彼はパリに呼び戻されボルドーなどに赴任した後に、1641年からはパリの小修道院の副院長になっていた。  1645年以降、修道会の指導者(le maître de l’Ordre)のトマ・チュルコ(Thomas Turco)と...
  • Polon
     Polon は百詩篇第5巻73番に登場する語。現代フランス語辞典にも古語辞典にも見当たらない語だが、ポーランド人あるいはその古称のポロニア人などを指す語と見なすのが有力説といえる。  テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は Polons の英訳に際して Polonians と表記していた。現代英語での Polonian はポーランド系米国人の共同体 (Polonia) の派生形となっているが(ポーランド人を表す現代英語は Pole)、もともとポーランドの古称は Polonia であり、ガランシエールがそれを念頭に置いて表記したことは疑いない (解釈でポーランド情勢に触れているため)。  アナトール・ル・ペルチエは Polonais (ポーランド人) の語尾音消失と見なす一方、イタリアのリグーリア地方のパリョーネ川 (Paglione) の古称 Paulon ではないかと...
  • ベルトラン・ド・ノートルダム
     ベルトラン・ド・ノートルダム(Bertrand de Nostredame, 1518年 - 1602年以降)は、ノストラダムスの弟の一人。ジョーム・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミの間に生まれた。プロヴァンス州サン=レミの商人、軍人。  「ベルトラン・ド・ノストラダムス」とも名乗った。ノストラダムスの弟でノストラダムスを名乗ったのは、ジャンとベルトランだけである。 生涯  プロヴァンス州サン=レミで、1518年の6月4日から7月10日の間に洗礼を受けた(*1)。日付が曖昧なのは、現存している史料が不完全な形でしか残っていないためだという。名付け親が、代父ベルトラン・ユゴラン(Bertrand Hugolin)、代母ジョルダーヌ・ド・ラ・メール(Jordane de la Mer)ということは分かっている。  1540年頃にラマノンの領主の娘であるトミーヌ・...
  • Denys
     Denys は、酒の神ディオニュソス(Dionysos)のこととされる。マリニー・ローズやベルナール・シュヴィニャールはこの読み方をとっている。もちろん、ここで言う「酒」とはワインのことなので、ワインやブドウの比喩として用いられている可能性もある(*1)。  他方でドニ(Denis)を含む地名はフランスのいくつかある。アナトール・ル・ペルチエはパリ近郊のサン=ドニの教会と大修道院と解釈していたし(*2)、アンリ・トルネ=シャヴィニーは、自身が主任司祭を務めていたサン=ドニ=デュ=パンと解釈していた。百詩篇第9巻24番の場合、ルテティアと一緒に登場しているので、おそらくパリ近郊のサン=ドニのことだろう。  なお、ノストラダムスは散文体の「予兆」では何度か「暴君デニス」(Denys le tyran)に触れている。シュヴィニャールによれば、紀元前405年から前344年にシラク...
  • ジャン・ド・ヴォゼル
     ジャン・ド・ヴォゼル(Jean de Vauzelles, 1495年? - 1557年?)は、フランスの詩人、翻訳家。著書では本名を書かずに、銘句「真の熱情で」(D un vray zèle)を筆名代わりとすることがまま見られた。 生涯  リヨンで生まれ、イタリアで法学博士号と司祭の資格を手に入れた。フランスに戻ってからは、サン=ロマンの主任司祭に任命され、後にフランス王フランソワ1世の礼拝堂司祭にも任命されている。  詩人クレマン・マロやモーリス・セーヴの知人であり、自身でも作詩を多く行った。ちなみに、兄マチュー・ド・ヴォゼルの妻はセーヴの妹クローディーヌである。  彼の詩の中で最も知られるのは、『死神の幻影と飾られた顔』である。これは、ハンス・ホルバインによる51枚の木版画に合わせて四行詩を並べたもので、エンブレム・ブックの一つである。  ヴォゼルはマルグリット・ド・...
  • Solonne
     Solonne は詩百篇第9巻の21番(未作成)、23番のみに登場する単語。  第9巻21番ではブロワとともに登場しており、23番では au temple saint Solonne という形で登場している。  マリニー・ローズは Solemne と同一視し、エドガー・レオニやリチャード・シーバースは Solenne と同一視している。  ブロワのサン=ルイ大聖堂は、16世紀にはサン=ソレンヌ教会(参事会聖堂)と呼ばれており、それのことと理解される(*1)。  ジャン=ポール・クレベールは au temple saint Solonne を「ソローニュ (Sologne) の聖なる殿堂で」と読んでいる。  ソローニュ地方はパリ盆地南部の地名で、ブロワはその中心都市の一つである。  ゆえに、クレベールもこれをブロワのサン=ルイ大聖堂と理解しており、意味するところは同...
  • ペルチュイ
     ペルチュイ(Pertuis)は、プロヴァンスの都市。  かつてのエーグ地方(Pays d Aigues)の首都。時計台(13世紀)、サン=ジャック塔(14世紀)、16世紀に再建されたサン=ニコラ教会などが残る。  フランス革命期以降には、ミラボーの父親の出身地として知られるようになった。 ノストラダムス関連  ノストラダムス本人との接点は確認されていない。詩百篇第12巻52番に言及がある。 参考文献 『ミシュラングリーンガイド・プロヴァンス』実業之日本社、1998年 『地球・街角ガイド プロヴァンス』同朋舎出版、1996年 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • レランス諸島
     レランス諸島 (Îles des Lérins) はカンヌの南の海に浮かぶ島々で、主としてサン=トノラ島とサント=マルグリット島からなる。日本の観光関連書などでは「レラン諸島」としているものも多い(*1)。  サント=マルグリット島には紀元前3世紀の遺跡なども残っているが、その名前が知られるようになったのは、4世紀にサン=トノラ島にやってきて修道院を開いた聖ホノラトゥス(サン=トノラ)によってである。彼が開いたレランス大修道院は今も残るが、建物は後の時代に再建されたものである。  サント=マルグリット島の名前は聖ホノラトゥスの妹にちなんでおり、彼女がこの島に女子修道院を建てたという。この島の砦には1687年から1698年まで、いわゆる「鉄仮面の男」が収容されていたことで知られている。その要塞は1712年に築城の名手ヴォーバンによって補強され、星型要塞として残っている(*2...
  • ノストラダムスの肖像画 (予言され裁定された歴史)
    (*1) 基本データ 作品名 Nostradamus écrit L Histoire prédite et jugée, comprenant toute l histoire de France et les grands faits de l histoire de l Eglise et des peuples étrangers. 日本語訳 ノストラダムスがフランス全史ならびに教会史上や外国人たちの大事件を含む予言され裁定された歴史を記す 作者 ロワール=ミシュレ(Loire-Michelet) 公刊時期 1878年頃 様式 版画 サイズ アトラス判(in-plano, 収録文献のサイズ) 収録文献 Henri Torné-Chavigny, Influence de Nostradamus dans le Gouvernement de la France depuis ...
  • ノストラダムス研究史 (伝記研究)
     ノストラダムスの伝記研究の歴史について概観する。  「ノストラダムスとは何者か」 を考えるとき、彼の生涯を実証的に裏付けてゆく作業は欠かせない。しかし、それが本格化したのは20世紀半ばになってからのことであった。 伝説の形成  ノストラダムスについての最初の評伝はジャン=エメ・ド・シャヴィニーの 「ミシェル・ド・ノートルダム師の生涯に関する小論」 だろう。これは彼の著書 『フランスのヤヌスの第一の顔』(1594年) に収録され、17世紀以降の『予言集』 の多くの版に再録されたことで、そこに描かれたユダヤ系の名家に生まれ、医師としても予言者としても絶大な成功を収めたノストラダムスの生涯や人物像が、大いに広められた。  断片的な情報ではあったが、ノストラダムスの実子セザール・ド・ノートルダムの『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年) も、ノストラダムスについての情報を提供した...
  • ノストラダムス2世
     ノストラダムス2世(Michel de Nostradamus le jeune, 1574年歿?)は、ノストラダムスに便乗した同時代の占星術師の一人である。本名や生年は不明で、ノストラダムス本人との血縁関係は一切裏付けられていない。また、「ノストラダムスの弟子」と自称していたが、この点も裏付けが取れない。  なお、Nostradamus le jeune は「若者(の方の)ノストラダムス」の意味である。普通「2世」は姓でなくファースト・ネームにつくものなので、むしろ「小ピット」「小デュマ」などにならって「小ノストラダムス」とでもした方が良いのかもしれないが、先行する文献に倣って「ノストラダムス2世」としておく。 【画像】ノストラダムス2世の肖像画(『20年間の予言』扉の木版画)(*1) 活動  記録上この名前を初めて確認することができるのは1568年のことである...
  • アンリ・トルネ=シャヴィニー
     アンリ・トルネ=シャヴィニー(Henri Torné-Chavigny, 1826年6月20日 - 1880年7月5日)は、フランスの司祭。ノストラダムス予言の信奉者であり、エドガー・レオニが言うところの「19世紀の三大解釈者」の一人である(後2人はウジェーヌ・バレストとアナトール・ル・ペルチエ)。  ロベール・ブナズラは「ノストラダムスの注釈者の中で一番の有名人」(*1)と紹介している。  本名はアンリ=アントワーヌ・トルネ(Henri-Antoine Torné)だが、ノストラダムスの秘書ジャン=エメ・ド・シャヴィニーに肖って、姓に「シャヴィニー」を加えた。  司祭であったことから、トルネ師(アベ・トルネ, l abbé Torné)とも呼ばれる。  日本語文献に、ノストラダムスの秘書(弟子)の名前を「トルネー」としているものがあるのは、明らかにシャヴィニー本人と、この...
  • Boni.
     Boni. は詩百篇第8巻52番の途切れた4行目に登場する何らかの固有名詞(おそらく地名)と思われる語。  ポワン(ピリオド)の存在は略しているためなのか、文末としての句読点なのか、はっきりしない。  ジャック・ガリガン版『予言集』(アヴィニョン、1791年)では、Bonieu となっている。  アナトール・ル・ペルチエが指摘するように、これはプロヴァンスの都市ボニウ (Bonnieux) と理解できる(*1)。  しかし、この異文の正統性は疑わしい。  また、文脈との整合性から、以下のような可能性も指摘されている。 エドガー・レオニは、ポワチエの少し南にあるボンヌ=ヴォー修道院(Bonnes-Vaux)の方が適切としていた(*2)。 ジャン=ポール・クレベールはボニファシオ(Bonifacio, コルシカ島の町)やボニウを挙げつつも、文脈からボニ=シュル=...
  • Le Passé, le présent et l'avenir (Francis Girault)
     『過去、現在、未来あるいはミシェル・ノストラダムスのいくつかの注目すべき預言の予言、検証、説明』(Le Passé, le présent et l avenir, ou Prédictions, vérifications et explications de quelques prophéties remarquables de Michel Nostradamus)は、フランシス・ジローによる解釈書。1839年にパリで出版された。 正式名 Le Passé, le présent et l avenir, ou Prédictions, vérifications et explications de quelques prophéties remarquables de Michel Nostradamus, par Francis GiraultParis. Chez H...
  • クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     クロード・ド・ノートルダム(Claude de Nostredame)は、ベルトラン・ド・ノートルダムとトミーヌ・ルースの息子で、ノストラダムスの甥にあたる。  1568年に父ベルトランがしたためた最初の遺言書で「30に満たない年齢」とされていることから、1538年から1543年の間にサン=レミで生まれたと考えられている(*1)。もっとも、ベルトランの結婚が1540年頃とされているので、もう少し狭められるのかもしれない。  妻の名はビエル・ダルメラン(Bielle d Alméran)ないしビエローヌ・ダルメラン(Biellone d Alméran)で、彼女はジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの娘と考えられている(*2)。ジョームは、アントワーヌ・アルメランの息子ジャック・ダルメラン、ピエール・ダルメランらと仲が良かったらしい(*3...
  • Cassich
     Cassich は意味の確定していない語。いくつもの可能性が指摘されている。 アナトール・ル・ペルチエはギリシア語 Kaisar から「カエサル」とした(*1)。 エドガー・レオニはギリシア語の Cassiterides (錫諸島)ではないかとした。これはコーンウォールのシリー諸島(Scilly)のことだという(*2)。 マリニー・ローズはブーシュ=デュ=ローヌ県の町カシ(Cassis, カシスとも)と推測した(*3)。 ジャン=ポール・クレベールは中期フランス語の cassis (排水溝)か、Classich の誤植でclasseのことではないかとした(*4)。 ピーター・ラメジャラーはシチリア島の地名カルタジローネ(Caltagirone)のこととした(*5)。  ラメジャラーの読み方は強引なようだが、ロジェ・プレヴォを踏襲した彼の解釈にひきつけて理解する分には一定...
  • アダン・ド・クラポンヌ
     アダン・ド・クラポンヌ(Adam de Crapponne, 1526年 - 1576年)は、16世紀フランスを代表する水利技師の一人。彼の手掛けた最大の事業であるクラポンヌ運河建設は、不毛のクロー平野を豊かな農地に変えた。  なお、彼の名は "Craponne" と綴られることが多いが、彼自身は "Crapponne" と綴った。日本のノストラダムス関連書では「クラッポン」「クロポンヌ」などと表記されることもあるが、いずれも不適切である。  また、日本語では「アダム・ド・クラポンヌ」と表記されることもあるが、フランス人名の表記としては不適切の可能性がある。  というのは、『ロワイヤル仏和中辞典』のように、Adamの発音記号に /adã/ と /adam/ を併記するものもあるが、普通は『ロベール仏和大辞典』なども含め、/adã/...
  • Saturnin
     Saturnin は現代フランス語では「鉛毒の」などの意味。  古フランス語では「悲しい、陰気な」、中期フランス語では「憂鬱質の」(mélancolique)の意味があった(*1)。  しかし、ノストラダムス用語としては、それらよりも次の2種類の意味で使われることが多かったと推測されている。 サトゥルヌス主義者 トゥールーズの聖サトゥルニヌス大聖堂(サン=サチュルナン大聖堂、サン=セルナン大聖堂)  これらはエドガー・レオニ、ピエール・ブランダムール、マリニー・ローズ、ピーター・ラメジャラー、ジャン=ポール・クレベールらから支持されている(*2)。 登場箇所 詩百篇第5巻24番(未作成) 詩百篇第6巻17番 詩百篇第8巻29番 詩百篇第8巻40番 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • 予兆詩第128番
    予兆詩第128番(旧118番) 1566年について 原文 Aux plus grands1 mort, jacture d honneur, violence, Professeurs2 de la foy, leur estat leur secte,3 Aux deux grandes Eglises4, divers bruit, decadance5, Maux, voisins querellans, serfs d Eglise6 sans teste. (*1) 異文 (1) Aux plus grands Aux plus Grands 1594JF(p.198), Aux grands 1668P (2) Professeurs Es culteurs 1589Rec (3) leur secte leur secte vi...
  • カオール
     カオール(Cahors)はフランス、ロット県の県庁所在地。ロット川の蛇行部に発達した都市で、古称はカドゥルクム(Cadurcum)。13世紀以降、商業と金融で大きく繁栄し、国際的にもその名を知られた。  14世紀の石橋であるヴァラントレ橋、アキテーヌ地方最古のドーム式教会とされるサン=テチエンヌ大聖堂などの文化財が残る。19世紀には著名な政治家レオン・ガンベッタを輩出した(*1)。 ノストラダムス関連  1590年に1590年カオール版の『予言集』が刊行されている。出版史に造詣の深い宮下志朗(未作成)はこれについて、「出版後進都市カオールでノストラダムスが印刷されたことは、フランス南部におけるブームを象徴するのか」(*2)とコメントした。  百詩篇集では百詩篇第4巻44番と百詩篇第7巻12番(未作成)に登場する。 ...
  • 詩百篇第9巻31番
    詩百篇第9巻 31番* 原文 Le tremblement de terre1 à Mortara2, Cassich3 saint George à demy perfondrez4, Paix assoupie5, la guerre esueillera, Dans temple6 à Pasques abysmes7 enfondrez. 異文 (1) terre Terre 1672Ga (2) Mortara Morrura 1606PR 1607PR 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Ri, Morrure 1610Po, Mortura 1716PR (3) Cassich Cassich. 1568X 1590Ro 1653AB 1665Ba 1697Vi 1720To, Caffich 1607PR 1610Po 1...
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame, 1552年 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1552年7月7日の洗礼には、代父の医師サン=レミと、代母のカテリナ・ロンバルダ(Katherina Lombarda(*1))が立ち会った。エドガール・ルロワが指摘するように、代父はさすがにジャン・ド・サン=レミとは別人だろう。  タラスコンの平貴族(écuyer)であったピエール・ド・リスプ(Pierre de Rispe)の同名の息子ピエールと、1569年に結婚した。ただし、その際の結婚持参金を巡る契約と支払いに関して、ベルトランとリスプ家の間で数ヶ月にわたって諍いがあったという。  カトリーヌに関するその他の事項は、(没年も含めて)不明である(*2)。 ...
  • クロード・ファブリ
     クロード・ファブリ(Claude Fabri, 生没年未詳)は、16世紀フランスの医師・占星術師。プレル=アン=アルゴンヌの生まれで、主としてディジョン(未作成)で活動した。  医師としての著作には、『ペスト治療の逆説』(Paradoxes de la cure de la peste, 1568年)、『ペストに対する解毒と確実な経験』(Les contrepoisons et expériences certaines contre la peste, 1580年)がある。なお、このうち前者はブノワ・ティクシエが1551年に刊行したペスト論の盗作と指摘されている。  占星術師として占筮や暦書をパリ、ルーアン、リヨンなどで何度も刊行していたとされるが、現在確認されているのは、『1552年向けの新たなる真の占筮』(アジャン、1552年)、『1572年向けの暦』(パリ、157...
  • アントワーヌ・ド・ノートルダム
     アントワーヌ・ド・ノートルダム(Antoine de Nostredame, 1523年 - 1597年以降)は、ノストラダムスの弟の一人。ジョーム・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミの間に生まれた。プロヴァンス州サン=レミの役人、法曹家。  1523年4月27日に洗礼を受けた記録がある。1547年から1597年までについては、公証人バディナンクによる記録に多く見出せる。このため、そのときまで生きていたことは確かだが、正確な没年は不明である(*1)。ラメジャラーは1597年没としていたが(*2)、明らかに誤認だろう。  職業は記録によって様々で、1550年から1551年にはサン=レミの徴税吏 (exacteur de la taille)、1557年にはサン=レミ市の代訴人 (procureur)、1558年にはサン=レミ市の執政官 (consul) および法廷...
  • 百詩篇第4巻8番
    百詩篇第4巻 8番 原文 La grand cité1 d assaut2 prompt3 repentin4 Surprins de nuict, gardes5 interrompus Les excubies6 veilles7 saint8 Quintin9 Trucidés10, gardes les pourtails11 rompus. 異文 (1) cité Cité 1672 (2) d’assaut dassaut 1672 (3) prompt pront 1649Ca, promt 1650Le 1668 (4) repentin 1555 1627 1630Ma 1644 1650Ri 1653 1665 1672 1840 1981EB repentin T.A.Eds. (5) gardes g...
  • エドガール・ルロワ
     エドガール・ルロワ(Edgar Leroy, 1883年4月17日-1965年4月2日)はフランスの精神科医、歴史家(郷土史家)。ノストラダムスの実証的な伝記研究に先鞭をつけた人物として、現在でもノストラダムスを歴史学的・文学的な視点で研究する論者たちから高く評価されている。 生涯  リール(未作成)に生まれ、生物学で学士号を、精神医学で博士号をそれぞれ取得した。第一次世界大戦の影響で家財を失ったあと、求めに応じてサン=レミ=ド=プロヴァンス(この記事では以下サン=レミと略記)に精神科医として赴任し、終生その町で過ごした。サン=レミでは本業の傍ら、地元にゆかりのある歴史上の有名人ゴッホとノストラダムスに関心を持ち、調査を行った。  とりわけノストラダムスについては、『プロヴァンス歴史学研究所論集』誌(Mémoires de l Institut Historique de...
  • Saint Nicolas
     Saint Nicolas は詩百篇第9巻30番に登場する。  直接的な意味は「聖ニコラオス」で、サンタクロースのモデルになったとされるミラの聖ニコラオスや、ローマ教皇の聖ニコラウス1世など、この名を持つ聖人は何人かいる。  ただし、登場箇所の文脈では港と結びついて登場しているので、地名か(その地の代表的な)建造物名と見るのが自然だろう。 エドガー・レオニはプーラのあるイストラ半島の北部、カポディストリア(コペルの別名)から湾を横切ったところに位置するサン・ニコロ (San Nicolo) としていたが、当「大事典」では該当する地名を見つけられていない。リチャード・シーバースの説明はほぼ同じだが、カポディストリアではなく、ポレッチの湾を横切るとある。実際、ポレッチの沿岸にはスヴェティ・ニコラ(聖ニコラオス)島がある。 ジャン=ポール・クレベールはヴェネツィア近郊のサン=ニ...
  • 予兆詩第77番
    予兆詩第77番(旧67番) 1562年1月について 原文 Desir occult pour le bon parviendra. Religion, paix, amour concorde. L epithalame du tout ne s accordra. Les haut qui bas haut mis à la ronde. (*1) 異文 (1) occult occulte 1649Ca 1650Le 1668 (2) bon Bon 1594JF (3) L epithalame Lepithalame 1562LN, L epitalame 1649Xa 1650Le 1668 (4) à la ronde 1562LN à la corde T.A.Eds. (注記)1562LN は初出である『1562年向...
  • ノストラダムス一族
    父方の先祖・親類 アストリュージュ・ド・カルカソンヌ(ノストラダムスの五世祖) ヴィタル・ド・カルカソンヌ(ノストラダムスの高祖父) アルノートン・ド・ヴェロルグ(ノストラダムスの曾祖父) ヴァンゲソンヌ(ノストラダムスの曾祖母) ピエール・ド・ノートルダム(ノストラダムスの祖父) トリスタン・ド・ヴェロルグ(ノストラダムスの大叔父) ブランシュ・ド・サント=マリー(ノストラダムスの祖母) ジョーム・ド・ノートルダム(ノストラダムスの父) フランソワ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔父) アルルのピエール・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔父) カトリーヌ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) バルトロメ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) マルグリット・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) 母方の先祖・親類 ジャン・ド・サン=レミ(ノストラダムスの母方の曽祖父...
  • mansol
     mansol はかつて謎とされていたが、エドガール・ルロワの指摘以来、mausole(mausolée)の誤植にすぎないことが有力視されている。 モゾル  モゾル(mausole)もしくはモゾレ(mausolée)は2通りの解釈が可能だが、いずれもサン=レミ=ド=プロヴァンスに近いグラヌム(未作成)遺跡と深く結びついている。  モゾル(Mausole)と読む場合、それはサン=ポール=ド=モゾル(Saint-Paul-de-Mausole)のことだろう。詩百篇第9巻85番(未作成)に見られる saint Pol de Manseoleなどは、この推察を裏付ける。  サン=ポール=ド=モゾルは、グラヌム遺跡近くにある旧修道院で、ゴッホが入院したことでも有名な精神病院に転用されている。一帯は19世紀には単独のコミューン(地方行政単位)を形成していたという。  モゾレ(...
  • トミーヌ・ド・ノートルダム
     トミーヌ・ド・ノートルダム(Thomine de Nostredame)は、ノストラダムスの甥であるクロードの娘。  1574年1月4日に洗礼を受けた。代父はサン=レミの神学博士でサン=マルタン参事会聖堂の参事会員でもあった伯父(または叔父)のピエール・ダルメラン(Pierre d Alméran)、代母はトミーヌ・リシエール(Thomine Richière)であった。  ピエール・ダルメランは、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子である。  彼女は、16世紀末にアヴィニョンの法学博士メルキオール=ジャック・ド・ジョアニス(Melchior-Jacques de Joannis(*1))の再婚相手となった。メルキオール=ジャックは、ノストラダムスの叔母に当たるマルグリット・ド・ノートルダムとその夫ピエール・ジョアニスの曾孫であ...
  • ノストラダムスの肖像画 (パリ、1754年)
    (*1) 基本データ 作品名 Michel Nostradamus Médecine et Astrologue 日本語訳 医師・占星術師ノストラダムス 作者 左:オール・ビレット(Aure Billette)、右:不明 作成時期 左:1754年、右:18世紀(1754年以降) 様式 版画 サイズ 未詳 所蔵先 フランス国立図書館 ほか (*2) コメント  比較的若い頃のノストラダムスを描いた肖像画である。18世紀に作成されたものであって、あくまでも想像図に過ぎないが、かなり珍しいものとはいえるだろう。  これはよく似た2つの版が知られている。  上の画像のうち、左はパリの出版業者ドヴォー(Deveau)が1754年に出版したもので、欄外に「パリ、サン=ジャック通りのサン=ブノワ近くでラルシュ・ダリアンスの看板を掲げるドヴォーの工房にて」(A Paris, ...
  • @wiki全体から「サン=ローラン教会」で調べる

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