シャルル9世

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「シャルル9世」で検索した結果

検索 :
  • アントワーヌ・クレスパンの著作一覧
    ...ト教徒たるフランス王シャルル9世に捧げられた書簡・パリ版 いとも高貴にして敬虔なキリスト教徒たるフランス王シャルル9世に捧げられた書簡・リヨン版 1571年のつい先ごろの聖ミカエルの祝日に一日中続いた悲痛なる日蝕の提示 皇帝の御令嬢にしてフランス王妃たる、いとも高貴にして力あるエリザベート・ドートリッシュ妃殿下に捧げられた公開書簡 1572年 閏年1572年向けの占筮および四季の予言 敬虔なキリスト教徒たるフランス王とサヴォワ公妃に仕える占星術師による予言集 1573年 クレスパン・ノストラダムス師に送られてきた書簡 フランスの帝王シャルル9世の母后に宛てた書簡 1574年 フランス王国に訪れるに違いない三百年以上にわたる平和についての隠しだてのない予言書簡 1575年向けの全般的な占筮 1576年 太陽の周期の全般的な占筮・1576年版 1577年 彗星の予兆と影響を提示す...
  • シャルル・ド・ノートルダム
    ...年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有権は失ったことになる(*2)。  1588年2月17日にジャン・ベックの娘ルイーズ・ベック(Louise Becq)と結婚し、プロヴァンス州アルル近郊のアラン(Alleins)に移住した。そのほぼ2年後には、娘アンヌが生まれている。結局、シャルルの子はこの娘だけだったようである。  シャルルは1594年に、ピエー...
  • 百詩篇第4巻47番
    ...写されているのは国王シャルル9世で、黒(noir)は王(roi)のアナグラムだとした。ル・ペルチエはシャルル9世が狩りのときにブタやロバの頭を一刀のもとに叩き落すことを好んだというエピソードも引き合いに出し、彼の残酷さを示した。  最後の行がプロテスタント、とくにコリニー提督らの最期という点は従来の解釈と同じである(*7)。  この解釈はチャールズ・ウォード、ジェイムズ・レイヴァー、セルジュ・ユタンらが踏襲した(*8)。  ほかの解釈もある。  テオフィル・ド・ガランシエールは同じ1572年でも、ロシアのイヴァン4世の暴君ぶりを予言したものだとした。  エリカ・チータムは当初サン=バルテルミーの虐殺と解釈していたが、のちに第三次世界大戦で現れる人物についての予言とする解釈に差し替えた(*9)。 懐疑的な視点  現在では、サン=バルテルミーの虐殺はギ...
  • Epistre à la Royne mere du Roy Empereur de France Charles IX
     『フランスの帝王シャルル9世の母后に宛てた書簡』(Epistre à la Royne mere du Roy Empereur de France Charles IX)は、1573年にリヨンのブノワ・リゴーによって出版されたアントワーヌ・クレスパンの著書。この著書から「アルキダムス」という筆名が登場している。 【画像】扉(*1) 正式名 EPISTRE A la Royne mere du Roy EMPEREVR DE FRANCE Charles IX. Par M. Chrespin Archidamus, Seigneur de haute Ville, docteur conseiller, Astrologue ordinaire dudit Roy de la Royne, Princesse de Sauoye, de monsieur...
  • Epistre dediee au Tres-Hault et Tres-Chrestien, Charles IX (Le Jeune)
     『いとも高貴にして敬虔なキリスト教徒たるフランス王シャルル9世に捧げられた書簡』(Epistre dediee au Tres-Hault et Tres-Chrestien, Charles IX. Roy de France)は、1571年にパリのマルタン・ル・ジューヌによって出版されたアントワーヌ・クレスパンの著書。 【画像】扉(*1) 著書 EPISTRE DEDIEE AV TRES-HAVLT ET TRES-CHRESTIEN, CHARLES IX. ROY de France. Par M. Anthoine Crespin Nostradamus, Conseiller, Medecin Astrologue ordinaire de sa maiesté. D vn signe admirable d vne Comette aparue ...
  • Epistre dediee au Tres-Hault et Tres-Chrestien, Charles IX (Rigaud)
     『いとも高貴にして敬虔なキリスト教徒たるフランス王シャルル9世に捧げられた書簡』(Epistre dediee au Tres-Hault et Tres-Chrestien, Charles IX. Roy de France)は、1571年にリヨンのブノワ・リゴーによって出版(おそらく再版)されたアントワーヌ・クレスパンの著書。 【画像】扉(*1) 著書 EPISTRE DEDIEE AV TRES HAVT ET TRESCHRESTIEN, CHARLES IX Roy de France, par M. Anthoine Crespin Nostradamus, Conseiller, Medecin Astrologue ordinaire de sa maiesté, d vn signe admirable d vne Comette appa...
  • アルル
    ...市に滞在していた国王シャルル9世(未作成)に呼ばれ、「王附常任侍医兼顧問」の称号を下賜された。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • マルタン・ル・ジューヌ
    ...ト教徒たるフランス王シャルル9世に捧げられた書簡』(1571年)を出版した。 名前 コメント
  • アンリ4世
    ...連  アンリ4世はシャルル9世のフランス大巡幸(1564年)の際に随行していたとされ、その時にノストラダムスがアンリ4世を観察し、王になると予言したエピソードが有名である。  これは、ピエール・ド・レトワル(未作成)の日記の1589年8月の項に登場しているものである。関連する箇所を全訳しておこう。 レトワルの日記(関連箇所の全訳)  ナヴァル王として輝かしく君臨しておられ、フランス王としては(アンリ)4世となるアンリ・ド・ブルボンは、1589年8月2日水曜日に御即位なさった。その根拠となったのは、どの程度彼が継ぐことに言及したものかはともかく、フランス王位は王家の血を引く年長の男子に委ねるべしと定めた王国の基本法であった。  彼は、反対する過激な勢力を払いのけるために、大きな勇気と並外れた徳力を必要とした。その思惑の最大の障害は信仰の問題だったが、ほかにも彼に反対...
  • アントワーヌ・ド・ブルボン
    ...わっていた。しかし、シャルル9世の時代になってフランス王国総代官の地位についた後、プロテスタントに寛容な一月王令(1562年)が出ると、逆にカトリックへと転向した。彼はそれから間もなく始まった第一次ユグノー戦争ではカトリック側で参戦したが、その戦いで負傷し、その年のうちに逝去した(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムスは『1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言』に、アントワーヌあての献辞を掲載した。 名前 コメント
  • ディアーヌ・ド・ノートルダム
    ...564年10月に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)がサロンの町に立ち寄った際には、他の兄姉とともに、一家で謁見を果たした。ただし、このときのディアーヌはようやく3歳になったばかりだったので、本人の記憶には残らなかったであろう。  その後の詳しい生涯は不明だが、気難しい性格で独身を貫いたことは分かっている。  長兄セザールが1630年に作成した遺言書では、セザールの残す物財全ての用益権と200エキュが、当時70歳近かったディアーヌに贈られている(*1)。  ディアーヌに関する言及はこれが最後であり、以降どの程度生きたのかは不明である。セザールから贈られたはずの財産が最終的にどうなったのかなども当然分からない。 名前 ...
  • ブノワ・リゴー
    ...ト教徒たるフランス王シャルル9世に捧げられた書簡』(1571年)、『フランスの帝王シャルル9世の母后に宛てた書簡』(1573年)、同『彗星の予兆と影響を提示するための、国王ならびに世紀の哲学論争の当事者たちに宛てた書簡・リヨン版』(1578年)、同『1581年向けの驚異の大占筮』(1581年頃)、コルモペード 『1594年向けの暦』(1593年)などである。 名前 コメント
  • 予兆詩第91番
    ...の「温和な者」は国王シャルル9世を、3行目「頑迷な者」はプロテスタントのこととした(「袋」が何かの説明はない)。(*2) 名前 コメント
  • 予兆詩第62番
    ...た。1行目はその年のシャルル9世の死を受けて、弟のアンリ3世が即位し、結婚したことを指すという。シャヴィニーは2行目冒頭を「(1人の)偉大な剃髪」(Raze Grand)としており、それと4行目を、その年に毒殺されたロレーヌ枢機卿シャルル・ド・ギーズと結び付けている。2行目後半から3行目はポーランド王だったアンリが急遽呼び戻されてフランス王位に就いたことを示すという(*2)。 名前 コメント
  • 予兆詩第133番
    ...ちの死」をフランス王シャルル9世、トスカーナ大公、ロレーヌ枢機卿シャルル・ド・ギーズ、オスマントルコ皇帝セリム2世、ウルバン公など、この年に多くの重要人物が歿したこととした。「イタリアの多くの部分」は3行目につなげ、1576年にイタリア全土からトルコにかけてペストが大流行したことと解釈した(*2)。 名前 コメント
  • 予兆詩第83番
    ...は1561年前半で、シャルル9世の即位(1560年12月)から間もない時期だったことから、シャルルが名君となることを期待して書かれた可能性を当然想定すべきだろう。  結果としてシャルルは世界どころかフランスの宗教戦争すら収拾できずに若くして死ぬことになるが、ノストラダムスは1564年にはシャルルが90歳まで生きると予言することになるので、シャルルの早世を見通せていたかどうかは疑わしい。この点は、ジョヴァンニ・ミキエルの証言をどう解釈するかにもよるのだろう。 名前 コメント
  • 詩百篇第9巻17番
    ...ル(1672年)は、シャルル9世と結びつけた。「第三」とは、シャルルがアンリ2世の三男(*5)だったことを表し、彼がサン=バルテルミーの虐殺を引き起こしたことを予言しているとした。4行目については、虐殺のときにシャルル9世が「黄金時代は終わった」と発言したことや、すぐ後に即位した新王アンリ3世の時代に宗教戦争がさらに悪化したことを予言したという(*6)。  ヘンリー・C・ロバーツはこの解釈を支持していた。ただし、娘婿夫妻の改訂版では「第三」を第三帝国としてユダヤ人迫害などと結びつける解釈に差し替えられた(*7)。  アナトール・ル・ペルチエ(1867年)は、フランス革命の予言と解釈した。前半は平民、つまり第三階級が第一位になったあとに、恐怖政治によって多くの流血をもたらすことと解釈し、3行目はタイル焼き窯跡に建てられたチュイルリー宮殿に、貴族達を死に追いやる窯(処刑場)が設...
  • ノストラダムスの肖像画 (予言され裁定された歴史)
    ...世、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世、アンリ4世、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世、ルイ16世、共和国(第一共和政)、ナポレオン1世、ルイ18世、シャルル10世、ルイ=フィリップ、共和国あるいは若きオグミウス(第二共和政)、ナポレオン3世、ナポレオン4世、シャンボール伯、共和国あるいはオグミウス、マゼンタ公、ウジェニー、ナポレオン王子、ピウス9世、ピウス9世の最初の後継者、ピウス9世の二番目の後継者、ガリバルディ、ヴィットーリオ=エマヌエーレ、チャルディニ、カブール、イタリアの迫害、司祭、修道士、嘆きの修道女と、実に多彩である。  未来に属するものを別にすれば、フランス政治史とつながりの深い人物が多く挙げられている。 関連  ジャン=ポール・ラロッシュ(未作成)によると、リヨン市立図書館ミシェル・ショマラ文庫には、これに先行する1862年の写真版が存在しているとい...
  • 予兆詩第67番
    ...てはめ、その時に国王シャルル9世が軍事会議を開いたり、臣下に親書を送ったりしたことと解釈した。  2行目前半までは1564年のこととして、前年に第一次ユグノー戦争が終わったことと、1564年にペストが大流行したことと解釈した(*2)。 名前 コメント
  • サロン=ド=プロヴァンス
    ...ロンに立ち寄った国王シャルル9世と母后カトリーヌ・ド・メディシスが逗留した場所であり、ノストラダムスもそこで謁見を果たしている。  ノストラダムスの生誕500周年にあたる2003年には、アンペリ城で記念の展覧会「危機の時代のための予言」が開催された。  そのときの公式ガイドブックには、サロン市長が祝辞を寄せている(*5)。  市庁舎前にあるのはクラポンヌの像だが、庁舎内の「結婚の間」にはセザール・ド・ノートルダムによるノストラダムスの肖像画の一つが飾られている。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • 予兆詩第104番
    ...融和姿勢を見せていたシャルル9世の調停がうまく行かないことの描写とした(*4)。 名前 コメント
  • ブロワ城の問答
    ...の問答」 とは、国王シャルル9世(未作成)が22歳の夏にノストラダムスと対話した内容を、息子セザールが書きとめたものとし、フランス国立図書館に所蔵されていると述べていた(*1)。  その内容は、ヴァロワ王朝末期の予言を主軸としつつ、追加的に1999年の人類滅亡に関連する予言詩の解説を行ったものだったという (*2)。 『大予言II』の「問答」  五島は『ノストラダムスの大予言II』では、「ブロワ城の問答」を、1555年晩秋に王妃カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が献上されたばかりの『予言集』初版を手に、その内容についてノストラダムスに質問したものとしていた(*3)。  また、この史料は欧米の研究者たちが断片的に現存するものをつなぎ合わせたものしか参照できないとも述べていた(*4)。  内容は、恐怖の大王の正体について問答を繰り広げるものである。 ...
  • 予兆詩第150番
    ...3行目前半にかけてはシャルル9世の夢(希望的観測)が潰えたことを指すという。3行目後半と4行目は理解しがたいとして解釈していなかった(*2)。 名前 コメント
  • Pronostico et Lunario de l'anno bissestile MDLXIIII.
    ...も無敵なるフランス王シャルル9世へ」(Al Christianissimo et invittissimo Carlo IX. re di Francia.)と題された献辞が収録されている。日付は1563年12月15日で、翌年向けの暦書はその年の前半に書かれるのが普通だったことからすると、非常に遅い。  そのあと、1564年の全般向け、季節ごと、月ごとの順に散文の占筮が掲載されている。各月の冒頭にはラテン語の短い句が載せられているが、四行詩はない。  終わりのほうにはジャン=エメ・ド・シャヴィニーの詩が一篇掲載されている。 その他  ミシェル・ショマラやロベール・ブナズラの書誌では言及されておらず、ジャック・アルブロンが指摘したことによって初めて知られるようになった。  1564年向けの暦書は、ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの転記によって間違いなく存在していたことが分か...
  • 六行詩9番
    ...異父兄は、フランス王シャルル9世を父に持つオーヴェルニュ伯シャルルであった。彼らは、アンリエットがアンリ4世の正妃となることに失敗した後、スペインと結びついたとされ、国家反逆罪に問われた。  オーヴェルニュ伯は1605年2月1日に斬首刑を宣告されたあと、終身刑に減刑されてバスチーユに収監された(のち恩赦で釈放)。 同時代的な視点  ガランシエールの解釈は詩の情景と十分に一致している。その事件をモデルとした事後予言と見なしても差し支えはないだろう。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • ジョヴァンニ・ミキエル
    ...、この哀れな君主(=シャルル9世)は、噂されているように片目を失うかもしれません。そのことは、私に、フランスで非常に人気のあるノストラダムスという占星術師の占いを思い起こさせます。彼は、王太后に、王子たちが全員玉座に就くでしょうと告げたことで、王子たち全員の命を脅かしたのです(*1)。  「王子達はみな王になる」という有名な予言に関する証言である。カトリーヌ・ド・メディシスの息子達のうち、四男のエルキュールは王にならずに早世したので外れた。  信奉者達の中には、「4人の王が誕生する」という予言だったと理解しなおすものもいる。その場合、三男のアンリ(3世)は、フランス王になる前にポーランド王だったので、見事に当たったと見なせるわけである。  さて、この予言はミキエルも不吉なものと報告しているように、王になった王子達が次々と死んでいくことを予言しているようにも見える。し...
  • 百詩篇第6巻11番
    ...目はフランソワ2世とシャルル9世が相次いで病没したこと、3行目はアンリ3世と弟のアランソン公の対立、4行目は1572年のサン=バルテルミーの虐殺でプロテスタントの指導者たちが殺されたことと、それぞれ解釈した。なお、シャヴィニーはノストラダムスが1560年向けの占筮で「大きな幹からいくつかの枝が伐られるだろう」(Du grand tronc plusieurs branches seront coupées)と予言していたこととも関連付けている(*2)。  テオフィル・ド・ガランシエールは、そのまま敷衍したような解釈しかつけていなかった(*3)。  アナトール・ル・ペルチエは、シャヴィニーの解釈と似ているが、「七つが三つに」は、アンリ2世の子供が最後の3人(アンリ3世、アランソン公フランソワ、マルグリット)になった時点でのこととし、4行目については1588年にギーズ兄弟...
  • 詩百篇第10巻39番
    ...死、そして後を継いだシャルル9世の婚約を鮮やかに予言したものとされる。  フランソワ2世は子供がいないまま16歳で病死した(1 - 3行目)。妻メアリはスコットランド女王でもあり、帰国後、イングランド女王エリザベス1世と対立した(2 - 3行目)。  4行目は弟シャルル9世がほぼ同じ時期にエリザベート・ドートリッシュと婚約したことを指す(ただし結婚は1570年)。  この解釈はフランソワ2世が実際に亡くなるよりも前から宮廷でうわさされていたという。  解釈者たちの間では、ジャン=エメ・ド・シャヴィニー(1594年)以降、テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)、バルタザール・ギノー(1712年)、アナトール・ル・ペルチエ(1867年)、チャールズ・ウォード(1891年)、アンドレ・ラモン(1943年)、ジェイムズ・レイヴァー(1952年)等々が踏襲し(*4)、現代の...
  • 予兆詩第60番
    ...たプロテスタントが、シャルル9世のもとで立て直されたことを的中させたとする。  3行目は融和的な解決を模索していたカトリーヌ・ド・メディシスが安堵したことを指し、4行目はプロテスタントが熱狂するさまを描写しているとした(*4)。  他方でシャヴィニーは、第一次ユグノー戦争終結時のアンボワーズの和解王令(1563年3月)にも当てはまるとしている(*5)。この王令は、プロテスタント貴族の信仰の自由をかなりの程度認めたものだった。 懐疑的な視点  シャヴィニーの解釈はある程度史実に適合している。しかし、サン=ジェルマン王令とアンボワーズの和解王令の2つに当てはめているように、当時似たような状況が何度も起こりえたことも事実である。果たしてそれが予言能力なしに見通せなかったものかどうか、冷静に判断する必要があるだろう。 ...
  • Pronostication generale, pour l'annee M. D. LXXV.
    ... コメント  前王シャルル9世の死は5月30日のことで、7月の時点では新王アンリ3世はまだポーランドから帰国していなかった(*3)。その状態で果たして本当に「お抱えの」(ordinaire)占星術師の地位についていたのか、少々疑問に思える。 所蔵先 マザラン図書館  なお、扉に「リヨンでジャン・ユグタンが出版した版に基づく」とある以上、先行した版があったのは間違いないが、そちらは現存しない。  ミシェル・ショマラとロベール・ブナズラの書誌には載っていない。この文献を最初に指摘したのは、おそらくジャック・アルブロンだったはずである。 名前 ...
  • Almanach : & Predictions, pour l'An...mil cinq cens Soixante-sept
    ...ト教徒たるフランス王シャルル9世へ。 Mi. ド・ノストラダムスによる。 「黒ずんだ肌の強き民族が / 青銅の門を開きたがる。/ だが幸運な巡り合わせが / その無為な企ての糸を断ち切るだろう」 パリにて。 パリ裁判所界隈のポン・ト・ミュニエに隣接する店舗を持つ印刷業者・書肆ギヨーム・ド・ニヴェールによる。 国王の特認とともに。  Embolismal の訳の問題点については『紀元1567年向けの占筮と多くの予言』も参照のこと。 内容  十六折版で32葉の文献である。詳細は不明だが、ノストラダムスの肖像画とともに「三年間の驚異の予言」(Predictions Merveilleuses, Pour trois Ans.)という節があるという(*2)。 所蔵先  かつてダニエル・ルソが所蔵しており、2007年4月のオークションに出品されたが、落札者は不明である。 ...
  • 予兆詩第26番
    ...」を次男であった国王シャルル9世と解釈した。「陰鬱な祝婚歌」は兄王フランソワ2世の早世によって、メアリー・スチュアートが早々と未亡人になったことと解釈し、3行目の「外に導かれた婦人」はスコットランドに帰国したメアリーとした。2行目の「鎮まっているマルス」だけは、1558年の状況に当てはめている (*2)。1558年の状況についてシャヴィニーは詳述していなかったが、ベルナール・シュヴィニャールは、当時の和平交渉と捉えていたのだろうとしている(*3)。  ジョン・ホーグも、「陰鬱な祝婚歌」はフランソワとメアリーの結婚と解釈している。1558年の時点で、フランソワの病弱さから、そこに死の影がちらついていたとしても不思議ではなかったという判断である(*4)。 同時代的な視点  ホーグの指摘にもあるように、仮にフランソワの婚約に関連する予言だったとしても、その病弱さから明るいと...
  • 予兆詩第63番
    ...  そして後継者のシャルル9世(未作成)はプロテスタントに寛大(1行目の doux には「寛大」の意味もある)で、カトリック(「曇らされて動揺した者」)には打撃となることもあわせて予言されていたとした。  さらに、こうした予言の見事な的中の前には、ノストラダムスを中傷していた者たちも口をつぐまざるをえないことが4行目に予言されているという(*3)。  しかし、現代の信奉者たちの間で定説化しているのは、むしろアンリ3世(未作成)の暗殺を言い当てたとする解釈である。この解釈の元祖は「ルーヴィカンの隠者」ことジャン・ル・ルー(未作成)である。  彼は1行目を「王にして王なるものは生きていない」と理解し、アンリ3世がフランス王になる前にポーランド王になっていたことを表しているとした。そして、doux(寛大な)はclément の類義語であることから、アンリ3世を暗殺したジャック...
  • ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (1649年頃の偽版)
     『国王シャルル9世の侍医にして不世出の卓抜な天文学者の一人であったミシェル・ノストラダムス師の予言集』(Les Propheties de M. Michel Nostradamus. Medecin du Roy Charles IX. l un des plus excellens Astronomes qui furent iamais.)は、1649年頃に出されたと推測されている『予言集』の版のひとつである。  出版社名の記載が無い一方、出版地は全て「リヨン」になっている。表示されている刊行年は「1568年」「1611年」「1649年」の三通りがある。これらはその表示に関わらず、いずれもパリまたはトロワで出版されたと推測されている。  共通してジュール・マザランを陥れようとした政治的な偽の詩篇(第7巻42番、第7巻43番)が織り込まれている。通常マザリナード(...
  • Epistre de Prophetie de paix qui doit venir au Royaume de France
    ...編は「フランスの帝王シャルル9世あての書簡」(Epistre au Roy Empereur de France Charles IX)となっており、ラングドックの鉱山の話が添えられている。その奥付は1573年12月24日グルノーブルとなっている。最後に、様々な有力者に宛てた短いメッセージが載せられている。 所蔵先 フランス国立図書館(未作成)  Gallicaで公開されている。 名前 コメント
  • 予兆詩第51番
    ...れたものの、次の国王シャルル9世が名誉回復を行い、カトリック側が反抗し、不満を持ったことと解釈した(*2)。 同時代的な視点  当時、トリエント公会議(1545年 - 1563年)が開催されていたが、長らく中断状態にあった。  interimがアウクスブルクの仮信条協定(1548年)のようなものを念頭に置いていたのなら、ノストラダムスは公会議が再開されないまま、仮信条協定が成立すると見ていたのだろう。1560年に公会議が再開されなかったのは確かだが、仮信条協定などは成立していない。 名前 コメント
  • ノストラダムス
    ...。また、晩年には国王シャルル9世(未作成)の常任侍医と顧問に任命された。  日本では1999年の人類滅亡を予言した人物として知られているが、そもそもその根拠となった恐怖の大王が登場する詩篇は、本物かどうかすら、実証的には十分に評価が定まっているとは言いがたい。ノストラダムスの予言がその詩篇に収斂していくかのような認識は、それ自体が通俗的なトンデモ解釈の山によって生み出された妄想である。  1980年代以降、ルネサンス期の一人の人文主義者としてノストラダムスを多角的に捉えようとする学術的成果が、主として欧米においていくつも挙げられており、彼の作品への文学的再評価なども目下着実に行われつつある。  この記事では、ノストラダムス自身の生涯について、概略的な情報を提供する。  なお、日本語文献では 「ミシェル・ド・ノストラダムス」と表記されることもある。  ...
  • Epistre Envoyée à M. Crespin Nostradamus
    ...ンスの大王・皇帝たるシャルル9世と、今世紀の哲学論争の当事者達にささげられた版。 ヴィエンヌにて、ニコラ・マルタンによる。1573年。 内容  ノンブルのない八つ折版16ページの文献である。  扉にもあるように、ジャン・カサンドル・ダポロン(Jean Cassandre d Apolon)というトルコの占星術師たちがクレスパンに送ってきた書簡という体裁の文献で、奥付は「コンスタンティノープルにて、1572年9月20日」となっている。 コメント  ジャン(ヨハネ)は『ヨハネの黙示録』の著者、アポロは太陽神であるとともに予言を司る神、カサンドル(カサンドラ)はアポロから予言の才能を与えられた女性の名である。つまり、ジャン・カサンドル・ダポロンは、後世のガブリエル・ノストラデイマスのように、予言に関係ありそうな名前をつなぎ合わせた偽名に過ぎないのではないかと思われる。 ...
  • 詩百篇第9巻36番
    ...兄王フランソワ2世、シャルル9世と解釈したうえで、「三兄弟の最後の一人が傷ついて死ぬ」と読み替えた(*7)。  アンリ3世の暗殺とする解釈はチャールズ・ウォード、アンドレ・ラモンが踏襲した(*8)。  1656年の解釈書では、1560年にナヴァル王アントワーヌ・ド・ブルボンが若きフランス王フランソワ2世に捕らえられ、生命の危機にさらされたことと解釈された。  4行目の「三兄弟」は、アントワーヌ、ブルボン枢機卿シャルル、コンデ親王ルイ・ド・ブルボンの3人で、彼ら兄弟がカトリックとプロテスタントのいずれの陣営に就くのかで一致していなかったことを指すという(*9)。  テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)はこの解釈をそのまま踏襲した(*10)。  アンリ・トルネ=シャヴィニー(1860年)は、アンリ4世の暗殺とした。  アンリ4世は57歳の時に34歳の...
  • アンドレ・ド・ノートルダム
    ...年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、アンドレもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと引き換えに、家の所有権は失ったはずである(*2)。  それ以降のアンドレの生涯について現在知られている話は、もっぱらピエール・ジョゼフ・ド・エーツ(未作成)に依拠している。  エーツは『ノストラダムスの生涯』(1712年)の時点では、カプチン会修道士としている三男の名前すら「知らない」としていたが(*3)、その後調査を重ねたのか、手稿「アンドレ・ノストラダムスに関...
  • 百詩篇第2巻88番
    ...べていたり(*6)、シャルル9世を Charles ix, de ce nom (直訳は「その名前の9番目のシャルル」) と表現していたこと(*7)からすれば、「7世」を意味しているのではないかと思われる。つまり「五番目の者の七番目の名前」とは、「五番目にあたる7世」のことと理解できる。  となれば、これはヴァロワ朝第5代目の王シャルル7世 (Charles VII, le cinquième roi des Valois) のことではないだろうか。  シャルル7世は百年戦争を終結させた時の王であり、ジャンヌ=ダルクが支持したことでも知られている。彼はパリをはじめとする領土の多くを奪還し、「勝利王」の異名を持っている。  それが「三分の一だけ偉大」というのはどういうことか。これはシャルル1世と比較しているのではないだろうか。フランス史におけるシャルル1世とはつまりシャルルマーニ...
  • Almanach Povr L'An M. D. LXV.
    ...虔なキリスト教徒の王シャルル9世へ。ミカエル・ノストラダムス」(A Treschrestien Roy Charles ix, de ce nom Michael Nostradamus S.)と題された1564年4月14日付の献辞が掲載されている。  続いてカレンダーが掲載されているが、各月には予兆詩はない。代わりに、その後の散文による各月の概要の冒頭に、予兆詩が収録されている。予兆詩は全般向けのものもあるので、全部で13篇である。この年向けの予兆詩から従来の1行10音節にかわり1行12音節が採用されている。  各月の散文はジャン=エメ・ド・シャヴィニーが転記した『散文予兆集成』第10巻全体(第1番~第740番)に対応している。  末尾には「1565年向けに1564年5月1日に、サロン・ペトラのミカエル・ノストラダムスによって作成された」(Faciebat Mic...
  • 王太后への書簡
    ...大書された K は、シャルル9世(Karolus)のことだという(*2)。 内容  八つ折版で8ページからなる。ただし、うち1ページは扉、2ページ分は白紙、ノンブルのない最終ページは紋章の図版があるだけなので、本文は実質的に4ページ分しかない。しかもそれが大きな活字で綴られているため、内容的にはかなり薄く、暦書類に掲載されていた有力者への献辞と大差がない。  その内容について、詳しくは以下の全訳を見ていただくとして、大まかにまとめておくと2つのテーマに分けることができる。  ひとつは近く開かれる会議についての予言で、休会を挟んだあとに良い方向に転がる見通しが語られている。  もうひとつは国王(シャルル9世)が17歳になる年におこる幸運な出来事の予言のために、星位図を送って欲しいという依頼である。ピエール・ブランダムールはこれについて1566年6月27日の国王誕生日...
  • Epitre Demonstrative, faicte à treshaulte, & trespuissante Princesse
    ...であり、題名の通り、シャルル9世の后であるエリザベートにささげられた献呈文の体裁をとっている。末尾には1571年4月17日付の特認の抜粋が記載されている。 所蔵先 フランス国立図書館(未作成) ルーアン版  かつてパリのマザラン図書館には、1571年にルーアンで出版された全く同じ題名の著書(八つ折版)の断片が所蔵されていた。ただし、1971年以降、所在不明になっている(*2)。 名前 コメント
  • Advertissement à tous les peuples du royaume de France
    ...ト教徒たるフランス王シャルル9世がご誕生なさったことにより体験されていることに続いて来るべき幸運についての、フランス王国の全ての民への告知フランス王とサヴォワ公妃殿下の常任の博士、顧問、侍医、占星術師アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス師によって、サヴォワ領のモン=スニ峠の上で熟慮された。 1571年8月13日にピエモンテ地方のトリノで目撃された彗星の解釈とともに。 リヨンにて 1571年 内容  八つ折版15ページの文献である。  冒頭には 「大トルコの占星術師からフランス王とサヴォワ公妃のお抱え占星術師であるアントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス師に送られてきた哀歌」(Elegie à M. Anthoine Crespin Nostradamus, Astrologue du Roy de France, de Madame de Sauoye, enuoyee...
  • 百詩篇第4巻7番
    ...は、アンリ2世の次男シャルル9世(1550年 - 1574年、在位1560年 - 1574年)のことと解釈した(*8)。  その後、20世紀半ばまでこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャン、バルタザール・ギノー、D.D.、テオドール・ブーイ、フランシス・ジロー、ウジェーヌ・バレスト、アナトール・ル・ペルチエ、チャールズ・ウォード、マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)、アンドレ・ラモン、ロルフ・ボズウェル、ジェイムズ・レイヴァーの著書には載っていない。  エリカ・チータム(1973年)は、記録上このような描写に該当する王族はいないと指摘するにとどまった(*9)。後の著書では「癩病」は癌など、別の病気の比喩ではないかというコメントを補足した(*10)。  セルジュ・ユタン(1978年)は、修道士ジャック・クレマンによって暗殺されたア...
  • アントワーヌ・クイヤール
    ...の中で、「アダム以降シャルル9世までのフランス王統譜」(Tableau généalogique des rois de France depuis Adam jusqu à Charles IX)を含む『天地開闢からの世界の年代記』(Chronique cosmographique universelle)の刊行を予告していたが、実際に刊行されたかは定かではない。  クイヤールの没年は1575年頃とするものが多いが(*3)、1593年までは存命していたとする指摘もある(*4)。(*5) ノストラダムス関連  上記の通り、彼の著書は多かったが、ノストラダムスを風刺・批判した2冊の著書が相対的に最も有名になっている。  そのうち最初のものは、『ル・パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集』(Les Propheties du Seigneur du Pavillon Le...
  • ジョゼフ=シャルル・シャスタニエ
     ジョゼフ=シャルル・シャスタニエ(Joseph-Charles Chastanier, 1717年11月8日歿)は、アヴィニョンの出版業者。エクスの出身だったが、1696年にアヴィニョンの業者ドフォルジュ(Deforge)の工房を買い取って事業を開始し、生涯現役だった。  彼の妻アンドレ・ナンチ(Andrée Nanty)はリヨンの出版業者ナンチ家の娘であり、その繋がりからか、リヨンのリゴー家の木版画なども使い回していたことで知られている。  アンドレ・ナンチにはブノワート・ナンチ(Benoite Nanty)という姉妹がおり、シャスタニエの没後、その遺産はブノワートの夫ルイ・ドメルグに引き継がれた。ドメルグ家は、以降少なくとも19世紀初頭まで出版事業を展開することになる(*1)。 ノストラダムス関連  ピエール・リゴーの1566年版『予言集』は18世紀の偽年代版であることが...
  • 詩百篇第9巻89番
    ...560年末に即位したシャルル9世)で、スペインと対立した(*11)。  ピーター・ラメジャラーはこれを土台にしたが、1561年の見通しは、むしろフェリペ2世がフランスのアンリ2世に敗れることだったのではないかとした。  つまり、結果的にフェリペは敗れたものの、それはアンリ2世によってではなかったので、半分外れたという判断である(*12)。  プレヴォとラメジャラーの判断の違いは、この詩がいつ書かれたのかに関わっている。  1558年版『予言集』が実在したのなら、ラメジャラーのように解釈すべきであろう。  逆にそれが実在せず、1560年代のいつかに書かれたのなら、プレヴォのように結果を元に書いたと判断できることになる。  ジャン=ポール・クレベールは古代マケドニアの王フィリッポス2世と解釈し、4行目は若い貴族に暗殺されたことと解釈した。 その他  ...
  • シャルル・ニクロー
     シャルル・ニクロー (Charles Nicoullaud, 1854年 - 1925年) はフランスの作家、占星術師。フォーマルハウト(Fomalhaut, フランス読みだと「フォマロ」)という筆名を用いることもあった。  占星術関連の著作に『球面・判断占星術論』(Traité d Astrologie sphérique et judiciaire) などがある。なお、それは1897年に刊行されたものだが、当時、太陽系で最も遠いとされていた海王星よりも更に遠くに惑星があり、それは冥王星 (Pluton) と命名されるであろうという見通しが含まれていた。この見通しは1930年の冥王星発見で実現することになる (ただし、言うまでもなく、2006年からは準惑星と再定義されている)(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムス関連では ノストラダムスの神託 (Oracles ...
  • @wiki全体から「シャルル9世」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索