ピエール・ド・レトワル

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「ピエール・ド・レトワル」で検索した結果

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  • ピエール・ド・ノートルダム
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame, 1430年頃 - 1485年頃)は、ノストラダムスの父方の祖父。アヴィニョンで穀物商と高利貸を営んでいた。クレカ・ド・カルカソンヌ(Crescas de Carcassonne)、ギ・ガソネ(Guy Gassonnet)、ギドン・ガソネ(Guidon Gassonnet)、ヴィド・ガソメ(Vido Gassomet)、ペロ・ド・サント=マリー(Perrot / Peyrot de Sainte-Marie)など、多くの名で公文書に記録されている(*1)。  関連文献においてカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)や、息子であるアルルのピエール・ド・ノートルダムと区別するときには、「アヴィニョンのピエール・ド・ノートルダム」と書かれることもある。 生涯  ダヴァン・ド・カルカソンヌの子供の一人...
  • ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの叔父)
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame)は、ノストラダムスの叔父。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、三男と推測されている(*1)。父のピエールやカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)と区別されるときには、「アルルのピエール・ド・ノートルダム」と表記されることがある。  父親と同じく商業を営んだが、1513年以降は活動拠点を出生地アヴィニョンからアルルに移した。その商取引に関する記録がいくつも残っている。  この人物は、ノストラダムスの親族の中で唯一人「予言的」なエピソードが公証記録に残されている点で、特徴的といえるかもしれない。  それによると、1535年9月15日に、タラスコンの商人で改宗キリスト教徒であったトマ・ド・バレーム(Thomas de Barrème)と賭けをした...
  • ピエール・ジョアニス
     ピエール・ジョアニスないしピエール・ド・ジョアニス(Pierre de Joannis)は、ノストラダムスの叔父。ノストラダムスの父ジョームの妹マルグリットの夫。「ピエール・ド・ジョアニ」と発音した可能性もある。  1494年12月26日にマルグリットと結婚した(*1)。  息子オノレ、孫テオドール、曾孫メルキオン=ジャック・ド・ジョアニス(Melchion-Jacques de Joannis)へと家督が受け継がれていく。  なお、このメルキオン=ジャックはマルグリット・ド・ノートルダムの兄ジョームの曾孫トミーヌ・ド・ノートルダムと再婚した。  ただし、家を継いだのは最初の妻マルグリット・ド・トゥイエ(Margueritte de Touier)との子、ガブリエルであった(*2)。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連...
  • アンリ4世
    ...  これは、ピエール・ド・レトワル(未作成)の日記の1589年8月の項に登場しているものである。関連する箇所を全訳しておこう。 レトワルの日記(関連箇所の全訳)  ナヴァル王として輝かしく君臨しておられ、フランス王としては(アンリ)4世となるアンリ・ド・ブルボンは、1589年8月2日水曜日に御即位なさった。その根拠となったのは、どの程度彼が継ぐことに言及したものかはともかく、フランス王位は王家の血を引く年長の男子に委ねるべしと定めた王国の基本法であった。  彼は、反対する過激な勢力を払いのけるために、大きな勇気と並外れた徳力を必要とした。その思惑の最大の障害は信仰の問題だったが、ほかにも彼に反対する大部分の臣民、ブルボン家の親王たち、非常に手強い列強などが存在していた。さらに彼には資金がなく、ほとんど手勢も持たず、往々にしてあらゆる手段を欠いていた。しかし、彼は王国...
  • ピエール・メニエ
     ピエール・メニエ1世(Pierre I Ménier / Mesnier)は、16世紀後半から17世紀初頭に活動したパリの出版業者。1581年から1605年頃までの活動が確認でき、そのころに歿した可能性がある(*1)。  なお、1588年にリヨンでも「ピエール・メニエ」が二冊刊行しているが、同一人物かは不明である(*2)。 ノストラダムス関連  ノストラダムスの予言集を少なくとも3回出版した。1589年版、刊行年の記載されていない版、1610年版で、少なくとも最後の1点は、本人ではなく息子のピエール・メニエ2世が手がけたもののようである。  また、アントワーヌ・クレスパンの『真に最も記憶されるべき事柄を含む驚異の予言』(1590年頃)も出版した。ほかに、フロラン・ド・クローの『1586年向けの暦』はアントワーヌ・ウイックの出版だが、本文中には印刷業者としてメニエの...
  • ピエール・リゴー
     ピエール・リゴー(Pierre Rigaud, 1631年没)は、リヨンの印刷・出版業者。ブノワ・リゴーの長男であり、一時期「ブノワ・リゴーの後継者たち」という名義を他の兄弟たちとともに用いていた時期がある。  現在確認されている範囲では、ピエール・リゴー名義の最古の刊行物は1594年のものである。これは、クロード・ミシェル(Claude Michel)という人物との共同出版であった(*1)。この後、彼の名義の出版物は1601年まで見られない(*2)。ただし、1597年から1601年には「ブノワ・リゴーの後継者たち」名義で出版事業に関わっていた。 ノストラダムス関連  17世紀初頭にノストラダムスの『予言集』を3種類出版した。これらは、タイトルページの前置詞の違い(PAR, Par, Chez)で区別されている。これらの版は、17世紀初頭の版であることがほぼ疑いないジャン...
  • ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの弟)
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame)は、ノストラダムスの弟。  父ジョーム・ド・ノートルダムが何度か執筆した遺言書の中で言及されていることから、存在が明らかになったが、生没年などの詳しいことは全く分かっていない。職業は香料商人(épicier)だったという(*1)。  1534年から1535年にかけて書かれた3通の遺言書で言及されているが、1547年の相続関連の文書では触れられていない(*2)。このことからすれば、その時点までに亡くなっていた可能性がある。ただし、その最後の文書では長男ミシェル(ノストラダムス)の名前もないが、これは執筆当時がノストラダムスの放浪期間とほぼ重なっており、消息不明だったことによるものだろう。ピエールの名前がないことも、死亡ではなく、そのような失踪の類が原因の可能性もある。 ...
  • レニエール・ド・サン=レミ
     レニエール・ド・サン=レミ(Reynière de Saint-Rémy)はノストラダムスの母。ルネ・ド・サン=レミ(Renée de Saint-Rémy)とも表記される。  父ルネ・ド・サン=レミ(René de Saint-Rémy)と母ベアトリス・トゥレルの間に生まれたが、詳しいことはわかっていない。エドガール・ルロワは、おそらくキリスト教徒だったと推測している(*1)。  生没年も不明だが、ウジェーヌ・レーは1536年以降に歿したと推測している(*2)。 名前 コメント
  • シャルル・ド・ノートルダム
     シャルル・ド・ノートルダム(Charles de Nostredame, 1556年 - 1629年12月頃)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次男(第三子)。軍人、詩人。  1556年にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有...
  • ジル・ド・サン=ジル
     ジル・ド・サン=ジル(Gilles de saint-Gilles)は16世紀パリの出版業者。1577年から1589年まで活動した(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムス本人の著書は出さなかったようである。  アントワーヌ・クレスパンの『彗星の予兆と影響を提示するための、国王ならびに世紀の哲学論争の当事者たちに宛てた書簡』(1577年)、『五年間の天文的占筮』(1586年頃)を出版した。また、現存しないが、クレスパンの『1581年向けの驚異の大占筮』(1580年頃)も出したらしい。  ほかに、ピエール・メニエが出版したクレスパンの『驚異の予言』の特認はサン=ジルに向けて出されており、末尾にサン=ジルがメニエの出版を許諾した旨の追記がなされている。 名...
  • ピエール・ブロトー
     ピエール・ブロトー(Pierre Brotot)は16世紀リヨンの出版業者。  正確な活動期間は未詳だが、1561年頃に父ジャン・ブロトーが死んだことから、出版事業を引き継いだ。 ノストラダムス関連  ノストラダムスはジャン・ブロトーと親交があったが、ジャンの死後に書かれたロレンツ・トゥッベ宛ての書簡(1561年10月15日付)で、ピエール・ブロトーが事業を継いだものの不安がある旨を述べていた(*1)。  ピエールが手がけたノストラダムスの出版物は以下の2つだけである。 『1562年向けの新たなる占筮』 『1566年向けの暦』  いずれもアントワーヌ・ヴォランとの共同出版だった。 名前 ...
  • 百詩篇第5巻73番
    ...表現ではなく、当時はピエール・ド・レトワルにも使用例があるらしい(*4)。なお、中期フランス語では mettre ... en chemise は「・・・を窮乏に陥れる、物乞いを余儀なくさせる」(le réduire à la misère, à la mendicité)を意味する成句だった(*5)。  当「大事典」はピーター・ラメジャラー、ジャン=ポール・クレベールの読み方に従ったが、エドガー・レオニ、リチャード・シーバースは逆に幼子を主語、母親を目的語にしている。  4行目 raliez は普通 ralliez と同一視されるので、ここでもそれで訳した。ただし、中期フランス語では「盛大にもてなす」(festoyer)の意味を持つ ralier という語があり(*6)、それを採用する場合、「アラブ人たちはポーランド人たちに盛大にもてなされるだろう」という意味になる。 ...
  • アントワーヌ・ド・ノートルダム
     アントワーヌ・ド・ノートルダム(Antoine de Nostredame, 1523年 - 1597年以降)は、ノストラダムスの弟の一人。ジョーム・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミの間に生まれた。プロヴァンス州サン=レミの役人、法曹家。  1523年4月27日に洗礼を受けた記録がある。1547年から1597年までについては、公証人バディナンクによる記録に多く見出せる。このため、そのときまで生きていたことは確かだが、正確な没年は不明である(*1)。ラメジャラーは1597年没としていたが(*2)、明らかに誤認だろう。  職業は記録によって様々で、1550年から1551年にはサン=レミの徴税吏 (exacteur de la taille)、1557年にはサン=レミ市の代訴人 (procureur)、1558年にはサン=レミ市の執政官 (consul) および法廷...
  • ノストラダムス2世
    ...たようである。  ピエール・ド・レトワルの日記にも、この件に関する簡略な記述はあるらしい。ジャン=ポール・ラロッシュ(未作成)はそれを引用しているが、それは1720年版に登場する記述らしく、果たして本当にオリジナルの記述なのかはよく分からない。  少なくとも18世紀初頭の段階では、ノストラダムスの息子がインチキ予言の廉で処刑されたと広く信じられていたらしいことだけは明らかだろう。  ただし、バルタザール・ギノーたちの著書には見られない。ノストラダムス関連書の中で古い部類に属する紹介は、ウジェーヌ・バレスト(1840年)によるものだろう。そこでの紹介を引用しておくが、ボルドロンへの過剰な敵対心は差し引いて考えておくべきだろう。  哲学者ボルドロンは1689年に、予言者たちに対する凡庸な風刺書『判断占星術について』を著し、その中でノストラダムスに奇抜な判断を下した。彼...
  • アンヌ・ド・ノートルダム
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1559年12月15日 - 1597年以前)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次女(第五子)。  1559年12月15日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。かつてエドガール・ルロワらの研究では1558年頃の生まれとされていたが、兄セザールの自筆らしき手稿によって正確な生年月日が特定された(*1)。  トゥーロン(未作成)の有力者ピエール・ド・スヴァ(Pierre de Seva)と結婚し、息子メルキオール・ド・スヴァ(未作成)(Melchior de Seva)を生んだ。なお、ピエール・ド・スヴァについて、イアン・ウィルソンはラングドック州ボーケールのピエール・ド・セーヴ(Pierre de Sève)として紹介している(*2)。具体的な根拠があって...
  • エクトール・ド・ノートルダム
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの弟の一人。サン=レミ=ド=プロヴァンスに生まれたが、洗礼記録などはなく、詳細は不明である。  弟のアントワーヌの息子エクトールの洗礼記録に、立ち会った代父として「商人のエクトール・ド・ノートルダム」の名が記されている(*1)。ほぼ間違いなく同一人物であろうから、エクトールの職業は商人だったと考えられる。  1546年4月26日の結婚契約書が残っている(*2)。相手の名はアントワネット・ド・モルゲート(Antoinette de Morguète)だが、アントワネットはアントネート(Anthonete)、トネート(Thonète)など、表記に揺れがある。  アントワネットはマルティーグ島のジャン・モルゲ(Jean Morguet(*3))とカトリーヌ・ド・ベランギエー...
  • ブランシュ・ド・サント=マリー
     ブランシュ・ド・サント=マリー(Blanche de Sainte-Marie)は、ノストラダムスの父方の祖母。ブランシュ・ド・ノートルダムとも名乗った。 生涯  生年は未詳である。医師ピエール・ド・サント=マリー(未作成)の娘として生まれ、1464年にピエール・ド・ノートルダムと結婚したときには、エクス=アン=プロヴァンスに住んでいた(*1)。  ジョーム、フランソワ、ピエール、カトリーヌ、バルトロメ、マルグリットという6人の子供をもうけた。  没年も未詳だが、1503年2月15日に、借金取立ての権利を代理人ピエール・ジョアニスに譲った記録があるので、少なくともその頃までは生きていたことが明らかになっている(*2)。 名前 ...
  • 詩百篇第10巻91番
    ...  当時のパリ市民ピエール・ド・レトワル(未作成)の日記を見ると、1609年2月10日の項目にこの詩が引用され、次のようなことが書いてある。 「この日、ノストラダムスの詩百篇集から抜粋された次のような戯言(la fadaise)が送られてきた。それは今年1609年の教皇の死に関するもので、宮廷やローマで出回っていたものである」(*10)。  しかし、上でも指摘したようにこの年にコンクラーヴェは行われなかった。3行目の yssu を Jésus と読むべきという可能性が、複数の論者から挙げられている(*11)。それに従えば、「イエズス会から出た灰色と黒の中から」となる。ただ、いずれにしてもノストラダムスがなぜ1609年という年を選んだのかについて、占星術などから根拠付けることには成功していない(*12)。  ロジェ・プレヴォは、年代付きの予言は切りの良い数字を...
  • ジャン・ジフル・ド・レシャク
     ジャン・ジフル・ド・レシャク(Jean Giffre de Réchac, 1604年8月25日-1660年4月9日)は、ドミニコ会の聖職者。宗教上の名前はジャン・ド・サント=マリー。  1604年にアキテーヌ地方のレシャクの領主ジャン=ロジェ・ジフルの子として、キルブーフ(Quilleboeuf)に生まれた。14歳のとき、パリの修道院でドミニコ会士となり、以降学問を積んで伝道師、副修道院長などとして様々な場所に赴任した。  1637年にルーアンの小修道院長として赴任したあたりから、その予言や心霊方面での活動などで知られるようになった。その後、彼はパリに呼び戻されボルドーなどに赴任した後に、1641年からはパリの小修道院の副院長になっていた。  1645年以降、修道会の指導者(le maître de l’Ordre)のトマ・チュルコ(Thomas Turco)と...
  • ピエール・ブルヌゼ
     ピエール・ブルヌゼ(Pierre Brenouzet)は、16世紀ルーアンの出版業者だったらしい。ただし、当「大事典」では、この人物に関する情報を見つけられないでいる。  書誌学者ジョルジュ・ルプルーは、ルーアンのロベール・ブルヌゼ(Robert Brenouzet)、ラ・ロッシェルのジャン・ブルヌゼ(Jean Brenouzet)らを挙げているが、ピエールへの言及は全くない(*1)。ほかの書誌学者たちも、言及していないようである。 ノストラダムス関連  1568年に『1583年まで歴年続く20年間の予言集・1568年版』を出版した。 名前 ...
  • バルトロメ・ド・ノートルダム
     バルトロメ・ド・ノートルダム(Bartholomée de Nostredame)ないしバルテルミー・ド・ノートルダム(Barthélemye de Nostredame)は、ノストラダムスの叔母。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、次女と推測されている(*1)。エドガール・ルロワは認識していなかったが、ウジェーヌ・レー(未作成)の調査で明らかになった。  詳細な経歴は不明だが、サロンの商人バルテルミー・ブゾーダン(Barthélemy Bezaudin, 1490年に改宗)と結婚したことだけが明らかになっている(*2)。 名前 ...
  • ピエール・アブグー
     ピエール・アブグー3世(Pierre III Abegou)は、ボルドーの出版業者。1639年ごろに出版業者ピエール・アブグー2世(活動1640年 - 1661年頃)の子として生まれ、1659年から1663年の間に出版業者としての活動を開始した。1664年から1692年に特に活動が顕著で、シャルル・ダビ、ジャン・マルテルなどの他の業者との共同出版もしばしば行った。その後、少なくとも1701年までの活動が確認できるが、さらにどの程度活動したのかは不明(*1)。 ノストラダムス関連  現存しないが、『予言集』1670年ボルドー版を出版した可能性がある。  また、『予言集』1689年ボルドー版が現存している。こちらはアルノー・ラランヌとの共同出版も行った可能性がある。 ...
  • ルイ・ド・ガロー・ド・シャストゥイユ
     ルイ・ド・ガロー・ド・シャストゥイユ (Louis de Galaup de Chasteuil, 1554年11月19日 - 1598年3月8日) は、16世紀フランスの詩人、行政官。  同時代には、「シャストゥイユ殿、ルイ・ド・ガロー」(Louis de Gallaup, sieur de Chasteuil) と表記されることもあった。また、ガローは Galaup とも Gallaup とも綴られ、シャストゥイユはシャスチュエイユ (Chastueil) とも綴られることがあった(*1)。  ノストラダムス関連書では「ルイ・ガロー・ド・シャストゥイユ」と表記されることも多いが、ここではフランス国立図書館のデータに従う。  エクス=アン=プロヴァンスに生まれた。アンリ4世からは国務院(コンセイユ・デタ)の評議員に任命された(*2)。詩人としては1595年に 『王家の懺悔の...
  • 人名一覧
     ノストラダムスに関連する人名や団体名の一覧。  原則として姓をカタカナ表記した際のアルファベット順に並べている。「ド」などを姓に含むかどうかは、外国語文献の索引に準じて個別に判断している。また、一部日本人のペンネームは外国人名のように見えても全体で一つと見なしている(例えば、「フェニックス・ノア」は「は行」に掲載)。  なお、ノストラダムスの一族のうち、細かすぎる項目はノストラダムス一族の方に、出版業者のうちノストラダムス本人と関連性が薄い人物は出版業者の一覧の方に、それぞれ記載しているので、そちらを参照されたい。  名前の後の括弧は大まかな職業やグループわけを示している。斜線が引かれている場合、その前が職業などを指し、後ろがノストラダムス関連の立ち位置などを指す(「その他」とあるのは、専門的な研究者や信奉者的な解釈者と分類しづらい人物を示す)。 あ 明石三世(インテリ...
  • ジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの末弟アントワーヌ・ド・ノートルダムの息子。十男十女のおそらく長男(第一子)。  1567年8月19日にサン=レミの服飾親方ピエール・スピグ(Pierre Spigue)もしくはピエール・エピゴル(Pierre Espigol)のもとに徒弟修業に出されたという記録以外は不明(*1)。 関連項目 ジャン・ド・ノートルダム(高等法院検事) ジャン・ド・ノートルダム (早世した弟?) ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子) 名前 コメント
  • トミーヌ・ド・ノートルダム
     トミーヌ・ド・ノートルダム(Thomine de Nostredame)は、ノストラダムスの甥であるクロードの娘。  1574年1月4日に洗礼を受けた。代父はサン=レミの神学博士でサン=マルタン参事会聖堂の参事会員でもあった伯父(または叔父)のピエール・ダルメラン(Pierre d Alméran)、代母はトミーヌ・リシエール(Thomine Richière)であった。  ピエール・ダルメランは、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子である。  彼女は、16世紀末にアヴィニョンの法学博士メルキオール=ジャック・ド・ジョアニス(Melchior-Jacques de Joannis(*1))の再婚相手となった。メルキオール=ジャックは、ノストラダムスの叔母に当たるマルグリット・ド・ノートルダムとその夫ピエール・ジョアニスの曾孫であ...
  • マルグリット・ド・ノートルダム
     マルグリット・ド・ノートルダム(Margueritte de Nostredame, 1485年以前 - 没年未詳)は、ノストラダムスの叔母。ノストラダムスの父ジョームの妹。  生没年は不明だが、父ピエール・ド・ノートルダムの1485年2月付の遺言書で言及があることから(*1)、そのときにはすでに生まれていたと考えられる。  1494年12月26日にアヴィニョンの染物工ピエール・ジョアニス(Pierre Joannis)と結婚した(*2)。  ノストラダムスがアヴィニョン大学在学中に面倒を見たといわれることがあるが、史料的に裏付けることはできない。 名前 ...
  • ノストラダムス一族
    父方の先祖・親類 アストリュージュ・ド・カルカソンヌ(ノストラダムスの五世祖) ヴィタル・ド・カルカソンヌ(ノストラダムスの高祖父) アルノートン・ド・ヴェロルグ(ノストラダムスの曾祖父) ヴァンゲソンヌ(ノストラダムスの曾祖母) ピエール・ド・ノートルダム(ノストラダムスの祖父) トリスタン・ド・ヴェロルグ(ノストラダムスの大叔父) ブランシュ・ド・サント=マリー(ノストラダムスの祖母) ジョーム・ド・ノートルダム(ノストラダムスの父) フランソワ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔父) アルルのピエール・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔父) カトリーヌ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) バルトロメ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) マルグリット・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) 母方の先祖・親類 ジャン・ド・サン=レミ(ノストラダムスの母方の曽祖父...
  • ヴィタル・ド・カルカソンヌ
     ヴィタル・ド・カルカソンヌ(Vital de Carcassonne, 1390年頃 - 1452年)は、ノストラダムスの父方の先祖。ノストラダムスの高祖父、つまりノストラダムスの祖父ピエールの祖父に当たる。  アストリュージュ・ド・カルカソンヌの子で、アヴィニョンで小麦と織物の卸売商を営んでいた(*1)。クレギュ・マシプ(Crégut Massip)の娘アストリュジー(Astrugie)と結婚し、ジャコブ(Jacob)、ダヴァン、マソヌ(Massone)という少なくとも3人の子をもうけた(*2)。 名前 コメント
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame)は、ノストラダムスの叔母。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、長女と推測されている(*1)。エドガール・ルロワは認識していなかったが、ウジェーヌ・レー(未作成)の調査で明らかになった。  生年未詳は未詳である。1483年初め頃に、アルルの商人トロフィム・エカルディ(Trophime Aycardi)と結婚した。この時点で18歳以下であったろうとされている。ウジェーヌ・レーはその根拠を示していないが、おそらく両親の結婚の年から判断したものだろう。  その後、アルルの仲買人(négociant)であったトロフィム・マリー(Trophime Marie)と再婚し、一子(名前は未詳)をもうけたが、1498年に死別した。1502年には、アルルの改宗キリスト...
  • ジョーム・ド・ノートルダム
     ジョーム・ド・ノートルダム(Jaume de Nostredame, 1470年頃 - 1547年頃)は、ノストラダムスの父。アヴィニョンとサン=レミで、商人、公証人などとして活動した。  ジョメ・ド・ノートルダム(Jaumet de Nostredame)、ジャック・ド・ノートルダム(Jacques de Nostredame)、ジャック・ド・サント=マリー(Jacques de Sainte-Marie)などとも記録され(*1)、ラテン語名はヤコブス・デ・ノストラ・ドミナ(Jacobus de Nostra Domina)である(*2)。 生涯  ジョームは1470年頃にアヴィニョンで生まれた(*3)。父ピエールの死は1485年頃で、ジョームが15歳頃にあたっている。ジョームは当初父の職をついでアヴィニョンで商業と貸金業を営んでいたが、1495年5月14日にプロヴァンス州サ...
  • トリスタン・ド・ヴェロルグ
     トリスタン・ド・ヴェロルグ(Tristan de Vélorgue, 1464年以降 - 1528年頃)はノストラダムスの父方の大叔父。ノストラダムスの祖父ピエール・ド・ノートルダムの異母弟にあたる。  父アルノートン・ド・ヴェロルグが1464年に再婚した後、それほど離れていない時期に生まれたらしい。  マルセイユに住み、1524年8月にマルセイユがブルボン公によって包囲されたときには、防衛隊に名を連ねた。その4年ほど後にはマルセイユの理髪師として記録が残っている(*1)。 その他  五島勉は、ノストラダムスが1530年代にアヴィニョンに住む「父方の大伯父」から、予言能力を開花させるための重要な示唆を受けたとしていた(*2)。しかし、祖父ピエールの兄弟はここで扱うトリスタン以外確認されておらず、住所も生きていた時期も「大伯父」か「大叔父」かも、何ひとつ一致していな...
  • ピエール・ユボー
     ピエール・ユボー2世(Pierre II Hubeault)は、16世紀ルーアンの出版業者。書誌学者ジョルジュ・ルプルーは、その活動期間を1575年から1580年としていたが、ミュラーは1569年と1575年から1580年とした(*1)。ミュラーは出典をルプルーしか挙げていなかったが、1569年というのは下掲のノストラダムス2世の文献に基づいたものであろう。 ノストラダムス関連  1569年に『1583年まで歴年続く20年間の予言集・1568年版』を出版した。ルプルーは活動開始時期を特定していたわけではないので、偽年代版などを想定する必然性はないものと思われる。  実際、パリのニコラ・デュ・モンが1571年に出版した『13年間の予兆集』でも、ユボーによる1569年版への言及はあるので、1575年以降の出版と考えることはまず無理であろう。 ...
  • ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ
     ピエール=ジョゼフ・ド・エーツ(Pierre-Joseph de Haitze, 1648年頃 - 1736年7月26日)は、フランスの作家、歴史家。主としてプロヴァンスの歴史や、プロヴァンスに縁のある人物の伝記をまとめた。  エーツは、1648年頃にカヴァイヨンで生まれた。ベアルン地方の高貴な出自であったという。彼はプロヴァンスの歴史に特に興味を持ち、様々な調査も行った。その作品は文体の丁寧さや明瞭さが評価される一方、内容が皮相的であることや、調査における批判能力の不足なども指摘されている。 彼は、親戚にあたるジャン=フランソワ・ゴフリディ家に秘書として住み込んでおり、1736年にプロヴァンス地方のトレ(Trets, 現ブーシュ=デュ=ローヌ県内)で没した。 ノストラダムス関連  エーツによるノストラダムスの伝記 『ミシェル・ノストラダムスの生涯(未作成)』(1711年...
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame, 1552年 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1552年7月7日の洗礼には、代父の医師サン=レミと、代母のカテリナ・ロンバルダ(Katherina Lombarda(*1))が立ち会った。エドガール・ルロワが指摘するように、代父はさすがにジャン・ド・サン=レミとは別人だろう。  タラスコンの平貴族(écuyer)であったピエール・ド・リスプ(Pierre de Rispe)の同名の息子ピエールと、1569年に結婚した。ただし、その際の結婚持参金を巡る契約と支払いに関して、ベルトランとリスプ家の間で数ヶ月にわたって諍いがあったという。  カトリーヌに関するその他の事項は、(没年も含めて)不明である(*2)。 ...
  • フランソワ・ド・ノートルダム
     フランソワ・ド・ノートルダム(François de Nostredame)は、ノストラダムスの叔父。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、次男と推測されている(*1)。  生年未詳だが、兄ジョームが1470年頃の生まれなので、当然それ以降の生まれとなる。また、1485年6月15日以降の記録に全く登場しないことから、若くして亡くなったと推測されている(*2)。 名前 コメント
  • ピエール・ラグランジュ
     ピエール・ラグランジュ(Pierre Lagrange, 1963年- )は科学社会学者(sociologue des sciences)。  「文化制度に関する人類学・歴史学研究所」(Laboratoire d Anthropologie et d Histoire sur l Institution de la Culture)の準研究員(2003年)。  いわゆる超常現象に関して社会学的なアプローチで分析をしており、著書に『ロズウェルの噂』(La rumeur de Roswell, 1996)などがある(*1)。 ノストラダムス関連  エルヴェ・ドレヴィヨンとともに『ノストラダムス 永遠回帰』(2003年)を出版した。これは『ノストラダムス ― 予言の真実』という題で日本語版も出版されている。 ...
  • ジャンヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     ジャンヌ・ド・ノートルダム(Jeanne de Nostredame, 1545年8月11日 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  サン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれた。洗礼に立ち会った代父は、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子ピエール・アルメランで、代母はラマノンの貴族ヨハンナ・グイレマンダ(Johanna Guiremanda(*1))だった。  サロン・ド・クローの名士でたびたび市の執政官にもなっていたトロン・ド・クドゥレ家の当主(Tronc de Coudoulet)と1565年に結婚した。エドガール・ルロワの研究書では、その名は本文ではピエール・トロン・ド・クドゥレとなっているのに対し、家系図ではジャン(Jehan)となっている。  なお、ノストラダムスがサロン滞在中...
  • ピエール・マルニオル
     ピエール・マルニオル(Pierre Marniolles)は、17世紀フランスの出版業者。リヨンで1610年から活動し、1621年からはグルノーブルでも活動した。1623年以降はグルノーブルでの活動に一本化した。手がけた出版物は、事件ものが多かった(*1)。 ノストラダムス関連書  エチエンヌ・タンチヨンと共同で『予言集』を出版した。 名前 コメント
  • ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (偽ピエール・リゴー版、1716年頃)
     1566年にピエール・リゴーが出版したとされる『予言集』がある。しかし、それは1716年頃に作成された偽年代版である。 【画像】偽年代版第一部の扉(*1)  上記画像の通り、全部で3つの版の存在が知られている。便宜上、太陽が擬人化されている左端の版を A 版、渾天儀が描かれている中央の版を B 版、猪に折り重なっている人物と跪く女性が描かれている右端の版を C 版としておく(*2)。 正式名 Les Propheties de M. Michel Nostradamus, Dont il y en a trois cents qui n'ont jamais été imprimées. Ajoûtées de nouveau par l'Auteur. Imprimées par les soins du Fr. Jean Vallier...
  • 予言集一覧
     『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版(1555年)から現在までに出版されている版の一覧。 1815年までの版 一段下げてあるのは特定の版の復刻版 1555年初版 1555年アヴィニョン版 1556年シクスト・ドニーズ版 1557年アントワーヌ・デュ・ローヌ版Michel Nostradamus mester próféciái melyek közül háromszázat eddig még sohasem nyomtattak ki., 2004 1558年版 1561年頃バルブ・ルニョー版 1561年ニコラ・ビュフェ未亡人版 1568年ブノワ・リゴー版 1588年ニコラ・ロフェ未亡人版 1588年ラファエル・デュ・プチ・ヴァル版 1589年ピエール・メニエ版 1589年シャルル・ロジェ版 1589年ラファエル・デュ・プチ・ヴァル版 1590年ジャック・ルソー...
  • バルタザール・ギノー
     バルタザール・ギノー(Baltazar Guynaud, 生没年未詳)は、17世紀末頃のフランスの作家。ノストラダムス予言の解釈書を刊行した。現在知られている範囲内で、「恐怖の大王」について初めて解釈を展開した人物である。  ギノーの生涯についてはほとんど分かっていない。彼自身の著作にある自伝的な言及から、調馬師の資格を持ち、フランス王ルイ14世附きの小姓頭を務めた時期があったとされる。この真偽は定かではないものの、彼がルイ14世に強い思い入れがあったことは著書から明らかである。  彼の唯一の著作は『アンリ2世からルイ大王までの歴史とノストラダムス予言集との一致』である。これは1693年に刊行され、1709年と1712年に再版された。  ノストラダムスの予言を熱烈に信奉したがゆえに、ピエール・ガッサンディ(未作成)やジャン・ド・スポンド(未作成)といったノストラダ...
  • リュクレース・ド・ノートルダム
     リュクレース・ド・ノートルダム(Lucrèce de Nostredame, 1554年 - 1596年以降)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1554年7月15日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで、代父ピエール・ド・リスプらの立会いのもと洗礼を受けた。リスプの息子は後にリュクレースの姉カトリーヌと結婚した。  1577年2月17日にアルルのブルジョワであるジャン・ドモンド(Jean Demonde)と結婚したことがわかっているが、それ以外のことは不明である。1596年のベルトランの遺言書でも言及があるので、少なくともその時までは生きていたらしい(*1)。 名前 ...
  • ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (ピエール・リゴー、1650年頃)
     『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、1650年頃にもリヨンのピエール・リゴーの名義で出版された。 【画像】第一部の扉(左)と第二部の扉(右)(*1) 正式名 第一部 LES PROPHETIES DE M. MICHEL NOSTRADAMVS. Dont il y en a trois cens qui n ont encores iamais esté imprimées. Adioustees de nouueau par ledict Autheur. A LYON, Chez PIERRE RIGAVD, ruë Merciere, au coing de ruë Ferrandiere, à l ensaigne de la Fortune. AVEC PERMISSION. ミシェル・ノストラダムス師の予言集前述の著者によって新たに加えられ...
  • エクトール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 1546年 - 没年未詳)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムの次男(第二子)で、ノストラダムスの甥の一人。  1546年4月17日の洗礼記録のみが知られている。立ち会った代父はエクトール・ド・ノートルダム、代母はゴントラーヌ・ペトゥーズ(Gontrane Pétouse)であったというから(*1)、エクトールという名は伯父からもらったものだろう。 名前 コメント
  • ラ・ピエール・ブランシュ
     ラ・ピエール・ブランシュは、メーヌ地方に残るメンヒル(古代の巨石記念物)の通称である。  サン=チレール=デュ=メーヌ(Saint-Hilaire-du-Maine)近郊にあり、エルネの町からは6 km ほどのところにある(*1)。  当時の『フランス街道案内』(1552年、増補1553年)にも載っているランドマークである。 登場箇所 詩百篇第9巻20番 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
  • クレール・ド・グリニャン
     クレール・ド・グリニャン(Claire de Grignan, 生没年未詳)は、ノストラダムスの長男セザールと結婚した女性。  ジャン・ド・グリニャン(Jean de Grignan)とジャンヌ・ド・クラポンヌ(Jeanne de Craponne)の娘で、セザールとは1604年に結婚した(*1)。母ジャンヌは、アダン・ド・クラポンヌの兄フレデリクの姪だという(*2)。  その容姿について、セザールは類まれなる美しさであると褒めている。  セザールとの間に子供はいなかった。  生没年に関する言及は関連書の中に見出せないが、1630年に書かれたセザールの遺言書では、遺産の受取人としてディアーヌ・ド・ノートルダムが指定されているので、それ以前に亡くなっていたものと思われる。 ...
  • ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム
     ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム(Michel-Bertrand de Nostredame, 1578年 - 1637年以前)は、ノストラダムスの甥であるクロードの息子。一族で最も有名な大伯父「ミシェル」(ノストラダムス)と、プロヴァンス総督の従者を務めた祖父「ベルトラン」の名を与えられた男児だが、ベルトランが築き上げた名家としての地位と財産を潰してしまった不肖の孫である。 生涯  1578年11月1日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。姉トミーヌの時と同じく、代父は伯父(または叔父)でもあるピエール・ダルメランがつとめた。代母はクローズ領主(sieur de Crozes)の夫人シルヴィ・ド・ブランケ(Sylvie de Brancquais)である。なお、シルヴィの夫ポール・ミストラル・ド・モンドラゴンの一族の邸宅は、現在、サン=レミのアルピーユ博物館になっ...
  • 出版業者の一覧
     ノストラダムスに関連する出版業者の一覧。原則として姓をカタカナ表記した際のアルファベット順に並べている。「ド」などを姓に含むかどうかは、外国語文献の索引に準じて個別に判断している。  ノストラダムス関連書を出版したことのある業者、特に16世紀から19世紀までの業者の情報を網羅することを目指している。  出版業者の情報はさしあたり次の2点で有益と考える。  ひとつめは、刊行年の特定されていない関連書について、出版業者の活動歴から刊行年を絞り込める可能性が出てくることである。  ふたつめはノストラダムス現象を従来とは別の視点から裏付けていくことにある。 例えば、ピエール・ルーやクリストフ・プランタン(未作成)など、出版業者の中には活動し始めて間もない頃にノストラダムス関連書を出版している事例がしばしば見られる。これは単なる偶然の場合もあるだろうが、その一方で「売れるブラン...
  • ジャン・ド・ノートルダム
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean/Jehan de Nostredame, 1522年 - 1577年頃)は、フランスの法曹家、歴史家。ノストラダムスの弟のひとり。プロヴァンス史(特に文学史)の研究を行い、『最も名高い昔のプロヴァンス詩人たちの生涯』(Les vies des plus célèbres et anciens poètes provensaux(未作成))を刊行した。 生涯  ジャンはかつて1507年にサン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれたとされていた。ただし、これは古い文献で示されていた出典の不明な記述である。  エドガール・ルロワは洗礼記録が1522年2月19日であることから、実際の生年を1522年とした(*1)。竹下節子、ジャンに関する研究で博士号を取得したカザノヴァ(J.Y.Casanova)、その研究を紹介したゲラールのように、これを支持する者...
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