「light novel/異伝記録/無名箱3.5/ケンプフェルト剛力危機異伝」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
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聖暦1039年2月・ヴェルレニース自由港同盟首都ネイフフォード新市街の閑静な一角に建つ、ヴェルレニース国立図書館の本館。
「ちょっといいかね、カレンくん」
「あっ、はい」
司書の一人、カレン・ステイプルトンは館長の呼び出しを受けていた。
「ひとつ、問題が生じた」
「問題…ですか」
深刻そうな面持ちで語る初老の館長。
「ああ。君にはそのために少し古巣で仕事をしてもらう」
「古巣…統一外交委員会の事務局ですか?それともヴェルレニース大学言語学部に?
「外交のほうだ。本来なら入れてもらえるはずはなかったのだが、君であることを条件にどうにか出向を認めてもらった」
「…どういう問題が起きたのですか?」
「ケンプフェルトの著書の購入予定は覚えているね?君も確か蔵書に賛成を入れたはず」
「はい、イヴァインベルクにおける社会的な反響を見るに、イヴァインベルクに関する政治学の上で蔵書にする価値があるだろうと」
「読んだことは?」
「…いえ」
「恥じずともよい、ヴェルレニース人であれを読んだ者はいない。蔵書に入れることが提案されたのも君がこの書評を素早くキャッチしてくれたからだ」
「はい。それで、あの本が…?」
「成立して間もない領邦体制への非難ととられ、禁書になった。我々が注文していた一冊はリエナ港で差し押さえ、だ」
「差し押さえ?」
「ヴェルレニース船籍の船に積み込む直前だったそうだ。輸送業者が在イヴァイン法人だったために取り上げが通ってしまった」
「それで、私の役割とは」
「我々はあの本を蔵書する。君は翻訳官の身分を与えられた。ヴェルレニース使節団に参加、これに協力し、あの本を取り戻せ」
「謹んで拝命しました」
しかしかくしてブレメルリッツの自由港同盟大使館に到着し、まず交渉の状況を聞きに行ったカレンを迎えたのは同盟外交官の冷ややかな対応であった。
この対応は確かに自分が統一外交委員会の事務局にいたときには自身が体現していたのものではあった。
軍事、通商、宗教などの様々な価値が複雑に折衷された自由港同盟体制においては、分かりやすい「国益」の算定法は存在しない。
ゆえに、統一外交委員会はそれら利益集団から独立して、同盟全体の存立と安定を見通して、他国との首尾一貫した外交を行わねばならず、そうであれば、決して特定の国内勢力に偏ってはならない。
これは統一外交委員会が設立された趣旨であり、内政各部署とも隔絶した統一外交委員会の高い地位を齎しているものでもある。
…それはそうなのだが、その相手をする側に回ってみれば、やはりこれは面倒なものだ。外部からの介入者を入れたがらない性質というものは。NIH症候群もこれでは可愛いものだ。
自分が元事務局員というのも、身内に甘い顔をしたりしてはならないという原則からして対応を冷淡にするよう意識させているのだろう。
「イヴァインベルク側によりますと本そのものは返せませんし禁書指定も外せませんが本の代金は賠償してくれるそうですね。そちらの仕事はこれで終わりなのでは?」
「それは良いのですが…統一外交委員会の意図は?」
「これは自由の理念に関わる重大な問題です。引き下がることは決してできません」
少し顔を上げた外交官の銀縁の眼鏡がうっすらと光る。かなり本気なのだろう。私が今事務局にいたとしたら多分私もこうするであろう。
「心中お察しします。しかし本の内容が分からないのでは交渉もできないでしょう」
「ほう…何か策がおありで?」
乗ってきた。冷淡な対応のうちにもこの外交官の脳内にあるのは行きづまりの解決策の模索。そう、行き詰まっているのだ。
「まだ本の回収が始まって一週間と経っていません。イヴァインベルクの市井から未回収の本を入手することは充分に可能でしょう」
「ほう…その“市井”がどこかにあると?」
「そのあたりは私に心当たりがあります。問題ないでしょう」
「彼らにペルソナ・ノン・グラータを食らわされたいのですか?」
「ですから内密に行う必要があります。そして万が一があった時には、これは私の独断専行であり今回の使節団の総意ではない、と」
「…ふむ。しかしそうであれば外交委の援護はあまり期待できないとご理解ください」
期待していないはずはあるまい。しかしなぜそうまでするのかと不審は抱いているだろう。彼らは自分たち以外に“ヴェルレニース人”がいくらでもいることを解したがらない。
…けれど、私はヴェルレニース人なのだ。
「はい、それはよく知っています」
東の空を照らす太陽。そよ風に揺れる木の葉。そして陽光を受けて輝く朝露。そんなすがすがしい朝。
ここはイヴァインベルクのとあるユンカーの所領。留学時代に親友だった貴族の娘の実家である。
(…本当はできれば本当に市井から入手したかったのですが。とはいえどのみち向こうに入手ルートは教えることはありませんし、早く入手できるに越したことはないでしょう)
そんなことを考えていると、使用人が呼びにくる。朝食の準備ができたらしい。
「昨日は満足に応対してやれずすまなかったね。ちょうど別の客人も来ていたもので、そっちにかかりきりだった」
いかめしい顔つきの主人がすまなさそうにしている。会った当初はそのギャップに驚かされたものだ。
「そうとは知らずすみません。忙しいところにお邪魔して」
「いや、かまわないよ。君の働き次第で書庫にある一冊が禁書指定を解除され、堂々と持ち歩けるようになるというわけだ。まあ、ここだけの話書庫にある禁書など一冊や二冊ではないがね、ははは」
相変わらずだ。娘の話ではずっと昔ある商人との出会いの中で感化され、開明的になったと聞いたとか。最近では領内に線路を引いてみたりしているらしい。
「…それで、あの本については」
「ああ、さすがに原本はこのままおいておきたい。コピーは持っていってくれてかまわん」
「写本か。君たちにとってはこれで充分ではないかね?後は我々の仕事であろう」
…相変わらず外交官は冷淡だ。だが、引き下がるわけにはいかない。
「そういうわけにもいきません。私が与えられた役割は『あの』本を取り返せ、ですから、没収された本そのものを取り返さなければなりません」
「…そうか。まあ、翻訳官としての任務はまだ終わっていない、か。そうだな」
「写しです。ヴェルレニース語の対訳は私が付けました。本国にも送付済みです」
「…原本は、どうやって?」
「さて…『最初からそこらじゅうにあった』のでは?図書の流通の規制というのがうまくいく時代ではもはやありませんからねえ、いっそおやめになっては」
そんなことはできない。認められない。
それは…それは百家争鳴と同義だ。
「我々としては
「では少し言い方を変えましょう。最初からそこらじゅうにあったことに『しましょう』か」
見えないネットワークから情報を拾えるなら、見えないネットワークを介して情報を拡散させることもできる…言外のそういう脅しだ。それは…そのようなことは、決して………。
再び親友の父であるとあるユンカーの邸宅。成功報告に来たのだ。
彼もいたく喜んでいたのだが、印象的だったのはもう一人の客人の話だ。こんなだった気がする。
「やはり、上から変える必要があるのでしょうな」
三十代くらいの紳士だ。同じヴェルレニース国民。鉄道関係の実業家なのだそうだ。
「彼らが恐れているのは下からの変革でしょうけども。しかしかのようなところに手早い変革をもたらすには―彼ら自身は過程のうちにおいてそれは漸進的なものと思いなすでしょうが―上からの変革こそ有益。そしてここからが重要なのですが、一度上を抱き込んでしまえば、次のステップとしての下からの流れの形成から目を逸らさせ、あるいは恐れさせなくすることができる。そういうことでしょうな」
恐ろしい人だ。どうも命知らずなのかもしれない。少なくとも相当な野心家だ。
「いずれにせよ、今回はまだ妥協せざるを得なかったのでしょう。まだまだこれからというわけです」
それは間違いなくそうだ。しかし、そんなことより、この人物が何となくヴェルレニースの行く先に波乱を齎す人物である、そんな予感がどうにもぬぐえなかった。
聖暦1039年2月・ヴェルレニース自由港同盟首都ネイフフォード新市街の閑静な一角に建つ、ヴェルレニース国立図書館の本館。
「ちょっといいかね、カレンくん」
「あっ、はい」
司書の一人、カレン・ステイプルトンは館長の呼び出しを受けていた。
「ひとつ、問題が生じた」
「問題…ですか」
深刻そうな面持ちで語る初老の館長。
「ああ。君にはそのために少し古巣で仕事をしてもらう」
「古巣…統一外交委員会の事務局ですか?それともヴェルレニース大学言語学部に?
「外交のほうだ。本来なら入れてもらえるはずはなかったのだが、君であることを条件にどうにか出向を認めてもらった」
「…どういう問題が起きたのですか?」
「ケンプフェルトの著書の購入予定は覚えているね?君も確か蔵書に賛成を入れたはず」
「はい、イヴァインベルクにおける社会的な反響を見るに、イヴァインベルクに関する政治学の上で蔵書にする価値があるだろうと」
「読んだことは?」
「…いえ」
「恥じずともよい、ヴェルレニース人であれを読んだ者はいない。蔵書に入れることが提案されたのも君がこの書評を素早くキャッチしてくれたからだ」
「はい。それで、あの本が…?」
「成立して間もない領邦体制への非難ととられ、禁書になった。我々が注文していた一冊はリエナ港で差し押さえ、だ」
「差し押さえ?」
「ヴェルレニース船籍の船に積み込む直前だったそうだ。輸送業者が在イヴァイン法人だったために取り上げが通ってしまった」
「それで、私の役割とは」
「我々はあの本を蔵書する。君は翻訳官の身分を与えられた。ヴェルレニース使節団に参加、これに協力し、あの本を取り戻せ」
「謹んで拝命しました」
しかしかくしてブレメルリッツの自由港同盟大使館に到着し、まず交渉の状況を聞きに行ったカレンを迎えたのは同盟外交官の冷ややかな対応であった。
この対応は確かに自分が統一外交委員会の事務局にいたときには自身が体現していたのものではあった。
軍事、通商、宗教などの様々な価値が複雑に折衷された自由港同盟体制においては、分かりやすい「国益」の算定法は存在しない。
ゆえに、統一外交委員会はそれら利益集団から独立して、同盟全体の存立と安定を見通して、他国との首尾一貫した外交を行わねばならず、そうであれば、決して特定の国内勢力に偏ってはならない。
これは統一外交委員会が設立された趣旨であり、内政各部署とも隔絶した統一外交委員会の高い地位を齎しているものでもある。
…それはそうなのだが、その相手をする側に回ってみれば、やはりこれは面倒なものだ。外部からの介入者を入れたがらない性質というものは。NIH症候群もこれでは可愛いものだ。
自分が元事務局員というのも、身内に甘い顔をしたりしてはならないという原則からして対応を冷淡にするよう意識させているのだろう。
「イヴァインベルク側によりますと本そのものは返せませんし禁書指定も外せませんが本の代金は賠償してくれるそうですね。そちらの仕事はこれで終わりなのでは?」
「それは良いのですが…統一外交委員会の意図は?」
「これは自由の理念に関わる重大な問題です。引き下がることは決してできません」
少し顔を上げた外交官の銀縁の眼鏡がうっすらと光る。かなり本気なのだろう。私が今事務局にいたとしたら多分私もこうするであろう。
「心中お察しします。しかし本の内容が分からないのでは交渉もできないでしょう」
「ほう…何か策がおありで?」
乗ってきた。冷淡な対応のうちにもこの外交官の脳内にあるのは行きづまりの解決策の模索。そう、行き詰まっているのだ。
「まだ本の回収が始まって一週間と経っていません。イヴァインベルクの市井から未回収の本を入手することは充分に可能でしょう」
「ほう…その“市井”がどこかにあると?」
「そのあたりは私に心当たりがあります。問題ないでしょう」
「彼らにペルソナ・ノン・グラータを食らわされたいのですか?」
「ですから内密に行う必要があります。そして万が一があった時には、これは私の独断専行であり今回の使節団の総意ではない、と」
「…ふむ。しかしそうであれば外交委の援護はあまり期待できないとご理解ください」
期待していないはずはあるまい。しかしなぜそうまでするのかと不審は抱いているだろう。彼らは自分たち以外に“ヴェルレニース人”がいくらでもいることを解したがらない。
…けれど、私はヴェルレニース人なのだ。
「はい、それはよく知っています」
東の空を照らす太陽。そよ風に揺れる木の葉。そして陽光を受けて輝く朝露。そんなすがすがしい朝。
ここはイヴァインベルクのとあるユンカーの所領。留学時代に親友だった貴族の娘の実家である。
(…本当はできれば本当に市井から入手したかったのですが。とはいえどのみち向こうに入手ルートは教えることはありませんし、早く入手できるに越したことはないでしょう)
そんなことを考えていると、使用人が呼びにくる。朝食の準備ができたらしい。
「昨日は満足に応対してやれずすまなかったね。ちょうど別の客人も来ていたもので、そっちにかかりきりだった」
いかめしい顔つきの主人がすまなさそうにしている。会った当初はそのギャップに驚かされたものだ。
「そうとは知らずすみません。忙しいところにお邪魔して」
「いや、かまわないよ。君の働き次第で書庫にある一冊が禁書指定を解除され、堂々と持ち歩けるようになるというわけだ。まあ、ここだけの話書庫にある禁書など一冊や二冊ではないがね、ははは」
相変わらずだ。娘の話ではずっと昔ある商人との出会いの中で感化され、開明的になったと聞いたとか。最近では領内に線路を引いてみたりしているらしい。
「…それで、あの本については」
「ああ、さすがに原本はこのままおいておきたい。コピーは持っていってくれてかまわん」
「写本か。君たちにとってはこれで充分ではないかね?後は我々の仕事であろう」
…相変わらず外交官は冷淡だ。だが、引き下がるわけにはいかない。
「そういうわけにもいきません。私が与えられた役割は『あの』本を取り返せ、ですから、没収された本そのものを取り返さなければなりません」
「…そうか。まあ、翻訳官としての任務はまだ終わっていない、か。そうだな」
「写しです。ヴェルレニース語の対訳は私が付けました。本国にも送付済みです」
「…原本は、どうやって?」
「さて…『最初からそこらじゅうにあった』のでは?図書の流通の規制というのがうまくいく時代ではもはやありませんからねえ、いっそおやめになっては」
そんなことはできない。認められない。
それは…それは百家争鳴と同義だ。
「我々としては…えー、図書の流通にあたっては健全な―」
「少し言い方を変えましょう。最初からそこらじゅうにあったことに『しましょう』か」
見えないネットワークから情報を拾えるなら、見えないネットワークを介して情報を拡散させることもできる…言外のそういう脅しだ。それは…そのようなことは、決して………。
再び親友の父であるとあるユンカーの邸宅。成功報告に来たのだ。
彼もいたく喜んでいたのだが、印象的だったのはもう一人の客人の話だ。こんなだった気がする。
「やはり、上から変える必要があるのでしょうな」
三十代くらいの紳士だ。同じヴェルレニース国民。鉄道関係の実業家なのだそうだ。
「彼らが恐れているのは下からの変革でしょうけども。しかしかのようなところに手早い変革をもたらすには―彼ら自身は過程のうちにおいてそれは漸進的なものと思いなすでしょうが―上からの変革こそ有益。そしてここからが重要なのですが、一度上を抱き込んでしまえば、次のステップとしての下からの流れの形成から目を逸らさせ、あるいは恐れさせなくすることができる。そういうことでしょうな」
恐ろしい人だ。どうも命知らずなのかもしれない。少なくとも相当な野心家だ。
「いずれにせよ、今回はまだ妥協せざるを得なかったのでしょう。まだまだこれからというわけです」
それは間違いなくそうだ。しかし、そんなことより、この人物が何となくヴェルレニースの行く先に波乱を齎す人物である、そんな予感がどうにもぬぐえなかった。