nations > ロムレー湖畔共和国

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#contents |~国名|République de Lacustre Lomeray| |~(英訳)|Lakeside Republic of Lomeray| |~標語|Liberté et Patrie(自由と祖国)| |~国歌|Ô monts indépendants(おお自由なる山々よ)| |~公用語|ロムレー・フランス語| |~宗教|カルヴァン派(国教)、キリスト教他教派、CDX教会、無宗教、その他| |~政体|議会主義・代議制共和国| |~通貨|ロムレー・フラン| |~建国|フリューゲル暦 611年 5月 15日| *概要 [#df938619] ロムレー湖畔共和国は、フリューゲル最大の観光大国であり、議会主義を掲げる共和国である。 スイス西部(主にヌーシャテル湖畔)を出自とする移民団がフリューゲル暦611年に故郷に似たフリューゲルのとある島の高地の湖畔に入植地をしたことによって建国された。 *地理 [#bb6ebd64] 本土は台地状の島であり、国土に占める高地の割合が高い。ただし干拓地や離島など、ある程度は低地も存在する。 いずれの地域においても自然環境は厳しい環境基準の下でよく保護されると同時に、自然享受権が法的に広く認められている。 **中央高地 [#ne5dcf85] 島の大部分を占める高地地域。氷食湖が散在している。気候は冷涼な山岳性。 大きく三つの地域があり、それぞれが中核となる都市地域を有する。ロムレー市とサン=トゥルミエール市はほとんど連接しているが、行政区画上は別コミューンであり、それぞれが独自のCBDを持っているため、一般的には別の都市として扱われる。住民意識としてはこれらは三大都市と呼ばれ、湖畔共和国の中核をなしていると考えられている。 ***ロムレー Lomeray [#he2c81e1] 中心地は(9,11)近郊。共和国最初の都市にして法令上の首都。中央議会とそれに関連する政府機関の施設が存在する。建国の契約が交わされた丘もそのまま記念碑として残っている。 建国最初期のごく数ヶ月間の間、共和国はロムレー・コミューヌと一体の事実上の都市国家であり、その名残で都市名は国名と同じである。外国から見ると紛らわしいことこの上ないが、ロムレー人は自国のことを「(湖畔)共和国République(de Lacustre)」と呼ぶのが普通なので、国民の間ではあまり気にされていない。一応、特に区別が必要な場合にはロムレー市Ville de Lomerayと呼ぶ。 ***ポワンクール Poincourt [#qe57dda1] 中心地は(13,9)近郊。共和国の最大都市(ゲーム的には首都)。中央高地の中では最大の盆地に位置し、また建築上の規制が他のコミューヌに比べ緩やかなことから国内では珍しく高層ビルが林立する景観がみられるが、それでも他国の大都市ほどの密度はない。 631年11月に巨大隕石の直撃により壊滅的な被害を受けたが、現在は復興、その後の都市計画の巧みさもあり、インフラのよく整備された都市として商業上の中心地の地位を守り続けている。郊外には墓地を中心とする巨大隕石災害のメモリアルパークが所在する。 ***サン=トゥルミエール Saint-tourmielle [#z82f67b2] 中心地は(9,14)近郊。同名の大聖堂の所在地であり、ロムレーにおける宗教上の中心地。移民船が着陸した地点であり、その船体の一部がそのまま大聖堂の建物に使われている。 観光地・保養地としての発展が共和国内でも最も早かった地域であり、現在でもこの都市の郊外に共和国最大のリゾート地が広がっている。第一回ソサエティはこの都市で開催された。 **北西干拓地 [#r9d25f21] 低地ではあるが北方に位置するため冷涼であり、同時に海からの風が卓越し湿潤。主に酪農と混合農業が営まれる。総じて長閑で保守的な農村の様相が強い。 **南東干拓地 [#i1c47b6b] 中央の高地から吹き降ろす風が卓越し、ロムレー国内では珍しく温暖な地域。主に花卉・野菜などの園芸農業が行われる。内陸部の滝線沿いには水力を動力として稼働する空軍向けの工場が点在している。 **周辺島嶼 [#g898db9c] 周辺に点在する島々。国立公園指定のなされた自然保護地や対着上陸侵攻用の防衛陣地が多くを占めるが、本島と同様に多数の観光地が存在する。 特にほぼ全域が自然保護区指定されている北西部に存在する油田の扱いは度々政治的争点となってきたが、現在はセビーリャ産石油で事足りるため産油事業を停止している。また、南西部には海軍向けの軍港がいくつか存在する。 *歴史 [#m0aac29a] ***610年代 自給的共和国の時代 [#od223776] 611年5月、現在のサン=トゥルミエールに降り立ったロムレー移民団は、ロムレーの地にはひとまず牧牛に食ませる草と暖を取るための炭が充分あることを確認し、入植を開始した。一般にロムレーの建国は5月15日14時にロムレーの丘で交わされた建国の誓約によってなされたとされ、この日が建国記念日となっている。そして同時期にフリューゲル国際社会との接触も図られ、また、独自に行われた資源調査でウラン鉱を発見、613年から始められた資源輸出により、国家として安定して経営できる状態を確立した。ウラン鉱の開発において他国の投資を受けずに行われたのには、以後のロムレーにおける他国への経済的依存を回避しようとする傾向の原型を見出すことができる。 この時期においては共和国はカルヴァン主義共和政を理念とし、また政府の機能は抑制され、ある程度各種産物の商業的な輸出をし、形式的にはレンティア国家的でありつつも基本的には独立自営農民を中心とする社会が築かれていたといえる。この時代のロムレーの、当時の表現では「ピューリタン的理想郷」と呼ばれる社会は現在のロムレーでも「古き良き国制」として理想化され根強い支持を集めている。 しかし610年代も後期に差し掛かると国際社会への理解が進展、フリューゲルで広がっていた学問を国内に浸透させるには移民船時代の徒弟制的な技術伝承・教育の形態では不十分との考えが広まって618年ごろから公教育制度の整備や海外への留学生の送り出しが始められるほか、619年ごろから大々的な保養地の整備が行われて長期滞在観光客の呼び込みが始まるなど、610年代末の時点で既に後のロムレー社会の原型は形成されつつあった。 その国際社会への理解の進展をもたらしたものとして最も大きいのは、時期は若干遅いが619年に行われたウィリーツェン会談であろう。この会談でのウェールリズセ代表の弁が国内で伝えられると、共和国民はその内容に大いに興味を持ち、国際政治への関心が高まった。これは公教育制度拡充の直接的原因ではないがそれに拍車をかけたのは間違いない。 ***620年代 観光大国化の時代 [#r156df7a] 風光明媚な景観に助けられつつ留学組の持ち帰った技術を用いて振興された観光業は620年代には年率二桁の高成長を続け、628年ごろにロムレーの滞在者数はそれまで滞在者数世界一であったエルツ帝国を抜いて世界一に到達した。基本的にロムレーはこの年代に観光大国の地位を確立したといえる。一方で観光業に土地と労働力を奪われて農業生産については後退し、この時代には食料自給能力が失われることになった。 また、資源輸出と観光業を両輪とする経済が確立されたことで経済的にも好況が訪れ、627年に設置された福祉医療局を中心に留学組のなかでも社会自由主義者を中心とした勢力がヴェールヌイをモデルとした福祉国家化を図る運動を始め、この時代に幸福度も国際指標上で大幅に向上した。 この時代の後半は安全保障・宇宙開発においても進展があった。627年末に気象衛星の打ち上げに成功したほか、629年にレゴリス帝国との相互安保条約を締結している。もっともそれが本格化するのは630年代になってからのことになる。 ***630年代 防衛力拡充の時代 [#y63a44ac] この時期にも引き続き観光業は成長を続けているが、ロムレー人にはこの時代はなによりもポワンクールへの巨大隕石落下、そして対レゴリス相互安保を受けての防衛力拡充の時代として記憶されている。 631年11月に起きた最大都市ポワンクールへの巨大隕石の落下はロムレー史上最大の大災害であり、これにより共和国のほとんどの官僚機構が機能停止する危機的状況に陥った。このときに効力を発揮したのが3年前に締結したばかりのレゴリスとの相互安保であり、そこではレゴリスからの救助隊が活躍した。 この巨大隕石の衝撃はロムレーに軍隊の機能を認識させる結果となり、それまで「軍服を着た観光案内所係員」と評される状態だったロムレー軍はレゴリスからの軍事顧問であるルーミヤ・グドリャンの下で改革されて主に山岳戦を中心とした実戦能力を身につけ、また635年10月には安全保障局が迎撃衛星の打ち上げにも成功している。 なお、634年のクイーンズによる対全国家宣戦を受けた際、直接的な影響はなかったものの、これを受けて行われた海防力向上のための調査の結果を活用して、沿岸部の干拓が行われ、干拓地での酪農などによって食料自給能力を回復した。これも中央政府が大きな役割を振るうというこの時代の特徴的な出来事でもあるかもしれない。 この年代の起こった外交上のできごととしては、カルセドニー島共和国が提唱する資源輸出国機構創設を目指す9ヶ国会議への出席もあったが、この交渉参加にあたっては議会を始めとする諸勢力の激しい抵抗にあって代表団派遣が遅れるなど、当時のロムレー人の経済的な国際機構への抵抗感があらわになった。なお資源輸出国機構構想自体は会議中断後音沙汰はなく、事実上頓挫している。尤も、仮にこれが成立していた場合、中央議会での批准に失敗するか、あるいは政変に至っていた可能性が高い状況であり、共和国にとってはこの構想の挫折は好ましかったと語られることがほとんどである。 ***640年代 相対的安定期 [#e8742eb5] この時期にはもはや観光業の成長はひと段落し、滞在者は2000万人弱、観光収入は200兆Va/年強でその成長は極めて緩やかであった。 641年に創設されたソサエティには共和国は原参加国として参加し、645年にサン=トゥルミエールで行われた第一回ソサエティにおいて議長国の役目を果たしたほか、ソサエティによるトロピコ査察団に人員を送り出した。 この年代のロムレーはあらゆる意味で安定し、繁栄を享受した。第一回ソサエティの成功はその結実であった。 しかし、この時期にトロピコ問題やヴァノミス問題は水面下で進行しつつあった。第一回ソサエティの共同声明の第一項がトロピコ問題を扱うものであったことは示唆的である。 ***650年代 戦争と共和国の変質の時代 [#oc1cdaaf] 650年に入り、トロピコやヴァノミスを巡って国際関係は急速に緊迫したが、共和国はこれまでの外交姿勢を継続し、同盟国のレゴリス帝国を支持してENEC諸国と協調する立場をとり、結果としてヴァノミス危機とトロピコ戦役に身を投じることとなった。 ヴァノミス危機は大戦の危惧を抱かせたものの、ぎりぎりで回避された。しかし、これによって建国以来最大の資源輸出先であったアルドラド帝国との関係は断絶され、トロピコ戦役直前にアルドラドによって行われたトロピコへの砲弾納入のためにそれはもはや修復不能なものとなった。 トロピコ戦役はその有志連合の軍事力に反して3年以上にも及ぶ長い戦いとなった。その中でロムレーの民間人や観光客が被害を受けることはなかったものの、トロピコ軍によってロムレー軍は大きな損害を被ったし、戦費や経済的な負担も膨大なものとなった。典型的なピュロスの勝利といえる。 多くの戦争に言えることだが、例に漏れずこの戦争を通じてロムレーは変質を被ることとなった。それは建国以来の共和政のシステムも議会主義の理念にも手をつけず、変質したのは政府と軍のみであったが、ともあれここにおいて共和国は620年前後に匹敵する変質を遂げた。 ロムレー軍は大規模に動員され、建国以来主要産業として大きな影響力を持った鉱業は、いまや戦時体制の下で動かされる存在となった。 なお、この戦争の戦訓は多く、それを活用して654年3月には防衛衛星の打ち上げに成功している。また、656年からレゴリス資本の兵器整備拠点がロムレー軍基地周辺に建設され、軍備の国内完結性が高められることになる。 戦後の一時期には政府や軍の無策な戦争遂行への非難が盛り上がり、激しい議論が交わされたこともあったが、最終的にはうやむやのうちに終わり、650年代の後半はロムレーは再び平穏な日々を過ごすこととなった。 657年にはENECにオブザーバー加盟し、トロピコ戦役以来の国際的立ち位置はここで完全に確定されたといえる。 ***660年代 再結晶化の時代 [#x0940479] 661年に共和国は建国50周年を迎え、各地で式典が開催された。戦後の内向き意識の中で積極的な外国代表の招待は行わなかったものの、中央議会の記念式典ではレゴリス帝国総統が演説を行っており、レゴリスとの同盟関係が再確認された。この年代にはレゴリスの国際的地位は低下傾向にあったが、ロムレーは良好な対レゴリス感情からあくまでレゴリスを支援しつづけている。 なお、666年の連合国によるセビーリャ作戦において共和国軍はウェールリズセ側に立ち支援兵力を派遣しているが、この作戦の間、本土は一貫して平時体制を維持したままであった。平時体制の状態で派兵ができるようになったことは、650年代の共和国の変質の結果であり、セビーリャ派兵を通じてそれが新しい共和国の体制として定着した。セビーリャ作戦完了後は占領委員会の一員として占領政策にも一定程度関与しているが、共和国はセビーリャに対しなんらの利害関係もなく、またセビーリャになんらの利益も期待しなかったため、共和国はそこでは専らセビーリャの安定化だけを追求する姿勢にある。 ***670年代 沈潜の時代 [#te52e532] 673年の石動・アルビオンによるサン・ピエルへの九ヶ条要求に端を発する一連の外交問題において、ソサエティはこれに反対する姿勢を見せた。ここでは共和国はソサエティ諸国との協調を優先したが、国民的にはそれほど大きな関心を集めず、むしろロムレー史における「古き良き国制」の再検討のような国内的で学術的な議論に終始した傾向がある。 一方で軍事的なENEC諸国との連携は引き続き深化させられ、678年にPDECに加盟した。 ***680-710年代 休眠期 [#pc6e199d] この時期には国際社会も平静であったが、国内はそれに輪をかけて静かであった。相変わらず共和国は自由で、安定した経済と強力な戦力を維持していたし、その気になれば国際社会においてより大きなイニシアティヴを発揮しえると思われたが、この時期の共和国は特に行動する必要性を感じていなかったとされる。なお、この時期は国際社会が安定していた時期ではあるが、ヴァノミスにおいては一時内戦状態に突入している。しかし、これについては前述の通り当時の共和国では不干渉主義が強まっており、ロムレー軍はこれに出兵はせず、内戦終了後に復興支援を行うに留まった。一方で、この時期のコーデクスの統治機構改革の試みは合理的紀律を重視する勢力を中心に大きな影響を与えていた。しかし、実際の導入は末端における小規模で持続的な改良にとどまり、ロムレーの国制を刷新するに至らないまま、コーデクス解散の時を迎えることとなった。 ***720年代 二重の衝撃 [#cafdd09a] 720年代の前半、ほぼ平行して起こった二つの事件がロムレーの政治情勢を大きく変動させた。一つはコーデクス共和国の解散であり、もう一つはヴォルネスク戦争(ヴォルネスク独立戦争)である。 コーデクス共和国の解散は膨大な研究資料の提供によりロムレーの学界のあらゆる学問領域に革新をもたらした。一方でコーデクスという一つの理想を失った合理的規律派、とりわけコーデクス主義者はその研究資料の分析に注力するようになって非政治化した。 ヴォルネスク戦争はロムレー国民にとっては不正義で不人気な戦争であった。スラヴ主義はロムレー国内において公然たる軽侮の対象となり、カトリックを中心とした一部勢力はノイエクルスに物資支援すらした。また、別府がもはや理想郷と思えなくなったことで社会自由派は何を理想とするかで分裂、その一部は急進化してサンディカリストや評議会制共産主義者になるか、社会主義自体を放棄して自由思想派に移るかし、もともと脆弱であったロムレーの社会主義は大きく退潮した。 この二つの事件を通じてこれまでの共和国の政治風土の後景であったENECへの期待感というものは瞬く間に霧消した。レゴリスのPDEC脱退の黙認、ENECの機能不全への不関与はこの帰結である。 この時期に起こった変動はある意味ではカルヴァン主義共和派と自由思想派による二大政党制化ととれなくもないが、当時の議長のトリベール=スィズィニョレの下では両派は大きな対立をなさなかったため、マジック・フォーミュラー的な体制自体の抜本的な変更はなされなかった。 ***730年代 事後処理の時代 [#nacdd847] 既に事実上政府が機能していなかったテークサットが国際法上も主権国家としての地位を失ったことにより、ENEC・PDECともに存在感をほぼ完全に消失した。既に二重の衝撃の中でそれを受け入れる方向に向かっていたロムレーはそのままPDECの清算を確認した。 ***740-750年代 無風時代 [#r277c5ee] この時代もロムレーが平静であった時代ではあるが、国際環境も極めて静穏だった時代である。この二十数年間、国際紛争が発生することはなく、共和国も平穏を享受した。 ***760年代-780年代 セビーリャ自治実験の時代 [#sa57e256] CDXによる計画通り、764年に共同管理区域セビーリャは長期凍結期間を終了した。凍結期間の間からセビーリャ政策を主導していたコーデクス主義系のテクノクラートたちは、それまでのコーデクス的教育の成果を引き継いでそのままセビーリャをコーデクス主義のユートピアにしようと目論み、セビーリャ人の中からコーデクス共和国公務員試験の問題を通じて優秀者を選抜し、彼らを官僚としてセビーリャ自治政府を発足させた。自治政府の統治は予想以上に安定し、1年後には一時的にではあるがセビーリャの幸福度は世界一に達するに至った。768年に起こったユリウス事変ではセビーリャ防衛のためロムレーはレゴリスと共にセビーリャ防衛のためユリウスに宣戦し、セビーリャ近海でのユリウス上陸部隊の撃破や連合軍によるユリウス本土での殲滅戦などでロムレー空軍が作戦行動に当たった。この際の警察予備隊増員の許可を皮切りに、その後もセビーリャ地域の自治は段階的に拡大が続き、784年の自治20周年では司法府の独立や出入域管理の緩和により相当程度の自治権を与えるに至った。 ***790-800年代 観光バブルの時代 [#yc9ac3d9] ヴェニス島が急速に観光開発を進める中で、628年以来世界最大の観光大国の地位を維持しつつも長らくその規模は横ばいにあったロムレーでもこの観光需要の拡大に乗らない手はないという考えが一部の観光業者の中で広まっていた。観光局はこれに対して消極的ではあったが、ヴェニス社への投資を通じていち早くこの動向をつかんでいたクレディ・ロムレー社がロムレー国内の観光開発への投資を進めたことで、この年代には一世紀半ぶりのロムレー国内での観光業拡大が進んだ。しかし、この観光業の拡大は過当競争を招き、ロムレーにおいてもヴェニス島においても観光業の利益率を大幅に低下させた。そのため、800年代後半には監査委員会のイジドール・コルネイユを中心に経営の整理が進められ、809年までにロムレーの観光業規模は780年代前半の水準に戻った。 ***810年代 短い大戦の時代 [#j04e88f8] 伝統的に民族主義を理解しないロムレー人はこの時期にはガトーヴィチ帝国のスラヴ主義などを白眼視していたが、809年に設立されたエルドラード条約機構(ロムレーでは通例ETOと略する)は、保護主義を掲げるセニオリス共和国とスラヴ主義を掲げるガトーヴィチ・ヴォルネスクによる勢力であり、当然のことながら路烈同盟にとっては協調の余地がない存在であった。セニオリス共和国が812年にヴェニス島に侵攻すると、同地に滞在するレゴリス市民にも犠牲が出ることになったが、これに対してセニオリス共和国はレゴリス帝国への謝罪を拒否、レゴリス帝国とその友好国はセニオリス共和国に宣戦し、ETOもセニオリス防衛のため参戦したため数百年ぶりのフリューゲルにおける大規模戦争である813年戦争が開戦した。この戦争ではカルセドニー(反社会主義を掲げるセニオリスに敵視されていた)の支援などもありこの規模の大戦としては珍しく半年ほどで停戦、ETOの解散とETO諸国の軍備制限を約したディースブルク講和条約が結ばれた。 ***820年代 戦間期 [#s1f40a63] 813年戦争に勝利した後、共和国はこれまでもそうだったように平穏を享受し、旧ETO諸国もガトーヴィチはWTCOに、セニオリスはFENAに加盟し国際社会に復帰した。しかし、この時期に起こった普蘭・中夏によるセニオリス領海での衛星レーザー試射実験、セビーリャにおける評議会派主導の内政の停滞は、後の三重苦の遠因となっていくことになる。 ***830年代 三重苦の時代 [#hb7d3b2f] 829年5月に開会されたFENA総会において、レゴリス帝国はセニオリス共和国の正規加盟国昇格に待ったをかけた。そして信じがたいことに、かつてセニオリス領海にレーザーを試射した普蘭がセニオリスを擁護しレゴリスに反論したことにより繰り広げられた論戦、セニオリスの外交的失策などから、レゴリスとセニオリスは831年9月28日に何の予告もなく(なお、共和国外交局は820年代にレゴリス側から対セニオリス政策について意見を求められたことがあるが、その際には慎重を期すよう返答していた)突如レゴリスがセニオリスを併合する条約に調印した。これにより突如として外交的に信頼のおけない地域に対して路烈安保の条文上防衛義務を負う(セビーリャではリアライン条約に基づけば防衛は努力義務に過ぎない)ことにより、議会は恐慌状態となった(併合危機)。さらに833年ごろにはセビーリャ地域の情勢が一時悪化(セビーリャインフラ危機)、統治委員会が非常事態宣言を発する事態となった。この事件により、レゴリスと密接に連携して安全を確保し、同時にセビーリャ地域の安定化を進めるというロムレーの長らくの外交政策は大きく動揺した。この時期の混乱をよく示しているのが併合条約に関してレゴリスに対して加普と共同で送った質問状であり、これは「それが安全保障上受忍しがたいリスクを含む場合、共和国はレゴリスの意志に忠実であるとは限らず、むしろレゴリスの意志を変更させようと試みることがありうる」ことを示し、さらにはサンディカリストやアナーキストが勢力を拡大するなど政変の兆しを見せた。結局、レゴリス帝国が併合を撤回したことにより危機は回避され、セニオリスの政変に対し共同で介入する部隊を派遣する展開となったが、ここではロムレー軍は「自国や同盟国の人命がかかっていない初の戦争」であることと併合危機以降の政治的混乱により大いに士気が乱れ、これまでの戦争と比しても挙げられた戦果は限定的なものであった。併合危機・セビーリャインフラ危機で混乱していた共和国はこの失態によりさらに動揺したが、結局責任追及はサンディカリストとアナーキストをさらに台頭させる結果につながることが恐れられ、諸々が不徹底なまま830年代後半には元の平穏な情勢に戻ったとされる。そのような背景の中で、ロムレー人はカルセドニー主導の「平和原則条約起草委員会」に期待を託すこととなる。 ***840年代 沈滞の時代 この時代は830年代の三重苦が尾を引いた時代である。843年8月のライン共和国に対する普蘭合衆国の宣戦布告によって始まる「普蘭問題」は、併合危機で既に動揺しつつあるロムレー人の路烈普相互安保体制への不安をさらに深刻化させた。共和国は普蘭とカルセドニー・トルキー等の諸国との論争を見ていることしかできず、できたことはレゴリスと共同声明を発して戦争回避に努めるのみであった。しかし、その直後の普蘭合衆国鎖国などにより、大戦は何とか回避され、848年に平和原則条約改めフリューゲル国際連合憲章の調印式の開催へとこぎつけた。 ***850-870年代 国連の時代 850年3月19日、まさにロムレー湖畔共和国の批准と同時に憲章が発効したフリューゲル国際連合は、ロムレー人にとっては三重苦の時代以来の苦境を乗り越える可能性そのものであった。レゴリス・ヘルトジブリールを中心とする諸国の支持によって共和国は一般理事国に選出され、「同盟理事国主導の国際協調を擁護する」外交政策は以後のロムレー外交政策の基本路線となる。初回の総会において起こった普蘭問題をめぐる議論は烈路同盟にとっては一種の危機であったが、ミルズ案のようなラディカルな声明ではなくロムレー案が採択されるなど、一定程度抑制された対応となり、共和国内でも国連に対する一定の信頼感を確立した。850年代にはウェールリズセ連邦共和国がフリューゲルに再建され、ソサエティ やがて850年代の「ミルズ共和国」問題やライン共和国による軍事演習を称した自領砲撃問題、865年前後のミルズ選挙をめぐる混乱と国連統治領への移行などの問題を乗り越え、一般理事国としてコミットした国連に対するロムレー人の態度は安定したものとなった。しかし、これらの経験は国連に対して「安保理さえ動いていれば総会は重要でない」という態度を涵養させることとなり、共和国内部ではむしろ次の時代の停滞をもたらすことになる。 ***880年代 意見発散の時代 ミルズ国連統治の沈滞、総会の不活化、進まない軍事演習禁止条約批准といった事柄は、次第にロムレー人の外交に対する関心を冷却させていくことになる。880年代前半のガトーヴィチ内戦 ***890-910年代 国連の下での微睡みの時代 特に何もなかったような気がする ***920-930年代 国連懐疑主義の時代 国連加盟国の減少によりガトーヴィチが一般理事国から外れる危機にカルセドニーが臨時選挙制度導入を提起 烈天が反対するも失敗 烈天加協調の実行力に対する疑念と総会をコントロールできないことに対する懸念から国連への懐疑的な思潮が広がる ***940-960年代 安定期 ***970年代 凪の終わり セニオリスクーデター ***980年代 別府危機 別府の提起、別普との関係の深刻な悪化、国連の威信低下 ***990年代 国連再編の時代 *政治 [#caae92de] 中央議会に政府機関としては最も大きく権限が与えられている議会主義体制国家。他のフリューゲル諸国(主にレゴリス帝国)への留学者が学んできた各国の国制からも一定の影響を受け、民主主義の体裁を保っている。 建国以来政変や暴動の経験はなく、632年初頭の世界同時社会不安や650年代前半のトロピコ戦役出兵の最中においても安定を保った。ここ百数十年はフリューゲル最高水準の支持率と満足度を維持しており、治安・支持率・財政などの指標も建国以来恒常的に健全な状況を保ち続けている。 **内政 [#jb27c14f] 実務においては各コミューヌへの権限委譲の程度など、かなり分権的な体制であり、また、医療制度や社会保障制度が非常に充実させられた現在でも未だに夜警国家的な理念を持っているところがある。 ***中央議会 '''Conseil central''' [#c9b8dccb] 共和国中央政府の議会。移民船内で地球出発直後から行われてきた船全体の方針決定会議を継承するとされる。 共和国は議会主義を掲げているが、その議会主義はロムレー人に伝わるところのスイスの議会制度を基にした特殊なもので、移民船時代から建国期にかけての党派対立の存在しなかった時期の無政党政治が建前の上では維持されていることになっている。 とはいえ事実上はカルヴァン主義共和派、合理的規律派、重農=環境派、自由思想派、社会自由派という五つの主要な党派が存在しており、歴史資料から再建されたマジック・フォーミュラー的な方法で閣僚が選出される。閣外の党派として復古的無政府主義者や評議会共産主義者などが存在するが、これらの議席はごく少数である。 なお中央議会議員選挙においては各コミューヌによる州主権的な理論が採用されており、各コミューヌごとに議席の定数が割り当てられ、コミューヌ毎にそれぞれの定めた選出方式により議員を選出し中央議会に送る形式をとっている。そのため選挙方式は一様ではないが、ほとんどのコミューヌでは単記移譲式を初めとして何らかの選好投票が用いられている。 ***行政局 [#o7b6439a] 共和国には中央政府の行政組織としては外交局・通商局・安全保障局・大気海洋局・教育局・観光局・社会基盤局・福祉医療局・公安局・監査委員会の9局と1委員会が存在する。 共和国の官僚組織は形式としては中央議会の各部会ごとに付属する事務局に過ぎず、そのために最上位の官庁が省ではなく局を名乗っている。 なお、共和国の雇用における公的セクターの比率はかなり高いが、ほとんどは各コミューヌに属する公務員であり、中央政府の官吏はごく少数にすぎない。 ****局長と次官 各局には三人の次官が存在する。うち二人は各局の官僚から選任され(以下事務次官)、残る一人は中央議会の対応する部会の推薦(以下政務次官)により選任される。 ※とりあえず事務次官・政務次官と呼んでおくが日本の制度とは関連していない。また事務次官・政務次官の区別も講学上のものであり、制度的には選任された次官の間に出自による地位の違いはない。 この次官のうち一人が局長になる。決定は次官三人による互選(自薦不可)でなされるが、決まらない場合は中央議会部会が決める。 この制度は以下のような結果になることがよくある。 -(1)円滑にいっている場合 事務次官には在職年次(局のか次官のかは未設定だが多分次官の在職年)によって「先任者」と「後任者」がおり、どちらも退任(定年含む)するまで留任する(普通は局長になって何年かすると引退する。あまりにも長居すると慣例無視で疎まれ、定年後の扱いが悪くなるだけなのでそう居座ることはない)。先任者が退任すると後任者は先任者になり、後任者の枠を埋めるために官僚のなかの一人が選ばれる。 ※この先任者と後任者も講学上の概念であり、制度上規定されたものではない。 政務次官が根回しをして、政務次官と後任者が先任者に、先任者が政務次官に投票し、先任者が局長になる。 決定後は、局長が文字通り全体のリーダーシップをとったり対外的なスポークスマンを担い、政務次官が議会側のスポークスマンを、後任者事務次官が局側のスポークスマンをする。 -(2‐1)部会と局で対立があるが、対話可能な場合 次官で示し合わせて一人一票入るようにする。局長は部会による選出となるので、部会は政務次官を選出する(建前上議会は各局を支配しているので)。 政務次官は何とか任期の間に対立点について局側の理解を得ることに努める。成功すれば次の任期は(1)に移行する(政務次官としてはこれは事実上の勝利であり、政治的業績になる)。失敗すれば(2‐1)が続いたり(2‐2)になったりする。たまに官僚の人心掌握に大成功し、事務次官二人に推薦され局長に留任して見かけ上(3)のようになる場合もあるが、これは政務次官の完全勝利である(この場合は中央議会議長が狙えるクラスの大成果なうえ、長期にわたり部会の支持固めをするのも難しいので局長を適当な時期に引退するのが普通)。 -(2‐2)部会と局で対立があり、対話が非常に困難な場合 事務次官が示し合わせ、互いに投票する。政務次官は先任者と後任者のうち、なるべく自分に都合のいい側に投票し、政務次官の投票した人物が局長になる。 政務次官にとって(2‐1)ではなくこちらになるのは局と意思疎通ができていないことを意味するので避けようとする。事務次官は自分たちの側から局長を出せるので勝利と思いきや、ロムレーの国制では議会に抗して各局が業務をするのはかなり困難なので日常業務が滞る。そのためこのパターンが起こることは稀で、二任期以上(2‐2)が繰り返されることはまずない。 -(3)局内で二大派閥に割れている場合 現職次官を現職だからと留任させる以上に自派閥を優先するため、先任者と後任者ではなく、二大派閥の代表者が事務次官になる。 二人の事務次官はもう一方を局長にするくらいなら政務次官に投票するので政務次官が局長になる。 この場合、局は議会に対して抵抗することがほとんどできなくなり、大幅に発言力が弱体化する。このためふつうは短期でこの状態は終了するが、時にその局の存在意義が疑われている場合、これが長期化することがある。トロピコ戦争から920年代までの通商局、920年代から940年代の外交局などがそれで、これはその局全体の存在感そのものを失わせることになる。 ***政策スライダー [#y3777ab2] |地方分権|-◆-----|中央集権|結局のところ、コミューヌごとに任せるのが一番効率が良い| |貴族中心|----◆--|富豪中心|私利に拘泥せずにすむだけの資産と論説を際立たせる広く深い教養、議員には両方が必要なのだ| |農奴制|------◆|自由農民|スイス農民の子らよ、我らの自由と権利と独立を永遠に守り通そうではないか| |保守主義|--◆----|革新主義|『伝統』には観光客を楽しませる力がある| |重商主義|------◆|自由貿易|知識、あるいは資産。その果実を我らに与えてくれる者が通るのを妨げる理由などあるまい| |攻撃主義|-----◆-|防御主義|共和国と盟邦を守る。それだけでよいのではないか?| |陸軍重視|---◆---|海軍重視|本分を果たしているのは海空軍ばかりではないか。陸軍はただの観光資源なのか?| |精鋭|---◆---|大軍|国家規模からすると軍事力は量的にはこれが限界だろう| ※ロムレーは近代国家ではないのでHoI2式スライダーは採用しません ***その他 [#xf827c42] -国旗 ロムレーの故郷、スイス国旗の元になったとされるシュヴィーツ州旗をもとに作られた旗。シュヴィーツ州旗にない白地の領域は自由・新天地・万年雪の意味を表しているとされる。 なお、ロムレー人の本来の故郷の一つであるヌーシャテル州旗から緑地を取り払ったものであるという説もあるが、公式にはこの説はとられていない。 ついでに、あまり知られていない説としてアルザス=ロレーヌ共和国の国旗のロレーヌ十字をギリシア十字に置き換えただけのものという説もある。 なお、縦に掲揚する場合でもロムレー国旗では十字が左上に来るのが正式である。そのため垂直掲揚の場合は90度回転させた後に裏返して掲げる。 -国歌“Ô monts indépendants” 本来は19世紀後半から20世紀中葉まで使われていたかつてのスイス国歌。 共和主義の精神が感じられるために建国期の中央議会の議員に好まれ、湖畔共和国の国歌として採用された。 --歌詞と私家訳 |Ô monts indépendants,&br();Répétez nos accents,&br();Nos libres chants.&br();A toi patrie,&br();Suisse chérie,&br();A toi la vie le sang&br();De tes enfants.|おお自由なる山々よ、&br();我らの言葉を響かせたまえ、&br();我らの自由の歌を。&br();あなたの国、&br();愛しき乳絞り人の土地へ、&br();汝の息子たちの&br();血と生命を。| |Nous voulons nous unir,&br();Nous voulons tous mourir&br();Pour te servir.&br();Ô notre mère!&br();De nous sois fière,&br();Sous ta bannière&br();Tous vont partir.|我らは団結せねばならぬ、&br();我らは全て死を望む、&br();汝に尽くさんがために。&br();おお我らの母よ!&br();我らを誇りに思え、&br();汝の旗の下に&br();我ら皆出陣す。| |Gardons avec fierté&br();L’arbre au Grütli planté&br();La liberté!&br();Que d’âge en âge,&br();Malgré l’orage,&br();Cet héritage&br();Soit toujours respecté.|我らを誇りとともに守りたまえ、&br();グリュートリに植えられし木、&br();自由よ!&br();世代から世代へ、&br();嵐があれども、&br();この遺産は&br();敬われる。| |Dieu soutins nos aïeux,&br();Il nous rendra comme eux,&br();Victorieux!&br();Vers lui s'élance&br();Notre espérance,&br();La délivrance&br();Viendra des cieux.|あなたは我らの先祖を支えた、&br();あなたは我らを彼の者の如からしめた、&br();勝利よ!&br();あなたの下へ我らは駆ける&br();我らの望み、&br();解放は&br();天より来たる。| **党派 [#u88c1d8e] 共和国の中央議会では理念としては討議による一致が理想とされており、政党政治は好まれず、制度的に政党に特殊な地位を規定してはいない。 とはいえ国の理想像を巡っておおまかな傾向が存在し、とりあえずそれを派閥や党派として扱うことはできる。概ね以下の様相である。 歴史的には、移民船時代の士官にルーツを持ちロムレー人の伝統的な国民性を重んじる建国期の議員層を中心とした系譜(ジャンベール党)と、620年前後から出現した海外の思想を受け入れ官僚組織を発展させていこうとする主に留学帰り組からなる系譜(ポワンクール党)という二大思想潮流が存在していたとされ、後者の出現によって620年代に前者から支流である合理的紀律派と重農=環境派が現れ、本流としてのカルヴィニスト共和派も確立、7世紀前半のうちに後者も自由思想派と社会自由派の差が明瞭化していった結果現在の5派閥が成立したとされる。 内閣の勢力としては630年代以来長らくカルヴァン主義共和派3・自由思想派2・合理的規律派1・重農=環境派1・社会自由派1であり、おおむね政治的な影響力もこの通りであったが、770年代後半からはカルヴァン主義共和派2・自由思想派2・合理的規律派2・重農=環境派1・社会自由派1となり、830年代以降はカルヴァン主義共和派2・自由思想派2・合理的規律派1・重農=環境派1・社会自由派1・サンディカリスト1になっている。 ||カルヴァン主義&br()共和派|合理的規律派|重農=環境派|自由思想派|社会自由派|復古的&br()無政府主義|共産・組合主義|h |比率(現)|38%|10%|15%|32%|5%|2%|1%| |比率(旧)|35%|15%|10%|25%|10%|2%|1%| |イデオロギー|保守主義|(ファシスト)|(緑の保守主義)|自由主義|社会主義|無政府主義|共産主義| |経済政策|介入主義|国家資本主義|介入主義|自由放任|国家資本主義|自由放任|計画経済| |貿易政策|自由貿易|保護貿易|保護貿易|自由貿易|自由貿易|自由貿易|保護貿易| |宗教政策|一神教|世俗主義|多神教|世俗主義|多神教|多神教|世俗主義| |少数派政策|制限あり|居留民扱い|制限あり|制限なし|制限なし|制限あり|制限なし| |軍事政策|軍拡賛成|膨張主義|軍拡反対|軍拡賛成|軍拡反対|軍拡反対|軍拡賛成| ※このほか、無定見な無所属・無党派の地域主義的議員が2%存在する。 ***ジャンベール系(旧来の議員層) [#md871a08] 「ピューリタン的理想郷」時代の中央議会議員層の流れを汲む党派、あるいは系統。その名の通り初代中央議会議長ジャンベールの理念を支持する。 ポワンクール党が次第に拡大する中で対抗して政治哲学的な議論が深まるなかで、ジャンベールの理想は何であったかで意見が一致しなくなり、合理的紀律派と重農=環境派が成立した。もはや三派の中で現実の政策における調和などみられないが、いずれもジャンベール以来の系譜を主張し、また他国とは異なったロムレーを希求するという点では一致している。 ****カルヴィニスト共和派 Calvinist Republican [#ua146e4b] '''「古き良き国制―神の下に自由な国民による自由な共和国 République libre par les gens libres sous le dieu」'''(平等精神) 共和国において存在する党派としては最も古い派閥であり、830年代に至るまでの間はほぼ恒常的な最大派閥(ただし建国期を除いて単独過半数の規模であったことは一度もない)で、現在は第二派閥。個々人によってカルヴァン主義と共和主義のどちらに重きを置くかは差があり、人によってはこの二つを分けるが、分けようとすると曖昧さを残す結果になるので大体の場合仕方なく一緒くたに扱われる。実際、中央議会において最も極端な共和主義者でもカルヴァン主義の精神を賞賛するし、最も極端なカルヴィニストでも共和主義を支持している。 「古き良き国制」の支持者であり、要するにロムレーにおける保守主義である。都市商人層から農民、軍人から公務員まで、支持層は幅広い。外国観としてはイデオロギー的な相対主義者で、他国にはその国の事情に合わせた国制があると考えており、社会主義国家も保守主義国家も彼らの目からすると主権国家という国際社会における対等なアクターである。実際の外交においては全くのオフェンシブ・リアリストで、伝統的な親レゴリス政策の担い手。 |経済|平等|---◆---|市場| |外交|国家|--◆----|世界| |市民|自由|--◆----|権威| |社会|伝統|--◆----|進歩| ****合理的紀律派 Rational Disciplinist [#eb9e892f] '''「理性の共和国―理性的な国民、効率的な制度、合理的な国家 nation rationnelle, institution efficace, état raisonnable」'''(狂物質) 強力な中央議会による議会絶対主義の下での極度に紀律づけられた合理的な軍制と効率的な経済、そしてそれらに対応した社会基盤を求める。外交的には崇拝に近いほど親コーデクス(彼らによると合理的紀律の極北らしい)で、また親レゴリス(こちらは常識的な範囲である)、というよりコーデクスとレゴリス以外の外国は彼らの眼中にない。コーデクス共和国解散後は、コーデクス主義者のセビーリャ自治政策の成功を下支えするのが彼らの基本路線であるとされる。 いわゆる軍国主義的な要素もあるが、精神論よりただ合理主義を重んじ、軍人には極端な合理主義を求める。なお合理主義も宗教の方面では徹底されてはおらず、宗教的な態度は完全には世俗化されていない理神論的なありようが主流。 若干権威主義的だが平等主義的な教育制度と整ったインフラ、紀律づけられた国民に報いるための福祉を求め、ロムレー流の近代国家を形成しようとした(できたとは言ってない)。 右派的だが高水準の福祉を求める点で社会自由派と一致し、下手をするとカルヴィニスト共和派相手の共闘すらありうる。逆に環境保護を求めて合理化を阻害する重農=環境派とは水と油で、自由思想派とも相性はあまりよくない。 支持層は主に軍人と軍需産業の工場労働者であるのだが、「軍服を着た観光案内人」の伝統から観光業系の開発者や経営者が支持していたりするのがロムレーの独特な政治風土を物語っている。 コーデクス解散後は他派と比べかなり勢力を失っていたが、セビーリャ自治の進展に伴うコーデクス主義の再評価により勢力を幾分回復した。 |経済|平等|--◆----|市場| |外交|国家|-◆-----|世界| |市民|自由|---◆---|権威| |社会|伝統|-----◆-|進歩| ****重農=環境派 Physio-Environmentalist [#pe0b6268] '''「麗しき国土―造化の妙の驚異は観光客を楽しませ、国民に尽きることのない果実を与える La merveille de la nature est fructueuse pour nous et les voyageurs」'''(狂受容) 重農主義的文脈で理解された環境保護主義。支持層は主に農民、それと留学帰りの環境保護思想に被れた知識層。農民の間ではむしろカルヴィニスト共和派のほうが広く支持されているのだが、ロムレーは農民が多いのでそれでも一つの派閥をなす規模がある。 この派の環境保護政策のためにロムレーにおいて近代的な重工業は出現を阻まれ、製造業は専ら職人的な方法で営まれるものになった。合理的紀律派とは激しく対立する(これはロムレー政界唯一の明確な党派対立である)が、他の派とはイシューによって態度が変わる。しかし観光業の繁栄が環境保護の成果によることは明らかなので、環境保護政策については他派からも一定の理解はされている。 |経済|平等|--◆----|市場| |外交|国家|----◆--|世界| |市民|自由|--◆----|権威| |社会|伝統|----◆--|進歩| ***ポワンクール系(留学組) [#z201e6b1] ポワンクール市創設の頃から現れてくる党派。レゴリスなど海外への留学組が中心となっており、海外からの思想的影響を強く受けている。 彼らはいずれもジャンベール党が好むところの「ピューリタン的理想郷」をむしろ停滞状態とみなし、共和国を普通の近代的自由主義国家にすることを目指した。 自由思想派と社会自由派は当初は旧来の議員層から一緒くたにされてポワンクール党としてまとめて扱われていたが、ジャンベール党の分化と福祉国家の進展の中で異なる理想像を描いていることが広く理解されるようになった。 ****自由思想派 Libertans [#r6895a17] '''「自由の避難所―いかなる考えにも寛容であれ Soyez tolérant à toute idée.」''' 狂平等受容 830年代まではカルヴァン主義共和派と双璧を成し、それにほぼ拮抗する勢力を持ってきたが、三重苦の危機以降はロムレーの最大党派。力点をどこに置くかは人によって異なるものの、政治的には表現・信仰・精神の自由の擁護、経済的には穏健主義の範囲内での自由放任と自由貿易を掲げる、一般的な古典的自由主義者。特に宗教的寛容・信仰の自由の精神を背景としていることが多いため、単に自由主義者というよりもリベルタンと表現され、ロムレー人のカトリックや非カルヴァン派プロテスタントは概ねここに位置する。支持層は都市商人、学生、知識人、公務員(特に中央政府)、宗教的少数派。支持層が都市の知識層中心のため、教育を重視する傾向があり、とりわけ高等教育を(社会自由派以上に)かなり重視する。 移民も政治的な参画を行おうとした場合には大抵ここにくるのだが、彼らに関してはロムレーの政治風土に面食らったあと、仕方なく移民にも比較的寛容なこの派閥の下に入るという流れが多い。ロムレー社会は総じて移民にあまり優しくなく、移民受け入れ人数も少ないので、移民による党派の結成という手はとれず、ここに来るしかないのである。 主要党派のなかでは比較的外交にイデオロギー的な視点を持ち込むことに肯定的な党派である。といっても、議会制民主主義が肯定され、実際に複数政党制が運用されていれば、彼らはそれ以上は求めてはこない。基本的にはディフェンシブ・リアリストで、他国に対する積極的介入を好まない傾向にある。 |経済|平等|----◆--|市場| |外交|国家|---◆---|世界| |市民|自由|◆------|権威| |社会|伝統|-----◆-|進歩| ****社会自由派 Socio-Liberal [#rc7b1b7d] '''「穏やかな社会―誰も苦痛に苛まれることなかれ Ne sois pas tourmenté, tout le monde.」''' 狂平等物質 フリューゲル諸国から社会的なものに影響を受けての派閥、つまりはロムレーにおける社会主義であり、実際にふつうロムレー人の言う「社会主義」とはこれを指すが、社会観は相当に自由主義的である。社会改良主義という理解がおそらくは最も近いであろう。 政策としては福祉政策の拡充と労働者保護、就学前教育と初等教育の水準向上を主眼におく。外交政策にあまり関心を持たないことからそれが実際の外交に反映されることはほとんどないが、一応外国観としては親別府であった。ヴォルネスク戦争以後は国民の親別府感情がかなり薄らいだため、ヘルトジブリールを模範にする傾向にある。近年ではカルセドニーの社会主義もそれなりに関心を集めている。 支持層は工場労働者(ただしロムレーには軍需以外の近代工業がないことに注意)、学生、公務員(特に各コミューヌ)。 なお、福祉政策に強く関心を寄せるだけあって、福祉医療局の局長のポストは長らく社会自由派が独占している。 特に鋭く対立する他派というものはなく、どの派とも是々非々の関係を持っている。というより他の派閥との関係で検討していくと社会自由派という枠組みが意味をなすかは怪しく、他の四派の中の社会主義的分派の寄せ集めに過ぎないと皮肉られることもある。 |経済|平等|-◆-----|市場| |外交|国家|----◆--|世界| |市民|自由|◆------|権威| |社会|伝統|----◆--|進歩| ***急進主義者 [#a75fc4c8] ロムレーにおけるラディカリスト。議会にもこれに属する議員は存在するが、極めて少数派で、いずれも1%にも満たない。そのため現在の体制下では政権には入っていない。ただし、ラディカリストとはいえ議会主義の伝統を逸脱するほどの急進派はほとんど存在しない。 ****復古的無政府主義者 [#u9371c10] '''「純粋無政府主義―政府は何もしなくてよい。全てのことは我々がする Le gouvernement ne devrait rien faire. Nous faisons tout.」''' 狂平等排他 古き良き国制を純粋無政府主義と解釈する急進的な一派。要するにリバタリアン。外交的にも孤立主義。社会保障をほとんどゼロにし、官僚組織と軍も大幅に縮小する。議会政治についても民主主義の体裁を廃し、寡頭制的な議会に復古しようとする。 実は古き良き国制は実態としてはこれに近い。というより、実態がそうであるからこそ復古的であると名乗れている。 議会における議席は、主にロムレーやサン=トゥルミエール近郊の保守的な農村コミューヌと周辺離島の人工的に作られた計画的コミューヌからのもの。明らかに前者は反動主義、後者は無政府主義であって思想的風土が異なっており水と油にしか見えないが、彼ら自身に少数派である自覚が強いので共闘関係にある。特に前者の影響で市民権については割と排他的で、リバタリアンの割に非ロムレー人の権利に制限的な態度が特徴。 三重苦の危機の際にサンディカリストと並んで一時的に存在感を示したが、その後は沈静化した。しかしその際に当選した何人かの議員はそれ以降も議席を守っている。 |経済|平等|------◆|市場| |外交|国家|---◆---|世界| |市民|自由|◆------|権威| |社会|伝統|-◆-----|進歩| ****コーデクス主義者 [#m32d3f47] '''「第二のコーデクス―電子頭脳が国家理性を体現する Artificielle Inteligence incarne raison d'être.」''' 狂物質 合理的規律派のなかでも合理化の方向性としてコーデクスモデルをロムレーにおいても実現しようとする急進的な一派。ロムレーにおいても行政の担い手として第二のCDXを作り出し、議会はそれに諮問するだけの機関にしようとする。合理的規律派の主流派と異なり、外交的には自らの理念を他国にも広げようとする意味で広くフリューゲル全体に目を向けることが多く、宗教的には明確に理性の名によって宗教を否定する態度をとる。 コーデクス共和国が実際に存在していた時期には支持基盤はほぼテクノクラートと軍人に限られ広がりを欠いていたが、技術士官の半分がコーデクス主義かぶれであるともされるようにその主唱者たちの形成は進んでいた。コーデクス共和国解散後はコーデクス計画の成果を発展させる研究に注力しようという運動に変化し非政治化していたが、凍結期からテクノクラートとしてセビーリャ統治に関してはむしろ最も主要な政治的アクターとして活動、セビーリャ統治が実際に成功すると政治的な勢力として復活し、既に単なる合理的規律派のなかでの急進派とは言えなくなっている。 |経済|平等|---◆---|市場| |外交|国家|◆------|世界| |市民|自由|----◆--|権威| |社会|伝統|------◆|進歩| ****サンディカリスト [#ae0f4dc8] '''「組合による再分配―自由を損なわない平等 L'égalité qui ne porte pas atteinte à la liberté.」''' 狂平等受容 自営業中心のロムレーではあるが、労働組合や職能組合、協同組合のようなものは比較的多くの産業に存在する。 そのため、再分配に関心を寄せると、その手段としては国有化よりも各種組合中心の経済が構想されやすい。なお、ロムレーではマルクス主義はほとんど忘れられており、急進社会主義としては彼らが中心である。 組合の類の本部(あるいは事務的な中心地)が置かれることの多いポワンクールに支持者は集中していたが、三重苦の危機の際に躍進し、現在ではサンディカリスト議員は各地に存在する。 |経済|平等|◆------|市場| |外交|国家|------◆|世界| |市民|自由|-◆-----|権威| |社会|伝統|---◆---|進歩| ****評議会制共産主義者 [#p2fc025e] '''「議会の下の平等―対等者による合議が平等を保障する La consultation par les pairs assure l'égalité.」''' 議会主義的な伝統を維持したまま共産主義を実現しようとする一派。ロムレーにおける共産主義者とは彼らのことである。 |経済|平等|◆------|市場| |外交|国家|----◆--|世界| |市民|自由|--◆----|権威| |社会|伝統|------◆|進歩| **外交 [#c56d20a2] 伝統的にレゴリス帝国との安保体制とSSpactへのコミットによる安全保障を主軸とした外交を展開しており、セニオリス併合危機や別府危機といった動揺はありつつも現在まで維持されている。 経済面では特定の国に偏ることなく観光客を誘致する観光立国を振興し、国際貿易体制からは自由であり、自国が経済共同体や資源産出国機構に加盟し拘束されることを避ける一方で、国際分業体制については擁護する立場で、保護主義を警戒する。 一方で、イデオロギー的な拘束も弱く、民主社会主義から伝統保守主義までどのようなイデオロギーも問題としないが、民族主義に関しては理解不可能なものとされ、明確に敵対的態度をとる。 国際連合発足以来はこれを中心とした国際協調、とりわけ安保理同盟理事国の連携を強く支持し、一般理事国としてこれを擁護する立場にあるが、別府危機以後は国内では外交的ルッコラ主義を求める声が浸透している。 ***国交のある国家(樹立順) [#d0ef7cf3] ※各国への論評は中央議会における評価意見の大勢であり、公的な効果を持つものではない。 国名に%%打ち消し線%%のある場合はかつて国交があったが現在はないことを意味している。 -エーラーン教皇国(滅亡、一時復活も再滅亡) 火を奉じるものが、火の中から復活し、そして再び煙と消える。この世は諸行無常である。 -%%フランドル共和国%%(滅亡) どうも政治経済共に混迷している地域であったらしく、最終的には崩壊してしまったが、建国期の共和国に援助物資を提供してくれた国でもある。…厳しい情勢な中で援助をしてくれたことに、なおのこと感謝するのが筋であろう。 -%%ベルサリエーレ共和国%%(滅亡) かくて柱を失った国が一つ崩れ落ちた。瓦辺戦争の戦後処理は、彼の国に我々が思っていた以上に壊滅的な衝撃を与えていたのだ、ということか。 -%%石動第三帝国%%(滅亡) FuCoSTOを主導していた国であったが、共和国を含めたソサエティ諸国とのサン・ピエル問題以後の敵対関係の正常化は果たされないままに開国後の経済体制の再構築に失敗して崩壊した。 -%%ウェールリズセ連邦共和国%%(滅亡、一時復活も再滅亡) ENEC、ソサエティなどの国際組織の創設を主導するなど常に国際外交の場の中心にあった国家。一時フリューゲルに帰還したが、再び滅亡した。 -%%シェロジア共和国%%(滅亡) アクロバティックな外交をしていた謎の国。あの放送は最初はチューナーの故障かと思ったほどだ。 -%%ヴァノミス連邦%%(滅亡) これまでの争乱が排外主義によるものなればこそ、それは国家の団結を強める求心力たりえた。しかしひとたび民族主義が現れれば、この国はどうやっても維持することはできなくなるのだ。 -レゴリス帝国 資本主義国では唯一の安保理同盟理事国。早い段階から留学が可能になったこともあって政治的・軍事的に大きな影響を受けてきた。現在ではむしろレゴリス人のロムレー留学者も一般化しており、経済的にも緊密な結びつきがある。当然のことながら、ロムレーにおける外国人のなかでの最多数派はレゴリス人である。 古くから[[相互安全保障条約:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=469]]を締結していたが、現在は[[永久同盟:http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/1058/]]に格上げされた。セニオリス併合危機以前のような親レゴリス・コンセンサスは失われて久しいが、それゆえにむしろ「永久同盟が存在する」という事実が、ロムレー国内の党派バランスにおける仮初の安定ももたらしているといえる。 -%%成蘭連邦王国%%(滅亡) 安定していたはずの国での、震災を契機に発生した恐るべき混乱は、我々にとっても驚きであった。 -%%アルドラド帝国%%(滅亡) かの国がトロピコ戦争直前にトロピコに持ち込んだ砲弾のために我らの部隊はどれほどの損耗を被ることになったのであろうか。 -%%エルツ帝国%%(滅亡) 長い歴史を持つ貴族的な古い大国。しかしそれらは今や全て過去の話だ。 -%%テークサット連合%%(滅亡) ENEC加盟国で、トロピコ戦役における戦友でもあった。かの国の滅亡を以てENECとPDECの時代は完全に終わりを迎えた。 -%%ヴェールヌイ社会主義共和国%%(滅亡) かつての社会主義の優等生で、共和国の福祉政策はこの国の純粋社会主義の影響を受けて発展してきた。ヴォルネスク戦争以降はロムレー国内での好感は霧散し、その後国内の混乱が激しくなり滅亡した。 -%%コーデクス共和国%%(滅亡) 科学主義を掲げていた国家。CDXによる統治や統御民主主義の試みは常にロムレー人の関心を惹き続け、共和国国内には「コーデクス主義者」を自称する狂信的な支持層も存在した。 国家解散時に膨大な研究資料の提供を受けており、ロムレー国内においては幅広い学問領域でその研究の後を継ぐ研究が今なお続けられている。 -カルセドニー社会主義連邦共和国 国連の母であり、SLCNとWTCOを率いる同盟理事国。国連の存続はカルセドニー人外交官の心労によってあがなわれている。ロムレー人サンディカリストはカルセドニーの影響を強く受けているが、肝心のカルセドニーは次第にサンディカリスムから離れつつあるように見える。 -%%アリア連邦%%(滅亡) 先進国と新興国の境界線あたりにいたが、あまり積極的な外交をしているのは見かけなかった。 -%%フリスラーン帝国%%(滅亡) 強大な皇帝権に先進的な兵器、それらは決して国家の永遠の安定を保障してくれるものではないのだ。 -ヘルトジブリール社会主義共和国 長らくSSpact同盟理事国にして烈天加協調体制の事実上のリーダーとして君臨していた大国。往時に比べると宇宙移民の離脱により規模を縮小し、別府危機後は安保理からも退いたものの現在でも膨大な産業力と高い外交的地位を有し、ヴェニス社を事実上支配している。 共和国とは相互不可侵を結んでおり、軍事作戦において烈天路が共同展開する機会も次第に増加している。共和国のSSPact正規加盟を目指す向きもあるが、これは国内でも足並みが揃っていないようである。 -%%ノホ・ヘレコ連邦%%(滅亡) ENEC加盟国の中ではあまり共和国との交流の多くない国ではあったものの、セビーリャ作戦での協同など、実績がないわけではなかった。 -ガトーヴィチ帝国 右往左往が絶えないが、とりあえず安保理一般理事国。スラヴ主義はやめたようだが、今度はなにやらヘルトジブリールの覇権に挑戦を始めた。果たして彼らは今度こそ栄光をつかむことができるのであろうか? -ヨリクシ共和国 各地で積極的な災害救援活動や交流活動を行っている国であり、国際的に一定の存在感を持っている。カルセドニー革命と同時期に鎖国体制に移行し、現在まで鎖国を続けている。 -%%コムニタス・マリアナ%%(滅亡) 同じフランコフォニーの入植者の国…だったのだが、気付けば崩壊していた。言語が同じというだからといってそれが特に何か保障してくれるわけではないのだ。 -西岸州独立連合共和国 平和的な分離独立を果たした新興国。特に社会主義国というわけではないようだが、なぜかSSPactに加盟している。長らく鎖国しており現在の情勢は定かではない。 -ストリーダ王国 膨大な人口を抱えつつも世界最高水準の幸福度を誇る世界最大の大国であり世界最大の工業国。近年のロムレー市場ではストリーダ製品が主流。 -タヂカラオ国 アリア連邦と同じくあまり活発な外交はしていない国ではあるが、長く安定した歴史を経てきた国。 -トルキー社会主義共和国 四番手の大国であり、SSPact加盟国。明確に社会主義を掲げているが、議会政治は確立されている様子。早く一般理事国になってほしい。 -%%バルバロッサ王国%%(滅亡) 自立した国家を目指していたが、何事か解らぬ事情のうちに消えていった。 -%%ラルティスタ社会主義共和国%%(滅亡) サイバネとコンピュータによる社会主義という試みは興味深くはあったが、最終的にはうまくいかなかったようだ。 -%%アオリィカ王国%%(滅亡) ロムレー議会主義を他国に広げるという試みは、果たして実現不可能なものだったのだろうか? -普藍共和国 古き大国の遺産の上に築かれた商業大国。同盟国ではあるが、10世紀後半においては全体的に外交方針で行き違いが多い。 -%%ギルガルド社会主義共和国%% ヘルトジブリールとカルセドニーの下で順調な発展を続けていた新興国。 -冰州連合 内戦の結果として寡頭共和政となった国であり、ロムレー議会主義者の関心を集めている。なぜこれほど各国に人気なのかについては謎だが、かの国出身の各国旅行記は面白い。現在は鎖国中。 -%%エルトアニア帝国%%(滅亡) レゴリスとカルセドニーには国交を打診しないという外交で知られる専制君主国。一時的に政情を安定させたが、長続きはしなかった。 -ロシジュア平和連邦 最近先進国入りし、ますます超越の度合いを高めている国。ソシアート体制はロムレー国内でも評価されており、[[バラ園の協定:http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/1186/]]の条文通り共和国はこれを擁護する立場にある。 ちなみに超越思想はロムレーでも地味に広がっている。CDX信仰との結合もみられるが、主流派のコーデクス主義者からは「で、結局超越って何?」と言われがち。 -ノイエクルス連邦(政府通商部門利益代表部相互開設) いつの間にか利益代表部が生えていた。よくわからないが、とはいえノ連とレゴリスの間を取り持ちうるのなら、それは決して悪い話ではない。 -%%西瀛公国%%(滅亡) 期待の新興国であったが、気が付けば滅亡していた。 -%%スルガ%%(滅亡) とりあえず共和国を追い抜くところはクリアした新興国。スルガ人はローレルとロムレーの違いが判っていない疑惑があるが、とりあえずロムレー人はあまり気にしていない。 -サンシャ独立国 中堅国の期待の星で、非同盟・独立系でありながら一定の外交的存在感を有している。 -カドレン共和国 レゴリスの同盟国だが、穏健派であり対外戦争で共同戦線を張ったことなどは特にない。 -トラハト=ラシュハ連合王国 SSpact加盟国である中堅国。 -(セビーリャ責任政府) コーデクス主義者の手による壮大な社会実験場。100年にもわたる自治実験の末、コーデクス主義体制は世界最高水準の生産性(※農業生産性。年度によりロムレーを下回る場合あり)を誇り、進んだバイオテクノロジーを持つ安定した情勢を実現した。 ロムレー中央議会ではもう安定したのだから普通に独立した議会主義国家にすればいいと皆行っており、実のところ統治委員会もそうしたいと考えているのだが、当のセビーリャ自治政府のやる気がないので独立準備は遅々として進んでいない。 ***条約・国際機関等(締結順) [#w48b3133] -[[レゴリス帝国とロムレ-湖畔共和国との間に於ける相互協力並びに相互安全保障条約:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=469]] 629年12月に締結された、ロムレーでは最古の条約。内容はごく普通の相互安保条約である。PDEC失効後は再びロムレー外交の唯一にして最大の主軸となった。 -[[ソサエティ設立に関する協定:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=522]] ウェールリズセ連邦共和国により構想された当初から共和国が関与しており、原参加国にもなった。記念すべき第1回の議長国も務めている。近年は活動が停滞している。 -%%[[新興諸国経済理事会:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=423]](オブザーバー国)%%(外交局公式見解では失効) オブザーバー加盟はウィリーツェン会談以来の共和国の外交政策上の悲願であり、その実現は大いに歓迎された。 しかしそもそも経済振興という理念ではなくコーデクスやウェールリズセという加盟国との協調を目指して参加したため、両国が滅亡した今となってはもはや用済みと思われている。 -[[アズリール条約:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=569]] ソサエティ内での戦争国際法。ソサエティ参加国間の戦争など起きたことがないし、起きようはずもないと思われるが。 -[[リアライン条約:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=583]] セビーリャ作戦への派兵の結果。ただし[[セビーリャ自治宣言:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=658]]によってその権限分配は大幅に変更された。 -[[トラーバーデン協定:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=609]] ソサエティの対外経済援助に関する取り決め。共和国は対外援助にかなり消極的だが、協定自体には特段異論は出なかった。 -%%[[相互防衛に関する取極:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=574]]%%(失効) 680年代から720年代にかけての半世紀の間ロムレーの安全保障政策の主軸を成していた軍事同盟だが、すでに失効している。 -[[学術交流協定(ポワンクール協定):http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=685]](失効) アオリィカ王国の議会政治導入を支援するべく結ばれた協定。しかし残念ながらそれが実現することはなかった。 -[[史料保護調査協定(サン=トゥルミエール協定):http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=689]] フリューゲル史上大きな影響力を持っていた大国・普欧帝国の遺産が、今の普藍共和国には眠っているという。果たして、そこから我々は何を学べるだろうか。 -[[フリューゲル国際連合:http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/%e3%83%95%e3%83%aa%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b2%e3%83%ab%e5%9b%bd%e9%9a%9b%e9%80%a3%e5%90%88%e6%86%b2%e7%ab%a0%e8%aa%bf%e5%8d%b0%e5%bc%8f/]](原加盟国) フリューゲルにおける平和がかくも危ういものならば、それを維持するために力を惜しんではならない。 -[[ロムレー湖畔共和国とロシジュア平和連邦の間における平和友好及び相互交流に関する協定(バラ園の協定):http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/%e3%83%ad%e3%83%a0%e3%83%ac%e3%83%bc%e6%b9%96%e7%95%94%e5%85%b1%e5%92%8c%e5%9b%bd%e3%81%a8%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%b8%e3%83%a5%e3%82%a2%e5%b9%b3%e5%92%8c%e9%80%a3%e9%82%a6%e3%81%ae%e9%96%93%e3%81%ab/]] 学問に民族の垣根はない。このロシジュアンローズの一輪が、我々を取り持ち、やがては世界そのものを一つ上の段階へと超越させるだろう。 -[[ロムレー湖畔共和国とヘルトジブリール社会主義共和国の間における相互不可侵および学術交流に関する条約:http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/%e3%83%ad%e3%83%a0%e3%83%ac%e3%83%bc%e6%b9%96%e7%95%94%e5%85%b1%e5%92%8c%e5%9b%bd%e3%81%a8%e3%83%98%e3%83%ab%e3%83%88%e3%82%b8%e3%83%96%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%ab%e7%a4%be%e4%bc%9a%e4%b8%bb%e7%be%a9/]] フリューゲルに名だたる工業大国にして同盟理事国たるかの大天使と手を携えれば、ますます国際平和のために貢献することができよう。 *経済 [#pc2fb038] 極端に観光業に指向した産業構造を持ち、その観光客滞在数は世界一で他国と比べても突出して多い。 建国後十年程度は資源輸出によるところも大きかったが、それ以降は恒常的に突出して巨大な観光業が主導する経済であり続けている。 いずれにせよ、外貨獲得能力は高く、国民所得水準は極めて高いといえる。 なお、製造業はほとんど行われておらず、ロムレー軍に兵器を供給するレゴリス系の軍需工場を除けば職人的な工場における木製品や乳製品の一部がコミューヌの枠を超えて国内市場で出回る程度に留まる。 **産業 [#zfc5ede6] ***農業 [#j816092b] 干拓地で酪農・園芸農業などの高付加価値農業が行われているほか、高地では畜産業が営まれている。主に観光客向けではあるが、その生産力は輸出するだけの余力がある。 ***鉱業 [#r80de4a8] ウラン鉱が存在し、その輸出による収入は建国期の共和国を支えた。現在ではもはや収入源としての存在感は皆無に等しいものの燃料自給により経済を安定させることには貢献している。 鉄鉱も存在するが、トロピコ戦役直前に急遽整備されたことから分かるように専ら軍需向けである。 ***林業 [#a55b94d0] 広大な森林が広がり、その環境を維持する範囲内で林業が行われている。 ***工業 [#f538b994] 木製品や乳製品が主に伝統的・職人的な製法で生産され、日用や土産物として流通している。 産業的な大工場というものは著しく厳格な環境基準のために軍需を除いてほぼ存在しない。 ***商業 [#x662c8e4] 観光業が極度に発展しており、観光客向けに様々なサービスが提供されている。 本来の観光業のターゲットが長期滞在の富裕層であったことから、充分な所持金さえあればサービス業関連で困ることはないといえる。 **企業 ***ロムレー・ユニオン銀行Union Bank de Lomeray ロムレーで最大かつ最も歴史ある銀行で投資銀行やアセットマネジメント、パーソナルバンキングなどの業態を営んでいる。本社はサン・トゥルミエールにある。投資傾向はクレディ・ロムレーに比べると若干保守的。 ***クレディ・ロムレー社Credit Lomeray 投資銀行などを営むロムレー第二の銀行。本社はポワンクールにあり、セビーリャでも事業を展開している。コーデクス主義的潮流が多分に流れ込んでいる。 ***トリビューン・ド・ロムレーLe Tribune de Lomeray ロムレー最大の新聞社で、国内ではLe Tribuneとして知られる大手紙。本社はロムレー市にある。論調は自由思想派寄り。ロムレーのマスメディアとしては最も国際展開に積極的。 ***ロムレー農業協同組合Lomeray Coopérative agricole ロムレー最大の経済団体であり、およそ150万人の組合員を抱える。本部はポワンクールにある。 ***レゴリス・ミリタリー・インダストリーズ・ロムレーR.M.I.Lomeray レゴリス帝国の軍需企業レゴリス・ミリタリー・インダストリーズのロムレー法人。レゴリス本国からのライセンスを受けてロムレー軍の装備の製造と維持をロムレー国内で完結される体制を構築しており、ロムレー最大の重工業メーカーである。 ***ヴェニス・ロムレースVenise Lomerais ヴェニス・グループのロムレー法人。ロムレー企業はセビーリャでも活動できるため、セビーリャにも展開している。主に研究開発事業を中心に手掛けている。 **通貨 [#wfa4d1f8] 通貨は独自の法貨として移民船時代以前から続くロムレー・フラン(Fr.,LRF)が使われているが、観光業の発展に伴い、他国の通貨の流通も一般化している。 国際通貨であるVaはロムレー・フランと並んで価格表記にも使われ、また主要な通貨は概ね通用する。 **交通 [#uebbac4e] 鉄道が比較的発達しており、山がちな地形ながら登山鉄道などによって国中が結ばれている。また湖上や運河を行き来するフェリーや客船も多く運航されている。 ***ロムレー・チューブ コーデクス共和国で開発された真空チューブ列車VCTTをもとに作られたロムレーの超高速交通機関。三大都市などを結んでいる。空路よりもこちらのほうが早く利便性が良いため国内の移動では一般的にこれがよく利用される。 *国民 [#v2a5401b] 主流文化はスイスフランス語かつカルヴァン派のものであり、民族的・宗教的な類縁の民族がフリューゲルには存在しない。 移民に関してはセビーリャ系が最大多数であり、レゴリス系・ヘルトジブリール系・普蘭系と続く。移民による過度な人口増があまり望まれていないため、内国民待遇を受けるセビーリャ系を除き帰化要件は比較的厳格。 **言語 [#va425c89] 公用語とされている言語はフランス語であるが、このフランス語はいわゆるフランシアン語ではなく、ヌーシャテル近郊のスイス・フランス語であり、近年はこの言語をロムレー・フランス語と呼ぶことも多い。なお、一応フランシアン語でも通用はする。 英独伊語あたりもそれぞれの母語話者が一定数いるほか、レゴリス語やコーデクス語を初めとした友好国の言語も広く学ばれており、これらの一つだけでも話せれば何の支障もなく観光できる。 **宗教 [#u6131ba0] 宗教の構成比率はカルヴァン派66%、カトリック10%、その他プロテスタント4%、CDX信仰4%、その他のキリスト教諸宗派2%、その他の宗教1%、無宗教13%。 信教の自由は完全に認められている。9世紀半ばにカルヴァン主義共和派から自由思想派に政治的主導権が移行して以来、自らの所属する宗派への献金に対する税制上の優遇措置である什一献金特例は公益法人への寄付にも適用されるようになるなどの改革が行われ、カルヴァン派の国教としての地位ももはや形式的なものにすぎなくなっている。 ゾロアスター教などを始めとする国際的な宗教勢力は国内にほとんど地歩を持っていないとされ、ロムレー教会評議会に参加しているキリスト教の宗派と無宗教だけで国民の95%以上に達する。 ***ロムレー教会評議会 [#b2241ad7] 移民船時代に行われたロムレー内部でのキリスト教のエキュメニズム運動に端を発する組織。 ロムレー国内のほぼ全てのキリスト教組織から構成され、国内の宗教間平和と協調を目的としている。会報として『キリスト者の一致』がある。 教義上の統一は特に図らず、キリスト者アイデンティティの統合を図ろうとしており、このためにロムレーのキリスト教コミュニティは独自性を維持している部分がある。 ****ロムレー改革派教会 [#k5c7537a] ロムレーにおいて最も多数派を占め、事実上の国教の地位を持つカルヴァン派の宗派。 ****ロムレー・カトリック [#g6b72bc4] ロムレーのカトリック教会は地球上のバチカン以外の教皇座を認めておらず、その長はあくまで大司教位である。カルヴァン派との差別化の都合上、ラテン語による典礼を重視する傾向がある。 ***ロムレーCDX教会 無宗教者には什一献金特例が適用されなかったことから、これに対抗してコーデクス主義者によって設立された宗教法人。献金された資金はそのまま計算機科学を中心とした科学研究につぎ込んでいる。会報の内容も実質的には論集である。 キリスト教的風土の強いロムレーにおいて公然とキリスト教のドグマを批判するため、ロムレーのキリスト者、特にカルヴァン主義者からは煙たがられている。 **教育・学術・文化 [#zedb7d90] ***学術文化 [#b613d04a] ロムレーは国家規模が小さい割には学術文化は比較的発達している。特に言語学に関する成果が知られているが、広く人文・社会・自然問わず基礎科学分野一般に豊富な蓄積があり、コーデクス共和国解散後の資料流入でさらに発展を遂げた。学問の世界での「コーデクス主義」は、この研究をさらに進展させようという一大潮流である。 このような学術文化発達の背景には中央議会の弁論の場において教養主義が重んじられていることや、観光客とのやり取りの中で幅広い知識が必要とされたこと、極めて高い所得水準ゆえの充分な余暇の存在などが考えられているが、はっきりとした理由は明らかではない。 ***学術出版 発達した学術文化の成果として、多くの学術誌が発行されている。その中でもいくつかの誌は新聞広告に掲載され一般家庭にも購読されるほど有名である。 -『Linguistic Research』 言語学を扱う雑誌。フリューゲルにも印欧語系の言語が多いため、特に比較言語学方面の研究が盛ん。ここから派生して翻訳が行われたコーデクス語公式教科書の仏語版である『わかる!話せる!コーデクス語』は毎年重刷されるロムレー屈指のロングセラー。 -『Papier d'Histoire』 歴史学を扱っている。フリューゲル全体の歴史学を指向する。フリューゲルにおけるグローバリズムを肯定する傾向から急進左派には微妙な扱いをされている。 -『国際経済旬報』 文字通り国際経済の季刊誌と思いきや経済と文化を両方扱う傾向が強い。 -『Politique numérique』 コーデクス主義的政治学の追究を目的に始まった雑誌。かつては異端児たちが書く色物誌だったが近年はコーデクス主義の伸張からロムレー政治学者の必読とされることが多い。 -『叢書コーデクス諸学』 コーデクス共和国解散直後に流入した資料について解説をつけて公開すべきという意見から創刊された叢書。現在はコーデクス主義の影響を受けた研究を何でも扱うようになっており、今や扱う領域も何でもござれである。 -『Epidémiologie et hygiène』 疫学と公衆衛生を扱っている。医療系専門誌だが、なぜかロムレーのどこの本屋にでも売っている。 -『Le progressisme』 典型的な左派知識人向けの月刊誌。これを通読することでロムレー左派論壇の勢力図が分かるらしい。 ***大学 [#f84f5a0a] -アンゼロット記念大学 移民船時代に余暇を用いて行われていた学術サークルに由来し、612年に法人格を取得、619年に法令上も大学となった共和国最古の大学。 学術サークル時代の下部組織を継承した多数の学寮が存在するカレッジ制をとり、それぞれのカレッジで様々な学問が研究・教授されている。社会人学生や聴講生が多いのも学術サークル時代からの伝統である。 サン=トゥルミエール校とポワンクール校の二校が存在し、サン=トゥルミエールは学術サークル時代からの「紙と筆、黒板と白墨、そして学生と教授」さえあればできるような哲学的・数理的な形式科学のほうが、一方ポワンクールは「実際に試してみればわかる」というような経験的な実験哲学のほうが盛んであるといわれるが、キャンパス間よりもカレッジ間の差のほうが大きいとされる。 -ロムレー大学 618年に設立された共和国唯一の国立大学。ロムレー市内に位置し、主に官僚養成を旨とする。アンゼロット記念大学よりも実学と総合科学を重視する。 学部組織としては理学部・工学部・法学部・医学部・社会経済学部・外国語学部が存在する。 ***スポーツ ****スカイスポーツ 元来スカイスポーツの盛んなレゴリス帝国の影響でロムレーにおいてもスカイスポーツが広く親しまれている。人口あたりの競技者ではレゴリスを超えるという推計も存在する。 レゴリスでも人気のある一般的なグライダーのほか、自然の傾斜を活かしたパラグライダー・ハンググライダーも人気がある。 しかし最も一般的なのは気球で、穏やかな干拓地から険しい山岳まで、ロムレーの空に気球が飛んでいるのをよく見かけることができる。 ****アウトドアスポーツ 登山やオリエンテーリングで有名だが、ロムレー人以上に外国人の登山家のほうが多いとされる。 ただし、環境享受権の規定もあって、ロムレー人でも競技性の高くないハイキングのようなものを習慣的にたしなむことは非常に一般的である。 ****ウィンタースポーツ スキーやスケートなどが広く楽しまれている。冬の休暇に山岳スキーを日常的に楽しむロムレー人も多い。 *軍事 [#tbcf805a] ロムレー軍はその国家規模の小ささに反してイレギュラーを保有し、また海外への航空戦力投射能力も備えている。これは実戦経験としてはトロピコ戦役とセビーリャ作戦という二つの派兵経験を通じて形成されたものである。ただし常設の在外部隊などは基本的に持たない。 一方で地上部隊は大規模な派兵を経験しておらず、むしろ国土防衛を主眼とする編制のままであり、多数の民兵といくらかの山岳戦特化の部隊を主体とする。これらは「ロムレー軍はスイス軍の制度を引き継いでいる」という軍を観光資源に使うための建前(移民船期に実質が失われているということは国民の間では公然の秘密である)がそのまま引き継がれたものである。そのために民兵はトロピコ派兵以前のロムレー軍の評価としてよく用いられたフレーズである「軍服を着た観光案内人」的な軍のあり方を今でも保っている。 なお、兵器に関しては基本的にレゴリス・ミリタリー・インダストリーズ社をはじめとするレゴリスの軍需産業の在ロムレー工場で生産されるものが使われており、基本的にロムレー国内で生産・整備ラインが完結しているものの、レゴリス帝国軍の装備体系とほぼ完全な互換性を持つ。 *人物 [#t4e97a55] **中央議会歴代議長 [#mf6ceb86] ***プロスペール・アルベリク・ジャンベール [#ne8f55f5] 中央議会初代議長。 移民船の船内環境を専門とする優れた工学者であり、船内において発生した重大な機械故障に際しての復旧を強い指導力によって指揮し、移民船のフリューゲル到達をどうにか実現した。 その際の手腕から入植直後の共和国においても一定の人気と権威があったが、本人は重力下での環境は専門外であるとして直接手腕を振るうことなく、一貫して中央議会の決定を支持した。 彼の時代のロムレーでは土地との共生が重視され、アーミッシュ的な古き良き理想郷と評される社会を築いたが、その後期にはレゴリス留学組を始めとするフリューゲル諸外国からの影響で公教育制度の整備が進んだ。 移民船時代の活躍についてはいまや歴史上のこととして再評価が進んでいる人物ではあるが、最初期の共和国において議会主義体制を確立した立役者であることは確かである。 ***アンドレ・フィールズ [#fafbc2ff] 中央議会第二代議長。 レゴリス留学組を中心に教育分野などの必要性から官僚組織が拡充されていく中で、ジャンベール引退後の共和国の主導権をレゴリス留学組が握ることを危惧した中央議会の議員たちによって選出された。 本人はこれといった強い主義主張は持っていないが、調整能力に優れ、レゴリス留学組と旧来の議員層を巧妙に調停して教育政策とインフラ整備を推進し、共和国は彼の在任中に世界最大の観光国となった。生まれ育った時期が移民船時代のため高等教育にあたる学歴は持っていないが、学術サークル時代のアンゼロット記念大学に属しており、その学識はフリューゲルの学問の取り入れに貢献したといわれる。 なお、独自に打ち出した政策はあまりないが、唯一例外的に鉄道振興にはこだわりがあるらしく、道路網よりも鉄道網を中心とした交通インフラ整備を強力に推し進めた。この政策は観光業の発展には貢献したようである。 彼の在任期間の終わりごろにはヴァノミス危機やトロピコ戦役が発生、その中で中央議会の権限は一時低下したが、それもあって戦後の平時体制復帰後は議会の権威の再確立に奔走した。ENECオブザーバー加盟の際の演説を行い、それが承認されるのを見届けて中央議会の職を引退。 ***オロール・オーブ・トリベール [#d3402736] 中央議会第三代議長。 第一期のレゴリス留学組の中でも最年少(小学生相当)であった女性。最終学歴はレゴリス帝国大学法学部(首席)。レゴリスからの軍事顧問としてロムレーにいたことのあるルーミヤ・グドリャンとは友人。 キャリア官僚であるが、その出自もあいまって同期の中でも一番の出世頭であり、官僚としては監査委員会でキャリアを積む。 トロピコ戦役中の戦時体制では形式上は通商局の役割である鉄鋼資源の管理について、その実務を集約させられた鉄鋼資源管理セクションのリーダーを担当。ロムレーの行政機関としては動員体制を完璧にこなせたのは彼女のセクションぐらいである。戦後はその成果を認められ、監査委員会委員長(行政官としては最高位)に出世した後、二年ほどで慣例に従い退職。中央議会議員に転身、そしてフィールズ議長の退任後の中央議会議長に就任した。 レゴリス留学組の中でも最も有能な人物であることは間違いなく、官僚の影響が大きくなりすぎると渋る議員もいないではなかったが、その能吏ぶりが広く認められていたことは確かである。 680年代を前にして引退、その後はレゴリスとロムレーを行き来しつつ悠々自適の老後生活を送り、時折レゴリス語やレゴリスのエリア・スタディーズ研究の学会誌に論文を寄稿していた。 ***ノエル・ヴァロン [#d5a940c2] 中央議会第四代議長。 ロムレー大学で工学を修めた後、サン=トゥルミエールのリゾート地でエンジニアとして活躍、後に経営者にもなり周辺島嶼での観光地開発に参入し成功、その後中央議会議員になった。 経歴から観光業への造詣が深く、治安と社会インフラの維持を重視しているとされる。 また、海空軍に対し否定的な見解を抱いている(一説には周辺島嶼の土地収用で海空軍と一悶着あったとも、海外にリゾートを広告する際にトロピコ戦役の悪評に直面したともいわれる)とされ、海外派兵にも消極的な態度をとり、国防予算も抑制された。 690年代末の北東島嶼部の油田開発を巡る論争を抑えきれずに議長職を辞職、現在は一議員に戻り観光政策を中心課題として活動していた。 ***クレマン・フィリップ・アベラール [#ud7c023d] 中央議会第五代議長。 安全保障局のキャリア官僚。合理的規律派に属する議員で、コーデクス主義者。ただ不遇にも彼の時期にはコーデクスが外交的に不活発な時期で、コーデクス外交から得られる成果は少なかった。 軍に抑制的な政策に対する不満の中から中央議会議長に選出された。ノエルとは一転して軍事力の強化を主張し、軍事訓練に努めた。 彼の目指す軍事力増強政策が一応達成され、軍を重視する声が収まったため705年に退職、その次の選挙に出馬することもなく、その後は軍事コンサルタントとして在野で活動していた。 ***クレピュスキューレ・トリベール=スィジィニョレ [#ge7ee69e] 中央議会第六代議長。 オロール・オーブ・トリベールの孫娘。その容姿も才能も祖母の鏡写しで、物理学と言語学(趣味らしい)で博士号を持っている才媛。アルヴィドソン大学(レゴリス)、アンゼロット記念大学などで研究員・教授職を歴任してきた。中央議会議員になったのは祖母を超えるためらしいが、実務能力を認められ結局祖母と同じ中央議会議長になってしまった。たまにオロール本人なのではないかと疑われるが、彼女はナイスジョーク的に流す。 祖母譲りの調停能力でノエルやクレマン時期の議会内の方針対立を抑え、国制に関する議論を一段落させた。彼女の下で久方ぶりにロムレー政治は理念的な無政党政治に近づき、党派対立の少ない時代を迎えた。 720年代前半のコーデクス共和国解体というロムレー国民にとっての政治的大変動を平穏のうちに乗り越えられたのも彼女の下でカルヴァン主義共和派と自由思想派がうまく調停されていたためである。 730年に入り二重の衝撃後の政治秩序が落ち着きカルヴァン主義共和派と自由思想派の折り合いもつくようになったことで、彼女の在職期間が祖母の在職期間を上回ったことを口実に引退。その後は祖母同様再び学究の生活を過ごしていた。 ***ローラン・フィリベール・トワゾン=ダンジュー [#c136c34d] 中央議会第七代議長。 カルヴァン主義共和派のなかでも長老格の穏健派。特筆すべき業績も問題もないまま、もともと高齢だったこともあって748年に健康問題のため退任。 ***クロティルド・レイモンド・レーヌ・ビドー [#ee5567ad] 中央議会第八代議長。 農林業の保護を主眼とする重農主義者。主だった業績としてはセビーリャ自治政府における聖樹保護推進やユリウス戦役の指揮があげられる。766年に引退した後は自らの農場経営に専念、農協直営店でその名前をよく見かけたという。 ***ポール・ラモワン 中央議会第九代議長。 教育局出身の文教族議員。新興国における学術振興を図り、サン=トゥルミエール協定とポワンクール協定を締結した。外交予算から学術的コーデクス主義を支えることになったが、政治的コーデクス主義に関しては本人は微温的だったとされる。782年に引退、その後は母校であるアンゼロット記念大学に再入学して生涯学習に励みながら余生を過ごしている。 ***レナエル・エミリー・パンルヴェ 中央議会第十代議長。 自由思想派の主流派に属する。コーデクス主義に対して懐疑的な態度から、セビーリャの自治を拡大してコーデクス主義者の影響力を削ぐ方針をとった。794年の自由輸出裁量枠制度導入で統治委員会通商部の力を決定的に削げたと判断し795年に退任。 ***グラシアン・グウェナエル・シャノワーヌ 中央議会第十一代議長。 左派共和主義・社会主義的傾向の強いカルヴァン主義共和派。自由思想派からの反発は強いが、合理的規律派と重農=環境派の対立を仲裁できる数少ない人物であり、北西島嶼の開発計画で盛り上がった両者の対立を融和するために選出された。807年のレゴリス帝国500周年記念式典を最後に引退。 ***イジドール・コルネイユ 中央議会第十二代議長。 ロムレー大学を卒業後ロムレー・ユニオン銀行に勤務していたが、第二の観光開発の時代にそれを後追いして行われたインフラ整備が財政を圧迫していることにある時気付き、状況を改善すべく監査委員会に職を得て観光業とそのインフラへの整理を断行、財政的に苦しい状況にあった周辺島嶼部コミューヌの立て直しに成功した人物。その業績からコンパクトで効率的な政府を望む民衆の支持を背景に、自らの行った効率化へのバックラッシュを阻止すべく中央議会議長に就いた。 凡百の政治評論家の評価では、過度な観光開発が経済にも環境にも負荷を与えているという立場から重農=環境派に配慮した政策をとる自由思想派。 しかしその実態は、資本家と近しいはずの自由思想派でありながらロムレーの最も主要な資本家である観光資本から徹底的な嫌悪を受け、ポワンクール派である自由思想派に属しながら最も支持層になりにくいはずの地方の保守的なコミューヌの農民から支持を集め、それでいて自らの大衆的な支持に反してポピュリズムをエリート主義的立場から警戒し、コーデクス主義の発展に対する楽天主義を乱開発の元凶として倦厭する一方で学術的コーデクス主義の凡そあらゆる研究領域に通暁し、セニオリス的ないわゆる「ダイエット主義」に近い経済観を持ちながら813年戦争ではセニオリスを初めとするETO諸国との戦争を指揮し、しかも政治的コーデクス主義者と敵対しながら合理的規律派の主流派には一定の評価を受けているという矛盾の人。 そんなこんなでとにかく毀誉褒貶の激しい人物であり、就任直後から「観光立国ロムレーの奇妙な死」「手の込んだ自殺」とも「ジャンベールの再来」「古き良き国制の再建者」とも評される。 三重苦の危機後、議論をひとまず落ち着かせた後、もはや自らの目標とする「効率的な経済」ではなく別の問題が争点になったことを見て834年に引退。 ***リカルダ・ロブレド・サンドバル 中央議会第十三代議長。 熱烈なコーデクス主義者であるセビーリャ系一世の計算機工学者とロムレー人の論理学者を両親に持つセビーリャ系二世。 生まれ育った環境からコーデクス主義に慣れ親しんでおり、そのままロムレー大学で経済物理学を学び修士号を取得。これを通じてレッセ・フェール的な思想傾向も持つようになり、その後クレディ・ロムレー社投資銀行部門に勤務し普藍やヴェニス島といった新興資本主義経済の急成長を間近で捉えたことによりその傾向を強める。 本人は自由思想派であると自認しているが、同じ自由思想派でありながらもコルネイユ前議長とは犬猿の仲である。文化的自由主義である自由思想派のメインストリームと異なり、自由放任経済を主唱するという点で異端児であり、一方でコーデクス主義者としても中央コンピューターへの集約化より分散的なネットワークを重視する変わり者でもある。 三重苦の危機で主要党派が混乱する中、独自の主張で注目を集め議長に就いた。 在任中はサンディカリストとアナーキストに悩まされ続けたが、誰も代わりをやりたがらない状況で、どうにかかじ取りを続け、国連への参加・安保理一般理事国選出など一定の成果を上げた。 855年に退任。本人の意図等は明確には語られていないが、次のブロンデル議長が議員になったことを受けて、後任として誰もが認める存在がやっと登場したことを受けてのものと考えられている。 ***ディアヌ・ヴァランティーヌ・シビル・ブロンデル Diane Valentine Sybille Blondel 中央議会第十四代議長。 ロムレー・ユニオン銀行のシンクタンク部門で主に社会主義国との二国間投資を専門に研究員として調査研究にあたってきたエコノミスト。外交局の情勢調査員に転職し、ストリーダ・ヘルトジブリール・レゴリスなど先進国経済の比較研究を行い、経済学の学識や語学力だけでなく、交渉力や実務能力も極めて優秀であったことからその能力を買われて外交官に転身、平和原則条約起草委員会ロムレー代表団の中心的メンバーとなった。国連発足後は初代国連大使を務め、普蘭問題について将来禍根を残す可能性の大きなミルズ案を撤回させるなどの功績をあげた。 855年、両ミルズ問題について一定の解決を見た後に国内政治に身を転じ、中央議会議員となった。国連大使就任時点から既に「次の中央議会議長」として期待されていた人間であり、立ち位置としては社会自由主義者で、コミューヌ単位で見るとロムレーは非常に強力な福祉国家を成立させていることに気付き、むしろ伝統的でリバタリアン的な「古き良き国制」という議論がロムレーの政治認識をゆがめていると考えており、実情に理念を合わせることを主張する。 外交的にはフリューゲルの経済的中心であるヘルトジブリールをとりわけ重視し、社会主義国との協調を志向する。これはヘルトジブリールとの相互不可侵・学術交流条約締結という形で結実し、それだけでなくロシジュアとのバラ園の協定などの成果をあげた。 一方で長らく休む暇もない激務に晒され続けたことから晩年には次第に身体的な問題を抱えるようになり、国連体制が安定化すると中央議会内部の意見もまとまらないようになっていったこともあって、政権後期には精彩を欠くようになっていった。882年に引退。 ***アンブロワーズ・リオネル・スィズィニョレAmbroise Lionel Sixinolet(ガストン・グウェナエル・ミュレーズ・シャノワーヌ) 中央議会第十五代議長。 永久安保締結時の参謀本部総長。海軍出身。海軍兵学校入学以前の記録が一切残っていないなど、その経歴にはかなり謎が多い。 実際のところ、母方の高祖母はグラシアン・グウェナエル・シャノワーヌで、父方の先祖にはクレピュスキューレ・トリベール=スィズィニョレがいる、超エリート家系の出自。フリューゲル暦818年生まれ。 幼少時から母の下で諸学問を修め、とりわけ経済学に卓越した才能を示し、弱冠12歳にして積極的な財政政策の有効性を訴える論文で経済学の賞を授与されるなどの業績を挙げた。 三重苦の時代に左傾化するロムレーの中で、彼の論文の評価もさらに向上していったが、一方で彼自身はその時代の空気に違和感を覚えるようになっていく。そしてある時、家を出奔し、姿を消す。 ここでは父方の親戚の「ロムレーの魔女」(彼女こそオロール・オーブ・トリベールその人にしてクレピュスキューレ・トリベール=スィズィニョレその人である)のツテで過去を全て消し、海軍兵学校に入学している。 海軍兵学校でも卓越した成績を残し、無事に首席で卒業、以後順調に昇進し、海軍どころかロムレー軍全体の制服組トップにまで達した。セニオリス封鎖作戦等でレゴリス軍と密接に連携して活動。 軍人を引退した後に中央議会議員となるが、それ以前は政治的には無名でありながら驚くべきバイタリティで合理的規律派の事実上のリーダーとなり、コーデクス主義が支配的になる以前の合理的規律派の立場を回復させた。ブロンデル前議長の退任後、ガトーヴィチ内戦を受けて強いリーダーシップをとれる人間が求められたことから882年に中央議会議長に就任。ガトーヴィチ内戦下でロムレー軍の警戒態勢を指揮した。 ***メレーヌ・ヨランド・リュシェールMélaine Yolande Luchaire 中央議会第十六代議長。 ブロンデル議長の国連大使時代の直接の部下。言語学博士(ロムレー大学)、法務博士(帝国大学)。レゴリス帝国弁護士資格も有する。 ロムレー大学言語文化学部レゴリス語学科を次席、同大学言語文化研究科を首席で卒業し言語学で博士号を取得後に外交局に入局。学部時代に首席を逃したのはあまりにも兼修外国語をやりすぎたからとの噂で、実際に主要国の言語はおおよそ話すことができる。入局してすぐにブロンデルの下に配属され、平和原則条約起草委員会のためにしばらく働いた後、将来の国連設置に備えて国際法を学ばせるべく研修としてレゴリス帝国の帝国大学に留学。法務博士とレゴリス帝国の弁護士資格を取得後外交局国連部に復帰し、再びブロンデルの下で働くが、ブロンデルが政界に転身したため第二代国連大使に就任。 優秀だが性格は穏やか。如才ないようでどこか抜けているとも。 膨大な情報とそこから予想される無数の帰結を直観的に処理しながら、その直観の導出過程を諸学問と整合的で適切な論理によって説明することができる紛うことのない天才にして秀才。唯一の欠点は誰にもまねができないということであり、国際政治を国内の議会政治の論理に翻訳し説明しながら進めることは結局彼女にしかできなかった。それゆえヴィレット国連大使などのごくわずかな例外を除いて後継者を育てることには失敗し、彼女が国連大使から議員に転身した後には「彼女の代に比べて質が低下した」と批判され急速な外交局の地位低下を招いたが、中央議会議長としての責務から外交局をかばいきることはできなかった。 政治的には非党派的で、国際協調を維持するのと同じ手腕で国内党派における調和を図る。 902年に中央議会議長に就任。926年に退職。 ***ポール=アンリ・レ・ラグランジュ  第17代中央議会議長。  官僚主義的なルッコラ主義者、孤立主義者。博士(史学・アンゼロット記念大学)。サン・トゥルミエール近郊の農村生まれで、アンゼロット記念大学に進学してスイス独立史を研究し博士号を取得。キャリア組として外交局に入局するも、出世ルートを選ばず、事務方として勤続。しかし国連代表部史料編纂室に配属後、つい歴史家の血が騒いでアクセス権限をフル活用して史料編纂をしてしまい、報告書をヴィレット国連大使やリュシェール議長に評価されてしまう。その後リュシェール議長に議会図書館へのアクセス権限をエサに中央議会議員になることを勧められ当選。リュシェールの右腕として活躍する一方で、国連懐疑主義的な言動がむしろロムレー一般国民の支持を受け、珍しく議会内政治よりも国民一般からの広い支持を支持基盤として中央議会議長に就任する。  情報処理能力に優れ、ライブラリアン・アーキビストとしては有能だが、極めて官僚主義的で総じて流れに任せる姿勢をとりがち。本人も外交官や政治家向きではないと自認している。なお、外見が極めて若々しく、下手をすれば少年か青年のようにも見えるが、実年齢は普通に中年である。非党派的で、外交局出身者では数少ない非国連派で、ついでに親レゴリス派でもなく、親社会主義派でもない。本人は冗談めかして「親ロムレー派」を自称するが、そのために時々自国中心主義とかルッコラ主義とか言われる。なお、本人もその呼び名を否定はしない模様。 948年に引退。 ***アンリエット・ブランディーヌ・ビュファン  第18代中央議会議長。  医師、公衆衛生学修士(ロムレー大学)、医学博士(帝国大学(レゴリス))、陸軍退役大佐。周辺離島のローワーミドル子女で、12歳のときに事故で両親を失う。その後リセを首席で卒業したが進学せずロムレー軍に入隊し衛生兵に配属。しかし成績優秀なことから特待生として抜擢され軍医学校で医学を修めて医師免許を取得、軍医となって活躍した後、ロムレー大学で軍人の職業衛生を研究し公衆衛生学修士号を取得し医療福祉局に技官として入局、レゴリスの帝国大学に官費留学し極限状況での作戦における健康の保持に関する研究で医学博士号を取得するなどしつつ局長まで昇進の後中央議会議員に転身。遅咲きのエリートだが、医療政策と安全保障政策の両面に理解の深い叩き上げの卓越した実務家。10世紀前半の反エスタブリッシュメント的な思潮にも適合し、広く評価されて中央議会議長に選ばれた。内政においてはレジリエンスの維持を掲げ、外交においては新古典的現実主義を旨とする。政治的には党派主義を嫌厭するが、支持層の中核は合理的規律派とされ、カルヴァン主義共和派と社会自由派にも好まれている。 セニオリス・クーデターの対処に奔走した後、別府危機の幕引きを受けて980年に退任。 ***アリス・ニコレット・オルガ・セヴィニェ  第19代中央議会議長。  理学博士(アンゼロット記念大学)。サン・トゥルミエール郊外出身で、両親ともに環境科学者。ちなみに祖母にヘルトジブリール人を持つクォーター。幼少時から環境科学の書籍と実験機器に囲まれて育ち、自然と進路を環境化学に選び、アンゼロット記念大学で大気化学を修め、サン=トゥルミエール市やアンゼロット記念大学で技官や研究員を勤めた後、大気海洋局に入局。伝統的に管理職は技官が務める局ゆえ、局長まで昇進した。  本来であればそれで極官を極めたとして引退するところではあったが、ガトーヴィチでのBT兵器問題を背景に積極的な行動を訴える重農=環境派の一員として活動し、腰の引けている外交局を後目にアンリエットの後押しなどもあって国内外での根回しを行った。これは外交的にはガトーヴィチや普蘭との関係を微妙なものとしたが、ロムレー人一般には広く評価され、退職後に乞われて議員に転身し、重農=環境派の強い支持とアンリエットの継承者としての評判から議長に選ばれた。  技術的な専門知に長けた才女という面ではまぎれもなくアンリエットの後継者であり、個人的にもアンリエットとの親交は深いのだが、しかし政策においてはかなり異なっており、ロムレー人によくある「内政により外交する」でもアンリエット流の「外交は外交として行う」でもなく、「外交は必要に従属する」を信条とし、普段の関係維持的な外交に対して積極的に乗り出すことはしない。完全なルッコラ主義とも違い、「必要がないなら無理に外交に出ていかなくてもよい」という立場であったが、選挙において掲げた「陣営間対話」の方向性を重視するように軌道修正していった。一方で既存同盟国に対する配慮を無視する傾向があり、保守派からは外交政策に対する懸念が指摘されている。 ---- (おまけ) *ロムレー・コミューヌ連合 Syndicat Commune de Lomeray 革命によってむしろ二院制になった。狂物質平等。 下院:人口比、合計400議席 -組合党143 -社会党112 -CDX党69 -左翼党45 -共産党17 -緑の党14 上院:コミューヌごと、合計86議席 -社会党25 -左翼党21 -組合党19 -緑の党11 -CDX党8 -共産党2 二大政党制:進歩党が強すぎる -進歩党(組合党+CDX党+共産党) -社会党(社会党+左翼党+緑の党) 四党制:twitter適応、でも共産党が躍進するんやろなあ -進歩党(組合党+CDX党) -社会党(社会党+左翼党) -共産党 -緑の党 六党制:なにこれ??? **典型的社会主義 よくある社会主義者。サンディカリストの時点で既に典型的ではないが気にしてはならない。 ***組合党:サンディカリスト(狂平等物質) 革命のまさに始まり、ポワンクール蜂起を主導した党派であり、自らを社会主義ロムレーの主導者にして中枢とみなす。親カルセドニーの立場から外交政策を指揮する。 とりあえず最大党派ではあるのだが、革命前のカルヴァン主義共和派のような安定した支持基盤がないため常に国家経営はカオスなことになっている。革命とは何だったのか。 支持層が大都市であるポワンクールに集中し、地方では根付いていないので、下院では最大勢力、上院では三番手である。 ***社会党:社会自由主義者(狂平等受容) 革命以前の五大党派を継承する唯一の党派。相変わらず労働者保護と就学前・初等教育を重視し、社会改良に励んでいる。 革命への態度は微妙であったため、主要党派で最も革命直後の粛清の被害を受けた党派である。親レゴリス的心情をよく残しており、革命後の親カルセドニー政策に対し微温的。 ***共産党:評議会制共産主義者 対外的なカウンターパートは多いものの、国内の支持は主要党派のうち最も脆弱な党派。社会主義国への留学帰り組が中心。 **周縁派 革命以来ロムレー社会主義を支えてきた、典型的な社会主義ではないが社会主義を前進させることに積極的な党派。 ***CDX党:コーデクス主義者(狂物質軍国) マニアックな党派だが、コーデクス主義者は革命後のロムレーにおいても相変わらず技術革新と科学研究の担い手として力を持ち続けている。 彼らの参与は革命における軍の掌握を可能にし、ひいては革命そのものの成功を可能にした。かつてのセビーリャ統治の経験をもとに自らの国家を改造しようとしている。 ***左翼党:左派リバタリアン(狂平等排他) 共同体的な自治を重んじ、国家の介入を排してその内部での福祉を重視する。左翼という看板を掲げつつも「古き良き国制」の系譜を継ぐ保守的な社会主義が実態であり、社会主義の旗の下でもロムレーの伝統的なリバタリアン的保守の価値観を防衛しようという運動である。 他の党派からは常にその「社会主義」への態度に疑問の目を向けられているが、この党派を排除した途端に保守的農村コミューンの掌握が不可能になるため潰せずにいる。要するにロムレーにおける「南の風」のような存在(ただし別段彼らは資本主義者というわけではない)。 **その他 ***緑の党:環境保護主義者(狂受容平等) 革命への態度は微妙だったが、無害という点で放っておかれた党派。革命前からエコツーリズムで栄えてきた地域に支持基盤がある。 **反動主義 反革命派。もちろん公的な結社は認められていない。なお、よく一括りにされているものの、革命前の調和はどこへやら、カルヴァン主義者と市場主義者は全く仲が良くない。 ***カルヴァン主義者(狂精神) 反動的宗教と化したカルヴァン主義。既に公的な場ではCDX信仰以外のいかなる信仰も認められていない。 ***市場主義者(狂物質) 市場経済の復活をもくろむかつての自由思想派。社会主義への敵意のみが残る現在ではもはや「自由思想」のかけらもない。
#contents |~国名|République de Lacustre Lomeray| |~(英訳)|Lakeside Republic of Lomeray| |~標語|Liberté et Patrie(自由と祖国)| |~国歌|Ô monts indépendants(おお自由なる山々よ)| |~公用語|ロムレー・フランス語| |~宗教|カルヴァン派(国教)、キリスト教他教派、CDX教会、無宗教、その他| |~政体|議会主義・代議制共和国| |~通貨|ロムレー・フラン| |~建国|フリューゲル暦 611年 5月 15日| *概要 [#df938619] ロムレー湖畔共和国は、フリューゲル最大の観光大国であり、議会主義を掲げる共和国である。 スイス西部(主にヌーシャテル湖畔)を出自とする移民団がフリューゲル暦611年に故郷に似たフリューゲルのとある島の高地の湖畔に入植地をしたことによって建国された。 *地理 [#bb6ebd64] 本土は台地状の島であり、国土に占める高地の割合が高い。ただし干拓地や離島など、ある程度は低地も存在する。 いずれの地域においても自然環境は厳しい環境基準の下でよく保護されると同時に、自然享受権が法的に広く認められている。 **中央高地 [#ne5dcf85] 島の大部分を占める高地地域。氷食湖が散在している。気候は冷涼な山岳性。 大きく三つの地域があり、それぞれが中核となる都市地域を有する。ロムレー市とサン=トゥルミエール市はほとんど連接しているが、行政区画上は別コミューンであり、それぞれが独自のCBDを持っているため、一般的には別の都市として扱われる。住民意識としてはこれらは三大都市と呼ばれ、湖畔共和国の中核をなしていると考えられている。 ***ロムレー Lomeray [#he2c81e1] 中心地は(9,11)近郊。共和国最初の都市にして法令上の首都。中央議会とそれに関連する政府機関の施設が存在する。建国の契約が交わされた丘もそのまま記念碑として残っている。 建国最初期のごく数ヶ月間の間、共和国はロムレー・コミューヌと一体の事実上の都市国家であり、その名残で都市名は国名と同じである。外国から見ると紛らわしいことこの上ないが、ロムレー人は自国のことを「(湖畔)共和国République(de Lacustre)」と呼ぶのが普通なので、国民の間ではあまり気にされていない。一応、特に区別が必要な場合にはロムレー市Ville de Lomerayと呼ぶ。 ***ポワンクール Poincourt [#qe57dda1] 中心地は(13,9)近郊。共和国の最大都市(ゲーム的には首都)。中央高地の中では最大の盆地に位置し、また建築上の規制が他のコミューヌに比べ緩やかなことから国内では珍しく高層ビルが林立する景観がみられるが、それでも他国の大都市ほどの密度はない。 631年11月に巨大隕石の直撃により壊滅的な被害を受けたが、現在は復興、その後の都市計画の巧みさもあり、インフラのよく整備された都市として商業上の中心地の地位を守り続けている。郊外には墓地を中心とする巨大隕石災害のメモリアルパークが所在する。 ***サン=トゥルミエール Saint-tourmielle [#z82f67b2] 中心地は(9,14)近郊。同名の大聖堂の所在地であり、ロムレーにおける宗教上の中心地。移民船が着陸した地点であり、その船体の一部がそのまま大聖堂の建物に使われている。 観光地・保養地としての発展が共和国内でも最も早かった地域であり、現在でもこの都市の郊外に共和国最大のリゾート地が広がっている。第一回ソサエティはこの都市で開催された。 **北西干拓地 [#r9d25f21] 低地ではあるが北方に位置するため冷涼であり、同時に海からの風が卓越し湿潤。主に酪農と混合農業が営まれる。総じて長閑で保守的な農村の様相が強い。 **南東干拓地 [#i1c47b6b] 中央の高地から吹き降ろす風が卓越し、ロムレー国内では珍しく温暖な地域。主に花卉・野菜などの園芸農業が行われる。内陸部の滝線沿いには水力を動力として稼働する空軍向けの工場が点在している。 **周辺島嶼 [#g898db9c] 周辺に点在する島々。国立公園指定のなされた自然保護地や対着上陸侵攻用の防衛陣地が多くを占めるが、本島と同様に多数の観光地が存在する。 特にほぼ全域が自然保護区指定されている北西部に存在する油田の扱いは度々政治的争点となってきたが、現在はセビーリャ産石油で事足りるため産油事業を停止している。また、南西部には海軍向けの軍港がいくつか存在する。 *歴史 [#m0aac29a] ***610年代 自給的共和国の時代 [#od223776] 611年5月、現在のサン=トゥルミエールに降り立ったロムレー移民団は、ロムレーの地にはひとまず牧牛に食ませる草と暖を取るための炭が充分あることを確認し、入植を開始した。一般にロムレーの建国は5月15日14時にロムレーの丘で交わされた建国の誓約によってなされたとされ、この日が建国記念日となっている。そして同時期にフリューゲル国際社会との接触も図られ、また、独自に行われた資源調査でウラン鉱を発見、613年から始められた資源輸出により、国家として安定して経営できる状態を確立した。ウラン鉱の開発において他国の投資を受けずに行われたのには、以後のロムレーにおける他国への経済的依存を回避しようとする傾向の原型を見出すことができる。 この時期においては共和国はカルヴァン主義共和政を理念とし、また政府の機能は抑制され、ある程度各種産物の商業的な輸出をし、形式的にはレンティア国家的でありつつも基本的には独立自営農民を中心とする社会が築かれていたといえる。この時代のロムレーの、当時の表現では「ピューリタン的理想郷」と呼ばれる社会は現在のロムレーでも「古き良き国制」として理想化され根強い支持を集めている。 しかし610年代も後期に差し掛かると国際社会への理解が進展、フリューゲルで広がっていた学問を国内に浸透させるには移民船時代の徒弟制的な技術伝承・教育の形態では不十分との考えが広まって618年ごろから公教育制度の整備や海外への留学生の送り出しが始められるほか、619年ごろから大々的な保養地の整備が行われて長期滞在観光客の呼び込みが始まるなど、610年代末の時点で既に後のロムレー社会の原型は形成されつつあった。 その国際社会への理解の進展をもたらしたものとして最も大きいのは、時期は若干遅いが619年に行われたウィリーツェン会談であろう。この会談でのウェールリズセ代表の弁が国内で伝えられると、共和国民はその内容に大いに興味を持ち、国際政治への関心が高まった。これは公教育制度拡充の直接的原因ではないがそれに拍車をかけたのは間違いない。 ***620年代 観光大国化の時代 [#r156df7a] 風光明媚な景観に助けられつつ留学組の持ち帰った技術を用いて振興された観光業は620年代には年率二桁の高成長を続け、628年ごろにロムレーの滞在者数はそれまで滞在者数世界一であったエルツ帝国を抜いて世界一に到達した。基本的にロムレーはこの年代に観光大国の地位を確立したといえる。一方で観光業に土地と労働力を奪われて農業生産については後退し、この時代には食料自給能力が失われることになった。 また、資源輸出と観光業を両輪とする経済が確立されたことで経済的にも好況が訪れ、627年に設置された福祉医療局を中心に留学組のなかでも社会自由主義者を中心とした勢力がヴェールヌイをモデルとした福祉国家化を図る運動を始め、この時代に幸福度も国際指標上で大幅に向上した。 この時代の後半は安全保障・宇宙開発においても進展があった。627年末に気象衛星の打ち上げに成功したほか、629年にレゴリス帝国との相互安保条約を締結している。もっともそれが本格化するのは630年代になってからのことになる。 ***630年代 防衛力拡充の時代 [#y63a44ac] この時期にも引き続き観光業は成長を続けているが、ロムレー人にはこの時代はなによりもポワンクールへの巨大隕石落下、そして対レゴリス相互安保を受けての防衛力拡充の時代として記憶されている。 631年11月に起きた最大都市ポワンクールへの巨大隕石の落下はロムレー史上最大の大災害であり、これにより共和国のほとんどの官僚機構が機能停止する危機的状況に陥った。このときに効力を発揮したのが3年前に締結したばかりのレゴリスとの相互安保であり、そこではレゴリスからの救助隊が活躍した。 この巨大隕石の衝撃はロムレーに軍隊の機能を認識させる結果となり、それまで「軍服を着た観光案内所係員」と評される状態だったロムレー軍はレゴリスからの軍事顧問であるルーミヤ・グドリャンの下で改革されて主に山岳戦を中心とした実戦能力を身につけ、また635年10月には安全保障局が迎撃衛星の打ち上げにも成功している。 なお、634年のクイーンズによる対全国家宣戦を受けた際、直接的な影響はなかったものの、これを受けて行われた海防力向上のための調査の結果を活用して、沿岸部の干拓が行われ、干拓地での酪農などによって食料自給能力を回復した。これも中央政府が大きな役割を振るうというこの時代の特徴的な出来事でもあるかもしれない。 この年代の起こった外交上のできごととしては、カルセドニー島共和国が提唱する資源輸出国機構創設を目指す9ヶ国会議への出席もあったが、この交渉参加にあたっては議会を始めとする諸勢力の激しい抵抗にあって代表団派遣が遅れるなど、当時のロムレー人の経済的な国際機構への抵抗感があらわになった。なお資源輸出国機構構想自体は会議中断後音沙汰はなく、事実上頓挫している。尤も、仮にこれが成立していた場合、中央議会での批准に失敗するか、あるいは政変に至っていた可能性が高い状況であり、共和国にとってはこの構想の挫折は好ましかったと語られることがほとんどである。 ***640年代 相対的安定期 [#e8742eb5] この時期にはもはや観光業の成長はひと段落し、滞在者は2000万人弱、観光収入は200兆Va/年強でその成長は極めて緩やかであった。 641年に創設されたソサエティには共和国は原参加国として参加し、645年にサン=トゥルミエールで行われた第一回ソサエティにおいて議長国の役目を果たしたほか、ソサエティによるトロピコ査察団に人員を送り出した。 この年代のロムレーはあらゆる意味で安定し、繁栄を享受した。第一回ソサエティの成功はその結実であった。 しかし、この時期にトロピコ問題やヴァノミス問題は水面下で進行しつつあった。第一回ソサエティの共同声明の第一項がトロピコ問題を扱うものであったことは示唆的である。 ***650年代 戦争と共和国の変質の時代 [#oc1cdaaf] 650年に入り、トロピコやヴァノミスを巡って国際関係は急速に緊迫したが、共和国はこれまでの外交姿勢を継続し、同盟国のレゴリス帝国を支持してENEC諸国と協調する立場をとり、結果としてヴァノミス危機とトロピコ戦役に身を投じることとなった。 ヴァノミス危機は大戦の危惧を抱かせたものの、ぎりぎりで回避された。しかし、これによって建国以来最大の資源輸出先であったアルドラド帝国との関係は断絶され、トロピコ戦役直前にアルドラドによって行われたトロピコへの砲弾納入のためにそれはもはや修復不能なものとなった。 トロピコ戦役はその有志連合の軍事力に反して3年以上にも及ぶ長い戦いとなった。その中でロムレーの民間人や観光客が被害を受けることはなかったものの、トロピコ軍によってロムレー軍は大きな損害を被ったし、戦費や経済的な負担も膨大なものとなった。典型的なピュロスの勝利といえる。 多くの戦争に言えることだが、例に漏れずこの戦争を通じてロムレーは変質を被ることとなった。それは建国以来の共和政のシステムも議会主義の理念にも手をつけず、変質したのは政府と軍のみであったが、ともあれここにおいて共和国は620年前後に匹敵する変質を遂げた。 ロムレー軍は大規模に動員され、建国以来主要産業として大きな影響力を持った鉱業は、いまや戦時体制の下で動かされる存在となった。 なお、この戦争の戦訓は多く、それを活用して654年3月には防衛衛星の打ち上げに成功している。また、656年からレゴリス資本の兵器整備拠点がロムレー軍基地周辺に建設され、軍備の国内完結性が高められることになる。 戦後の一時期には政府や軍の無策な戦争遂行への非難が盛り上がり、激しい議論が交わされたこともあったが、最終的にはうやむやのうちに終わり、650年代の後半はロムレーは再び平穏な日々を過ごすこととなった。 657年にはENECにオブザーバー加盟し、トロピコ戦役以来の国際的立ち位置はここで完全に確定されたといえる。 ***660年代 再結晶化の時代 [#x0940479] 661年に共和国は建国50周年を迎え、各地で式典が開催された。戦後の内向き意識の中で積極的な外国代表の招待は行わなかったものの、中央議会の記念式典ではレゴリス帝国総統が演説を行っており、レゴリスとの同盟関係が再確認された。この年代にはレゴリスの国際的地位は低下傾向にあったが、ロムレーは良好な対レゴリス感情からあくまでレゴリスを支援しつづけている。 なお、666年の連合国によるセビーリャ作戦において共和国軍はウェールリズセ側に立ち支援兵力を派遣しているが、この作戦の間、本土は一貫して平時体制を維持したままであった。平時体制の状態で派兵ができるようになったことは、650年代の共和国の変質の結果であり、セビーリャ派兵を通じてそれが新しい共和国の体制として定着した。セビーリャ作戦完了後は占領委員会の一員として占領政策にも一定程度関与しているが、共和国はセビーリャに対しなんらの利害関係もなく、またセビーリャになんらの利益も期待しなかったため、共和国はそこでは専らセビーリャの安定化だけを追求する姿勢にある。 ***670年代 沈潜の時代 [#te52e532] 673年の石動・アルビオンによるサン・ピエルへの九ヶ条要求に端を発する一連の外交問題において、ソサエティはこれに反対する姿勢を見せた。ここでは共和国はソサエティ諸国との協調を優先したが、国民的にはそれほど大きな関心を集めず、むしろロムレー史における「古き良き国制」の再検討のような国内的で学術的な議論に終始した傾向がある。 一方で軍事的なENEC諸国との連携は引き続き深化させられ、678年にPDECに加盟した。 ***680-710年代 休眠期 [#pc6e199d] この時期には国際社会も平静であったが、国内はそれに輪をかけて静かであった。相変わらず共和国は自由で、安定した経済と強力な戦力を維持していたし、その気になれば国際社会においてより大きなイニシアティヴを発揮しえると思われたが、この時期の共和国は特に行動する必要性を感じていなかったとされる。なお、この時期は国際社会が安定していた時期ではあるが、ヴァノミスにおいては一時内戦状態に突入している。しかし、これについては前述の通り当時の共和国では不干渉主義が強まっており、ロムレー軍はこれに出兵はせず、内戦終了後に復興支援を行うに留まった。一方で、この時期のコーデクスの統治機構改革の試みは合理的紀律を重視する勢力を中心に大きな影響を与えていた。しかし、実際の導入は末端における小規模で持続的な改良にとどまり、ロムレーの国制を刷新するに至らないまま、コーデクス解散の時を迎えることとなった。 ***720年代 二重の衝撃 [#cafdd09a] 720年代の前半、ほぼ平行して起こった二つの事件がロムレーの政治情勢を大きく変動させた。一つはコーデクス共和国の解散であり、もう一つはヴォルネスク戦争(ヴォルネスク独立戦争)である。 コーデクス共和国の解散は膨大な研究資料の提供によりロムレーの学界のあらゆる学問領域に革新をもたらした。一方でコーデクスという一つの理想を失った合理的規律派、とりわけコーデクス主義者はその研究資料の分析に注力するようになって非政治化した。 ヴォルネスク戦争はロムレー国民にとっては不正義で不人気な戦争であった。スラヴ主義はロムレー国内において公然たる軽侮の対象となり、カトリックを中心とした一部勢力はノイエクルスに物資支援すらした。また、別府がもはや理想郷と思えなくなったことで社会自由派は何を理想とするかで分裂、その一部は急進化してサンディカリストや評議会制共産主義者になるか、社会主義自体を放棄して自由思想派に移るかし、もともと脆弱であったロムレーの社会主義は大きく退潮した。 この二つの事件を通じてこれまでの共和国の政治風土の後景であったENECへの期待感というものは瞬く間に霧消した。レゴリスのPDEC脱退の黙認、ENECの機能不全への不関与はこの帰結である。 この時期に起こった変動はある意味ではカルヴァン主義共和派と自由思想派による二大政党制化ととれなくもないが、当時の議長のトリベール=スィズィニョレの下では両派は大きな対立をなさなかったため、マジック・フォーミュラー的な体制自体の抜本的な変更はなされなかった。 ***730年代 事後処理の時代 [#nacdd847] 既に事実上政府が機能していなかったテークサットが国際法上も主権国家としての地位を失ったことにより、ENEC・PDECともに存在感をほぼ完全に消失した。既に二重の衝撃の中でそれを受け入れる方向に向かっていたロムレーはそのままPDECの清算を確認した。 ***740-750年代 無風時代 [#r277c5ee] この時代もロムレーが平静であった時代ではあるが、国際環境も極めて静穏だった時代である。この二十数年間、国際紛争が発生することはなく、共和国も平穏を享受した。 ***760年代-780年代 セビーリャ自治実験の時代 [#sa57e256] CDXによる計画通り、764年に共同管理区域セビーリャは長期凍結期間を終了した。凍結期間の間からセビーリャ政策を主導していたコーデクス主義系のテクノクラートたちは、それまでのコーデクス的教育の成果を引き継いでそのままセビーリャをコーデクス主義のユートピアにしようと目論み、セビーリャ人の中からコーデクス共和国公務員試験の問題を通じて優秀者を選抜し、彼らを官僚としてセビーリャ自治政府を発足させた。自治政府の統治は予想以上に安定し、1年後には一時的にではあるがセビーリャの幸福度は世界一に達するに至った。768年に起こったユリウス事変ではセビーリャ防衛のためロムレーはレゴリスと共にセビーリャ防衛のためユリウスに宣戦し、セビーリャ近海でのユリウス上陸部隊の撃破や連合軍によるユリウス本土での殲滅戦などでロムレー空軍が作戦行動に当たった。この際の警察予備隊増員の許可を皮切りに、その後もセビーリャ地域の自治は段階的に拡大が続き、784年の自治20周年では司法府の独立や出入域管理の緩和により相当程度の自治権を与えるに至った。 ***790-800年代 観光バブルの時代 [#yc9ac3d9] ヴェニス島が急速に観光開発を進める中で、628年以来世界最大の観光大国の地位を維持しつつも長らくその規模は横ばいにあったロムレーでもこの観光需要の拡大に乗らない手はないという考えが一部の観光業者の中で広まっていた。観光局はこれに対して消極的ではあったが、ヴェニス社への投資を通じていち早くこの動向をつかんでいたクレディ・ロムレー社がロムレー国内の観光開発への投資を進めたことで、この年代には一世紀半ぶりのロムレー国内での観光業拡大が進んだ。しかし、この観光業の拡大は過当競争を招き、ロムレーにおいてもヴェニス島においても観光業の利益率を大幅に低下させた。そのため、800年代後半には監査委員会のイジドール・コルネイユを中心に経営の整理が進められ、809年までにロムレーの観光業規模は780年代前半の水準に戻った。 ***810年代 短い大戦の時代 [#j04e88f8] 伝統的に民族主義を理解しないロムレー人はこの時期にはガトーヴィチ帝国のスラヴ主義などを白眼視していたが、809年に設立されたエルドラード条約機構(ロムレーでは通例ETOと略する)は、保護主義を掲げるセニオリス共和国とスラヴ主義を掲げるガトーヴィチ・ヴォルネスクによる勢力であり、当然のことながら路烈同盟にとっては協調の余地がない存在であった。セニオリス共和国が812年にヴェニス島に侵攻すると、同地に滞在するレゴリス市民にも犠牲が出ることになったが、これに対してセニオリス共和国はレゴリス帝国への謝罪を拒否、レゴリス帝国とその友好国はセニオリス共和国に宣戦し、ETOもセニオリス防衛のため参戦したため数百年ぶりのフリューゲルにおける大規模戦争である813年戦争が開戦した。この戦争ではカルセドニー(反社会主義を掲げるセニオリスに敵視されていた)の支援などもありこの規模の大戦としては珍しく半年ほどで停戦、ETOの解散とETO諸国の軍備制限を約したディースブルク講和条約が結ばれた。 ***820年代 戦間期 [#s1f40a63] 813年戦争に勝利した後、共和国はこれまでもそうだったように平穏を享受し、旧ETO諸国もガトーヴィチはWTCOに、セニオリスはFENAに加盟し国際社会に復帰した。しかし、この時期に起こった普蘭・中夏によるセニオリス領海での衛星レーザー試射実験、セビーリャにおける評議会派主導の内政の停滞は、後の三重苦の遠因となっていくことになる。 ***830年代 三重苦の時代 [#hb7d3b2f] 829年5月に開会されたFENA総会において、レゴリス帝国はセニオリス共和国の正規加盟国昇格に待ったをかけた。そして信じがたいことに、かつてセニオリス領海にレーザーを試射した普蘭がセニオリスを擁護しレゴリスに反論したことにより繰り広げられた論戦、セニオリスの外交的失策などから、レゴリスとセニオリスは831年9月28日に何の予告もなく(なお、共和国外交局は820年代にレゴリス側から対セニオリス政策について意見を求められたことがあるが、その際には慎重を期すよう返答していた)突如レゴリスがセニオリスを併合する条約に調印した。これにより突如として外交的に信頼のおけない地域に対して路烈安保の条文上防衛義務を負う(セビーリャではリアライン条約に基づけば防衛は努力義務に過ぎない)ことにより、議会は恐慌状態となった(併合危機)。さらに833年ごろにはセビーリャ地域の情勢が一時悪化(セビーリャインフラ危機)、統治委員会が非常事態宣言を発する事態となった。この事件により、レゴリスと密接に連携して安全を確保し、同時にセビーリャ地域の安定化を進めるというロムレーの長らくの外交政策は大きく動揺した。この時期の混乱をよく示しているのが併合条約に関してレゴリスに対して加普と共同で送った質問状であり、これは「それが安全保障上受忍しがたいリスクを含む場合、共和国はレゴリスの意志に忠実であるとは限らず、むしろレゴリスの意志を変更させようと試みることがありうる」ことを示し、さらにはサンディカリストやアナーキストが勢力を拡大するなど政変の兆しを見せた。結局、レゴリス帝国が併合を撤回したことにより危機は回避され、セニオリスの政変に対し共同で介入する部隊を派遣する展開となったが、ここではロムレー軍は「自国や同盟国の人命がかかっていない初の戦争」であることと併合危機以降の政治的混乱により大いに士気が乱れ、これまでの戦争と比しても挙げられた戦果は限定的なものであった。併合危機・セビーリャインフラ危機で混乱していた共和国はこの失態によりさらに動揺したが、結局責任追及はサンディカリストとアナーキストをさらに台頭させる結果につながることが恐れられ、諸々が不徹底なまま830年代後半には元の平穏な情勢に戻ったとされる。そのような背景の中で、ロムレー人はカルセドニー主導の「平和原則条約起草委員会」に期待を託すこととなる。 ***840年代 沈滞の時代 この時代は830年代の三重苦が尾を引いた時代である。843年8月のライン共和国に対する普蘭合衆国の宣戦布告によって始まる「普蘭問題」は、併合危機で既に動揺しつつあるロムレー人の路烈普相互安保体制への不安をさらに深刻化させた。共和国は普蘭とカルセドニー・トルキー等の諸国との論争を見ていることしかできず、できたことはレゴリスと共同声明を発して戦争回避に努めるのみであった。しかし、その直後の普蘭合衆国鎖国などにより、大戦は何とか回避され、848年に平和原則条約改めフリューゲル国際連合憲章の調印式の開催へとこぎつけた。 ***850-870年代 国連の時代 850年3月19日、まさにロムレー湖畔共和国の批准と同時に憲章が発効したフリューゲル国際連合は、ロムレー人にとっては三重苦の時代以来の苦境を乗り越える可能性そのものであった。レゴリス・ヘルトジブリールを中心とする諸国の支持によって共和国は一般理事国に選出され、「同盟理事国主導の国際協調を擁護する」外交政策は以後のロムレー外交政策の基本路線となる。初回の総会において起こった普蘭問題をめぐる議論は烈路同盟にとっては一種の危機であったが、ミルズ案のようなラディカルな声明ではなくロムレー案が採択されるなど、一定程度抑制された対応となり、共和国内でも国連に対する一定の信頼感を確立した。850年代にはウェールリズセ連邦共和国がフリューゲルに再建され、ソサエティ やがて850年代の「ミルズ共和国」問題やライン共和国による軍事演習を称した自領砲撃問題、865年前後のミルズ選挙をめぐる混乱と国連統治領への移行などの問題を乗り越え、一般理事国としてコミットした国連に対するロムレー人の態度は安定したものとなった。しかし、これらの経験は国連に対して「安保理さえ動いていれば総会は重要でない」という態度を涵養させることとなり、共和国内部ではむしろ次の時代の停滞をもたらすことになる。 ***880年代 意見発散の時代 ミルズ国連統治の沈滞、総会の不活化、進まない軍事演習禁止条約批准といった事柄は、次第にロムレー人の外交に対する関心を冷却させていくことになる。880年代前半のガトーヴィチ内戦 ***890-910年代 国連の下での微睡みの時代 特に何もなかったような気がする ***920-930年代 国連懐疑主義の時代 国連加盟国の減少によりガトーヴィチが一般理事国から外れる危機にカルセドニーが臨時選挙制度導入を提起 烈天が反対するも失敗 烈天加協調の実行力に対する疑念と総会をコントロールできないことに対する懸念から国連への懐疑的な思潮が広がる ***940-960年代 安定期 ***970年代 凪の終わり セニオリスクーデター ***980年代 別府危機 別府の提起、別普との関係の深刻な悪化、国連の威信低下 ***990年代 国連再編の時代 *政治 [#caae92de] 中央議会に政府機関としては最も大きく権限が与えられている議会主義体制国家。他のフリューゲル諸国(主にレゴリス帝国)への留学者が学んできた各国の国制からも一定の影響を受け、民主主義の体裁を保っている。 建国以来政変や暴動の経験はなく、632年初頭の世界同時社会不安や650年代前半のトロピコ戦役出兵の最中においても安定を保った。ここ百数十年はフリューゲル最高水準の支持率と満足度を維持しており、治安・支持率・財政などの指標も建国以来恒常的に健全な状況を保ち続けている。 **内政 [#jb27c14f] 実務においては各コミューヌへの権限委譲の程度など、かなり分権的な体制であり、また、医療制度や社会保障制度が非常に充実させられた現在でも未だに夜警国家的な理念を持っているところがある。 ***中央議会 '''Conseil central''' [#c9b8dccb] 共和国中央政府の議会。移民船内で地球出発直後から行われてきた船全体の方針決定会議を継承するとされる。 共和国は議会主義を掲げているが、その議会主義はロムレー人に伝わるところのスイスの議会制度を基にした特殊なもので、移民船時代から建国期にかけての党派対立の存在しなかった時期の無政党政治が建前の上では維持されていることになっている。 とはいえ事実上はカルヴァン主義共和派、合理的規律派、重農=環境派、自由思想派、社会自由派という五つの主要な党派が存在しており、歴史資料から再建されたマジック・フォーミュラー的な方法で閣僚が選出される。閣外の党派として復古的無政府主義者や評議会共産主義者などが存在するが、これらの議席はごく少数である。 なお中央議会議員選挙においては各コミューヌによる州主権的な理論が採用されており、各コミューヌごとに議席の定数が割り当てられ、コミューヌ毎にそれぞれの定めた選出方式により議員を選出し中央議会に送る形式をとっている。そのため選挙方式は一様ではないが、ほとんどのコミューヌでは単記移譲式を初めとして何らかの選好投票が用いられている。 ***行政局 [#o7b6439a] 共和国には中央政府の行政組織としては外交局・通商局・安全保障局・大気海洋局・教育局・観光局・社会基盤局・福祉医療局・公安局・監査委員会の9局と1委員会が存在する。 共和国の官僚組織は形式としては中央議会の各部会ごとに付属する事務局に過ぎず、そのために最上位の官庁が省ではなく局を名乗っている。 なお、共和国の雇用における公的セクターの比率はかなり高いが、ほとんどは各コミューヌに属する公務員であり、中央政府の官吏はごく少数にすぎない。 ****局長と次官 各局には三人の次官が存在する。うち二人は各局の官僚から選任され(以下事務次官)、残る一人は中央議会の対応する部会の推薦(以下政務次官)により選任される。 ※とりあえず事務次官・政務次官と呼んでおくが日本の制度とは関連していない。また事務次官・政務次官の区別も講学上のものであり、制度的には選任された次官の間に出自による地位の違いはない。 この次官のうち一人が局長になる。決定は次官三人による互選(自薦不可)でなされるが、決まらない場合は中央議会部会が決める。 この制度は以下のような結果になることがよくある。 -(1)円滑にいっている場合 事務次官には在職年次(局のか次官のかは未設定だが多分次官の在職年)によって「先任者」と「後任者」がおり、どちらも退任(定年含む)するまで留任する(普通は局長になって何年かすると引退する。あまりにも長居すると慣例無視で疎まれ、定年後の扱いが悪くなるだけなのでそう居座ることはない)。先任者が退任すると後任者は先任者になり、後任者の枠を埋めるために官僚のなかの一人が選ばれる。 ※この先任者と後任者も講学上の概念であり、制度上規定されたものではない。 政務次官が根回しをして、政務次官と後任者が先任者に、先任者が政務次官に投票し、先任者が局長になる。 決定後は、局長が文字通り全体のリーダーシップをとったり対外的なスポークスマンを担い、政務次官が議会側のスポークスマンを、後任者事務次官が局側のスポークスマンをする。 -(2‐1)部会と局で対立があるが、対話可能な場合 次官で示し合わせて一人一票入るようにする。局長は部会による選出となるので、部会は政務次官を選出する(建前上議会は各局を支配しているので)。 政務次官は何とか任期の間に対立点について局側の理解を得ることに努める。成功すれば次の任期は(1)に移行する(政務次官としてはこれは事実上の勝利であり、政治的業績になる)。失敗すれば(2‐1)が続いたり(2‐2)になったりする。たまに官僚の人心掌握に大成功し、事務次官二人に推薦され局長に留任して見かけ上(3)のようになる場合もあるが、これは政務次官の完全勝利である(この場合は中央議会議長が狙えるクラスの大成果なうえ、長期にわたり部会の支持固めをするのも難しいので局長を適当な時期に引退するのが普通)。 -(2‐2)部会と局で対立があり、対話が非常に困難な場合 事務次官が示し合わせ、互いに投票する。政務次官は先任者と後任者のうち、なるべく自分に都合のいい側に投票し、政務次官の投票した人物が局長になる。 政務次官にとって(2‐1)ではなくこちらになるのは局と意思疎通ができていないことを意味するので避けようとする。事務次官は自分たちの側から局長を出せるので勝利と思いきや、ロムレーの国制では議会に抗して各局が業務をするのはかなり困難なので日常業務が滞る。そのためこのパターンが起こることは稀で、二任期以上(2‐2)が繰り返されることはまずない。 -(3)局内で二大派閥に割れている場合 現職次官を現職だからと留任させる以上に自派閥を優先するため、先任者と後任者ではなく、二大派閥の代表者が事務次官になる。 二人の事務次官はもう一方を局長にするくらいなら政務次官に投票するので政務次官が局長になる。 この場合、局は議会に対して抵抗することがほとんどできなくなり、大幅に発言力が弱体化する。このためふつうは短期でこの状態は終了するが、時にその局の存在意義が疑われている場合、これが長期化することがある。トロピコ戦争から920年代までの通商局、920年代から940年代の外交局などがそれで、これはその局全体の存在感そのものを失わせることになる。 ***政策スライダー [#y3777ab2] |地方分権|-◆-----|中央集権|結局のところ、コミューヌごとに任せるのが一番効率が良い| |貴族中心|----◆--|富豪中心|私利に拘泥せずにすむだけの資産と論説を際立たせる広く深い教養、議員には両方が必要なのだ| |農奴制|------◆|自由農民|スイス農民の子らよ、我らの自由と権利と独立を永遠に守り通そうではないか| |保守主義|--◆----|革新主義|『伝統』には観光客を楽しませる力がある| |重商主義|------◆|自由貿易|知識、あるいは資産。その果実を我らに与えてくれる者が通るのを妨げる理由などあるまい| |攻撃主義|-----◆-|防御主義|共和国と盟邦を守る。それだけでよいのではないか?| |陸軍重視|---◆---|海軍重視|本分を果たしているのは海空軍ばかりではないか。陸軍はただの観光資源なのか?| |精鋭|---◆---|大軍|国家規模からすると軍事力は量的にはこれが限界だろう| ※ロムレーは近代国家ではないのでHoI2式スライダーは採用しません ***その他 [#xf827c42] -国旗 ロムレーの故郷、スイス国旗の元になったとされるシュヴィーツ州旗をもとに作られた旗。シュヴィーツ州旗にない白地の領域は自由・新天地・万年雪の意味を表しているとされる。 なお、ロムレー人の本来の故郷の一つであるヌーシャテル州旗から緑地を取り払ったものであるという説もあるが、公式にはこの説はとられていない。 ついでに、あまり知られていない説としてアルザス=ロレーヌ共和国の国旗のロレーヌ十字をギリシア十字に置き換えただけのものという説もある。 なお、縦に掲揚する場合でもロムレー国旗では十字が左上に来るのが正式である。そのため垂直掲揚の場合は90度回転させた後に裏返して掲げる。 -国歌“Ô monts indépendants” 本来は19世紀後半から20世紀中葉まで使われていたかつてのスイス国歌。 共和主義の精神が感じられるために建国期の中央議会の議員に好まれ、湖畔共和国の国歌として採用された。 --歌詞と私家訳 |Ô monts indépendants,&br();Répétez nos accents,&br();Nos libres chants.&br();A toi patrie,&br();Suisse chérie,&br();A toi la vie le sang&br();De tes enfants.|おお自由なる山々よ、&br();我らの言葉を響かせたまえ、&br();我らの自由の歌を。&br();あなたの国、&br();愛しき乳絞り人の土地へ、&br();汝の息子たちの&br();血と生命を。| |Nous voulons nous unir,&br();Nous voulons tous mourir&br();Pour te servir.&br();Ô notre mère!&br();De nous sois fière,&br();Sous ta bannière&br();Tous vont partir.|我らは団結せねばならぬ、&br();我らは全て死を望む、&br();汝に尽くさんがために。&br();おお我らの母よ!&br();我らを誇りに思え、&br();汝の旗の下に&br();我ら皆出陣す。| |Gardons avec fierté&br();L’arbre au Grütli planté&br();La liberté!&br();Que d’âge en âge,&br();Malgré l’orage,&br();Cet héritage&br();Soit toujours respecté.|我らを誇りとともに守りたまえ、&br();グリュートリに植えられし木、&br();自由よ!&br();世代から世代へ、&br();嵐があれども、&br();この遺産は&br();敬われる。| |Dieu soutins nos aïeux,&br();Il nous rendra comme eux,&br();Victorieux!&br();Vers lui s'élance&br();Notre espérance,&br();La délivrance&br();Viendra des cieux.|あなたは我らの先祖を支えた、&br();あなたは我らを彼の者の如からしめた、&br();勝利よ!&br();あなたの下へ我らは駆ける&br();我らの望み、&br();解放は&br();天より来たる。| **党派 [#u88c1d8e] 共和国の中央議会では理念としては討議による一致が理想とされており、政党政治は好まれず、制度的に政党に特殊な地位を規定してはいない。 とはいえ国の理想像を巡っておおまかな傾向が存在し、とりあえずそれを派閥や党派として扱うことはできる。概ね以下の様相である。 歴史的には、移民船時代の士官にルーツを持ちロムレー人の伝統的な国民性を重んじる建国期の議員層を中心とした系譜(ジャンベール党)と、620年前後から出現した海外の思想を受け入れ官僚組織を発展させていこうとする主に留学帰り組からなる系譜(ポワンクール党)という二大思想潮流が存在していたとされ、後者の出現によって620年代に前者から支流である合理的紀律派と重農=環境派が現れ、本流としてのカルヴィニスト共和派も確立、7世紀前半のうちに後者も自由思想派と社会自由派の差が明瞭化していった結果現在の5派閥が成立したとされる。 内閣の勢力としては630年代以来長らくカルヴァン主義共和派3・自由思想派2・合理的規律派1・重農=環境派1・社会自由派1であり、おおむね政治的な影響力もこの通りであったが、770年代後半からはカルヴァン主義共和派2・自由思想派2・合理的規律派2・重農=環境派1・社会自由派1となり、830年代以降はカルヴァン主義共和派2・自由思想派2・合理的規律派1・重農=環境派1・社会自由派1・サンディカリスト1になっている。 ||カルヴァン主義&br()共和派|合理的規律派|重農=環境派|自由思想派|社会自由派|復古的&br()無政府主義|共産・組合主義|h |比率(現)|38%|10%|15%|32%|5%|2%|1%| |比率(旧)|35%|15%|10%|25%|10%|2%|1%| |イデオロギー|保守主義|(ファシスト)|(緑の保守主義)|自由主義|社会主義|無政府主義|共産主義| |経済政策|介入主義|国家資本主義|介入主義|自由放任|国家資本主義|自由放任|計画経済| |貿易政策|自由貿易|保護貿易|保護貿易|自由貿易|自由貿易|自由貿易|保護貿易| |宗教政策|一神教|世俗主義|多神教|世俗主義|多神教|多神教|世俗主義| |少数派政策|制限あり|居留民扱い|制限あり|制限なし|制限なし|制限あり|制限なし| |軍事政策|軍拡賛成|膨張主義|軍拡反対|軍拡賛成|軍拡反対|軍拡反対|軍拡賛成| ※このほか、無定見な無所属・無党派の地域主義的議員が2%存在する。 ***ジャンベール系(旧来の議員層) [#md871a08] 「ピューリタン的理想郷」時代の中央議会議員層の流れを汲む党派、あるいは系統。その名の通り初代中央議会議長ジャンベールの理念を支持する。 ポワンクール党が次第に拡大する中で対抗して政治哲学的な議論が深まるなかで、ジャンベールの理想は何であったかで意見が一致しなくなり、合理的紀律派と重農=環境派が成立した。もはや三派の中で現実の政策における調和などみられないが、いずれもジャンベール以来の系譜を主張し、また他国とは異なったロムレーを希求するという点では一致している。 ****カルヴィニスト共和派 Calvinist Republican [#ua146e4b] '''「古き良き国制―神の下に自由な国民による自由な共和国 République libre par les gens libres sous le dieu」'''(平等精神) 共和国において存在する党派としては最も古い派閥であり、830年代に至るまでの間はほぼ恒常的な最大派閥(ただし建国期を除いて単独過半数の規模であったことは一度もない)で、現在は第二派閥。個々人によってカルヴァン主義と共和主義のどちらに重きを置くかは差があり、人によってはこの二つを分けるが、分けようとすると曖昧さを残す結果になるので大体の場合仕方なく一緒くたに扱われる。実際、中央議会において最も極端な共和主義者でもカルヴァン主義の精神を賞賛するし、最も極端なカルヴィニストでも共和主義を支持している。 「古き良き国制」の支持者であり、要するにロムレーにおける保守主義である。都市商人層から農民、軍人から公務員まで、支持層は幅広い。外国観としてはイデオロギー的な相対主義者で、他国にはその国の事情に合わせた国制があると考えており、社会主義国家も保守主義国家も彼らの目からすると主権国家という国際社会における対等なアクターである。実際の外交においては全くのオフェンシブ・リアリストで、伝統的な親レゴリス政策の担い手。 |経済|平等|---◆---|市場| |外交|国家|--◆----|世界| |市民|自由|--◆----|権威| |社会|伝統|--◆----|進歩| ****合理的紀律派 Rational Disciplinist [#eb9e892f] '''「理性の共和国―理性的な国民、効率的な制度、合理的な国家 nation rationnelle, institution efficace, état raisonnable」'''(狂物質) 強力な中央議会による議会絶対主義の下での極度に紀律づけられた合理的な軍制と効率的な経済、そしてそれらに対応した社会基盤を求める。外交的には崇拝に近いほど親コーデクス(彼らによると合理的紀律の極北らしい)で、また親レゴリス(こちらは常識的な範囲である)、というよりコーデクスとレゴリス以外の外国は彼らの眼中にない。コーデクス共和国解散後は、コーデクス主義者のセビーリャ自治政策の成功を下支えするのが彼らの基本路線であるとされる。 いわゆる軍国主義的な要素もあるが、精神論よりただ合理主義を重んじ、軍人には極端な合理主義を求める。なお合理主義も宗教の方面では徹底されてはおらず、宗教的な態度は完全には世俗化されていない理神論的なありようが主流。 若干権威主義的だが平等主義的な教育制度と整ったインフラ、紀律づけられた国民に報いるための福祉を求め、ロムレー流の近代国家を形成しようとした(できたとは言ってない)。 右派的だが高水準の福祉を求める点で社会自由派と一致し、下手をするとカルヴィニスト共和派相手の共闘すらありうる。逆に環境保護を求めて合理化を阻害する重農=環境派とは水と油で、自由思想派とも相性はあまりよくない。 支持層は主に軍人と軍需産業の工場労働者であるのだが、「軍服を着た観光案内人」の伝統から観光業系の開発者や経営者が支持していたりするのがロムレーの独特な政治風土を物語っている。 コーデクス解散後は他派と比べかなり勢力を失っていたが、セビーリャ自治の進展に伴うコーデクス主義の再評価により勢力を幾分回復した。 |経済|平等|--◆----|市場| |外交|国家|-◆-----|世界| |市民|自由|---◆---|権威| |社会|伝統|-----◆-|進歩| ****重農=環境派 Physio-Environmentalist [#pe0b6268] '''「麗しき国土―造化の妙の驚異は観光客を楽しませ、国民に尽きることのない果実を与える La merveille de la nature est fructueuse pour nous et les voyageurs」'''(狂受容) 重農主義的文脈で理解された環境保護主義。支持層は主に農民、それと留学帰りの環境保護思想に被れた知識層。農民の間ではむしろカルヴィニスト共和派のほうが広く支持されているのだが、ロムレーは農民が多いのでそれでも一つの派閥をなす規模がある。 この派の環境保護政策のためにロムレーにおいて近代的な重工業は出現を阻まれ、製造業は専ら職人的な方法で営まれるものになった。合理的紀律派とは激しく対立する(これはロムレー政界唯一の明確な党派対立である)が、他の派とはイシューによって態度が変わる。しかし観光業の繁栄が環境保護の成果によることは明らかなので、環境保護政策については他派からも一定の理解はされている。 |経済|平等|--◆----|市場| |外交|国家|----◆--|世界| |市民|自由|--◆----|権威| |社会|伝統|----◆--|進歩| ***ポワンクール系(留学組) [#z201e6b1] ポワンクール市創設の頃から現れてくる党派。レゴリスなど海外への留学組が中心となっており、海外からの思想的影響を強く受けている。 彼らはいずれもジャンベール党が好むところの「ピューリタン的理想郷」をむしろ停滞状態とみなし、共和国を普通の近代的自由主義国家にすることを目指した。 自由思想派と社会自由派は当初は旧来の議員層から一緒くたにされてポワンクール党としてまとめて扱われていたが、ジャンベール党の分化と福祉国家の進展の中で異なる理想像を描いていることが広く理解されるようになった。 ****自由思想派 Libertans [#r6895a17] '''「自由の避難所―いかなる考えにも寛容であれ Soyez tolérant à toute idée.」''' 狂平等受容 830年代まではカルヴァン主義共和派と双璧を成し、それにほぼ拮抗する勢力を持ってきたが、三重苦の危機以降はロムレーの最大党派。力点をどこに置くかは人によって異なるものの、政治的には表現・信仰・精神の自由の擁護、経済的には穏健主義の範囲内での自由放任と自由貿易を掲げる、一般的な古典的自由主義者。特に宗教的寛容・信仰の自由の精神を背景としていることが多いため、単に自由主義者というよりもリベルタンと表現され、ロムレー人のカトリックや非カルヴァン派プロテスタントは概ねここに位置する。支持層は都市商人、学生、知識人、公務員(特に中央政府)、宗教的少数派。支持層が都市の知識層中心のため、教育を重視する傾向があり、とりわけ高等教育を(社会自由派以上に)かなり重視する。 移民も政治的な参画を行おうとした場合には大抵ここにくるのだが、彼らに関してはロムレーの政治風土に面食らったあと、仕方なく移民にも比較的寛容なこの派閥の下に入るという流れが多い。ロムレー社会は総じて移民にあまり優しくなく、移民受け入れ人数も少ないので、移民による党派の結成という手はとれず、ここに来るしかないのである。 主要党派のなかでは比較的外交にイデオロギー的な視点を持ち込むことに肯定的な党派である。といっても、議会制民主主義が肯定され、実際に複数政党制が運用されていれば、彼らはそれ以上は求めてはこない。基本的にはディフェンシブ・リアリストで、他国に対する積極的介入を好まない傾向にある。 |経済|平等|----◆--|市場| |外交|国家|---◆---|世界| |市民|自由|◆------|権威| |社会|伝統|-----◆-|進歩| ****社会自由派 Socio-Liberal [#rc7b1b7d] '''「穏やかな社会―誰も苦痛に苛まれることなかれ Ne sois pas tourmenté, tout le monde.」''' 狂平等物質 フリューゲル諸国から社会的なものに影響を受けての派閥、つまりはロムレーにおける社会主義であり、実際にふつうロムレー人の言う「社会主義」とはこれを指すが、社会観は相当に自由主義的である。社会改良主義という理解がおそらくは最も近いであろう。 政策としては福祉政策の拡充と労働者保護、就学前教育と初等教育の水準向上を主眼におく。外交政策にあまり関心を持たないことからそれが実際の外交に反映されることはほとんどないが、一応外国観としては親別府であった。ヴォルネスク戦争以後は国民の親別府感情がかなり薄らいだため、ヘルトジブリールを模範にする傾向にある。近年ではカルセドニーの社会主義もそれなりに関心を集めている。 支持層は工場労働者(ただしロムレーには軍需以外の近代工業がないことに注意)、学生、公務員(特に各コミューヌ)。 なお、福祉政策に強く関心を寄せるだけあって、福祉医療局の局長のポストは長らく社会自由派が独占している。 特に鋭く対立する他派というものはなく、どの派とも是々非々の関係を持っている。というより他の派閥との関係で検討していくと社会自由派という枠組みが意味をなすかは怪しく、他の四派の中の社会主義的分派の寄せ集めに過ぎないと皮肉られることもある。 |経済|平等|-◆-----|市場| |外交|国家|----◆--|世界| |市民|自由|◆------|権威| |社会|伝統|----◆--|進歩| ***??? ****人民派 Populist '''記憶より古く―「我ら人民」は誰よりも古く、ゆえに誰よりも新しいab immemorabili''' 政治学者たちにとっては、セニオリス併合危機の時期からその「正統教義」の形成が始まり、セヴィニェ政権期の「ルッコラ保護主義政策」によってイデオロギー的に確立、続くセザール政権期に彼の堅固な支持母体として組織化された党派。 人民派自身は、「ジャンベール以前」を主張し、移民船出発時にヌーシャテル近郊という地域的共同体のなかで移民団を形成し、そしてフリューゲル入植時に他者の助けなしに湖畔共和国を軌道に乗せたことが湖畔共和国の根本理念を表していると言い募る。そしてロムレー議会それ自体よりも古くから存在し、湖畔共和国の基本原理として共有されていたものの、国際社会、とりわけFUNへのコミットの進展により「裏切られた」理念を復活させるものであると自らを定義する。 その、冷静な観察者にとっては矛盾に満ちたようにすら思える復古主義的で習合主義的なイデオロギーを十分に理解している者は必ずしも多くはないが、概して「ポピュリスト」と呼ばれるのが妥当な存在であるという点においてはロムレー人政治学者たちも一致をみせている。 内政に関しては実際の政策立案過程において意外なほどの柔軟さを見せ、セヴィニェらの流れを汲んでEBPMを実践するが、外交に関しては「計算を超えたもの」とされ、いち小国に相応しい地位を得る―すなわちこれまでに有するに至ったさまざまな地位を放棄する―ことを狂信的に主張する。理事国の退任、アサンブレテ離脱(解体ではないのは、解体が行えてしまうと影響力が存在することになってしまうからである)、同盟関係の「共同攻撃ではなくあくまで共同防衛」という理解などがみられる。なおセビーリャ政策に関しては責任政府体制を「もはや独立国である」とする既成独立派。 支持層に地域的・社会経済的その他諸特性の偏りは意外と少ないが、ポピュリストの常として国連体制下に安住するエスタブリッシュメントを攻撃する。ただ、文書主義に疲れ果てた外交局官僚にすら支持層が確認されており、体制批判イデオローグとしての知識層をも十分に取り込んではいる。ただ、彼らは党派対立を超越した存在であると自らを見做しているため、党派として他党派を攻撃するようなスタイルはとっていない。 |経済|平等|----◆--|市場| |外交|国家|◆------|世界| |市民|自由|--◆----|権威| |社会|伝統|-◆-----|進歩| ***急進主義者 [#a75fc4c8] ロムレーにおけるラディカリスト。議会にもこれに属する議員は存在するが、極めて少数派で、いずれも1%にも満たない。そのため現在の体制下では政権には入っていない。ただし、ラディカリストとはいえ議会主義の伝統を逸脱するほどの急進派はほとんど存在しない。 ****復古的無政府主義者 [#u9371c10] '''「純粋無政府主義―政府は何もしなくてよい。全てのことは我々がする Le gouvernement ne devrait rien faire. Nous faisons tout.」''' 狂平等排他 古き良き国制を純粋無政府主義と解釈する急進的な一派。要するにリバタリアン。外交的にも孤立主義。社会保障をほとんどゼロにし、官僚組織と軍も大幅に縮小する。議会政治についても民主主義の体裁を廃し、寡頭制的な議会に復古しようとする。 実は古き良き国制は実態としてはこれに近い。というより、実態がそうであるからこそ復古的であると名乗れている。 議会における議席は、主にロムレーやサン=トゥルミエール近郊の保守的な農村コミューヌと周辺離島の人工的に作られた計画的コミューヌからのもの。明らかに前者は反動主義、後者は無政府主義であって思想的風土が異なっており水と油にしか見えないが、彼ら自身に少数派である自覚が強いので共闘関係にある。特に前者の影響で市民権については割と排他的で、リバタリアンの割に非ロムレー人の権利に制限的な態度が特徴。 三重苦の危機の際にサンディカリストと並んで一時的に存在感を示したが、その後は沈静化した。しかしその際に当選した何人かの議員はそれ以降も議席を守っている。 |経済|平等|------◆|市場| |外交|国家|---◆---|世界| |市民|自由|◆------|権威| |社会|伝統|-◆-----|進歩| ****コーデクス主義者 [#m32d3f47] '''「第二のコーデクス―電子頭脳が国家理性を体現する Artificielle Inteligence incarne raison d'être.」''' 狂物質 合理的規律派のなかでも合理化の方向性としてコーデクスモデルをロムレーにおいても実現しようとする急進的な一派。ロムレーにおいても行政の担い手として第二のCDXを作り出し、議会はそれに諮問するだけの機関にしようとする。合理的規律派の主流派と異なり、外交的には自らの理念を他国にも広げようとする意味で広くフリューゲル全体に目を向けることが多く、宗教的には明確に理性の名によって宗教を否定する態度をとる。 コーデクス共和国が実際に存在していた時期には支持基盤はほぼテクノクラートと軍人に限られ広がりを欠いていたが、技術士官の半分がコーデクス主義かぶれであるともされるようにその主唱者たちの形成は進んでいた。コーデクス共和国解散後はコーデクス計画の成果を発展させる研究に注力しようという運動に変化し非政治化していたが、凍結期からテクノクラートとしてセビーリャ統治に関してはむしろ最も主要な政治的アクターとして活動、セビーリャ統治が実際に成功すると政治的な勢力として復活し、既に単なる合理的規律派のなかでの急進派とは言えなくなっている。 |経済|平等|---◆---|市場| |外交|国家|◆------|世界| |市民|自由|----◆--|権威| |社会|伝統|------◆|進歩| ****サンディカリスト [#ae0f4dc8] '''「組合による再分配―自由を損なわない平等 L'égalité qui ne porte pas atteinte à la liberté.」''' 狂平等受容 自営業中心のロムレーではあるが、労働組合や職能組合、協同組合のようなものは比較的多くの産業に存在する。 そのため、再分配に関心を寄せると、その手段としては国有化よりも各種組合中心の経済が構想されやすい。なお、ロムレーではマルクス主義はほとんど忘れられており、急進社会主義としては彼らが中心である。 組合の類の本部(あるいは事務的な中心地)が置かれることの多いポワンクールに支持者は集中していたが、三重苦の危機の際に躍進し、現在ではサンディカリスト議員は各地に存在する。 |経済|平等|◆------|市場| |外交|国家|------◆|世界| |市民|自由|-◆-----|権威| |社会|伝統|---◆---|進歩| ****評議会制共産主義者 [#p2fc025e] '''「議会の下の平等―対等者による合議が平等を保障する La consultation par les pairs assure l'égalité.」''' 議会主義的な伝統を維持したまま共産主義を実現しようとする一派。ロムレーにおける共産主義者とは彼らのことである。 |経済|平等|◆------|市場| |外交|国家|----◆--|世界| |市民|自由|--◆----|権威| |社会|伝統|------◆|進歩| **外交 [#c56d20a2] 伝統的にレゴリス帝国との安保体制とSSpactへのコミットによる安全保障を主軸とした外交を展開しており、セニオリス併合危機や別府危機といった動揺はありつつも現在まで維持されている。 経済面では特定の国に偏ることなく観光客を誘致する観光立国を振興し、国際貿易体制からは自由であり、自国が経済共同体や資源産出国機構に加盟し拘束されることを避ける一方で、国際分業体制については擁護する立場で、保護主義を警戒する。 一方で、イデオロギー的な拘束も弱く、民主社会主義から伝統保守主義までどのようなイデオロギーも問題としないが、民族主義に関しては理解不可能なものとされ、明確に敵対的態度をとる。 国際連合発足以来はこれを中心とした国際協調、とりわけ安保理同盟理事国の連携を強く支持し、一般理事国としてこれを擁護する立場にあるが、別府危機以後は国内では外交的ルッコラ主義を求める声が浸透している。 ***国交のある国家(樹立順) [#d0ef7cf3] ※各国への論評は中央議会における評価意見の大勢であり、公的な効果を持つものではない。 国名に%%打ち消し線%%のある場合はかつて国交があったが現在はないことを意味している。 -エーラーン教皇国(滅亡、一時復活も再滅亡) 火を奉じるものが、火の中から復活し、そして再び煙と消える。この世は諸行無常である。 -%%フランドル共和国%%(滅亡) どうも政治経済共に混迷している地域であったらしく、最終的には崩壊してしまったが、建国期の共和国に援助物資を提供してくれた国でもある。…厳しい情勢な中で援助をしてくれたことに、なおのこと感謝するのが筋であろう。 -%%ベルサリエーレ共和国%%(滅亡) かくて柱を失った国が一つ崩れ落ちた。瓦辺戦争の戦後処理は、彼の国に我々が思っていた以上に壊滅的な衝撃を与えていたのだ、ということか。 -%%石動第三帝国%%(滅亡) FuCoSTOを主導していた国であったが、共和国を含めたソサエティ諸国とのサン・ピエル問題以後の敵対関係の正常化は果たされないままに開国後の経済体制の再構築に失敗して崩壊した。 -%%ウェールリズセ連邦共和国%%(滅亡、一時復活も再滅亡) ENEC、ソサエティなどの国際組織の創設を主導するなど常に国際外交の場の中心にあった国家。一時フリューゲルに帰還したが、再び滅亡した。 -%%シェロジア共和国%%(滅亡) アクロバティックな外交をしていた謎の国。あの放送は最初はチューナーの故障かと思ったほどだ。 -%%ヴァノミス連邦%%(滅亡) これまでの争乱が排外主義によるものなればこそ、それは国家の団結を強める求心力たりえた。しかしひとたび民族主義が現れれば、この国はどうやっても維持することはできなくなるのだ。 -レゴリス帝国 資本主義国では唯一の安保理同盟理事国。早い段階から留学が可能になったこともあって政治的・軍事的に大きな影響を受けてきた。現在ではむしろレゴリス人のロムレー留学者も一般化しており、経済的にも緊密な結びつきがある。当然のことながら、ロムレーにおける外国人のなかでの最多数派はレゴリス人である。 古くから[[相互安全保障条約:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=469]]を締結していたが、現在は[[永久同盟:http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/1058/]]に格上げされた。セニオリス併合危機以前のような親レゴリス・コンセンサスは失われて久しいが、それゆえにむしろ「永久同盟が存在する」という事実が、ロムレー国内の党派バランスにおける仮初の安定ももたらしているといえる。 -%%成蘭連邦王国%%(滅亡) 安定していたはずの国での、震災を契機に発生した恐るべき混乱は、我々にとっても驚きであった。 -%%アルドラド帝国%%(滅亡) かの国がトロピコ戦争直前にトロピコに持ち込んだ砲弾のために我らの部隊はどれほどの損耗を被ることになったのであろうか。 -%%エルツ帝国%%(滅亡) 長い歴史を持つ貴族的な古い大国。しかしそれらは今や全て過去の話だ。 -%%テークサット連合%%(滅亡) ENEC加盟国で、トロピコ戦役における戦友でもあった。かの国の滅亡を以てENECとPDECの時代は完全に終わりを迎えた。 -%%ヴェールヌイ社会主義共和国%%(滅亡) かつての社会主義の優等生で、共和国の福祉政策はこの国の純粋社会主義の影響を受けて発展してきた。ヴォルネスク戦争以降はロムレー国内での好感は霧散し、その後国内の混乱が激しくなり滅亡した。 -%%コーデクス共和国%%(滅亡) 科学主義を掲げていた国家。CDXによる統治や統御民主主義の試みは常にロムレー人の関心を惹き続け、共和国国内には「コーデクス主義者」を自称する狂信的な支持層も存在した。 国家解散時に膨大な研究資料の提供を受けており、ロムレー国内においては幅広い学問領域でその研究の後を継ぐ研究が今なお続けられている。 -カルセドニー社会主義連邦共和国 国連の母であり、SLCNとWTCOを率いる同盟理事国。国連の存続はカルセドニー人外交官の心労によってあがなわれている。ロムレー人サンディカリストはカルセドニーの影響を強く受けているが、肝心のカルセドニーは次第にサンディカリスムから離れつつあるように見える。 -%%アリア連邦%%(滅亡) 先進国と新興国の境界線あたりにいたが、あまり積極的な外交をしているのは見かけなかった。 -%%フリスラーン帝国%%(滅亡) 強大な皇帝権に先進的な兵器、それらは決して国家の永遠の安定を保障してくれるものではないのだ。 -ヘルトジブリール社会主義共和国 長らくSSpact同盟理事国にして烈天加協調体制の事実上のリーダーとして君臨していた大国。往時に比べると宇宙移民の離脱により規模を縮小し、別府危機後は安保理からも退いたものの現在でも膨大な産業力と高い外交的地位を有し、ヴェニス社を事実上支配している。 共和国とは相互不可侵を結んでおり、軍事作戦において烈天路が共同展開する機会も次第に増加している。共和国のSSPact正規加盟を目指す向きもあるが、これは国内でも足並みが揃っていないようである。 -%%ノホ・ヘレコ連邦%%(滅亡) ENEC加盟国の中ではあまり共和国との交流の多くない国ではあったものの、セビーリャ作戦での協同など、実績がないわけではなかった。 -ガトーヴィチ帝国 右往左往が絶えないが、とりあえず安保理一般理事国。スラヴ主義はやめたようだが、今度はなにやらヘルトジブリールの覇権に挑戦を始めた。果たして彼らは今度こそ栄光をつかむことができるのであろうか? -ヨリクシ共和国 各地で積極的な災害救援活動や交流活動を行っている国であり、国際的に一定の存在感を持っている。カルセドニー革命と同時期に鎖国体制に移行し、現在まで鎖国を続けている。 -%%コムニタス・マリアナ%%(滅亡) 同じフランコフォニーの入植者の国…だったのだが、気付けば崩壊していた。言語が同じというだからといってそれが特に何か保障してくれるわけではないのだ。 -西岸州独立連合共和国 平和的な分離独立を果たした新興国。特に社会主義国というわけではないようだが、なぜかSSPactに加盟している。長らく鎖国しており現在の情勢は定かではない。 -ストリーダ王国 膨大な人口を抱えつつも世界最高水準の幸福度を誇る世界最大の大国であり世界最大の工業国。近年のロムレー市場ではストリーダ製品が主流。 -タヂカラオ国 アリア連邦と同じくあまり活発な外交はしていない国ではあるが、長く安定した歴史を経てきた国。 -トルキー社会主義共和国 四番手の大国であり、SSPact加盟国。明確に社会主義を掲げているが、議会政治は確立されている様子。早く一般理事国になってほしい。 -%%バルバロッサ王国%%(滅亡) 自立した国家を目指していたが、何事か解らぬ事情のうちに消えていった。 -%%ラルティスタ社会主義共和国%%(滅亡) サイバネとコンピュータによる社会主義という試みは興味深くはあったが、最終的にはうまくいかなかったようだ。 -%%アオリィカ王国%%(滅亡) ロムレー議会主義を他国に広げるという試みは、果たして実現不可能なものだったのだろうか? -普藍共和国 古き大国の遺産の上に築かれた商業大国。同盟国ではあるが、10世紀後半においては全体的に外交方針で行き違いが多い。 -%%ギルガルド社会主義共和国%% ヘルトジブリールとカルセドニーの下で順調な発展を続けていた新興国。 -冰州連合 内戦の結果として寡頭共和政となった国であり、ロムレー議会主義者の関心を集めている。なぜこれほど各国に人気なのかについては謎だが、かの国出身の各国旅行記は面白い。現在は鎖国中。 -%%エルトアニア帝国%%(滅亡) レゴリスとカルセドニーには国交を打診しないという外交で知られる専制君主国。一時的に政情を安定させたが、長続きはしなかった。 -ロシジュア平和連邦 最近先進国入りし、ますます超越の度合いを高めている国。ソシアート体制はロムレー国内でも評価されており、[[バラ園の協定:http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/1186/]]の条文通り共和国はこれを擁護する立場にある。 ちなみに超越思想はロムレーでも地味に広がっている。CDX信仰との結合もみられるが、主流派のコーデクス主義者からは「で、結局超越って何?」と言われがち。 -ノイエクルス連邦(政府通商部門利益代表部相互開設) いつの間にか利益代表部が生えていた。よくわからないが、とはいえノ連とレゴリスの間を取り持ちうるのなら、それは決して悪い話ではない。 -%%西瀛公国%%(滅亡) 期待の新興国であったが、気が付けば滅亡していた。 -%%スルガ%%(滅亡) とりあえず共和国を追い抜くところはクリアした新興国。スルガ人はローレルとロムレーの違いが判っていない疑惑があるが、とりあえずロムレー人はあまり気にしていない。 -サンシャ独立国 中堅国の期待の星で、非同盟・独立系でありながら一定の外交的存在感を有している。 -カドレン共和国 レゴリスの同盟国だが、穏健派であり対外戦争で共同戦線を張ったことなどは特にない。 -トラハト=ラシュハ連合王国 SSpact加盟国である中堅国。 -(セビーリャ責任政府) コーデクス主義者の手による壮大な社会実験場。100年にもわたる自治実験の末、コーデクス主義体制は世界最高水準の生産性(※農業生産性。年度によりロムレーを下回る場合あり)を誇り、進んだバイオテクノロジーを持つ安定した情勢を実現した。 ロムレー中央議会ではもう安定したのだから普通に独立した議会主義国家にすればいいと皆行っており、実のところ統治委員会もそうしたいと考えているのだが、当のセビーリャ自治政府のやる気がないので独立準備は遅々として進んでいない。 ***条約・国際機関等(締結順) [#w48b3133] -[[レゴリス帝国とロムレ-湖畔共和国との間に於ける相互協力並びに相互安全保障条約:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=469]] 629年12月に締結された、ロムレーでは最古の条約。内容はごく普通の相互安保条約である。PDEC失効後は再びロムレー外交の唯一にして最大の主軸となった。 -[[ソサエティ設立に関する協定:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=522]] ウェールリズセ連邦共和国により構想された当初から共和国が関与しており、原参加国にもなった。記念すべき第1回の議長国も務めている。近年は活動が停滞している。 -%%[[新興諸国経済理事会:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=423]](オブザーバー国)%%(外交局公式見解では失効) オブザーバー加盟はウィリーツェン会談以来の共和国の外交政策上の悲願であり、その実現は大いに歓迎された。 しかしそもそも経済振興という理念ではなくコーデクスやウェールリズセという加盟国との協調を目指して参加したため、両国が滅亡した今となってはもはや用済みと思われている。 -[[アズリール条約:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=569]] ソサエティ内での戦争国際法。ソサエティ参加国間の戦争など起きたことがないし、起きようはずもないと思われるが。 -[[リアライン条約:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=583]] セビーリャ作戦への派兵の結果。ただし[[セビーリャ自治宣言:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=658]]によってその権限分配は大幅に変更された。 -[[トラーバーデン協定:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=609]] ソサエティの対外経済援助に関する取り決め。共和国は対外援助にかなり消極的だが、協定自体には特段異論は出なかった。 -%%[[相互防衛に関する取極:http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=574]]%%(失効) 680年代から720年代にかけての半世紀の間ロムレーの安全保障政策の主軸を成していた軍事同盟だが、すでに失効している。 -[[学術交流協定(ポワンクール協定):http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=685]](失効) アオリィカ王国の議会政治導入を支援するべく結ばれた協定。しかし残念ながらそれが実現することはなかった。 -[[史料保護調査協定(サン=トゥルミエール協定):http://tanstafl.sakura.ne.jp/modules/d3forum/index.php?topic_id=689]] フリューゲル史上大きな影響力を持っていた大国・普欧帝国の遺産が、今の普藍共和国には眠っているという。果たして、そこから我々は何を学べるだろうか。 -[[フリューゲル国際連合:http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/%e3%83%95%e3%83%aa%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b2%e3%83%ab%e5%9b%bd%e9%9a%9b%e9%80%a3%e5%90%88%e6%86%b2%e7%ab%a0%e8%aa%bf%e5%8d%b0%e5%bc%8f/]](原加盟国) フリューゲルにおける平和がかくも危ういものならば、それを維持するために力を惜しんではならない。 -[[ロムレー湖畔共和国とロシジュア平和連邦の間における平和友好及び相互交流に関する協定(バラ園の協定):http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/%e3%83%ad%e3%83%a0%e3%83%ac%e3%83%bc%e6%b9%96%e7%95%94%e5%85%b1%e5%92%8c%e5%9b%bd%e3%81%a8%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%b8%e3%83%a5%e3%82%a2%e5%b9%b3%e5%92%8c%e9%80%a3%e9%82%a6%e3%81%ae%e9%96%93%e3%81%ab/]] 学問に民族の垣根はない。このロシジュアンローズの一輪が、我々を取り持ち、やがては世界そのものを一つ上の段階へと超越させるだろう。 -[[ロムレー湖畔共和国とヘルトジブリール社会主義共和国の間における相互不可侵および学術交流に関する条約:http://tanstaafl.tokyo/forums/topic/%e3%83%ad%e3%83%a0%e3%83%ac%e3%83%bc%e6%b9%96%e7%95%94%e5%85%b1%e5%92%8c%e5%9b%bd%e3%81%a8%e3%83%98%e3%83%ab%e3%83%88%e3%82%b8%e3%83%96%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%ab%e7%a4%be%e4%bc%9a%e4%b8%bb%e7%be%a9/]] フリューゲルに名だたる工業大国にして同盟理事国たるかの大天使と手を携えれば、ますます国際平和のために貢献することができよう。 *経済 [#pc2fb038] 極端に観光業に指向した産業構造を持ち、その観光客滞在数は世界一で他国と比べても突出して多い。 建国後十年程度は資源輸出によるところも大きかったが、それ以降は恒常的に突出して巨大な観光業が主導する経済であり続けている。 いずれにせよ、外貨獲得能力は高く、国民所得水準は極めて高いといえる。 なお、製造業はほとんど行われておらず、ロムレー軍に兵器を供給するレゴリス系の軍需工場を除けば職人的な工場における木製品や乳製品の一部がコミューヌの枠を超えて国内市場で出回る程度に留まる。 **産業 [#zfc5ede6] ***農業 [#j816092b] 干拓地で酪農・園芸農業などの高付加価値農業が行われているほか、高地では畜産業が営まれている。主に観光客向けではあるが、その生産力は輸出するだけの余力がある。 ***鉱業 [#r80de4a8] ウラン鉱が存在し、その輸出による収入は建国期の共和国を支えた。現在ではもはや収入源としての存在感は皆無に等しいものの燃料自給により経済を安定させることには貢献している。 鉄鉱も存在するが、トロピコ戦役直前に急遽整備されたことから分かるように専ら軍需向けである。 ***林業 [#a55b94d0] 広大な森林が広がり、その環境を維持する範囲内で林業が行われている。 ***工業 [#f538b994] 木製品や乳製品が主に伝統的・職人的な製法で生産され、日用や土産物として流通している。 産業的な大工場というものは著しく厳格な環境基準のために軍需を除いてほぼ存在しない。 ***商業 [#x662c8e4] 観光業が極度に発展しており、観光客向けに様々なサービスが提供されている。 本来の観光業のターゲットが長期滞在の富裕層であったことから、充分な所持金さえあればサービス業関連で困ることはないといえる。 **企業 ***ロムレー・ユニオン銀行Union Bank de Lomeray ロムレーで最大かつ最も歴史ある銀行で投資銀行やアセットマネジメント、パーソナルバンキングなどの業態を営んでいる。本社はサン・トゥルミエールにある。投資傾向はクレディ・ロムレーに比べると若干保守的。 ***クレディ・ロムレー社Credit Lomeray 投資銀行などを営むロムレー第二の銀行。本社はポワンクールにあり、セビーリャでも事業を展開している。コーデクス主義的潮流が多分に流れ込んでいる。 ***トリビューン・ド・ロムレーLe Tribune de Lomeray ロムレー最大の新聞社で、国内ではLe Tribuneとして知られる大手紙。本社はロムレー市にある。論調は自由思想派寄り。ロムレーのマスメディアとしては最も国際展開に積極的。 ***ロムレー農業協同組合Lomeray Coopérative agricole ロムレー最大の経済団体であり、およそ150万人の組合員を抱える。本部はポワンクールにある。 ***レゴリス・ミリタリー・インダストリーズ・ロムレーR.M.I.Lomeray レゴリス帝国の軍需企業レゴリス・ミリタリー・インダストリーズのロムレー法人。レゴリス本国からのライセンスを受けてロムレー軍の装備の製造と維持をロムレー国内で完結される体制を構築しており、ロムレー最大の重工業メーカーである。 ***ヴェニス・ロムレースVenise Lomerais ヴェニス・グループのロムレー法人。ロムレー企業はセビーリャでも活動できるため、セビーリャにも展開している。主に研究開発事業を中心に手掛けている。 **通貨 [#wfa4d1f8] 通貨は独自の法貨として移民船時代以前から続くロムレー・フラン(Fr.,LRF)が使われているが、観光業の発展に伴い、他国の通貨の流通も一般化している。 国際通貨であるVaはロムレー・フランと並んで価格表記にも使われ、また主要な通貨は概ね通用する。 **交通 [#uebbac4e] 鉄道が比較的発達しており、山がちな地形ながら登山鉄道などによって国中が結ばれている。また湖上や運河を行き来するフェリーや客船も多く運航されている。 ***ロムレー・チューブ コーデクス共和国で開発された真空チューブ列車VCTTをもとに作られたロムレーの超高速交通機関。三大都市などを結んでいる。空路よりもこちらのほうが早く利便性が良いため国内の移動では一般的にこれがよく利用される。 *国民 [#v2a5401b] 主流文化はスイスフランス語かつカルヴァン派のものであり、民族的・宗教的な類縁の民族がフリューゲルには存在しない。 移民に関してはセビーリャ系が最大多数であり、レゴリス系・ヘルトジブリール系・普蘭系と続く。移民による過度な人口増があまり望まれていないため、内国民待遇を受けるセビーリャ系を除き帰化要件は比較的厳格。 **言語 [#va425c89] 公用語とされている言語はフランス語であるが、このフランス語はいわゆるフランシアン語ではなく、ヌーシャテル近郊のスイス・フランス語であり、近年はこの言語をロムレー・フランス語と呼ぶことも多い。なお、一応フランシアン語でも通用はする。 英独伊語あたりもそれぞれの母語話者が一定数いるほか、レゴリス語やコーデクス語を初めとした友好国の言語も広く学ばれており、これらの一つだけでも話せれば何の支障もなく観光できる。 **宗教 [#u6131ba0] 宗教の構成比率はカルヴァン派66%、カトリック10%、その他プロテスタント4%、CDX信仰4%、その他のキリスト教諸宗派2%、その他の宗教1%、無宗教13%。 信教の自由は完全に認められている。9世紀半ばにカルヴァン主義共和派から自由思想派に政治的主導権が移行して以来、自らの所属する宗派への献金に対する税制上の優遇措置である什一献金特例は公益法人への寄付にも適用されるようになるなどの改革が行われ、カルヴァン派の国教としての地位ももはや形式的なものにすぎなくなっている。 ゾロアスター教などを始めとする国際的な宗教勢力は国内にほとんど地歩を持っていないとされ、ロムレー教会評議会に参加しているキリスト教の宗派と無宗教だけで国民の95%以上に達する。 ***ロムレー教会評議会 [#b2241ad7] 移民船時代に行われたロムレー内部でのキリスト教のエキュメニズム運動に端を発する組織。 ロムレー国内のほぼ全てのキリスト教組織から構成され、国内の宗教間平和と協調を目的としている。会報として『キリスト者の一致』がある。 教義上の統一は特に図らず、キリスト者アイデンティティの統合を図ろうとしており、このためにロムレーのキリスト教コミュニティは独自性を維持している部分がある。 ****ロムレー改革派教会 [#k5c7537a] ロムレーにおいて最も多数派を占め、事実上の国教の地位を持つカルヴァン派の宗派。 ****ロムレー・カトリック [#g6b72bc4] ロムレーのカトリック教会は地球上のバチカン以外の教皇座を認めておらず、その長はあくまで大司教位である。カルヴァン派との差別化の都合上、ラテン語による典礼を重視する傾向がある。 ***ロムレーCDX教会 無宗教者には什一献金特例が適用されなかったことから、これに対抗してコーデクス主義者によって設立された宗教法人。献金された資金はそのまま計算機科学を中心とした科学研究につぎ込んでいる。会報の内容も実質的には論集である。 キリスト教的風土の強いロムレーにおいて公然とキリスト教のドグマを批判するため、ロムレーのキリスト者、特にカルヴァン主義者からは煙たがられている。 **教育・学術・文化 [#zedb7d90] ***学術文化 [#b613d04a] ロムレーは国家規模が小さい割には学術文化は比較的発達している。特に言語学に関する成果が知られているが、広く人文・社会・自然問わず基礎科学分野一般に豊富な蓄積があり、コーデクス共和国解散後の資料流入でさらに発展を遂げた。学問の世界での「コーデクス主義」は、この研究をさらに進展させようという一大潮流である。 このような学術文化発達の背景には中央議会の弁論の場において教養主義が重んじられていることや、観光客とのやり取りの中で幅広い知識が必要とされたこと、極めて高い所得水準ゆえの充分な余暇の存在などが考えられているが、はっきりとした理由は明らかではない。 ***学術出版 発達した学術文化の成果として、多くの学術誌が発行されている。その中でもいくつかの誌は新聞広告に掲載され一般家庭にも購読されるほど有名である。 -『Linguistic Research』 言語学を扱う雑誌。フリューゲルにも印欧語系の言語が多いため、特に比較言語学方面の研究が盛ん。ここから派生して翻訳が行われたコーデクス語公式教科書の仏語版である『わかる!話せる!コーデクス語』は毎年重刷されるロムレー屈指のロングセラー。 -『Papier d'Histoire』 歴史学を扱っている。フリューゲル全体の歴史学を指向する。フリューゲルにおけるグローバリズムを肯定する傾向から急進左派には微妙な扱いをされている。 -『国際経済旬報』 文字通り国際経済の季刊誌と思いきや経済と文化を両方扱う傾向が強い。 -『Politique numérique』 コーデクス主義的政治学の追究を目的に始まった雑誌。かつては異端児たちが書く色物誌だったが近年はコーデクス主義の伸張からロムレー政治学者の必読とされることが多い。 -『叢書コーデクス諸学』 コーデクス共和国解散直後に流入した資料について解説をつけて公開すべきという意見から創刊された叢書。現在はコーデクス主義の影響を受けた研究を何でも扱うようになっており、今や扱う領域も何でもござれである。 -『Epidémiologie et hygiène』 疫学と公衆衛生を扱っている。医療系専門誌だが、なぜかロムレーのどこの本屋にでも売っている。 -『Le progressisme』 典型的な左派知識人向けの月刊誌。これを通読することでロムレー左派論壇の勢力図が分かるらしい。 ***大学 [#f84f5a0a] -アンゼロット記念大学 移民船時代に余暇を用いて行われていた学術サークルに由来し、612年に法人格を取得、619年に法令上も大学となった共和国最古の大学。 学術サークル時代の下部組織を継承した多数の学寮が存在するカレッジ制をとり、それぞれのカレッジで様々な学問が研究・教授されている。社会人学生や聴講生が多いのも学術サークル時代からの伝統である。 サン=トゥルミエール校とポワンクール校の二校が存在し、サン=トゥルミエールは学術サークル時代からの「紙と筆、黒板と白墨、そして学生と教授」さえあればできるような哲学的・数理的な形式科学のほうが、一方ポワンクールは「実際に試してみればわかる」というような経験的な実験哲学のほうが盛んであるといわれるが、キャンパス間よりもカレッジ間の差のほうが大きいとされる。 -ロムレー大学 618年に設立された共和国唯一の国立大学。ロムレー市内に位置し、主に官僚養成を旨とする。アンゼロット記念大学よりも実学と総合科学を重視する。 学部組織としては理学部・工学部・法学部・医学部・社会経済学部・外国語学部が存在する。 ***スポーツ ****スカイスポーツ 元来スカイスポーツの盛んなレゴリス帝国の影響でロムレーにおいてもスカイスポーツが広く親しまれている。人口あたりの競技者ではレゴリスを超えるという推計も存在する。 レゴリスでも人気のある一般的なグライダーのほか、自然の傾斜を活かしたパラグライダー・ハンググライダーも人気がある。 しかし最も一般的なのは気球で、穏やかな干拓地から険しい山岳まで、ロムレーの空に気球が飛んでいるのをよく見かけることができる。 ****アウトドアスポーツ 登山やオリエンテーリングで有名だが、ロムレー人以上に外国人の登山家のほうが多いとされる。 ただし、環境享受権の規定もあって、ロムレー人でも競技性の高くないハイキングのようなものを習慣的にたしなむことは非常に一般的である。 ****ウィンタースポーツ スキーやスケートなどが広く楽しまれている。冬の休暇に山岳スキーを日常的に楽しむロムレー人も多い。 *軍事 [#tbcf805a] ロムレー軍はその国家規模の小ささに反してイレギュラーを保有し、また海外への航空戦力投射能力も備えている。これは実戦経験としてはトロピコ戦役とセビーリャ作戦という二つの派兵経験を通じて形成されたものである。ただし常設の在外部隊などは基本的に持たない。 一方で地上部隊は大規模な派兵を経験しておらず、むしろ国土防衛を主眼とする編制のままであり、多数の民兵といくらかの山岳戦特化の部隊を主体とする。これらは「ロムレー軍はスイス軍の制度を引き継いでいる」という軍を観光資源に使うための建前(移民船期に実質が失われているということは国民の間では公然の秘密である)がそのまま引き継がれたものである。そのために民兵はトロピコ派兵以前のロムレー軍の評価としてよく用いられたフレーズである「軍服を着た観光案内人」的な軍のあり方を今でも保っている。 なお、兵器に関しては基本的にレゴリス・ミリタリー・インダストリーズ社をはじめとするレゴリスの軍需産業の在ロムレー工場で生産されるものが使われており、基本的にロムレー国内で生産・整備ラインが完結しているものの、レゴリス帝国軍の装備体系とほぼ完全な互換性を持つ。 *人物 [#t4e97a55] **中央議会歴代議長 [#mf6ceb86] ***プロスペール・アルベリク・ジャンベール [#ne8f55f5] 中央議会初代議長。 移民船の船内環境を専門とする優れた工学者であり、船内において発生した重大な機械故障に際しての復旧を強い指導力によって指揮し、移民船のフリューゲル到達をどうにか実現した。 その際の手腕から入植直後の共和国においても一定の人気と権威があったが、本人は重力下での環境は専門外であるとして直接手腕を振るうことなく、一貫して中央議会の決定を支持した。 彼の時代のロムレーでは土地との共生が重視され、アーミッシュ的な古き良き理想郷と評される社会を築いたが、その後期にはレゴリス留学組を始めとするフリューゲル諸外国からの影響で公教育制度の整備が進んだ。 移民船時代の活躍についてはいまや歴史上のこととして再評価が進んでいる人物ではあるが、最初期の共和国において議会主義体制を確立した立役者であることは確かである。 ***アンドレ・フィールズ [#fafbc2ff] 中央議会第二代議長。 レゴリス留学組を中心に教育分野などの必要性から官僚組織が拡充されていく中で、ジャンベール引退後の共和国の主導権をレゴリス留学組が握ることを危惧した中央議会の議員たちによって選出された。 本人はこれといった強い主義主張は持っていないが、調整能力に優れ、レゴリス留学組と旧来の議員層を巧妙に調停して教育政策とインフラ整備を推進し、共和国は彼の在任中に世界最大の観光国となった。生まれ育った時期が移民船時代のため高等教育にあたる学歴は持っていないが、学術サークル時代のアンゼロット記念大学に属しており、その学識はフリューゲルの学問の取り入れに貢献したといわれる。 なお、独自に打ち出した政策はあまりないが、唯一例外的に鉄道振興にはこだわりがあるらしく、道路網よりも鉄道網を中心とした交通インフラ整備を強力に推し進めた。この政策は観光業の発展には貢献したようである。 彼の在任期間の終わりごろにはヴァノミス危機やトロピコ戦役が発生、その中で中央議会の権限は一時低下したが、それもあって戦後の平時体制復帰後は議会の権威の再確立に奔走した。ENECオブザーバー加盟の際の演説を行い、それが承認されるのを見届けて中央議会の職を引退。 ***オロール・オーブ・トリベール [#d3402736] 中央議会第三代議長。 第一期のレゴリス留学組の中でも最年少(小学生相当)であった女性。最終学歴はレゴリス帝国大学法学部(首席)。レゴリスからの軍事顧問としてロムレーにいたことのあるルーミヤ・グドリャンとは友人。 キャリア官僚であるが、その出自もあいまって同期の中でも一番の出世頭であり、官僚としては監査委員会でキャリアを積む。 トロピコ戦役中の戦時体制では形式上は通商局の役割である鉄鋼資源の管理について、その実務を集約させられた鉄鋼資源管理セクションのリーダーを担当。ロムレーの行政機関としては動員体制を完璧にこなせたのは彼女のセクションぐらいである。戦後はその成果を認められ、監査委員会委員長(行政官としては最高位)に出世した後、二年ほどで慣例に従い退職。中央議会議員に転身、そしてフィールズ議長の退任後の中央議会議長に就任した。 レゴリス留学組の中でも最も有能な人物であることは間違いなく、官僚の影響が大きくなりすぎると渋る議員もいないではなかったが、その能吏ぶりが広く認められていたことは確かである。 680年代を前にして引退、その後はレゴリスとロムレーを行き来しつつ悠々自適の老後生活を送り、時折レゴリス語やレゴリスのエリア・スタディーズ研究の学会誌に論文を寄稿していた。 ***ノエル・ヴァロン [#d5a940c2] 中央議会第四代議長。 ロムレー大学で工学を修めた後、サン=トゥルミエールのリゾート地でエンジニアとして活躍、後に経営者にもなり周辺島嶼での観光地開発に参入し成功、その後中央議会議員になった。 経歴から観光業への造詣が深く、治安と社会インフラの維持を重視しているとされる。 また、海空軍に対し否定的な見解を抱いている(一説には周辺島嶼の土地収用で海空軍と一悶着あったとも、海外にリゾートを広告する際にトロピコ戦役の悪評に直面したともいわれる)とされ、海外派兵にも消極的な態度をとり、国防予算も抑制された。 690年代末の北東島嶼部の油田開発を巡る論争を抑えきれずに議長職を辞職、現在は一議員に戻り観光政策を中心課題として活動していた。 ***クレマン・フィリップ・アベラール [#ud7c023d] 中央議会第五代議長。 安全保障局のキャリア官僚。合理的規律派に属する議員で、コーデクス主義者。ただ不遇にも彼の時期にはコーデクスが外交的に不活発な時期で、コーデクス外交から得られる成果は少なかった。 軍に抑制的な政策に対する不満の中から中央議会議長に選出された。ノエルとは一転して軍事力の強化を主張し、軍事訓練に努めた。 彼の目指す軍事力増強政策が一応達成され、軍を重視する声が収まったため705年に退職、その次の選挙に出馬することもなく、その後は軍事コンサルタントとして在野で活動していた。 ***クレピュスキューレ・トリベール=スィジィニョレ [#ge7ee69e] 中央議会第六代議長。 オロール・オーブ・トリベールの孫娘。その容姿も才能も祖母の鏡写しで、物理学と言語学(趣味らしい)で博士号を持っている才媛。アルヴィドソン大学(レゴリス)、アンゼロット記念大学などで研究員・教授職を歴任してきた。中央議会議員になったのは祖母を超えるためらしいが、実務能力を認められ結局祖母と同じ中央議会議長になってしまった。たまにオロール本人なのではないかと疑われるが、彼女はナイスジョーク的に流す。 祖母譲りの調停能力でノエルやクレマン時期の議会内の方針対立を抑え、国制に関する議論を一段落させた。彼女の下で久方ぶりにロムレー政治は理念的な無政党政治に近づき、党派対立の少ない時代を迎えた。 720年代前半のコーデクス共和国解体というロムレー国民にとっての政治的大変動を平穏のうちに乗り越えられたのも彼女の下でカルヴァン主義共和派と自由思想派がうまく調停されていたためである。 730年に入り二重の衝撃後の政治秩序が落ち着きカルヴァン主義共和派と自由思想派の折り合いもつくようになったことで、彼女の在職期間が祖母の在職期間を上回ったことを口実に引退。その後は祖母同様再び学究の生活を過ごしていた。 ***ローラン・フィリベール・トワゾン=ダンジュー [#c136c34d] 中央議会第七代議長。 カルヴァン主義共和派のなかでも長老格の穏健派。特筆すべき業績も問題もないまま、もともと高齢だったこともあって748年に健康問題のため退任。 ***クロティルド・レイモンド・レーヌ・ビドー [#ee5567ad] 中央議会第八代議長。 農林業の保護を主眼とする重農主義者。主だった業績としてはセビーリャ自治政府における聖樹保護推進やユリウス戦役の指揮があげられる。766年に引退した後は自らの農場経営に専念、農協直営店でその名前をよく見かけたという。 ***ポール・ラモワン 中央議会第九代議長。 教育局出身の文教族議員。新興国における学術振興を図り、サン=トゥルミエール協定とポワンクール協定を締結した。外交予算から学術的コーデクス主義を支えることになったが、政治的コーデクス主義に関しては本人は微温的だったとされる。782年に引退、その後は母校であるアンゼロット記念大学に再入学して生涯学習に励みながら余生を過ごしている。 ***レナエル・エミリー・パンルヴェ 中央議会第十代議長。 自由思想派の主流派に属する。コーデクス主義に対して懐疑的な態度から、セビーリャの自治を拡大してコーデクス主義者の影響力を削ぐ方針をとった。794年の自由輸出裁量枠制度導入で統治委員会通商部の力を決定的に削げたと判断し795年に退任。 ***グラシアン・グウェナエル・シャノワーヌ 中央議会第十一代議長。 左派共和主義・社会主義的傾向の強いカルヴァン主義共和派。自由思想派からの反発は強いが、合理的規律派と重農=環境派の対立を仲裁できる数少ない人物であり、北西島嶼の開発計画で盛り上がった両者の対立を融和するために選出された。807年のレゴリス帝国500周年記念式典を最後に引退。 ***イジドール・コルネイユ 中央議会第十二代議長。 ロムレー大学を卒業後ロムレー・ユニオン銀行に勤務していたが、第二の観光開発の時代にそれを後追いして行われたインフラ整備が財政を圧迫していることにある時気付き、状況を改善すべく監査委員会に職を得て観光業とそのインフラへの整理を断行、財政的に苦しい状況にあった周辺島嶼部コミューヌの立て直しに成功した人物。その業績からコンパクトで効率的な政府を望む民衆の支持を背景に、自らの行った効率化へのバックラッシュを阻止すべく中央議会議長に就いた。 凡百の政治評論家の評価では、過度な観光開発が経済にも環境にも負荷を与えているという立場から重農=環境派に配慮した政策をとる自由思想派。 しかしその実態は、資本家と近しいはずの自由思想派でありながらロムレーの最も主要な資本家である観光資本から徹底的な嫌悪を受け、ポワンクール派である自由思想派に属しながら最も支持層になりにくいはずの地方の保守的なコミューヌの農民から支持を集め、それでいて自らの大衆的な支持に反してポピュリズムをエリート主義的立場から警戒し、コーデクス主義の発展に対する楽天主義を乱開発の元凶として倦厭する一方で学術的コーデクス主義の凡そあらゆる研究領域に通暁し、セニオリス的ないわゆる「ダイエット主義」に近い経済観を持ちながら813年戦争ではセニオリスを初めとするETO諸国との戦争を指揮し、しかも政治的コーデクス主義者と敵対しながら合理的規律派の主流派には一定の評価を受けているという矛盾の人。 そんなこんなでとにかく毀誉褒貶の激しい人物であり、就任直後から「観光立国ロムレーの奇妙な死」「手の込んだ自殺」とも「ジャンベールの再来」「古き良き国制の再建者」とも評される。 三重苦の危機後、議論をひとまず落ち着かせた後、もはや自らの目標とする「効率的な経済」ではなく別の問題が争点になったことを見て834年に引退。 ***リカルダ・ロブレド・サンドバル 中央議会第十三代議長。 熱烈なコーデクス主義者であるセビーリャ系一世の計算機工学者とロムレー人の論理学者を両親に持つセビーリャ系二世。 生まれ育った環境からコーデクス主義に慣れ親しんでおり、そのままロムレー大学で経済物理学を学び修士号を取得。これを通じてレッセ・フェール的な思想傾向も持つようになり、その後クレディ・ロムレー社投資銀行部門に勤務し普藍やヴェニス島といった新興資本主義経済の急成長を間近で捉えたことによりその傾向を強める。 本人は自由思想派であると自認しているが、同じ自由思想派でありながらもコルネイユ前議長とは犬猿の仲である。文化的自由主義である自由思想派のメインストリームと異なり、自由放任経済を主唱するという点で異端児であり、一方でコーデクス主義者としても中央コンピューターへの集約化より分散的なネットワークを重視する変わり者でもある。 三重苦の危機で主要党派が混乱する中、独自の主張で注目を集め議長に就いた。 在任中はサンディカリストとアナーキストに悩まされ続けたが、誰も代わりをやりたがらない状況で、どうにかかじ取りを続け、国連への参加・安保理一般理事国選出など一定の成果を上げた。 855年に退任。本人の意図等は明確には語られていないが、次のブロンデル議長が議員になったことを受けて、後任として誰もが認める存在がやっと登場したことを受けてのものと考えられている。 ***ディアヌ・ヴァランティーヌ・シビル・ブロンデル Diane Valentine Sybille Blondel 中央議会第十四代議長。 ロムレー・ユニオン銀行のシンクタンク部門で主に社会主義国との二国間投資を専門に研究員として調査研究にあたってきたエコノミスト。外交局の情勢調査員に転職し、ストリーダ・ヘルトジブリール・レゴリスなど先進国経済の比較研究を行い、経済学の学識や語学力だけでなく、交渉力や実務能力も極めて優秀であったことからその能力を買われて外交官に転身、平和原則条約起草委員会ロムレー代表団の中心的メンバーとなった。国連発足後は初代国連大使を務め、普蘭問題について将来禍根を残す可能性の大きなミルズ案を撤回させるなどの功績をあげた。 855年、両ミルズ問題について一定の解決を見た後に国内政治に身を転じ、中央議会議員となった。国連大使就任時点から既に「次の中央議会議長」として期待されていた人間であり、立ち位置としては社会自由主義者で、コミューヌ単位で見るとロムレーは非常に強力な福祉国家を成立させていることに気付き、むしろ伝統的でリバタリアン的な「古き良き国制」という議論がロムレーの政治認識をゆがめていると考えており、実情に理念を合わせることを主張する。 外交的にはフリューゲルの経済的中心であるヘルトジブリールをとりわけ重視し、社会主義国との協調を志向する。これはヘルトジブリールとの相互不可侵・学術交流条約締結という形で結実し、それだけでなくロシジュアとのバラ園の協定などの成果をあげた。 一方で長らく休む暇もない激務に晒され続けたことから晩年には次第に身体的な問題を抱えるようになり、国連体制が安定化すると中央議会内部の意見もまとまらないようになっていったこともあって、政権後期には精彩を欠くようになっていった。882年に引退。 ***アンブロワーズ・リオネル・スィズィニョレAmbroise Lionel Sixinolet(ガストン・グウェナエル・ミュレーズ・シャノワーヌ) 中央議会第十五代議長。 永久安保締結時の参謀本部総長。海軍出身。海軍兵学校入学以前の記録が一切残っていないなど、その経歴にはかなり謎が多い。 実際のところ、母方の高祖母はグラシアン・グウェナエル・シャノワーヌで、父方の先祖にはクレピュスキューレ・トリベール=スィズィニョレがいる、超エリート家系の出自。フリューゲル暦818年生まれ。 幼少時から母の下で諸学問を修め、とりわけ経済学に卓越した才能を示し、弱冠12歳にして積極的な財政政策の有効性を訴える論文で経済学の賞を授与されるなどの業績を挙げた。 三重苦の時代に左傾化するロムレーの中で、彼の論文の評価もさらに向上していったが、一方で彼自身はその時代の空気に違和感を覚えるようになっていく。そしてある時、家を出奔し、姿を消す。 ここでは父方の親戚の「ロムレーの魔女」(彼女こそオロール・オーブ・トリベールその人にしてクレピュスキューレ・トリベール=スィズィニョレその人である)のツテで過去を全て消し、海軍兵学校に入学している。 海軍兵学校でも卓越した成績を残し、無事に首席で卒業、以後順調に昇進し、海軍どころかロムレー軍全体の制服組トップにまで達した。セニオリス封鎖作戦等でレゴリス軍と密接に連携して活動。 軍人を引退した後に中央議会議員となるが、それ以前は政治的には無名でありながら驚くべきバイタリティで合理的規律派の事実上のリーダーとなり、コーデクス主義が支配的になる以前の合理的規律派の立場を回復させた。ブロンデル前議長の退任後、ガトーヴィチ内戦を受けて強いリーダーシップをとれる人間が求められたことから882年に中央議会議長に就任。ガトーヴィチ内戦下でロムレー軍の警戒態勢を指揮した。 ***メレーヌ・ヨランド・リュシェールMélaine Yolande Luchaire 中央議会第十六代議長。 ブロンデル議長の国連大使時代の直接の部下。言語学博士(ロムレー大学)、法務博士(帝国大学)。レゴリス帝国弁護士資格も有する。 ロムレー大学言語文化学部レゴリス語学科を次席、同大学言語文化研究科を首席で卒業し言語学で博士号を取得後に外交局に入局。学部時代に首席を逃したのはあまりにも兼修外国語をやりすぎたからとの噂で、実際に主要国の言語はおおよそ話すことができる。入局してすぐにブロンデルの下に配属され、平和原則条約起草委員会のためにしばらく働いた後、将来の国連設置に備えて国際法を学ばせるべく研修としてレゴリス帝国の帝国大学に留学。法務博士とレゴリス帝国の弁護士資格を取得後外交局国連部に復帰し、再びブロンデルの下で働くが、ブロンデルが政界に転身したため第二代国連大使に就任。 優秀だが性格は穏やか。如才ないようでどこか抜けているとも。 膨大な情報とそこから予想される無数の帰結を直観的に処理しながら、その直観の導出過程を諸学問と整合的で適切な論理によって説明することができる紛うことのない天才にして秀才。唯一の欠点は誰にもまねができないということであり、国際政治を国内の議会政治の論理に翻訳し説明しながら進めることは結局彼女にしかできなかった。それゆえヴィレット国連大使などのごくわずかな例外を除いて後継者を育てることには失敗し、彼女が国連大使から議員に転身した後には「彼女の代に比べて質が低下した」と批判され急速な外交局の地位低下を招いたが、中央議会議長としての責務から外交局をかばいきることはできなかった。 政治的には非党派的で、国際協調を維持するのと同じ手腕で国内党派における調和を図る。 902年に中央議会議長に就任。926年に退職。 ***ポール=アンリ・レ・ラグランジュ  第17代中央議会議長。  官僚主義的なルッコラ主義者、孤立主義者。博士(史学・アンゼロット記念大学)。サン・トゥルミエール近郊の農村生まれで、アンゼロット記念大学に進学してスイス独立史を研究し博士号を取得。キャリア組として外交局に入局するも、出世ルートを選ばず、事務方として勤続。しかし国連代表部史料編纂室に配属後、つい歴史家の血が騒いでアクセス権限をフル活用して史料編纂をしてしまい、報告書をヴィレット国連大使やリュシェール議長に評価されてしまう。その後リュシェール議長に議会図書館へのアクセス権限をエサに中央議会議員になることを勧められ当選。リュシェールの右腕として活躍する一方で、国連懐疑主義的な言動がむしろロムレー一般国民の支持を受け、珍しく議会内政治よりも国民一般からの広い支持を支持基盤として中央議会議長に就任する。  情報処理能力に優れ、ライブラリアン・アーキビストとしては有能だが、極めて官僚主義的で総じて流れに任せる姿勢をとりがち。本人も外交官や政治家向きではないと自認している。なお、外見が極めて若々しく、下手をすれば少年か青年のようにも見えるが、実年齢は普通に中年である。非党派的で、外交局出身者では数少ない非国連派で、ついでに親レゴリス派でもなく、親社会主義派でもない。本人は冗談めかして「親ロムレー派」を自称するが、そのために時々自国中心主義とかルッコラ主義とか言われる。なお、本人もその呼び名を否定はしない模様。 948年に引退。 ***アンリエット・ブランディーヌ・ビュファン  第18代中央議会議長。  医師、公衆衛生学修士(ロムレー大学)、医学博士(帝国大学(レゴリス))、陸軍退役大佐。周辺離島のローワーミドル子女で、12歳のときに事故で両親を失う。その後リセを首席で卒業したが進学せずロムレー軍に入隊し衛生兵に配属。しかし成績優秀なことから特待生として抜擢され軍医学校で医学を修めて医師免許を取得、軍医となって活躍した後、ロムレー大学で軍人の職業衛生を研究し公衆衛生学修士号を取得し医療福祉局に技官として入局、レゴリスの帝国大学に官費留学し極限状況での作戦における健康の保持に関する研究で医学博士号を取得するなどしつつ局長まで昇進の後中央議会議員に転身。遅咲きのエリートだが、医療政策と安全保障政策の両面に理解の深い叩き上げの卓越した実務家。10世紀前半の反エスタブリッシュメント的な思潮にも適合し、広く評価されて中央議会議長に選ばれた。内政においてはレジリエンスの維持を掲げ、外交においては新古典的現実主義を旨とする。政治的には党派主義を嫌厭するが、支持層の中核は合理的規律派とされ、カルヴァン主義共和派と社会自由派にも好まれている。  セニオリス・クーデターの対処に奔走した後、別府危機の幕引きを受けて980年に退任。 ***アリス・ニコレット・オルガ・セヴィニェ  第19代中央議会議長。  理学博士(アンゼロット記念大学)。サン・トゥルミエール郊外出身で、両親ともに環境科学者。ちなみに祖母にヘルトジブリール人を持つクォーター。幼少時から環境科学の書籍と実験機器に囲まれて育ち、自然と進路を環境化学に選び、アンゼロット記念大学で大気化学を修め、サン=トゥルミエール市やアンゼロット記念大学で技官や研究員を勤めた後、大気海洋局に入局。伝統的に管理職は技官が務める局ゆえ、局長まで昇進した。  本来であればそれで極官を極めたとして引退するところではあったが、ガトーヴィチでのBT兵器問題を背景に積極的な行動を訴える重農=環境派の一員として活動し、腰の引けている外交局を後目にアンリエットの後押しなどもあって国内外での根回しを行った。これは外交的にはガトーヴィチや普蘭との関係を微妙なものとしたが、ロムレー人一般には広く評価され、退職後に乞われて議員に転身し、重農=環境派の強い支持とアンリエットの継承者としての評判から議長に選ばれた。  技術的な専門知に長けた才女という面ではまぎれもなくアンリエットの後継者であり、個人的にもアンリエットとの親交は深いのだが、しかし政策においてはかなり異なっており、ロムレー人によくある「内政により外交する」でもアンリエット流の「外交は外交として行う」でもなく、「外交は必要に従属する」を信条とし、普段の関係維持的な外交に対して積極的に乗り出すことはしない。完全なルッコラ主義とも違い、「必要がないなら無理に外交に出ていかなくてもよい」という立場であったが、選挙において掲げた「陣営間対話」の方向性を重視するように軌道修正していった。一方で既存同盟国に対する配慮を無視する傾向があり、保守派からは外交政策に対する懸念が指摘されている。  1009年退任。 ***ダミアン・アドリアン・セザールDamien Adrien Césaire  第20代中央議会議長。  セヴィニェ政権前半に社会基盤局次官を務めていた電気通信畑出身の議員。セヴィニェ引退後の議長就任で既に主要党派のコンセンサスがとれている。  語学の天才として頭角を現しロムレー外交官となったセビーリャ系一世の母とコーデクス主義を奉じるロムレー人AI技術者の父との間に生まれ、母が外交官として世界各地を周るのに伴い、本人も生育の途上では11ヶ国(威・角・加・瀬・天・烈・超・瓦・光・普・賛)で過ごし、ロムレー語・スペイン語・コーデクス語を加えた14ヶ国(?)語を操る。血か環境か、語学と機械学習について優れた才覚を示したが、あまりにも才覚がありすぎたのか次第にそれらを「簡単すぎてつまらない」と思うようになり、ロムレー大学工学部に進学した後、当初は知能情報システムを学んでいたが、次第に通信ハードウェアに関心を移し、オプトエレクトロニクスや通信工学を修めて博士号を取得。ロムレー電話電信社に入社してロムレー・セビーリャ各地のネットワーク設計などに携わる。セヴィニェ政権の環境アセス法制定などの変化に最も適切に対応できたことから技術畑出身から重役に抜擢された。その後社会基盤局に入局し次官まで昇進。  学術的コーデクス主義者である一方で、本人は政治的コーデクス主義には懐疑的(CDX-Lプロジェクトにも携わっていたことがあるため、政治的コーデクス主義者からは高く評価されている)。次官時代にはセヴィニェ政権の政策を尊重しつつも現場の実態に合わせた修正をかけ、「修正セヴィニェ主義」の旗手として知られるようになる。党派的には合理的規律派が最も近いとされているが、党派主義に対しては警戒感を隠さず、本人は「ロイヤリストあるいはパトリオット」を自任する。この点でセヴィニェ政権を支えた人材のなかでは最もまんべんなく支持を集められる人物であったと評される。 ---- (おまけ) *ロムレー・コミューヌ連合 Syndicat Commune de Lomeray 革命によってむしろ二院制になった。狂物質平等。 下院:人口比、合計400議席 -組合党143 -社会党112 -CDX党69 -左翼党45 -共産党17 -緑の党14 上院:コミューヌごと、合計86議席 -社会党25 -左翼党21 -組合党19 -緑の党11 -CDX党8 -共産党2 二大政党制:進歩党が強すぎる -進歩党(組合党+CDX党+共産党) -社会党(社会党+左翼党+緑の党) 四党制:twitter適応、でも共産党が躍進するんやろなあ -進歩党(組合党+CDX党) -社会党(社会党+左翼党) -共産党 -緑の党 六党制:なにこれ??? **典型的社会主義 よくある社会主義者。サンディカリストの時点で既に典型的ではないが気にしてはならない。 ***組合党:サンディカリスト(狂平等物質) 革命のまさに始まり、ポワンクール蜂起を主導した党派であり、自らを社会主義ロムレーの主導者にして中枢とみなす。親カルセドニーの立場から外交政策を指揮する。 とりあえず最大党派ではあるのだが、革命前のカルヴァン主義共和派のような安定した支持基盤がないため常に国家経営はカオスなことになっている。革命とは何だったのか。 支持層が大都市であるポワンクールに集中し、地方では根付いていないので、下院では最大勢力、上院では三番手である。 ***社会党:社会自由主義者(狂平等受容) 革命以前の五大党派を継承する唯一の党派。相変わらず労働者保護と就学前・初等教育を重視し、社会改良に励んでいる。 革命への態度は微妙であったため、主要党派で最も革命直後の粛清の被害を受けた党派である。親レゴリス的心情をよく残しており、革命後の親カルセドニー政策に対し微温的。 ***共産党:評議会制共産主義者 対外的なカウンターパートは多いものの、国内の支持は主要党派のうち最も脆弱な党派。社会主義国への留学帰り組が中心。 **周縁派 革命以来ロムレー社会主義を支えてきた、典型的な社会主義ではないが社会主義を前進させることに積極的な党派。 ***CDX党:コーデクス主義者(狂物質軍国) マニアックな党派だが、コーデクス主義者は革命後のロムレーにおいても相変わらず技術革新と科学研究の担い手として力を持ち続けている。 彼らの参与は革命における軍の掌握を可能にし、ひいては革命そのものの成功を可能にした。かつてのセビーリャ統治の経験をもとに自らの国家を改造しようとしている。 ***左翼党:左派リバタリアン(狂平等排他) 共同体的な自治を重んじ、国家の介入を排してその内部での福祉を重視する。左翼という看板を掲げつつも「古き良き国制」の系譜を継ぐ保守的な社会主義が実態であり、社会主義の旗の下でもロムレーの伝統的なリバタリアン的保守の価値観を防衛しようという運動である。 他の党派からは常にその「社会主義」への態度に疑問の目を向けられているが、この党派を排除した途端に保守的農村コミューンの掌握が不可能になるため潰せずにいる。要するにロムレーにおける「南の風」のような存在(ただし別段彼らは資本主義者というわけではない)。 **その他 ***緑の党:環境保護主義者(狂受容平等) 革命への態度は微妙だったが、無害という点で放っておかれた党派。革命前からエコツーリズムで栄えてきた地域に支持基盤がある。 **反動主義 反革命派。もちろん公的な結社は認められていない。なお、よく一括りにされているものの、革命前の調和はどこへやら、カルヴァン主義者と市場主義者は全く仲が良くない。 ***カルヴァン主義者(狂精神) 反動的宗教と化したカルヴァン主義。既に公的な場ではCDX信仰以外のいかなる信仰も認められていない。 ***市場主義者(狂物質) 市場経済の復活をもくろむかつての自由思想派。社会主義への敵意のみが残る現在ではもはや「自由思想」のかけらもない。

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