light novel > 異伝記録 > Maje箱

特定のごく一部の人のための確率論案内

一枚のコイントスで、表裏を予想するのは誰にもできない。
だが、アンゼロットにとっては、そこに価値はない。一枚のコインの動きは確率で表せればよいのだ。
もしも一枚のコインの動きを確率で表せたならば、そこから一億枚のコインの表裏の統計の予想、これは失敗するほうが難しい。
その一枚一枚のコインの表裏が出る確率を知ること。
つまり、確率に影響する要素を全て知ること。
それで充分だし、逆に、それが必要だ。
「…戻ってきてしまいましたね」
「まあ、仕方ないでしょう。ディスコードの暴走…それも普段の内部由来の存在に対する反応ではなく外部由来の存在に対する反応…前者をアレルギー的とすれば後者が免疫的ですね。どちらが本来の機能だったのかは考察が必要ですが、まあ、それはとにかくあのままでは長くはいられなかったでしょうし」
「ですね。しかし、わざわざ次に来る世界がここですか?沈思黙考には少々不向きな騒がしさですが」
「向こうでとってきた中で未解析のデータは実に興味深いですが、擬天使の研究に使えそうなのはあらかた向こうで解析し終わってしまいましたからね。それにミュリエルが語ってくれた概念、実に興味深いでしょう?」
ミュリエルが語ってくれた概念。
ヒストリー。
それは、偶然に偽装された失敗。あるいは正体不明にして存在の痕跡すら残さない宇宙的な悪意、天使の敵対者の根源、全ての生命の永遠の宿敵、天地を汚す全て―などのいくつかの記述があるが、絶対悪の三文字にまとめた方が早いだろう。
だが、天使が信じるそれは、擬天使の創造者アンゼロットにとってすれば傍証はなくはないが単なる仮説の一つにすぎない。
仮説があれば検証する。学問の門とはそういうものだ。であれば、アンゼロットにとってこの興味深い、そう興味深い仮説を検証しようとするのは当然のことだ。
あたかも自身がその影響下であることを無視するかのごとき傲慢であっても、真実とはその傲慢さの上に開かれるものであるから。
「で、それはいいとして、なぜこの場所なんですか?エンジェリック・セラフィナイトでもいいと思いますけど」
「向こうを見に行くのはもっと後。仮説のうちの一つの検証にはなりますけどね。ただ、ここが一番ふさわしいでしょう。天使の直接的影響下になく、なおかつ最も“ヒストリーらしい”干渉を受けている場所です。いくつかの仮説が一挙に検証できますよ」
「なるほど。…と、どうやら擬天使たちの下調べが終わったようですね。とりあえず、まずは世界に溶け込むことから、でしたっけ」
「私とミリティーしかいなかったころは大変でしたからね。今はずっと楽になりました。では、参りましょうか」

アドリアン・モーリス先生の高度な空中戦(没原稿)

竜や不死者が跋扈し、略奪が当然のごとく行われる世界。繁栄や叡智など稚気じみた夢。人々は銀色の雪原に住み、震えながら太陽照らす夏を待つ。公爵よりも力を持つ竜が、農村を無慈悲に焼き尽くす。ここはイントヴァルド。ヴァルダムに君臨する帝国の最北地だ。
そんなイントヴァルドの安宿の食堂でアイントプフを食する老人が一人。彼の名をアドリアン・モーリスという。
「ふむ…真冬に暖かいスープというのはやはりいいのう。やはりこの世界では水も空気がうまく、当然食事も素朴じゃが美味い。ま、環境破壊をもたらす文明も、飢餓を過去のものにし、全ての人に新鮮な食事を届けることはするのだからややこしいものじゃ」
一応彼はレイズフィリークで食料市を主宰し、各地からの商人が運ぶ食材を買ったり売り捌いたりする仕事をしているが、実態はただの美食オタクである。
と、ずっと遠くから大地が震える。空を見上げ、雲を読み、何が起こったかを察知する。この大地の真の支配者、すなわち竜が現れたらしい。
「…この世界では余計な気は起こすな、か。…平安あれ、と」
そういって食事を終え、目指すデオルムントの地への旅路の続きへと向かう。

そして次の村へ。その村は森に囲まれた中に小さな農地と小さな家と教会、小領主の館があるだけの、前の村よりずっと小さな寒村だ。
もちろん今日の旅路はここまでではない。流石にここまで小さな寒村に押しかけ宿を乞う老人など邪魔でしかないだろう。



(…夜天はあらゆる色の月と星を受け入れる)
魔法の行使のため、呪文を思い浮かべる。詠唱する必要はない。本来は大体の魔法は思い浮かべる必要もないが、今回は魔力で圧倒するつもりもない。
(宇宙を果てしなく照らす無数の恒星などなきがごとく、理知の光も全てを照らすことは敵わざる)
頭の中で呪文を唱え始めると同時に指先に宿った光を筆として空気中に幾何学的な紋様を描く。魔法陣だ。
(唯一の真実などなく、絶対の真理などなく、されども叡智は一筋の光として氷を彩る)
軽く腕を一なぎし、魔法陣の先に小さな氷の刃を作り出す。降りしきる雪は一瞬にして消え、刃を剣と化すために結実する。
「…風よ、我が大地となりて天へいざなえ」
最後は詠唱。気付けのようなものだ。そして擬天使の翼を開き、跳躍、神速の勢いで竜めがけ飛び込む。ここは翼を持たぬ者の来る戦場ではない。


「イヤーッ!」
竜の頭に向かって紫電一閃。しかしその刹那、竜のブレスが放たれる。

氷剣は瞬時にただの蒸気に昇華し、この老人の得物はなくなった。いわゆるところの危機一髪である。
竜の咢と老人の視線が交錯し、そして破壊が全てを貫く。
そして着地。

咆哮とともに爪の一閃。
生身の人間に避けられるものではない。
瞬速の加護を受けた魔法戦士でさえも、身体強化魔法をかけた魔導師であっても。
しかし、彼、アドリアン・モーリスはそこにはいない。
咆哮が裂いたのは虚空。

―本来、人が竜に抗うならば、多勢でその機動を制限し、バリスタやトレビュジェットの数に任せ圧する。

加筆

―いかに手を打っても、人間の体は竜についていくことなどできはしないから。
―どんなに鍛えた剣も、どんなに硬い盾も、彼らに対してそれ一つで敵うことはない。
―では、人間でないものが竜に相対すれば、一体どうするのだろうか?

竜の顎の前の虚空に浮かぶアドリアン・モーリスは、砕け散った氷剣の一つ一つを掌握し跳ね飛ばす。
竜が舌に入った傷にのたうつその一瞬のうちに、遥か上空から降り来る落石。
これまでの間にアドリアン・モーリスが準備していた、極めてシンプルな質量兵器は、しかし竜についに致命的な打撃を与えた。
彼はたった一人で竜を屠ったのだ。

魔法使いと政治(未校正原稿)

竜や不死者が跋扈し、略奪が当然のごとく行われる世界。繁栄や叡智など稚気じみた夢。人々は銀色の雪原に住み、震えながら太陽照らす夏を待つ。領主よりも力を持つ竜が、農村を無慈悲に焼き尽くす。ここはイントヴァルド。ヴァルダムに君臨する帝国の北限地だ。
そのイントヴァルドの港湾都市、デオルムントに存在するレイズフィリーク同盟の商館でのこと。

「馬鹿め。誰が竜討伐に行けと言った!?」
商館に響き渡る怒声。彼はレイズフィリーク商人組合に属する商人で、名をヤン・ハウアーというが、次に出る機会はないので忘れていい。
「今回の任務はハレヴエルツへの同盟商人の行商に関わる往復路警護。道中で脅威となったので蛇竜騎士団と連携してこれを撃破しただけです」
涼しげな表情でそれに答えるのはレイズフィリーク魔砲兵団に所属する理術士。名をシルビア・ホーフェン。多分彼女も次に出る機会はないと思うが。
「宿に引きこもって待っていればいいものを、なぜ撃破する。君らの今回の竜狩りで消費した月光銀、これだけあれば塔が一つ立つぞ」
「任務に従って行動したまでです。契約通り経費として補充を要請します。当然労賃も」
「…なぜ払わねばならん。貴様らが勝手にやったことだろう。私は知らん」
「商人ギルドがその気でしたら、本国に持ち帰って法院で処理しましょう。最終的にそっちが手数料を全部持つことになると思いますが。だいたい、今回の北ハレヴエルツへの食料のぼったくりな押し売りで大量の魔法鉱物を手に入れてきたんでしょ?ちょっとぐらいいいじゃないの」
「くっそうんざりだ!ほれ。大学には文句を入れておくからな!」
「どうも。では次の任務がありますので、また」
「ぐぬぬ…たかだか六年かけて魔法を修業した程度で、つけあがりおって…」

「いいんですか?戻った際にまた怒られますよ」
こっちの彼女はレイズフィリーク大学から来た事務員でマリー・テレーズという。彼女は本来人間ではなく悪魔なのだが、今回は何もしないので特に気にしなくていい。大学事務員とは暇そうで何よりだ。
「いいのよ。商人が交易で資金や文物をかき集めて、私たちが魔力使用の代価として徴収して、大学が魔法を研究して、レイズフィリークに魔法を学ぼうとするものが集まり、同盟が力を増し、同盟都市が増える。聖ガーランドとかいう夢想家が大学を作って以来続く、同盟のシステムよ」
「いや、それはいいんですけど…道中の火竜狩りは少々やりすぎですね。ハレヴエルツに着いた際に騒がれたでしょう」
「確かにヤード大公国の神の軍とやらの騎士が顔を真っ青にしていたわね。騎士が傭兵もどきを恐れてどうするのやら」
「竜を殺す実力を持った軍勢が実効支配の不十分な場所に乗り込んで行ったのです。例えその目的が単なる交易商人の護衛でも、大きな影響があります」
「そんなのあたしの知ったことじゃない。それが仕事だから。それで北ハレヴエルツがヤード領じゃなくなろうと、それは私がすべき仕事をした結果であって、いちいちそんなことを避けるために仕事を放棄することは許されない」
「まあそうかもしれませんがね…実のところマスターに怒られたんですよ。あなたの下に魔法使いを置くのはいいのですが、せめて政治的に中立であってください、活動されると観測のノイズです、とね」
「マスター?学長すらも影響力におくあんたにご主人様ですって?笑えない冗談ね」
「…それはそうとして、以後このようなことは控えてください。自分の政治的な価値を把握して、ご自重くださいな」
「政治的に中立であることが、そもそも政治的に中立じゃないのよ。全てのものには本来期待される役割がある。政治的中立性を騙って役割を放棄するのは褒められたことじゃない」
「言っても聞きませんか」
「そうね。私は、こう信じているから」
言いつつ彼女は鞄から一冊の魔法書を取り出す。
「動かない歯車には」
初等実用魔法概論と書かれたその本の表紙にある魔法陣に触れる。魔法陣は光を放ち、紙面上にもかかわらず回転を始める。
「意味など」
そして紙面上で回転するその魔法陣の一点に再び触れる。触れた場所の色が石のような色合いに変化し、魔法陣の回転が軋む。
「ない」
魔法陣の回転が止まると同時、魔法書が丸ごと砕け散る。自壊して魔法の暴走を抑える―未熟な魔法使い向けの普及品には必須の機能だ。
「…」
「問題があるなら魔砲兵団から大学に戻してくれるといいわ。実験も嫌いじゃないし」
「自分の評価はわきまえている、ということですか。いいでしょう。あとであなたが始末書を書くことで処理しますよ。それが事務員の仕事、でしょう?」
「話が通じるということほどいいことはないわね。始末書の処理でちょっと頭を悩ませることがあるにしても、気分は悪くないわ」
「ええ。ちなみに、この筋書きでマスターも“よいことです”といって片付けてくれましたよ」
「…予定調和とはね。せめて書き上げてから聞きたかったわ」

ヒストリカル仮説検定

いつかも分からず、どことも知れない場所。
魔界の名で知られる、魔力の満ちた世界にして、無数の世界の結節点。
その一つとして存在する小さなカケラの中に、遥か未来の科学技術を駆使して作られたゴシック建築というちぐはぐな建物が存在する。
「…シミュレータの結果、出ました。文明発展可能性は消滅しました。やがて人類は絶滅するでしょう」
その内部の魔法陣の張り巡らされた場所。我々のいうコンピューターだ。その魔法陣が浮かべるホログラムの青白い光に照らされる7人の悪魔。
「やはりこうなりましたか。手動観測を終了。全系統完全自動観測に移して余剰ゲート切断」
「余剰ゲート切断。自動観測に移行しました。さて、何より重要なのは原因究明、ですね。テレーズはどう思います?」
「“ヒストリー”と呼ばれるものが作用した可能性が高い、と。天使ならそう結論づけるでしょうが」
「しかしシミュレーションはこの結果も一つの解として示している。別にヒストリー的干渉はなく、ただ単に当然の運命ではないのか?」
「受け入れられない運命を見たがゆえに、それを否定するための対象を作り出した、ですか」
「全否定は無批判な肯定と同じですよ。とりあえず、とれたデータはどうなってます?」
「少なくとも明らかなのは“悪い結果に終わりこそすれ、予想を裏切らなかった”ということじゃな。悪意を持った存在が強く干渉してきたと考えるのは微妙じゃ。ただ、そのヒストリー的誤差を統計すれば時間経過とともに増大していくような傾向はあるのう。これをもとに仮説を再検証するわけじゃがどうかの?」
「期待していたほど観測データが集まりませんでしたから仮説の検証という点ではいまいちですね。とりあえず、“想定の範囲内で動いた”ということと“傾向として増加”という二つが問題点なわけですが」
「やはり光魔法の反動ではないでしょうか?天使はいないにせよ、人類は天使の類の力を相当に使用しています。というか、最後はそれだけに頼った」
「とりあえず、少なくとも天使の存在が即刻ヒストリーを招くという仮説は捨ててよさそうですが」
「それはそうですね。これはミュリエルにとっても吉報でしょう。仮説の段階から希望もなにもないですが」
「とはいえ、光魔法の使用量とヒストリー的干渉の激しさに相関があるにしても別に因果関係は意味しませんよ。干渉が激しければ光魔法を使うでしょうからね」
「順序をみるべきだろう。いままでも文明が存在したが、光魔法がもたらされて以降むしろヒストリー的干渉が激しくなった。明らかに光魔法が先だ」
「じゃが光魔法が下級の悪魔を駆逐したからこそ、悪魔どもが強化されたという考えはできないかのう。敵がいなければ強くならない。敵が強ければ内紛をやめるし自分が強くなる。耐性菌の問題のようなものじゃな」
「その前に、どこまでをヒストリーの範囲と考えるかの問題が未解決です。悪魔はヒストリー的な状況を齎すのに寄与することが多いですが、人間だってそうするし天使でもあらゆる行動が改善をもたらしているわけじゃない。本来のぶれとヒストリー的なぶれを弁別するのは非常にデリケートな問題です」
「未来予測仮説はどう思います?」
「その場合、その未来予測をした主体は私たちぐらいしかいませんが」
「想定の範囲で動いたという事実はヒストリー的な“予想を裏切る”干渉の弱さを意味しています。別に否定にはなりませんね。わずかながら増大の傾向は私たちが未来予測をし、それを基にごくわずかな干渉をかけたため、影響の累積はゆっくりと進んだ、というところでしょうか」
「何だ。何一つとして仮説を弾けてないぞ」
「別にいいでしょう。どだい、世界を越える存在とされているそれにカケラ一つだけのデータを基に分析しているのですから。まだデータ不足、ですよ」
「…さて、次はどうしましょう?ルヴァースのデータを解析してみます?」
「そうだな。とはいえ次の観測をやめては腕が鈍る。またどこか眺めるに適当な世界を一つぐらいは探したい」
「ではアーナルダは私とミリティーと一緒に次の世界探しに。他の四人はルヴァースのデータ解析を頼みます。では、夜天はあらゆる色の月と星を受け入れる」
「「「「「「夜天はあらゆる色の月と星を受け入れる」」」」」」

ヴァルダムの一番長い日

神聖暦124年2月。…その最後の日である。
上から下へと流れる無味乾燥な数値と静止したモデル。そんな青白いホログラムを背景に、お茶会をする二人。ティーテーブルがなくカップは物理法則に逆らって宙に浮き安定しているが、問題はない。ここはそもそも彼女たち自身の世界だ。
「…そろそろですね」
「ええ。相は変わる。もう時間がありません。一度そうなってしまえば、あとはもう打つ手はない」
「事象の地平面を踏み越えても、一見変化はない。だが、踏み越えた者は、もはや引き返す方法はなく、結末は確定する。…っと、結果ですね」
数値は変わらず流れていくが、立体モデルが更新されている。示された全ての予測は絶望的だが、アンゼロットもフィリオリも表情は変えない。
これは最初から提示されていた可能性の一つ。変えることは難しいことではなかったが、そもそも変えるつもりはなかった。黒騎士は…いや、やめておこう。
「どうします?魔王国の伝承のごとく、勇者が闇を吹き払うことでも期待しますか」
「黒騎士卿がそれやろうとしてたみたいですけどね。まあ諦めたようですけど」
「…で、どうしましょうか。そもそもいつまで観測するんです?」
「観測はまだ暫くの間は。でも手は引きましょう。とりあえず、テレーズとモーリスには適当に呼びかけておいてください。まあレイズフィリーク陥落まではまだ数年余裕がありますけど」
「じきに状況も悪くなると思いますがね。とはいえ最後の別れの時間には少々長い。テレーズには盟約者もいますから、それはそれぐらいあってもいいのかもしれませんがね」
「盟約者については…そうですね、連れて行っても、いいと思っているのですが」
「いいんですか?マナー違反ですが」
「テレーズと本人の両方が望めばですけどね。何しろ誰もマナーを守っていないのですから。そもそも気付くのも黒騎士卿ぐらいでしょうけどね」
「…それはそうでしょうけど…いいんでしょうか?」
「私には別離の絶望を眺めて楽しむ趣味はありませんよ。それに私も昔は…ね」
「…その絶望が夢魔にとっては至上の甘露なんでしょうけどね。私たちにとってはただの苦味なのも確かです」
「まあ、苦味が必ずしも害を意味するものでもないですし、甘味が必ずしも栄養を意味するものでもないですけどね」

ヴァルダムの一番短い日

魔法の光がかすかに照らす、暗く狭い洞窟。暗黒歴79年4月、レイズフィリーク。
いや…厳密に言えばここは黒曜海のレイズフィリークではない。黒曜海にもはや生きる人はおらず、また黒曜海で生きえる人もいない。
ここはフィルモア、イントヴァルド公爵領―もっともその地位を授けるものがいなくなって久しい―の山中、イントヴァルド公爵の保護下にあるレイズフィリーク亡命自治政府の地下都市である。
ここにいる者の大部分は、暗黒歴2年に黒死病が発生した時、ただちに逃げるという選択を取り、そして逃げる方向を誤らなかった幸運な者たちの生き残り。彼らはかつてこの地で竜すらもたやすく狩り、東方の秩序をすら揺るがしたが、その権勢もいまはなく、竜族の憐みをうけて静かに暮らすのみであった。
そんな者の一人が彼女、リーゼ・フレンス。レイズフィリーク最後の市参事会議員にして、最初の“亡命”レイズフィリーク大学の学長、暗黒歴7年の死霊の軍勢によるレイズフィリーク崩壊を見届けた者の唯一の生き残りであるエルミーネ・フレンスを曾祖母にもつ、現在のレイズフィリーク大学学長兼魔砲兵部隊司令兼レイズフィリーク政府独任執政―兼任が多いのはすべての組織が実質的に統合されるほど人がいないからだ―であり、そして彼女は今一つの儀式に臨もうとしていた。
薄い光にかざされるのはかつて擬天使の授けた、スターサファイアが輝く白金の指輪。アンゼロット記念大学と彫られたそれは、かつて曾祖母の盟約者が去り際に授けて以来彼女の家系に受け継がれ、それを手にする者に「苦しみを免れ生き残る」という奇跡を与えてきた魔法の指輪である。
「我、汝らの叡智を記銘されし血を引く者なり―我が手を照らす汝らの光を以て、我が背に汝らが翼を、我が前に汝らの導きを授けよ」
「「「来たれ、フィリオリ・ソング・オブ・グレイス!」」」
―――
「行くの?」
「…ええ。そうでしょう?テレーズ」
「そうね。もう少し準備する時間はほしかったけれども、彼女たちは期待以上をなしたのだから」
「まあ、そうだろうな」
「…いいでしょう。これを渡しておきます。向こうについたら使ってください」
「スクロール?…ありがとうございます、アンゼロットさま」
「早く行け。予備ゲートの一時的な待機状態はそう長くは持たん。あまりのんびりしていると向こうでゲートを作っても連続転送が効かなくなる。我々がばらけているのは危うい」
「そうでしたね、ユーシス。では、行って参ります」