light novel > 存在は記銘によって、あるいは消滅は忘却によって

ヴァレフォールからは遠く、遠く離れた世界。
ムルムス。
クロンの首都にある、聖ルーアン大聖堂で、航海者たちが退屈しのぎに談笑していた。
銀髪をたなびかせ、ティーカップに映るミルクの織り成す模様を楽しむアンゼロット。
金髪を風に撫でさせながら、ゆったりと紅茶の香りを楽しむフローラ。
そんな二人の話題はといえば、これだ。
「向こうのリグレットの話…ですか。ミュリエルからは少し聞いていますよ。話しておくのは、そうですね、あなたのためにはなるかもしれませんね」
「ええ。ぜひ聞きたいのよ」

そうしてアンゼロットは語り始めたのは、氷雪にまみれ、静かな眠りについた世界の物語だ。

「…リグレットも、大変だったんですね」
アンゼロットは肩を竦める。大変だったかどうかなどアンゼロットの与り知るところではない。
むしろアンゼロットにとっては、天使たちは本来の仕事をしているだけ、それどころかヒストリーはどうこうと余計な色眼鏡なんかをつけて、全く何をしているのか、というくらいですらある。
とはいえ、そのあたりを深くフローラに対して追求しても無意味なのはアンゼロットにとっても自明だったし、フローラ自身はアンゼロットからの伝聞情報を整理することだけで頭が一杯だった。
…静かな時間が流れる。フローラが口を開くまでの間、アンゼロットは紅茶と茶請けを楽しむことに専念していた。
そしてフローラが口にしたのは、こういうことであった。
「…彼女たちのために、私たちにできることはないかしら」
「何もないでしょう。そもそも、航海者というのは自らの住める場所を探して航海し、たどり着く場所が自らに居心地の悪い場所になればまた別の場所を探して航海するもの。余計なことはしないほうが無難です」
こんなことを言うアンゼロット自身は悪魔諸侯の中でも最も「造園」を楽しむほうであるが、彼女も彼女で与えられた場所で咲くという人間らしい美学は無視している。彼女がしているのは良い土に良い種を植え、そして出来上がった極上の花壇を観賞するだけだ。そして飽きたら次の土地を探しに行くのである。



「土地に深く根差し、縛られ、その土地の人々と生きる運命を背負った彼女たちと、ただ表層を渡り歩くだけの私たち。同じ次元渡りの能力を持っているとしても、恐らく存在のあり方が違うのでしょう。たとえ死すべき運命にあらずしても、本質的に同族ではないのです」
「では、私は彼女を…」
「この世界のリグレットは天使といってもあの天使とは違うでしょう。それに、本来の場所からは切り離されて、今の彼女にはあなたしか居場所がない。役得を楽しむなら咎めたてる人はいないと思いますけれども」
なお、自分は咎め立てないとは言っていない。